著者
市原 学 ICHIHARA Manabu
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.1-9, 2016

Since the 1990's, many researchers have clarified that children with Attention DeficitHyperactivity Disorder (ADHD) had unrealistically positive self-perception (positive illusorybias; PIB). That is, children with ADHD consistently have shown high self-perception despitethe fact that they could only achieve low performance. For the mechanism of the PIB, someexplanations have been made, such as cognitive immature, neuropsychological deficits,ignorance of incompetence, or self-protection. Additionally, it has been suggested thatcomorbid disorders (depression, aggression, or academic difficulties) or subtype(predominantly inattentive type or predominantly hyperactive/impulsive type) might modifythe PIB in ADHD. The author pointed out the symptom similarities between bipolar disorder(BD) and ADHD, so that some children with BD might have misdiagnosed as ADHD, andBD might take over the PIB in ADHD. Finally, the future investigation should include BD tounfold the PIB in ADHD and is recommended analogue study on the PIB.
著者
関口 安義
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.74, pp.1-21, 2011
著者
金 容煥 邊 英浩 邊 英浩 柳生 真 YAGYU Makoto KIM Yonghwan
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.171-184, 2016

本稿は金容煥(忠北大学校師範大学倫理教育科教授)が「第99回京都フォーラム」(2010年9月25-27日)での報告を論文としたものである。幸福論は近年経済的な豊かさと幸福度が一致しないために世界的な学問関心事となり、日本でもやや遅れてであるが幸福論が盛んとなりつつある。だが幸福を個人的なものとしてとらえたものが多くあり、社会への問題意識を欠落させ個人救済的な方向に流れていく傾向がみられる。しかし幸福を社会性を帯びたものとしてとらえ、共同社会の幸福、すなわち共福としてとらえる試みもでてきている。韓国においては、1987年の民主化の流れの中で「正義の実現が強調されてきたが、社会内の対立を乗りこえる可能性を持つ「幸福」ムン・ジェインが注目されるようになった。2012年の大統領選挙では、文在寅(統合民主党)が正義を、パク・クネ朴槿恵(セヌリ党)が幸福を打ち出し、接線を展開した。本論はこうした韓国社会の状況を踏まえ、幸福を単に西洋思想の翻訳にとどまらずに、韓国社会にある仏教、大倧テジョンギョ教などの伝統思想のなかにある概念を再検討することにより、皮膚感覚のある思想資源として現代に再生させる可能性を論じたもので、注目される。なお日本の読者はなじみがないため、本文に先立ち、大倧教について簡略な説明を付すこととする。韓国において固有信イルヨン仰、開国始祖と考えられているのは、『三国遺事』(13世紀末僧侶の一然編纂)などに記タングンファンインファンウン録が伝えられる古朝鮮の檀君神話である。それによれば桓因の庶子、桓雄が天から人間タングン・ワンゴム世界に降りてきて、熊と婚姻関係を結び檀君王倹を生んだが、檀君は中国の伝説的聖人のぎょう堯が即位して50年後に、平壌城に都を開き朝鮮と号したとされている。檀君朝鮮の開国年代は箕子朝鮮のそれよりさらに約千年も歴史を遡り、中国の伝説的聖人の堯とほとんど同時代に存在したとされ、朝鮮は中国の天子より冊封を受けた国ではなく、独自の天から降臨した天孫の開いた国とされているのである。李氏朝鮮王朝が滅亡に瀕したとき、檀君を民族の国祖神として信奉する各種の檀君系教団が登場してくるが、その中で大倧教は最も有力な団体であった。現在の韓国・朝鮮人が共通に認識している民族アイデンティティとして、(1)5 千年の悠久なる歴史意識、(2)白頭山の神聖視、(3)10月3 日の「開天節」の創設(1949年10月1 日、国慶節に関する法律で制定)、(4)檀君紀元の制定(1948年9 月25日、年号に関する法律で制定)、(5)満州=朝鮮の故土史観の定立(倍達民族史観)などは、この大倧教の活動を通じて普及していったものである。本文内〔〕は断りのない限り訳者注を示す。日本語への翻訳は柳生真(YAGYU Makoto延安大学講師)が草案を作成し、邊英浩(BYEON Yeongho 都留文科大学教授)が点検した。なお以前の本研究紀要では、邊英浩を辺英浩、BYEON Yeongho をPYON Yonghoと表記したものがあることを付記しておく。
著者
堤 英俊 TSUTSUMI Hidetoshi
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.31-54, 2016

