著者
呉 進幹(戒法)
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.302-298, 2019-12-20 (Released:2020-09-10)

The Record of Linji (臨済録) documents the words and deeds of Linji Yixuan 臨済義玄, a Chan master of the late Tang dynasty. The book consists of four parts: “Shang Tang (上堂)”, “Shi Zhong (示衆)”, “Kan Ban (勘弁)”, and “Xing Lu (行録)”. However, there are some questions regarding its formation, and further in-depth investigations are needed. This paper uses the “Four Distinctions” 四料簡 in The Record of Linji to examine its formation, and finds it highly probable that Master Kefu (克符), one of Linji’s disciples, created the “Four Distinctions ”. Since then, Chan monks of the Linji School have adopted the “Four Distinctions” as their main tenet of Linji thought, demonstrating their common focus. Under such an influence, Yuanjue Zongyan (円覚宗演) of the Northern Song Dynasty republished The Record of Linji and placed the “Four Distinctions” at the beginning of its main part “Shi Zhong,” as an indication of its status as an important summary of Linji’s dharma teachings. Consequently, this led to differences between the layouts of the two existing systematic editions of The Record of Linji. Subsequently, Yuanjue’s edition was included in the revised and extended edition of two similarly named works, The Record of Venerable Ancient Masters (続開古尊宿語要, 1238) and The Record of Venerable Ancient Masters (古尊宿語録, 1267), and later was independently published until the commonly circulating edition of the Edo Period appeared in the 18th century.
著者
近藤 隼人
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.68, no.3, pp.1129-1134, 2020-03-25 (Released:2020-09-10)
参考文献数
9

PātañjalayogaśāstraにはYogasūtra 4.10に対する注釈として,縮小拡大する心の輪廻を主張する「他の者たち」(apare)の異説と,遍在する心の機能(vr̥tti)が縮小拡大すると主張する「学匠」(ācārya)説との対立が伝えられている.本稿においては,ヴァーチャスパティ・ミシュラ(10世紀)による注釈Tattvavaiśāradīにもとづき,この異説がサーンキヤ説に相当し,さらに「学匠」説がそのサーンキヤ説と対置されるヴィンディヤヴァーシン説に相当することを解明する.この異説をサーンキヤ説に帰する論拠としては,(1)イーシュヴァラクリシュナ著Sāṃkhyakārikāに登場する喩例や用語法との対応,そして(2)細長いシャシュクリー(dīrghaśaṣkulī)に対する言及という二点が挙げられる.まず(1)に関して,「他の者たち」に論難を加える論敵は心が輪廻の際の基体となることを示すために杭や画布を喩例として挙げるが,これはSāṃkhyakārikā 41の喩例に対応するものであり,さらに微細身を「恒常的」(niyata)とする記述もSāṃkhyakārikā 39に対応する用語法である.次に,(2)細長いシャシュクリーは心と身体が同じ大きさであることを示すための実例として言及されるが,これは一度嚙めば五官が同時に働く例として度々言及される菓子を指す.NyāyamañjarīやVyomavatīはこれを五官の同時認識と関連付けつつ,いずれも同説をカピラに帰しており,サーンキヤとの関係性を窺わしめる.さらに,ヴァーチャスパティ自身がNyāyavārttikatāt­paryaṭīkāにおいて同説をサーンキヤ説とみなしている点も,本異説をサーンキヤに帰す根拠として十分である.そして,この異説に対して学匠説では「機能」(vr̥tti)の縮小拡大が説かれるが,“vr̥tti”という概念はサーンキヤ知覚論において感官の対象への到達を想定するために主張されたものである.とりわけ感官の遍在を主張し,対象への到達を想定しないヴィンディヤヴァーシンにとっては,対象において開顕する“vr̥tti”の想定によって学説の整合性が確保されるほど,この“vr̥tti”は枢要な概念であった.さらに,微細身の存在を否定し,“vr̥tti”の有無を生死と結びつけるTattva­vaiśāradīの記述がYuktidīpikāにみられるヴィンディヤヴァーシン説と符合している点も考慮すると,「学匠」はヴィンディヤヴァーシンを指すものと考えられる.以上の点は,通常のサーンキヤ説とヴィンディヤヴァーシン説との懸隔を示しているばかりか,夙に指摘されるPātañjalayogaśāstraと「学匠」ヴィンディヤヴァーシンとの親和性を確証させる一証左たりうる.
著者
中村 隆海
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.894-890,1327, 2006

