著者
川﨑 瑞穂
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.109-120, 2013-03

「構造主義の父」とされるフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)は、神話研究の領域で殊に優れた業績を遺したが、主著『野生の思考』(1962年)は、構造人類学の重要な出発点となっている。『野生の思考』の第1章「具体の科学」は、芸術について研究する上でも非常に示唆的である。特にそこで提示される「器用仕事(ブリコラージュ)」としての「野生の思考」は、現代においてもなお、多くの芸術作品に見出すことができるように思われる。 本稿ではその一例として、1996年に発売されて大ブームとなったテレビゲーム『サクラ大戦』の分析を行った。特に楽曲分析を中心にして、『サクラ大戦』にブリコラージュ的手法が用いられていることを示し、現在のような「非真正な社会」においてもなお、芸術の分野には神話的思考の残滓が存在することを明らかにした。 第1章「『サクラ大戦』の歴史とその器用仕事(ブリコラージュ)的手法」では、『サクラ大戦』の歴史を概観し、3つの先行研究について述べた。そして、山田利博の論文「テレビゲーム『サクラ大戦』の文学性」(『宮崎大学教育文化学部紀要』)において提示される「引用の織物」としての『サクラ大戦』の特徴が、ブリコラージュとして読み替えうる可能性について述べた。 第2章「『サクラ大戦』の楽曲《さくら》にみる器用仕事(ブリコラージュ)的手法」では、その顕著な例として、『サクラ大戦』の中の楽曲《さくら》(1996年)を分析した。分析の結果、この楽曲は、滝廉太郎の歌曲集《四季》の第1曲〈花〉(1900年)を土台にして、そこに《さくらさくら》(筝曲)を挿入することで「桜」を表象していることが明らかになった。 しかし、このような手法は「コラージュ」にすぎないという反論は十分可能である。ブリコラージュは、集められた断片の固有の多義性を保ちつつ創造活動を行なうものであるわけであるが、『サクラ大戦』には、このようなブリコラージュ独自の特性を顕著に示す要素もある。それは『サクラ大戦』という題名である。 第3章「『サクラ大戦』と宝塚歌劇団--《花咲く乙女》と《すみれの花咲く頃》」では、『サクラ大戦』という名称における「桜」の意味を考究した。まず『サクラ大戦』全体に散見される「宝塚へのあこがれ」について概観したが、そこでは特に『サクラ大戦』のエンディングテーマソング《花咲く乙女》と、宝塚歌劇団の《すみれの花咲く頃》の比較分析を行なった。そして次に、『サクラ大戦』と同じく宝塚歌劇団を目指した松竹歌劇団について概観した。なぜなら松竹歌劇団の主題歌は《桜咲く国》という「桜」を主題にした楽曲だからである。そこから、宝塚歌劇団と帝国歌劇団(『サクラ大戦』)との関係は、宝塚歌劇団と松竹歌劇団との隠喩的関係にあるという仮説を提示した。 そして第4章「結論と展望」では、『サクラ大戦』におけるトーテム的分類の論理を考究する必要性を述べた。
著者
加藤 一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.15-30, 2010

本研究はヨハン・ゼバスチャン・バッハ(1685〜1750年。以下「バッハ」と記す。)のフランス風序曲様式における付点リズムの鋭化について考察したものである。付点リズムの演奏法については当時の演奏理論書にも記述され、今日まで議論が続いているが、未だに見解の一致が見られない。そこで、本研究では先ずバッハのテンポの基本的な性格を俯瞰し、その後、フランス風序曲様式における付点リズムの鋭化の問題に焦点を絞り、その技法及び様式について、文献資料、楽譜、そして現代の古楽器奏者の演奏を基に詳細な考察を行った。フランス風序曲様式を取り上げたのは、付点リズムの鋭化が、この様式と深い関わりを持つためである。『故人略伝』にも伝えられているように、バッハのテンポは正確で迅速、そして安定したものであった。しかし同時に、拍の中で微妙なテンポの変化が行われていたことも、彼の記譜法や当時の演奏理論書から明らかになっている。また、彼はファンタジアやトッカータのように、元々テンポを自由にとる楽曲形式も用いていた。これが、バッハのテンポの基本的な性格である。付点リズムの鋭化は、この内、拍の中で行われるテンポの変化に含まれる。前述したように、付点リズムの演奏法については、当時から様々な議論が行われていた。クヴァンツは生き生きとした表現を得るために、付点リズムを専ら鋭化させることを提唱しているが、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは一般原則として付点リズムの鋭化を指摘しながらも、曲の性格によっては付点リズムを軟化させることにも触れている。フランス風序曲様式では様々な音価の付点リズムが同時に用いられることが多く、その際、付点リズムの短い方の音を全て同時に弾く同時奏法の習慣があった。その為に、音価の長い付点リズムには必然的にリズムの鋭化が起こる。つまり、フランス風序曲様式には、この様式の特徴として、付点リズムの鋭化が元々含まれているわけである。