本稿の主要な目的は、ある知的障害特別支援学校に転入学した<グレーゾーン>の生徒の適応過程の分析をもとに、知的障害特別支援学校の学校文化の特徴に関して考察することにある。本稿を通して明らかになったことは、次の3 点である。第一に、知的障害特別支援学校の教師が、能力差を前提にした「共同体化」と就労を意識した「障害者化(軽度障害者化/中重度障害者化)」を両立させるという職責を担っていること、第二に、<グレーゾーン>の生徒に対して「差異化の後押し」戦略や「学校外資源の活用」戦略を行使することで、知的障害特別支援学校の秩序維持と生徒たちの近い将来の社会的自立の同時達成をねらっていること、そして第三に、知的障害特別支援学校は、社会の「周辺化」のメカニズムの一端を担う装置でありそれに強く規定されながら教師と生徒の応酬が行われていることである。知的障害特別支援学校においても教師たちだけでなく「障害児」とされる生徒たちもまた能動的・創造的に生活しているのであり、通常学校となんら変わりなく教師と生徒の「せめぎ合い」としてその学校文化を捉えていくことの必要性が確認された。
著者
西 教生 北垣 憲仁
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.74, pp.129-145, 2011

里山環境の保全のための基礎資料を得ることを目的に、都留市十日市場および夏狩において2008年4 月~2011年3 月までの3 年間に鳥類の生息状況の調査を行なった。環境の異なるA コースおよびB コースの2 コースを設定し、月1 ~ 3 回、ラインセンサス法によって出現した鳥類の種名、個体数、出現環境、行動を記録した。その結果、A コースでは44種、B コースでは51種の鳥類が確認された。重複している種を除くと、2 コースで61種が確認された。これは、山梨県内で記録されている鳥類の23.5%にあたる。61種の内、ハイタカ、サシバ、クマタカはそれぞれ環境省および山梨県の、クロジは山梨県のレッドデータブックに記載されていた。スズメ、ヒバリ、ツバメ、タヒバリ、コジュケイの5種は興味深い出現パターンを示した。多くの鳥類が記録された理由としては、農耕地(Aコース)と樹林帯やススキ草原、河川(B コース)といった多様な環境が隣接した場所にあること、樹林帯は孤立した林ではなく、河川に沿って帯状に連続して広がっていることが推測された。また、河川、ススキ草原、樹林帯といった環境が帯状に広がるという地形が、多くの鳥類に生息地を提供していると思われた。繁殖期と非繁殖期の種類数に有意な差はないが、非繁殖期のほうが多い傾向を示すことが当調査地の特徴であり、年間を通して種類数が大きく変化をすることはなく安定していた。月別平均出現種類数は有意な差があり、その要因は夏鳥が少ないことであると考えられた。周辺環境の変化を示す可能性のある種として、A コースではサシバ、コチドリ、ノビタキ、コムクドリなどが、B コースではサシバ、ビンズイ、ヤブサメ、エゾムシクイなどの旅鳥が挙げられる。
著者
邊 英浩
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.74, pp.159-169, 2011

朝鮮王朝は朱子学によって建国され、その思惟様式と対外観は16世紀に登場した李退溪(名は滉、字は景浩、退溪は号1501~70年)、李栗谷(名は珥、字は叔獻、栗谷は号 1536~84年)によって代表される。しかし朝鮮王朝が末期に近代に遭遇したとき、その基本的な思惟様式と対外観は大きく変容していた。それは、夷狄の中華への上昇可能性の肯定、儒教文明化以外の文明化への視野の拡大、この2 点である。こうした思惟様式と対外観の変容が起きつつあったときに、朝鮮王朝は近代を迎えることとなった。そのため高宗政権は、自ら近代化を進めながら、これらの近代的な夷狄との外交交渉、同盟関係を適宜構築していく政策を推進し、一定の成果をあげていくことができたのである。これらは国際関係を単に力関係から見るという次元では理解できないものであった。
著者
張 東宇 邊 英浩 鄭 宰相 JUNG Jae-sang
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.45-68, 2013