The paper focuses on the opening <i>pada</i> in the Atharvaveda-Samhita of the Saunakiya recension (AVS) XIII 2, 2. Former studies see the word form of <i>praj&ntilde;&aacute;nam</i> as a problem. Whitney notes (following PW and Henry) that the reading of the Paippalada recension (AVP) <i>praj&ntilde;anam</i> is more plausible. <i>praj&ntilde;anam</i>, however, is supported by only secondary MSS. It is also necessary to examine the verb <i>svar&aacute;yantam</i> in its meaning and with regard to case government.<br>AVS <i>praj&ntilde;&aacute;nam</i> is presumed to be a gen. pl. of adj. <i>praj&ntilde;&aacute;</i>-, and qualifies <i>dis&aacute;m</i>. AVP <i>praj&ntilde;anam</i> is acc. (Inhaltsakkusativ) sg. of the action noun n. <i>praj&ntilde;ana</i>- in the meaning of &lsquo;signpost&rsquo;. This meaning is attested in Vedic and in Pali <i>pa&ntilde;&ntilde;ana</i>- &lsquo;sign&rsquo;. The participle <i>svar&aacute;yantam</i> is derived from <i>svar&aacute;yati</i> &lsquo;sounds&rsquo;. The previous interpretation &ldquo;shining&rdquo; on the assumption that the word is a denominative from n. <i>sv&aacute;r</i>- is to be abandoned on morphological grounds. The verb-root <i>svar</i> does not exit in the meaning &lsquo;to shine&rsquo;.<br>The translation would be: &lsquo;(the sun) sounding for the foreknowing directions with [his] flame&hellip;&rsquo;. The directions foreknow (<i>pra-j&ntilde;a</i>) each of their own positions to be located by the sound that the flame of the sun makes, and play the role of the signpost for the flying sun. This motif is succeeded by the Yajurvedic prose, and bears the background which explains the location between <i>devas</i> and azimuths.
著者
堀田 和義
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.1068-1072, 2007

ジャイナ教空衣派の学匠クンダクンダ (Kundakunda) の作品のひとつに『5つの存在体の綱要』(<i>Pa&ntilde;castikaya-samgraha</i>) があり, その第1章では6つの実体 (dravya) について論じられている. なかでも第15~19偈では, 実在の変化と同一性が扱われており, これら一連の偈に関して, 最古の註釈者アムリタチャンドラ (Amrtacandra) は対論者を特定していないが, ジャヤセーナ (Jayasena) は, 仏教学説に対する批判と解釈している.<br>本稿は, 第15~19偈に焦点を当てて, まず, 偈の内容そのものとそれに対するジャヤセーナ註 (<i>Tatparyavrtti</i>) のに見られる仏教学説批判を概観する. そのうえで, (1) 刹那滅一辺倒 (ksanika-ekanta) と恒常一辺倒 (nitya-ekanta). という2つの極端説の設定, (2)〈実体を対象とする視点〉(dravyarthika-naya) と〈様態を対象とする視点〉(paryayarthika-naya) という2つの視点の適用, (3) 想定される問題点とその解決法としてのジャイナ教学説, という3つの点にもとづいて <i>Tatparyavrtti</i> における議論を検討し, ジャイナ教の議論に見られる特徴の一端を明らかにするものである.
著者
榊 和良
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.1139-1143, 2010

