著者
永村 眞
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.1-25, 2003

2 0 0 0 OA 四食論考

著者
小川 宏
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.113-122, 1991-03-31 (Released:2017-08-31)

四食思想に関して、近代の仏教研究論文において論及がなされたのは、木村泰賢著「原始仏教思想論」が最初であり、本格的な考察は宮坂宥勝著「仏教の起源」においてなされたと言えよう。「仏教の起源」の論考は原始仏教を中心となされているが、拙論においては阿毘達磨を中心とし、原始仏教や唯識仏教とも比較して考察を進める事とする。
著者
宮坂 宥勝
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.71-87, 1993-12-12 (Released:2017-08-31)

漢訳『摩登伽経』は、経名の通りにマータンガ(matanga)すなわちチャンダーラにまつわる経典として、夙に知られる。本経に登場するマータンガ種族のトゥリシャンク(Trisanku.漢訳、帝勝伽)王は、チャンダーラ出身である。この王を中心とした物語は『ディヴィヤーヴァダーナ』(Divyavadana)、叙事詩『ハリヴァンシャ』(Harivamsa)などにも伝える。階級批判さらには社会的差別の否定がストーリーのなかでどのように展開するかを考察するのが本稿である。前回発表した同題(一)の続篇になる。なお前篇のチャンダーラ観の構成は、次のとおりである。(1)階級批判もしくは社会的差別の対象としての存在。(2)救済譚における存在。(3)出家についての比喩。(4)差別是認または社会的差別さらには蔑視対象。(5)尊格化。(6)その他。
著者
大鹿 眞央
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.309-325, 2020 (Released:2021-04-06)
参考文献数
41

本稿では、『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経』第七品所説の「自性障」に関する五大院安然の解釈が、後代の東台両密の学匠たちにどのように伝承され、展開されたかについて検討した。その結果、安然自身は自性障の解釈に「見惑・思惑・無明」の三種を配当したが、「塵沙惑」を配当しなかったため、「三惑」という表現を用いていないことが判明した。しかし、東密の実運は、自著の中で安然の名前を出さずに安然の教説を援用し、「自性障」について「三惑」と表現した。さらに、東密の実賢・道範は、実運の解釈を踏襲するとともに「安然が見・思・無明の三惑と表現した」と、誤った情報を添加していたことが分かった。台密の学匠に関して述べれば、慈円は自性障について「元品無明」と簡潔な解説をするのみに留めているのに対し、澄豪は安然の教説を受容しながらも、「見惑・思惑・無明」を「三惑」と称してしまっている。言わば、澄豪の記述は、東密の註疏に影響を受けた可能性が高いと言えよう。
著者
布施 浄明
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.203-222, 2020

<p> 『播鈔』研究会では、報恩院流聖教の一つ、醍醐寺学僧教舜が弘長年間に憲深より四度の伝授を受けた記録書『四度口伝鈔』の校訂・訓下を行っている。本論では胎蔵界の伝授記録「胎蔵界口伝鈔」三巻(以下「本鈔」)の一部である如来身会(大恵刀、大法螺、蓮華座)の校訂解説を紹介したい。はじめに『広次第』と現図曼荼羅の相応していないことを挙げ、次に「本鈔」下巻の部分校訂・訓下・解説を付した。解説に当たっては隆誉の『伝授要意』を参照した。さて、如来身会は念誦法である住定観(身密)、正念誦(口密)、字輪観(意密)の前に修されるものである。『広次第』では、これらの観に入り易くするために、それに先立ち如来身会を修して自身の三業を清め、如来の三密を具足し、念誦法にて仏と一体ならしむのである。</p>
著者
鈴木 佐内
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.171-189, 1988

丹後守藤原為忠とその子たち、特に常盤の三寂、為業寂念、為経寂超、頼業寂然の事歴を、白河院の近臣受領という方面から追い、三寂の発心が、院が特に心をかけた待賢門院一流の勢力の衰退に関わることを考察した。藤原為忠の事歴については、井上宗雄氏が「常盤三寂年譜考 附藤原隆信略年譜」でふれておられるが、表題の示すとおり、為忠の子常盤の三寂についての事歴が主であり、白河院の近臣受領としての為忠をみるには十分ではない。知綱以来、白河院と強い縁で結ばれてきた常盤一族の盛衰が、白河院勢力のそれと深いかかわりをもつのも当然であって、本稿は、為忠の近臣受領としての姿をあきらかにする意味で、井上氏の年譜を拠り所とし、同氏が記述されなかった事歴をも加え、私見を付し、更に、これによって、近臣受領の子という、その子たちの消息から、特に出家の動機を探ってみたい。
著者
小峰 智行
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.359-374, 2016