当時は複付点音符や付点休符が用いられなかったために、細かなリズムは正確に記譜出来ず、リズムの解釈に曖昧さを残してしまった。しかし、フランス風序曲様式に共通して含まれるリズム構造からも、こうした付点リズムの鋭化は明らかである。また、フランス風序曲様式では、しばしば拍の終わりの方で32分音符の音群が用いられており、クヴァンツはそうした音群を出来る限り速く奏するよう提唱している。こうした方法は、テンポを拍の中で後ろの方に圧縮するものであり、付点リズムの鋭化もこのテンポの圧縮から生まれたものと考えられる。つまり、フランス風序曲様式では、テンポの圧縮によって付点リズムを鋭化させ、同時奏法によってその鋭化の度合いを一定化し、楽曲構造としてそれを位置づける役割を果たしている。バッハはこのジャンル以外でも、1720年代後半から1730年代にかけて、しばしば第2稿(改作や編曲を含む)でテンポの圧縮を用いているが、こうした表現様式からはギャラント様式との関連が感じられる。付点リズムの鋭化は人の精神に自由と葛藤を与え、音楽的緊張を生み出すが、一方ではマンネリズムに陥る危険もはらんでいる。本研究によって得られた知見から、演奏解釈に新たな可能性が生まれることを期待する。
著者
加藤 一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.1-16, 2012-03

本研究はヨハン・ゼバスチャン・バッハ(1685?1750年 以下「バッハ」と記す)のアーティキュレーションの表現技法に着目し、その中で行われるテンポの微細な変動について考察したものである。アーティキュレーションは旋律の中の分節を明瞭に表現する技法であり、当時の文献には、その表現方法が断片的に記されている。J.G.ワルターは『作曲理論要提』の中で、歌詞に含まれるアクセントのおかれた音節の音価は拡大することに触れており、また、J.J.クヴァンツは『フルート奏法』の中で、拍内の強拍にあたる音を強調し、音価を拡大して「びっこをひく」ように奏することを勧めている。後者に付けられた譜例にはスラーが書き込まれていることから、それはアーティキュレーションとの関係を含むものと考えられる。また、実際にスラーの表現技法に触れた証言もあり、C.P.E.バッハは『正しいクラヴィーア奏法』の中で、スラーの開始音を強調することを提唱しており、L.モーツァルトは『ヴァイオリン奏法』の中で、スラーの開始音を強調し、音価を拡大するよう述べている。こうした資料を参考にし、バッハのアーティキュレーションの表現技法について具体的に検討した結果、次のことが分かった。彼が用いたアーティキュレーションの主要なパターンのうち、1拍に含まれる4音にスラーが用いられた場合は、スラーの開始音は様々な度合いで強調され、テンポの速い曲では、スラーの開始音が第2音以降と切り離されることがあった。こうした奏法は弦楽器の運弓法や声楽の母音唱と関連するものであった。点は様々な意味を持つが、点が連続して記されたパッセージでは、テンポの安定性が意図されていることが多かった。スラーが2音のペアに用いられた場合は、スラーが拍と同時に始まる方法と、スラーが上拍的に始まる方法があるが、何れの場合も、スラーの開始音で表現の拡大が行われることで、2音による音型を明瞭に表現することができた。4音の中の3音にスラーが用いられた場合は、4音を1:3に分ける方法と、3:1に分ける方法があるが、前者では独立した第1音を強調し、その後、僅かに間を取ってから第2音以降のグループを奏することで、しばしば音楽のテクスチュアを明瞭に表現することができた。スラーの開始音や音と音の間が時間的に拡大しても、当時の演奏習慣では、拍の中で埋め合わせのシステムが働くことで、拍としての長さは変わらなかったものと考えられる。アーティキュレーションの表現の中で、テンポの変動は僅かなものであったが、それが音量などの変化と連動することによってこの技法を真に効果的なものにしていた。本研究で得られた示唆により、今後のバッハ演奏に新たな可能性が生まれることを期待する。
著者
中辻 小百合
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.17-32, 2011

本稿は、湯浅譲二(Joji Yuasa, 1929-)によるテープ音楽作品《ヴォイセス・カミング Voices Coming》(1969)における創作意図を探ることを目的とするものである。曲は全3曲から構成され、あらかじめ録音された発話言語が主な音響素材として用いられているが、第1曲目〈テレ・フォノ・パシィTele-phono-pathy〉では電話交換手と通話希望者とのコミュニケーションにおける言葉が、続く第2曲目〈インタビュー Interview〉においては発話されたセンテンスの中から抜粋された間投詞と接続詞の部分が、そして第3曲目〈殺された二人の平和戦士を記念して A Memorial for Two Men of Peace, Murdered.〉では浅沼稲次郎(Inejiro Asanuma, 1898-1960)とマーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King, 1929-1968)牧師による演説の中の言葉が選択されている。