著者
大貫 俊夫
出版者
法制史学会
雑誌
法制史研究 (ISSN:04412508)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.85-115,en7, 2013-03-30 (Released:2018-04-04)

シトー会修道院の保護形態は、かねてより中世史研究の中で最も重要な研究対象であり、とりわけドイツ語圏の歴史研究において頻繁に議論された。その礎を築いたのは法制史家のハンス・ヒルシュとテオドール・マイヤーである。彼らの研究成果は三つの観点から整理することができ、それらは後世の研究者に強い影響を与えた。しかし、これまでの領邦国家形成と結びついた議論には一定の論理の飛躍が見出される。シトー会士の庇護者は、自分のdefensio(庇護)の下にある修道院を、初めから自らのランデスヘルシャフトに引き入れるために保護したわけではない。というのも、領域的・制度的に安定した支配権は一四世紀になって初めて把握されるからである。そこで本稿は、これまで詳しく考察されてこなかった一二~一三世紀のシトー会修道院の保護形態を分析する。この問題に取り組むにあたり、題材としてトリーア大司教区内にある二つのシトー会修道院オルヴァル(Orval)及びヒメロート(Himmerod)を採り上げる。第一章ではオルヴァルとシニ伯、ヒメロートとトリーア大司教の法的関係を分析した。そこでは、トリーア大司教の司教裁治権を除き、法的関係について明確な規定は見出されなかった。それゆえ、シニ伯とトリーア大司教の庇護者としての排他的な地位は確認されない。それとは対照的に、そうした排他的な地位は第二章で分析した霊的関係から導かれる。シニ伯とトリーア大司教のみが、修道院から継続的に修道院内における埋葬と修道士による周年記念を享受していたのであった。第三章では、両シトー会修道院のフォークタイ問題が考察される。修道院創建から半世紀後、フォークタイは修道院と地元中小貴族の間に勃発する係争の主要因となった。シニ伯は一二二六年の家門断絶ゆえに、そしてトリーア大司教は一一八三~一一八九年のシスマゆえに効果的な保護が果たせなかったため、両修道院は庇護者の代替を求める必要があった。このことから、庇護という保護関係には脆弱性が備わっていたことが分かる。以上の分析に基づき強調されねばならないのは、シトー会士は自らの霊的な役割を実に的確に果たしていたということである。これによって彼らは、庇護を代行する諸権力の支援を獲得できた。シトー会修道院はこの霊的営為を駆使し、領邦君主のみならず、旧来のフォークタイ的支配の慣習から決別しきれていない中小領主層までもを庇護という画一的な法観念に巻き込んでいった。ここに、新しい修道運動が引き起こした国制的ダイナミズムが看取されよう。
著者
高橋 直人
出版者
法制史学会
雑誌
法制史研究 (ISSN:04412508)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.171-210,en11, 2012

<p>本稿は、主に二〇〇〇年以降のドイツにおける近代刑法史研究の動向を取り上げつつ、そこから日本におけるドイツ近代刑法史研究のいっそうの深化への手がかりを得ることを課題とするものである。近年のドイツの学界には、以下の注目すべき動向が見いだされる。①「近代刑法史」に特化した通史という従来みられなかったタイプの著書が、フォルンバウム氏によって公にされ、なおかつ同書は近代刑法史研究の本格的な方法論の提示を含んでいる。②ドイツ近代刑法史の基本的な部分(例:フォイエルバッハの刑法理論や「学派の争い」)を批判的に再検討しようとする動きが徐々に高まっている。③学説史や立法史のみならず、いわゆる「学問史(Wissenschaftsgeschichte)」の手法や、刑法(学)の担い手およびその活動の実態にも注目する社会史的な手法など、研究上のアプローチの多様化が進んでいる。④ドイツの近代刑法史を、他のヨーロッパ諸国(特にフランスやイタリア)との関係の中で扱おうとする作品が増えつつある。⑤関連史料の公刊が大幅に進展している。これらの動向を参考に日本の現状を見直すと、以下のような示唆が得られる。まず日本においては、権力批判・現状批判という問題意識のもと、ドイツの先行研究における以上に啓蒙期の刑法(学)の輝かしい功績が強調され、とりわけフォイエルバッハの刑法理論については「近代刑法」の理想のモデルとしてその歴史的意義が浮き彫りにされてきた。このような取り組みそのものは現在も重要である。ただし、近年のドイツの研究成果をふまえていえば、現状批判のための理想像であるはずの初期の「近代刑法」それ自体が、まさにその批判されるべき現状をいずれ生み出すことにつながる側面を同時に胚胎しているのではないか、という悩ましい問題にもわが国の研究はいっそう向き合っていかねばならない。また、「近代刑法」の実像をより多面的・重層的・動態的に理解していくため、学説史や立法史にとどまらない多様な切り口(学問史や社会史の手法等)を取り入れていくことも有効である。そして、一方でドイツの研究動向を参考にしつつも、他方で特に「近代化」との関わりにおいて明治以降、さらに戦中から戦後への日本の歴史的経緯の中で、わが国の先行研究が育んできた独自の問題意識や方法論をふまえつつ、その理解と省察の上にたって今後の研究のあり方を模索していく必要がある。</p>
著者
松園 潤一朗
出版者
法制史学会
雑誌
法制史研究 (ISSN:04412508)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.51-81,en4, 2012-03-30 (Released:2017-08-22)

本稿では、室町幕府の安堵と施行の制度について、「当知行」の効力という観点から検討を加える。日本中世の土地法において「当知行」(占有)は、「安堵を受ける効力」と「知行保持の効力」を有したと指摘される。しかし、右の効力は中世を通じて等しく見られたわけではなく、政権ごとの法制の相違という視角が重要である。建武政権は、鎌倉幕府が譲与安堵の制度を整備したのに対し、当知行安堵を広く実施した。また、所領への妨害行為(「濫妨」)に対し、当知行安堵の施行や「濫妨」停止命令という形で「知行保持」の手続を行った。建武政権では、「当知行」に基づいて安堵と施行(「知行保持」)がなされる体制であった。室町幕府の足利直義・義詮期には、安堵は譲与安堵等が中心となり、施行とは基本的に切り離される。所領への妨害については、「知行保持」に加えて、所領の回復を行う「知行回収」の手続も行われたが、手続では訴人の主張する所領知行の本権の確認がなされた。足利義満期には武士・寺社本所への安堵の発給が増加する。安堵の根拠は譲与・公験等が中心だが、応永年間(一三九四~一四二八)以降、当知行安堵の発給が増加する。また、義満期から足利義持期の途中まで、所領の当知行・不知行にかかわらず「安堵」が発給され、それに基づく施行・遵行もなされた。「安堵」施行の実施の背景には将軍(室町殿)の認定を示す「安堵」の法的効力の増大があった。足利義持期の応永二〇年代には、当知行安堵の発給が原則化される一方、応永二九年の法令で「安堵」施行は停止される。「安堵」施行が所領回復に利用されることを防止するためである。同じ時期に、幕府法廷での訴訟手続の整備がなされ、一方的に「知行回収」を命じる文書は大きく減少する。法制の変化は、訴人の所領回復の重視から当知行保護の重視への政策転換を意味する。また、守護も当知行安堵を発給し、各地で当知行安堵が行われる体制が形成された。足利義満期に築かれる「安堵」施行の体制は、「安堵」に強い効力を付与する点で特異なものである。また、「当知行」の効力は中世を通じて見られるが、各政権の法制への作用の仕方はそれぞれ異なる。政治的な認定行為である「安堵」との関係を見ていくことで、中世の知行について議論を深めることが可能になる。