これまでの朝鮮思想史の叙述において、17世紀は「礼学の時代」と性格づけられてきヒョン・サンユンた。この説を最初に言い出したのは、おそらく玄相允の『朝鮮儒学史』(1949)であろう。玄相允の『朝鮮儒学史』は、植民地時代以降のものとしては、最初の朝鮮儒学通史であるが、そこでは朝鮮儒学の流れを「至治主義儒学→性理学→礼学→経済学(実学)」と述べている。この捉え方は、後の研究に大きな影響を与え、朝鮮時代の儒学は「16世紀=理学、17世紀=礼学、18世紀=実学」のように展開したもの、という「理解・知識」として定着テゲユルゴクする。つまり、16世紀における退渓学派と栗谷学派の性理学に対する見解の差が、17世紀において礼学に対する見解の差を生み出し、栗谷学派に属する西人は『朱子家礼』を中心とする礼論を、退渓学派に属する南人は古礼中心の礼論を展開した、という見方が朝鮮思想史ないし礼学史の叙述においてほぼ通説となっているのである。例えば、韓国精神文化研究院で刊行された『韓国民族文化大百科事典』(全28冊)の「礼訟」の項目をみると、「栗谷学派である西人=家礼中心=守朱子学派」対「退渓学派である南人=古礼中心=脱朱子学派」という図式で説明がなされている。『韓国民族文化大百科事典』は研究者をはじめ一般人もよく利用する事典であるため、この図式的な理解は一般的な認識として根強く広まっている。17世紀の思想史・礼学史に対するこのような理解は、18世紀の朝鮮思想史の理解にもつながり、18世紀を「実学の時代」と規定し、「南人」系列の学者に焦点を当てながら、実学を「脱朱子学的」学問として位置づける言説と密接に結び付いている。このような状況の中で、17世紀の朝鮮思想史・礼学史に対する従来の研究に問題を提起し、新しい見方を提示する研究者たちが近年現れている。本稿の著者である張東宇氏(韓国、延世大学校国学研究院研究教授)もその一人である。氏は、朝鮮時代の代表的な思想タサンチョン・ヤギョン家の一人である茶山、丁若 の礼学の研究で博士論文(『茶山礼学の研究―『儀礼』「喪服」篇と『喪礼四箋』「喪期別」の比較を中心に』延世大学校、1997年)を著して以来、長年朝鮮礼学の研究に取り組んできた韓国の学者であるが、特に近年は朝鮮時代の『朱子家礼』関連著述の研究を精力的に行っている。本稿で氏は、朝鮮時代の『朱子家礼』関連著述に対する書誌学的な調査・分析を通じて、朝鮮における礼学の展開は、『朱子家礼』の研究が始まった16世紀後半から18世紀にいたるまで、「古礼による『朱子家礼』の補完」という共通の問題意識をもとに、学派の相違を超えて「蓄積的に進展された単一な流れ」であると結論づける。また「礼学の時代」といえるのは、17世紀であるというより、むしろ18世紀であるという見解を示す。これまでの朝鮮礼学の研究は、主に17世紀の服制論争(礼訟)史料を中心に行われてきたわけであるが、著者は朝鮮礼学史における家礼関連資料の持つ重要性を提示し、朝鮮礼学史の叙述は礼訟にとどまらず、もっと広い見地から捉えるべきであることを示唆しているのである。朝鮮礼学史への新しい視点を提供し、従来の朝鮮思想史の理解に反省をうながしている点で、著者の問題提起と結論は非常に大きな意味を持つものと思われる。また本稿で整理された膨大な量の『朱子家礼』関連著述リストは、朝鮮礼学史の研究のみならず、今後、中国・日本・ベトナムなど、東アジア各地における家礼文化の比較研究の基礎資料として活用できるものと期待される。翻訳は鄭宰相(京都大学講師)が草案を作成し、邊英浩(都留文科大学教授)が点検し責任を負うこととした。なお本稿は筆者が、科学研究費補助金(基盤研究(A))研究「東アジアにおける朝鮮儒教の位相に関する研究」(研究代表者:井上厚史島根県立大教授)の一環として弘前大学で行なわれた国際ワークショップ(2012年8月29~30日)において報告したものを加筆、修正したものである。It has been said that the two opposite stances exist in Choson scholars' studies on FamilyRituals of Master Zhu (Zhuzi Jiali 朱子家禮). Unlike the previous understanding of theirreconcilable difference between Yulgok 栗谷school and T'oegye 退溪school, this articleunveils their common consent that they endeavored to complete Zhuzi's Family Rituals inaccord with the ancient ritual principles. On the ground of such agreement, Ritual Studies ofthe two schools had interacted with each other, mainly in respect of three aspects : practiceof rituals (haengnye 行禮), interpretations or exegeses on those practices, and provisional/^ extraordinary rituals without clear manuals in the canonical scriptures (byollye 變禮).^ Through exploring extant 198 works of Choson Ritual Studies in the 15th to 19th centuries,this article shows the patterns of their evolution and interrelationship.
著者
西 教生 北垣 憲仁 西丸 尭宏 NISHI Norio KITAGAKI Kenji NISHIMARU Takahiro
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大學研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.17-26, 2014

都留文科大学附属図書館に隣接しているビオトープは、周辺の山の自然とキャンパスをつなぐ「生きものの回廊」として機能するようなビオトープとして設計された。今後の管理計画や活用方法を考え、本学ビオトープの機能を評価するためには現状を把握する必要がある。そこで、2012年10月および11月、2013年8 月に本学ビオトープに生育している樹高50 cm 以上のすべての木本を対象とした調査をおこなった。確認された樹木の内、植栽以外の方法で本学ビオトープに持ち込まれて定着しているものは全体の33.6%を占めていた。本学ビオトープは風や鳥類の採食行動という作用によって周辺の山の生態系とつながっていると考えられ、これは「生きものの回廊」が十分機能していることを示すものである。また、本学ビオトープは身近な自然を対象としていることから、自然に親しむ入り口としても重要な意味を持つと考えられる。