本稿では、まず曲毎に、使用素材の言語的特性について検討を試みた結果、この作品においては、発話の意味内容と直接的に関わる部分、つまり意味論的側面が主たる問題とされているのではなく、第1曲目においては言語コミュニケーションにおける交話的機能としての側面が、第2曲目では言語の美的・芸術的な部分すなわち吉本の論じる自己表出的側面が、第3曲目においては音響的なヴァイオレンスとしての側面が問題とされていることが明らかになった。曲中では、会話の文脈から切り離された素材の新たな再配置によって、個々の素材の個別的・具体的特性がクローズ・アップされる一方、言語自体の持つ記号性や意味性が希薄となるのである。また、同じ語句によるカノン等の対位法的配置によって、詩における押韻の手法に似た効果が生み出されることで、言語の詩的側面が浮かび上がり、ある種の詩的な空間が作り出される。湯浅がこの作品で最終的に目指していたことは、言語の意味内容を音楽によって表そうとする従来の芸術歌曲やオペラの声の在り方を根本から問い直し、発話言語における指示的側面を排除した上で、音響的側面や自己表出的側面、交話的機能としての側面に焦点を当て、それらを詩的形式によってではなく、あくまで作曲家の立場から音楽芸術作品として、音楽的かつ詩的に再構成することにあったと結論付けた。続いて、本作品が《問い Questions》(1971)、《演奏詩・呼びかわし Performing Poem Calling Together》(1973)、《天気予報所見 Observation on Weather Forecasts》(1983)といった言語コミュニケーションに関わる声の作品群の中でどのように位置付けられるのかを探るべく、各作品を比較検証した結果、本作品はこれらの作品群の発端として位置付けられることが明らかになった。今後は、これらの作品毎の特性をより明確にし、流れを整理した上で、湯浅にとって言語コミュニケーション系列の作品とはいかなるものであるのかを検討していくことが求められる。
著者
大嶌 徹
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.111-125, 2009

本稿は、輸入盤レコード店「パイド・パイパー・ハウス」(以下PPH)の事例を通して、レコード店が持つ小売店としての機能以上の文化的意味を探るものである。 文化産業において、生産者と消費者の関係は直線的に結ばれているのではなく、社会的に循環しているということは、既に多く論じられてきた。こうした議論においては、小売店の役割は、単に生産者と消費者の受け渡しをするだけでなく、その循環に積極的に介入しているものと位置づけられる。特に、日本の事例についてみるならば、1970年代後半の輸入レコード店の役割は極めて重要であった。本稿では、そのなかでもとりわけ影響を持っていたとされる輸入レコード店PPHをめぐる文化空間を、代表をされていた岩永正敏氏へのインタヴューを中心にしながら、明らかにしていく。 1970年代後半、変動相場制などを社会的背景としながら、輸入盤の価格が著しく低下した。しかし、輸入盤を選択的に購買する消費者層のなかには、単に国内盤よりも廉価であるという理由からそれを消費するのではなく、輸入レコード店で輸入盤を購買する行為自体に文化的意味を見いだすものがいた。こうした消費者にとって、 とりわけ象徴的な店として位置づけられていたのが、PPHである。 PPHのレコード店としてのあり方は、当時においては、極めて異質であった。まず、その商品構成が、ジャンル等の体系化よるものではない。また、音楽業界関係者が集う社交場としての機能を持つ。さらに、PPHをひとつの拠点としながら、音楽生産へも直接関わるような実践が行われる。こうした特殊性は、スタッフたちがレコード店を、文化を発信する場所=「メディア」として認識していたことに基づく。 以上のように、PPH をめぐっては、小売店として以上の文化性が念頭におかれた諸実践を行われており、それが、消費者たちにとっての象徴性を枠づけていたといえる。 1970年代後半から1980 年代にかけての、PPH をめぐる文化実践は、日本のレコード聴取・消費をめぐる音楽文化の系譜をたどる上でも、極めて重要である。本稿で論じた諸相が、それ以外の時代、文脈の実践と、どのように接続していくのかを検討することが、今後求められる。
著者
中辻 小百合 Sayuri Nakatsuji 国立音楽大学音楽研究科
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.17-32, 2011-03-31