『アムリタクンダ』は,既に明らかにしたように,カーマルーパの女神をめぐるマントラを伴う祈願法と,『シヴァスヴァローダヤ』に代表されるナータ派文献にも含まれる呼吸を観察することによる占術を含むタントラ・ヨーガ文献である.13世紀末から14世紀中頃にアラビア語・ペルシア語に訳され,16世紀中頃にはインドのシャッターリー教団のスーフィーの手でイスラーム色を濃くした形でペルシア語で重訳され,中央アジアからトルコ,西アジアからマグリブ世界まで広く伝搬した理由は,寓意文学やその解釈学を発展させたイスラームの伝統を受け継いだ枠物語にある.それは,『トマス行伝』に含まれる「真珠の歌」やイフワーヌッサファー(純粋なる心をもった兄弟)と呼ばれる学者集団による『百科全書』に示された小宇宙観などの影響のもとに,中世イランの哲学者イブン・スィーナーの系譜を継いだスフラワルディーによる『愛の真実に関する論攷』に含まれる「愛」の語る物語を模している.異邦の地への旅を経ての故郷への帰還と「生命の水」による新たな生まれ変わりを核とした寓意的物語を枠として,大宇宙と小宇宙の相即性から説き起こし,「息の学」を媒介として,浄化法やチャクラへの瞑想法をとりこみつつ,本来の自己の認識による救済をめざすありかたが示される.人間の肉体をひとつの町として描き出す枠物語の示す象徴世界は『ゴーラク語録』にも共通性が見出されるが,『ゴーラクシャシャタカ』大本のペルシア語訳にも示されるように,ナータ派文献に示されるヨーガは,霊智による救済を獲得する手段としてスーフィー道と共通性をもつものと理解され,『アムリタクンダ』の翻訳者は,グノーシス的枠物語によって有資格者のためのイニシエーションとして視覚化して見せてくれたのである.
著者
小武 正教
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.598-602, 1990
著者
山畑 倫志
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.522-516, 2019

<p>Jain Carita Literature has a long tradition. The Jains had formalized their saints into Sixty-three Great Men. However, the authors of Carita works often created many biographies about saints other than the Sixty-three Great Men. This paper takes up three people, Neminātha, Bāhubalin, and Śālibhadra.</p><p>Neminātha, the 22nd Tīrthaṅkara is included in Sixth-three Great Men. But the Jain Old Gujarati works, succeeding a tradition of the Jain Caritas, emphasized the love of his fiance Rājul for Neminātha, rather than the biography of Neminātha.</p><p>Bāhubalin overwhelmed his brother, the first Cakravartin Bharata, in a battle, and underwent a conversion to Jain doctrine by his father, the first Tīrthaṅkara, Ṛṣabha. Bāhubalin is the most important character in that story.</p><p>Śālibhadra was a very wealthy merchant whose wealth outdid that of the king. But one day he realized that the king dominated him, and all people also had a master. Then Śālibhadra renounced the worldly life.</p><p>This paper proposes that the Jain authors gave these Extra-saints appropriate roles required according to the social or political situation.</p>
著者
上野 牧生
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.69, no.3, pp.1072-1078, 2021-03-25 (Released:2021-09-06)
参考文献数
3
被引用文献数
1

世親作『釈軌論』(Vyākhyāyukti)の掉尾を飾る第5章では,説法者(dhārmakathika)の予備軍に向けて,説法の見本が示される.特にその第3節では,奇譚・漫談・厭世譚の実例が紹介される.それぞれ,聴き手を驚かせる・笑わせる・〔輪廻や欲望や怠惰を〕厭わせることを目的とする小話である(この3点が布教の契機として重視される).それらはいずれも簡潔で短く,任意の引用,そして説法での実用に適する.おそらくは説法の前に,あるいはその合間に,説法者の声に耳を傾けない相手に向けて語られるものであろう.本稿はそのなか,居眠りする聴衆を笑わせ,眠りを醒ます目的で語られる漫談の全話を紹介する.例えば,次のような小話である.「ある外教徒がマハーバーラタを読んで泣いていると,ある人から「なぜ泣いているのですか?」と聞かれた.「シーターがどれほどの苦しみを味わったかご覧になりましたか」と答えると,「それはマハーバーラタですよ,ラーマーヤナではありませんよ」と言われた.外教徒は「私が泣いたのは無意味でしたね」と虚しく語った.これと同じように,説法者の語る佛陀のことばも,注意して聴かなければ無意味なのです」と.往時の説法者は,こうした漫談で聴衆の笑いをとり,あるいは,話を滑らせ失笑を買ったであろうか.『釈軌論』から推測する限り,少なくとも世親自身が説法者であった,とはいえそうである.とはいえ,世親が居眠りする者にまで気を配る様は驚きでもある.あまつさえ,喜劇的な話や下世話な話,自虐までを漫談に織り込み,時には聴き手に合いの手を求めている.そうまでして世親が人々を佛教の聴聞に導こうとするのは,そこまで考慮しなければ,人々が佛教に耳を傾けなくなった当時・当地の時代状況を反映しているのかもしれない.いずれにせよ,『釈軌論』第5章の記述は,5世紀前後の説一切有部圏域における説法者の実態の,その一端を記したものとして注目に値する.
著者
宮沢 正順
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.303-307, 1969