&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;真言声明の伝承や記譜法の分析をする上でしばしば問題になる理論として「反音」がある。四種類あるとされるこの「反音」については、『魚山蠆芥集』として幾つかの版が知られる真言声明の譜本の巻末にも、「四種反音図」が記されており、これらは転調や移調について示したものとして今日理解されている。確かに広い意味での転調・移調ということであるなら異論はないが、近年の多くの研究者はこれを特に16世紀のヨーロッパに端を発する基礎的な和声学、機能和声の論理や用語で説明しようとする傾向があるように思える。そもそも声明は単旋律無伴奏ユニゾンであり、和声法の概念が無い。もちろん、西洋音楽の楽典で用いられる用語や理論を適用して、声明の理論を考察することは大変有効である。しかし、それらを声明の音楽理論に正しく適用するためには、現在我々が一般的に聞いたり演奏したりしている現代の音楽のほとんどが、和声の機能によって調性が確定される音楽であり、我々は自然とその論理に支配されているということを意識する必要があると考えている。<br> そもそも音楽とは理論ありきのものではなく、音楽理論はその理解や分析、整理、伝承、そして普及などのために後から発展したものである。それは言語が意志伝達の手段として必然的に発生し、後に文字や文法によって整えられてきたという事実と同様である。そのような意味で楽譜とは言語における文字であり、音楽理論は文法であるともいえる。そしてそれらは言語、あるいは音楽が同じ様式を保ちながら普及する上で不可欠である。しかし、言語がそうであるように、音楽もまた日々変化している。従って、例えば中古日本語の文法と現代国語文法が異なるように、声明に必ずしも現代の音楽理論をそのまま適用することはできないのである。<br> 我が国における声明は奈良時代に始まり平安時代に発達したとされている。当時の中国ではすでに音楽理論が整えられ、7世紀に始まる遣隋使の派遣以降、楽曲や楽人と共に日本に輸入されていくこととなる。我が国においては、701年の大宝律令制定時には雅楽寮が設置され、組織的な音楽・舞踊の教習・演奏が行われるようになり、これが雅楽の起源となったことはよく知られている。一方、この時代のヨーロッパではグレゴリオ聖歌が普及し、記譜され、そして教会旋法が整えられた。アジアでもヨーロッパでもこの時代の音楽はモノフォニーかその変種であり、音楽理論も音律・音階・旋法に関するものである。従って声明の音楽理論もまた、そのような視点から考察する必要がある。<br> 筆者は拙稿「四智梵語の反音(1)」で、声明における「反音」について「旋法の変化」あるいは「旋法の移動」という表現を用いて考察を試みた。しかし調査や知識の不足のため、多くの課題を残した。本稿はこれを補うとともに、主に旋法の視点から声明の音楽理論を考察するものである。それにあたって、基礎的な音楽理論と旋法論について述べなければならないが、これらは一般的な楽典に加え、音楽学者である東川清一氏による旋法論や分析のための方法論を参考にしていることを一言添えておきたい。
著者
宮坂 宥峻
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.1-19, 2018 (Released:2019-03-30)
参考文献数
20

本論文では『初会金剛頂経』降三世品における思想背景を他経典との関連を中心に考察を行った。まず「理趣経」類本との関係を探り、『理趣経』との成立関係についても私見を述べた。次に栂尾祥雲によって指摘されたDevīmāhātmyaとの関係について考察を行った。また両経典において重要となるスンバとニスンバについて、仏典には降三世品以前から既に説かれており、特に「降三世明王の大呪」の前身が『蘇悉地羯羅経』に説かれていることから、栂尾氏が主張するDevīmāhātmyaから降三世品へという成立の順序に対して異見を示した。最後に『金剛手灌頂タントラ』における諸天降伏との関連について考察を行った。降伏のプロセスなど類似している点がある一方、諸尊の数やグループなど、降三世品において発展的に整理が行われていることが理解された。 以上の内容を総じて降三世品の思想背景について考察を行った。