本稿は、湯浅譲二(Joji Yuasa, 1929-)によるテープ音楽作品《ヴォイセス・カミング Voices Coming》(1969)における創作意図を探ることを目的とするものである。曲は全3曲から構成され、あらかじめ録音された発話言語が主な音響素材として用いられているが、第1曲目〈テレ・フォノ・パシィTele-phono-pathy〉では電話交換手と通話希望者とのコミュニケーションにおける言葉が、続く第2曲目〈インタビュー Interview〉においては発話されたセンテンスの中から抜粋された間投詞と接続詞の部分が、そして第3曲目〈殺された二人の平和戦士を記念して A Memorial for Two Men of Peace, Murdered.〉では浅沼稲次郎(Inejiro Asanuma, 1898-1960)とマーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King, 1929-1968)牧師による演説の中の言葉が選択されている。本稿では、まず曲毎に、使用素材の言語的特性について検討を試みた結果、この作品においては、発話の意味内容と直接的に関わる部分、つまり意味論的側面が主たる問題とされているのではなく、第1曲目においては言語コミュニケーションにおける交話的機能としての側面が、第2曲目では言語の美的・芸術的な部分すなわち吉本の論じる自己表出的側面が、第3曲目においては音響的なヴァイオレンスとしての側面が問題とされていることが明らかになった。曲中では、会話の文脈から切り離された素材の新たな再配置によって、個々の素材の個別的・具体的特性がクローズ・アップされる一方、言語自体の持つ記号性や意味性が希薄となるのである。また、同じ語句によるカノン等の対位法的配置によって、詩における押韻の手法に似た効果が生み出されることで、言語の詩的側面が浮かび上がり、ある種の詩的な空間が作り出される。湯浅がこの作品で最終的に目指していたことは、言語の意味内容を音楽によって表そうとする従来の芸術歌曲やオペラの声の在り方を根本から問い直し、発話言語における指示的側面を排除した上で、音響的側面や自己表出的側面、交話的機能としての側面に焦点を当て、それらを詩的形式によってではなく、あくまで作曲家の立場から音楽芸術作品として、音楽的かつ詩的に再構成することにあったと結論付けた。続いて、本作品が《問い Questions》(1971)、《演奏詩・呼びかわし Performing Poem Calling Together》(1973)、《天気予報所見 Observation on Weather Forecasts》(1983)といった言語コミュニケーションに関わる声の作品群の中でどのように位置付けられるのかを探るべく、各作品を比較検証した結果、本作品はこれらの作品群の発端として位置付けられることが明らかになった。今後は、これらの作品毎の特性をより明確にし、流れを整理した上で、湯浅にとって言語コミュニケーション系列の作品とはいかなるものであるのかを検討していくことが求められる。
著者
加藤 一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.41-56, 2014

本研究はバッハ復興の機運が高まりつつあった19世紀初頭にポーランドで生まれ、フランスで活動したピアノの巨匠フレデリック・ショパン(1810〜1849)が、どのようにバッハを受容していたかを、彼の弟子ポーリーヌ・カザレンの楽譜に記されたショパンの書き込みを基に考察したものである。全ての調による《24の前奏曲》作品28を書いたショパンの音楽は、様々な要素とレベルにおいて、バッハの音楽から大きな影響を受けていたと言われている。しかし、これまでショパンがバッハをどのように受容していたかを示す具体的な資料が明らかにされて来なかった為に、この分野の研究は類推的な段階に留まっていた。そうした中で、カザレンが用いていたバッハ《平均律クラヴィーア曲集》全2巻の楽譜が見つかり、そのうち、ショパンの手による書き込みが記されている第1巻の楽譜が2010年にパリ音楽学協会から複写版の形で刊行された(J.S.Bach.Vingt-Quatre Preludes et Fugues (Le Clavier bien tempere. Livre I) Annote par Frederic Chopin.Commentaire de Jean-Jacques Eigeldinger. Paris: Societe Française de Musicologie.2010.)。本研究では、この楽譜に記されたショパンの書き込みを詳細に検討することによって、次のような知見を得ることができた。先ず、ショパンはカザレンの楽譜の第1番のプレリュードから第7番のプレリュードに亘って、当時、パリのヴェーヴェ・ロネール社から刊行されていたチェルニー版の注釈を、ほぼ完全な形で転記していた。これは、ショパンがチェルニーの校訂に一定の理解を示していたことと共に、この楽譜の教育的な価値を試そうとしていたことが推測される。ショパン独自の書き込みについては、テキストの修正、フーガにおける分析的な注釈、演奏に関する注釈に大別される。テキストの修正は本研究で最も重要なものであり、そこにはショパン独特な音響感覚が示されていた。彼は多くの個所でバッハが用いた自然的短音階を和声的短音階に修正しており、そこに含まれる半音進行と増2度進行は独特な歪な響きを作り出していた。また、テキストの修正には不協和音程の回避、拍毎に調が変化する調性の流動性、理論的な正当性に基づく音の修正、そして、3度の二重トリルといった彼独自のピアノ奏法を示すものも含まれていた。フーガにおける分析的な注釈は、フーガのテーマの開始部分と終了部分にテーマの形に応じて印を振るものであり、これはケルビーニの『対位法とフーガ講座』にも用いられている方法であった。演奏に関する注釈には彼独特な同じ指の連続使用を含む運指法や左右の手の取り分け、オルゲルプンクト等の重要な音に注意を向ける指示、更に、スティル・ブリゼといったフランス・バロックに由来する古典的な装飾技法等が含まれていた。本稿で得られた新たな示唆によって、ショパン理解が進展し、ショパン演奏に活かされることを願う次第である。
著者
山崎 法子
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.45-60, 2013

本稿は、フーゴ・ヴォルフのHugo Wolf(1860〜1903)の《メーリケの詩による歌曲集》を研究対象とし、その演劇的表現の諸相について考察することを目的としている。 今回この歌曲集を選んだのは以下の理由にある。第1に《メーリケ歌曲集》がヴォルフのその後の歌曲創作の出発点となったこと、第2にその創作のなかに、以後の《アイヒェンドルフ歌曲集》、《ゲーテ歌曲集》などの手法を確立するヴォルフの最初の独創性が示されていることにある。 ヴォルフの独創性については、先行研究においても、大きく見て3つの観点から論じられてきた。第1に朗唱法の観点(エッガー)、次にピアノ・パートの構造の観点(エップシュタイン)、最後に形式の観点(ガイアー)からである。しかしこれらの研究は、それぞれの楽曲の構造上の特徴を導き出しているものの、ヴォルフの表現の本質を論じるには至っていない。筆者は歌手としての立場から、ヴォルフの歌曲の本質は演劇的な要素を伴った表現にあるのではないかと考えている。ヴォルフの音楽からは、今、そこで、そのことが生起しているようなリアリティーを感じるからである。本稿で述べる「演劇的」とは、「観客を前に、俳優が舞台で身ぶりやセリフで物語の人物などを形象化し、演じてみせるようなもの」である。ヴォルフ自身も、歌手が舞台で演技を行うような表現を、メーリケ歌曲において思い描いていたと推測される手紙を残していることから、それがいかなるものであるかを明らかにすることが、これらの歌曲の本質を探ることにつながる。このことを考察するためには、従来研究されてきた朗唱法、ピアノの描写的効果に加え、歌唱旋律のリズム、音楽の間や呼吸感などを加味する必要がある。本稿は、歌唱旋律に重点をおきながら、この特質を導き出し、ヴォルフがメーリケの詩から鋭敏に読み取って音楽で表現した演劇的並びに心理的な側面を明らかにした。 構成と内容は以下の通りである。第1項ではメーリケの詩の特質をならびにヴォルフの《メーリケ歌曲集》について述べた。第2項では、ガイアーの分類で「リートに近い形式」に属する〈捨てられた少女Das verlassene Magdlein〉と「拡大された形式」に属する〈エオリアンハープに寄せてAn eine Aeolsharfe〉をとりあげ、詩と楽曲の分析を、それぞれシューマンとブラ-ムスの歌曲と比較しながら行った。そして分析の結果、韻律の置き換えやダーシの音楽化など音楽の"間"を通して、「私」をめぐる感情や出来事が、瞬間、瞬間のものとして表現されていることが明らかにされ、手法に差異はあるものの、いずれの楽曲においても、メーリケの詩に即した生き生きとした表現がみられることが導きだされた。 ヴォルフは、音高や音の長さ、休符、強弱、リズムといった音楽要素を媒介して楽譜に記しているが、さらにメーリケの詩に即して、ダーシ、コンマ、余白、といった詩語以外のサインについても意味解釈を行って音楽化している。これらは語り手(あるいは登場人物)の心を写実的に表すことにつながるもので、その演奏は広い意味で「演劇的」と述べてよいと、筆者は考えている。ヴォルフの歌曲を演奏するということは、これを読み解き、演奏によってこれを再現することである。
著者
中辻 小百合
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.107-122, 2010

本稿は、湯浅譲二 (Joji Yuasa, 1929-) によるバリトンとトランペットのための《天気予報所見 Observations on Weather Forecasts》(1983) において、言語コミュニケーションに関する問題がどのように反映させられているのかについて、作品の分析を通して明らかにすることを目的とする。この作品においては、身体的動作や身振り、感情表出といった非言語的な側面が重要な位置を占めていると考えられる。湯浅は言語コミュニケーションに含まれる非言語的な側面を実際にどのように考えているのだろうか。この問題を考察するにあたって、本稿では非言語的な側面に焦点を当て、作品の分析を試みた。その手順として、曲中における非言語的な側面を、テキストがない箇所における動作と、テキストの提示と同時に指示される身振り・感情表出および楽語とに分けたうえで詳細な分析を試みた。その結果、第一に、テキストがない箇所における動作が構成されるにあたっては、旋律やリズムといった音楽的要素を作品として構成していく方法を応用した音価および時間の段階的縮小と、freezeの動作に代表されるような期待されるものへの裏切りとの2つの特徴的な手法が、第二に、テキストと同時に指示される身振りや感情表出、楽語が配置される際には、前述した身体的動作と同様に、音楽的要素を作曲する際に用いられるシンメトリックな配列や三部形式が利用されていることが確認でき、西洋音楽の作曲における伝統的な方法のもとで構成されていることが明らかになった。一方、テキスト=語られる内容と非言語的な側面との関係の在り方には湯浅の独自性が表れており、分析の結果、情報伝達を目的とする天気予報と身振りや感情表現とは、一部の例外を除き、互いに対比させられたものとして位置づけられていることが明らかになった。この作品では、クロード・シャノン(Claude Elwood Shannon, 1916-2001)らが提唱したような、送り手から受け手へ事実が伝達されるという言語通信システムにおいてはノイズと考えられる側面-すなわち、語られる声の個性や身振りといった音響的側面、言語活動にともなう感情表現としての身振りや動作といった身体的側面に焦点が当てられている。この点から筆者は、この作品をシャノンらの情報理論への音響的および身体的な側面からのアンチテーゼとして考えた。湯浅は、言語コミュニケーションに含まれるこのような非言語的側面に芸術的価値を見出し、詩や演劇といった形態としてではなく、音楽家としての立場から、それらをひとつの音楽作品として組織化したと言える。この《天気予報所見》は、言語コミュニケーションに含まれる非言語的側面を自らの手によって再構成し、音楽化したいという湯浅の創作意欲のあらわれであると結論付けた。
著者
白石 美雪
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.17-32, 2012

本論文は、1898(明治31)年の『読売新聞』に掲載された署名入り音楽関係記事を読解することによって、明治期における「音楽批評」の形成を活写しようとするものである。明治初期から新聞雑誌では政治的、道徳的な観点による音楽改良が論じられ、さらに専門雑誌『音楽雑誌』では音楽理論や音楽研究をテーマとした論文が発表されてきた。しかし、音楽会での演奏そのものを対象とした「批評」が成立するためには、外在的な価値観だけでなく、批評家と音楽そのものの間の内在的関係が必要となる。具体的には「批評家」自身が音楽の専門知識をもち、演奏家や作曲家の専門性を批評しようとする態度が生まれて初めて、「音楽批評」が成立するといえよう。このような認識のもとに、具体的には「演奏批評」を意図して計画的に長文で執筆し、さらには「楽評」自体を批評する論考が執筆される段階となった1898(明治31)年の『読売新聞』の音楽批評全19点を取り上げ、「批評」、「批評家」という認識、批評家としての姿勢、演奏の評価基準等を分析した。『読売新聞』を対象にしたのは文芸批評、演劇批評、美術批評の連載評論の伝統をもっていたからであり、とくに1898年に注目したのは、同声会や音楽学校の演奏会、慈善演奏会のほか、1月から明治音楽会の演奏会が定期的に開催され、日本音楽会の活動も再開して、西洋音楽を含む演奏会の数が格段と増えた年だったからである。その結果、年頭に「明治三十年の音楽界」を書いた会外生から、「演奏批評」を書いた神樹生、霞里生、楽石生(伊澤修二)、四谷のちか、なにがし(泉鏡花)、藤村(島崎春樹)、そして楽評を批評した聰耳庵まで、「音楽批評」が自覚的に形成されたことを確認することができた。すなわち、会外生は洋楽の知識と聴取経験による音楽観にもとづいて音楽会を「論評」し、神樹生は身体化した西洋音楽の音感覚から「音楽会批評」「演奏批評」のスタイルを確立し、自ら「批評家」を名乗って「素人評」と区別した。神樹生の共同執筆者である霞里生や、神樹生の執筆機会を継承した伊澤修二は、その批評スタイルを踏襲している。「素人」を自称した泉鏡花や音楽学校選科生の島崎藤村、四谷のちかもまた、自らの知識と経験を生かしつつ、神樹生の批評スタイルを意識した。聰耳庵または坂部行三郎と伊澤修二との論争は、東京音楽学校とその関係者の評価をめぐる内容ではあったが、そこで展開されたのは文字通りの「音楽批評家」批評であった。
著者
鯨井 正子 Masako Kujirai 国立音楽大学音楽研究科
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.77-92, 2013-03-29

本論は、昭和戦前期の家庭において、当時の子どもにとってレコードがどのような存在となり何をもたらしたのかを考察する上で、西洋芸術音楽のレコードと童謡のレコードに着目し、レコード企業のひとつである日本ビクター発行の月刊誌『ビクター』を資料に、家庭において両レコードがどのような接点を持って同調するに至り、さらにどのように展開されるのか解き明かすことを目的とした。 西洋芸術音楽と童謡の二つのレコードの接点は、比較的通俗的で聴きやすい曲目を収録した『ビクター洋楽愛好家協会』と『ビクター家庭音楽名盤集』の登場により、西洋芸術音楽が家庭に歩み寄り、西洋芸術音楽のレコードを聴くことが家庭を中心に実践され、聴き手が拡大していく中に児童をも巻き込んでいったことから推測できると考えられた。洋楽愛好家協会と家庭音楽名盤集のレコードは、聴衆層の増大と拡大を促し、愛好者を作ったが、このことにより、児童向けレコードの、特にレコード童謡に対し、それが現在伝えられているような大正期の創作童謡とは芸術的に異なる質を持つレコードであっても、その優劣を問わない親世代が増えたことを予想することができ、大衆的とされるレコード童謡は自然と家庭に入ったと推察された。ゆえに家庭において、西洋芸術音楽のレコードと童謡のレコードが共存し同調することにつながると考えられた。 接点が見出されて以降の西洋芸術音楽のレコードと童謡のレコードは、まさに時局を背景に展開されていったと言え、家庭、レコード企業、レコードそのものといった様々な立場が、時局下において、その解釈や役割を変えていったことがわかった。まず、家庭の意味や役割は、時局を背景に情操教育や情操教化の場に転じたことが明らかとなった。その家庭を販売の対象とする蓄音機・レコード会社は、時局を支え、家庭娯楽と音楽報国のために積極的に責任を負うことを明言するようになっていった。媒体であるレコードは、情操や慰楽、及び報国のため、そして国民精神作興のために存在し提供されるものとして示された。中でも、聴衆層を拡げた洋楽は日本の音楽であると捉え直され、大正期の創作童謡を含んだ童謡のレコードとともに、時局の緊張感ゆえに求められる情操やゆとりの役割を担い、国民や第二の国民と呼ばれた子どもたちに向けて与えられていったと考えられた。 最後に、時局のもと、企業が娯楽と報国を並列の責務に据えてレコードを制作し販売していく中で、西洋芸術音楽と童謡のレコードもその役割や解釈を変えていったが、レコードを聴いていた聴衆は、時局に合わせていく企業の指向をそのままに受けたとは限らず、音楽を音楽として受け入れるような聴き方をしていたのではないかと述べ、結びとした。
著者
荻原 智美
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.217-232, 2021-03

本稿では日本人がハワイの伝統舞踊であるフラhulaを踊ることの意義、日本でフラが学ばれる現状を修士論文で考察するための予備考察として、日本におけるフラの受容とその背景を検討した。フラはハワイに西洋文化が本格的に流入したとされる1820年以前から存在し、ハワイ人の宗教観を伴うものであった古典フラの「フラ・カヒコhula kahiko」と、欧米要素を取り入れた娯楽性の高い現代フラの「フラ・アウアナhula 'auana」に大きく分類される。後者はハワイの観光地としての「楽園」イメージを作り上げるために用いられた。つまり商業的な側面ももったフラである。日本でフラが受容された要因として、商業的な面もあるフラ・アウアナが日本に流入したこと、カルチャーセンターにフラのクラスが設置されたことがある。その受容の背景には日本人がハワイに抱くイメージが影響している。本稿では、まず日本人がハワイに抱いたイメージの変化を確認し、次にカルチャーセンターにおけるフラをみていった。結果、終戦後から海外渡航自由化となる1964年前後まで、日本人にとってハワイは憧れの場所で、「楽園」「夢の島」というようなイメージが抱かれていた。そのような状況において「楽園」を連想させるようなフラ・アウアナは日本で受容された。一方、1970年代以降になると比較的簡単にハワイ旅行が可能になったこと、ハワイ全体で日本人観光客を満足させるための取り組みが行われていたことから、日本人のハワイに抱くイメージは新鮮味に欠ける「定番」の観光地に変化した。初期のフラクラスは1970年代末に設立されたが、カルチャーセンターが拡大したのは1980年代で、参加するために十分な資金と時間のある中年の主婦が主な対象となった。その時期にカルチャーセンターでフラを学ぶ女性たちには、フラ・アウアナが人気であった。しかしハワイが訪れやすい観光地になったことで、現地のフラや音楽の演奏に触れる機会が増加し、ハワイの音楽とフラの習得をしたいと考える「本物志向」の日本人が出現した。そして1990年代初頭から、日本人教師は古典フラのカヒコも教え始めた。このようにハワイに近いフラを目指す動きが強まったことで、ハワイで開催される競技会への参加や、ハワイ人教師とつながりをもつクラスも見られることから、日本においてフラは受容の段階から、展開と発展の時期に入ったと考えられた。今回はフラの受容に関して、ハワイへのイメージとカルチャーセンターという視点から検討したが、さらに他の視点からの検討を行うことが必要になる。またカルチャーセンターの生徒や教師へのインタビューやアンケート調査、フラに関する雑誌の調査により、日本でフラが受容の段階を経て展開と発展したその後の状況、そして日本人がフラに求めているものを考察することを今後の課題とする。
著者
横井 雅子
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.33-40, 2014-03

本稿は平成23〜25年度科学研究費補助金(基盤研究B)による研究プロジェクト「ドイツ・フォークトラントにおける楽器製造の歴史と現状に見る伝統継承と地域再生」に基づき、ドイツ・フォークトラント地方と隣接して楽器製造により16世紀から知られてきたチェコ・西ボヘミア地方の楽器産業の様相を検討したものである。ドイツのフォークトラント地方では大小の楽器会社・工房がそれぞれの特色を生かしながら現在も地域内の市町村の主要産業を形作ると同時に、楽器製造の技術の継承を体系的に行い、また公立、私立の楽器博物館・コレクションの存在や楽器演奏のコンクール、フェスティヴァルなどによって観光化が図られている。一方のチェコ・西ボヘミアの現状については近年の報告が限定的であったため、3年間にわたって現地調査を重ねた。調査の視点は以下の通りである。 / (1)調査地における現在の楽器製造の状況把握 / (2)楽器製作の技術の伝承の様子の確認(特に体系的教育) / (3)調査地の楽器製造史に関する当該地の認識 / (4)楽器製造に関わるイヴェントの有無、地域振興への寄与という点からの観察 / 調査地はクラスリツェ、ルビ、およびヘプの3か所である。管楽器を中心に製造するクラスリツェでは大手メーカー以外には楽器製造を手掛ける個人の工房はなく、また楽器製造の技術の伝承を体系的に行う教育機関が閉鎖され、市が所有していた楽器コレクションも非公開の状態で保存されるなど、「楽器の町」と呼ばれてきた存在感にも陰りが感じられる。ルビは一貫して弦楽器製造で知られてきた町で、民営となった旧国営会社と後発の民営会社の他、複数の個人工房が活動しており、ある程度の活気が感じられるが、8年前より当地にあった楽器製作を教える専門学校が20km離れたヘプに移転し、楽器作りの技術の伝承に関わる状況は楽観視できない。なお、楽器の品評会は依然としてこの町で行われており、また専門学校にあった楽器コレクションも旧国営企業のショールームで公開されており、その点ではクラスリツェよりは好ましい環境が残っていると判断できる。チェコの楽器産業は国内経済が好景気と見なされていた2000年代半ばにも売上高、雇用者数、輸出状況のいずれにおいても下降傾向にあり、とりわけ生産高においては2000年代後半には劇的に減少している。この背景には東アジア諸国の安価な楽器が世界市場を席巻していることが挙げられるだろう。ドイツ側でも決して楽観できる状況ではないが、「楽器製造の地域」という特徴を生かした活性化の試みが見られる。楽器産業が依然として町の主たる産業である西ボヘミアの楽器作りの町でも、こうした特徴を活用した仕組みを作ることによって現状にいくらかでも変化をもたらすことが必要なのではないかと結論づけた。
著者
今野 哲也 Tetsuya Konno 国立音楽大学音楽研究科
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.123-138, 2010-01-01

本研究は、アルバン・ベルク(Alban Berg 1885-1935)の《4つの歌 4 Lieder》作品2(1909-10)より、第2曲「眠っている私を運ぶSchlafend tragt man mich」、および第3曲「今私は一番強い巨人を倒した Nun ich der Riesen Starksten uberwand」の2曲について考察するものである。ベルクは、作品2の第4曲「微風は暖かくWarm die Lufte」から無調性へと移行したと言われていることからも、この第2、3曲は和声語法上の転換点として捉えられる。しかし実際に分析を進めてみると、従来の方法での和声分析が充分可能であることが分かった。本稿の目的は、和声分析を主な観点としながら、詩の内容と関連させながら考察を進め、この2曲がどのような楽曲構造を形成しているのかを明らかにしてゆく事である。尚、研究方法は、調性作品として分析が可能であることから、島岡譲(Yuzuru Shimaoka 1926-)分析理論を基本的に用いることとする。歌詞はドイツ生まれのユダヤ人、アルフレート・モンベルト(Alfred Mombert 1872-1942)の連作詩、『灼熱する者Der Gluhende』(1896)全88編の中から選ばれている。モンベルトは表現主義の過度期の作家として分類され、ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844-1900)からの影響も指摘されている詩人である。第2、3曲の詩を考察してみると、ロマン派までの文学で慣用的に用いられてきた言葉と共に、ニーチェに関連していると思われる言葉も多く見出される。こうした言葉は、和音のひびきや動機の技法によって緻密に表現されており、本稿はこの観点からの考察も進めてゆく。ところで、作品2の分析を進めてゆく過程で、第2、3曲は、構想の段階から、2曲で1つの楽曲構造を形成しているという結論に達した。両者の構造を個別に見てみると、第2曲は「es→Es→Es-As」の3部構造、第3曲は「as→d -F→es-Es」の3部構造となり、それぞれ開始する調とは異なる調で終結する事となる。そこで、第2、3曲がペアで1つの構造を形成していると仮定し、両者の主調をes-mollで一貫させて考察してみると、「es→ Es→Es-As|as→d F→es-Es」という構造が浮かび上がってくる。つまり、中間に位置する「As|as」は、主調に対するⅳ度調として機能しているという解釈が可能となる。こうした楽曲構造と詩の内容とを関連させて考察した結果、主人公が眠りにある状態が描かれている場面では基本的にes-moll(Es-dur)が、アクティヴで覚醒状態にあると思われる場面ではas-moll(As-dur)、そして再び眠りにとらわれてゆく場面では再びes-moll(Es-dur)へと回帰してゆくという見解を持つに至った。本稿の締めくくりでは、以上の分析結果を踏まえながら、作品2全体と、ベルクの初期語法について敷衍する。