三盛洲浜 (@6UkJhwckWp82146)

投稿一覧(最新100件)

出典はこちらの論文。 (六)原城陥落 に記述あり。 https://t.co/5OC52fRyAJ
@inuchochin ありがとうございます。弓以外は詳しくないので調べてみたところ、下記論文に加藤清風が天真流と山之内流を薩摩に伝えたとあるので、併伝されていたのですかね。 戦前には熊本の井上平太等、複数武道の称号者もいましたが、伊藤師もまさにそうした古武士的な存在ですね。 https://t.co/uvnSKs6pzn
父母大三(https://t.co/wmsxZu22Zf)も恐らく「ブモダイサン」と読んでたのだろう。 〉日常的な漢語を反映すると考えられる文献(略) での「父母」は,大英図書館蔵『天草版平家物語』1592年刊本の“bumo no võ”(父母の恩,45-19)に見られるように,基本的に呉音形「ブモ」が使用されたようである。 https://t.co/Dh3vY2eSRy
徳永織人や松本潜の弟が安川敬一郎で、安川財閥の創始者。 https://t.co/DuOJq4aFlx
RT @baritsu: 高校生1745人へのアンケートで、いくつかの画像の中から選ばれた武士のイメージ第一位は男衾三郎絵詞の笠懸だって https://t.co/NeSLbpn356 https://t.co/jGT1QVR16y

223 0 0 0 OA 続群書類従

RT @Gohshi77: 室町幕府的始の射手については、 続群書類従. 第23輯ノ下 武家部「御的日記」 https://t.co/e35NBq8mt6 https://t.co/p6P4gRU7kd
@tamaki1853 面白いですね。関連でこんな論文が(御存知でしたら失礼)。 https://t.co/ej11xeldq8 忍は忠利が整備しキリシタン取締にも動員、島原の乱で活用も城内偵察をサボりがバレて全て召放ち…ただ天草四郎討取りの際小屋に火矢を放ったのは忍の頭の子吉田十右衛門。でも軽輩ゆえ乱後も十石三人扶持のまま…
弘前藩の弓術師範については、こちらの研究と併せて読むと面白そう。弘前藩では通し矢も盛んだったようだ。 https://t.co/1swPqYEhJh

お気に入り一覧(最新100件)

「武家相撲に関する一考察」 https://t.co/4Pj3huYPa3 中世には、相撲節の相撲のように京で洗練され、鑑賞に堪える芸能の相撲と、戦場での組討に連続するような、「格闘そのもの」の東国武士の相撲があったという 『曽我物語』では、京で洗練された相撲を学んだ者と力自慢の対決の話がある(続く)
@6UkJhwckWp82146 日宋、日明貿易ではかなりの数の日本刀が中国に輸出されましたが、中国現地ではあんまり古い日本刀は残ってなさそうですよね…… 林伯原氏「明代中国における日本刀術の受容とその変容」 https://t.co/YjYEiyEmMC
……と当時の日本でも古い刀が珍重され、近年鋳造したような刀は軽んじられていたようだ 『武藝圖譜通志』 にみられる「隻 手 刀 」 に 関 す る 一 考 察 https://t.co/keUS8JQViS
高校生1745人へのアンケートで、いくつかの画像の中から選ばれた武士のイメージ第一位は男衾三郎絵詞の笠懸だって https://t.co/NeSLbpn356 https://t.co/jGT1QVR16y
馬部隆弘「山城国人狛氏と一族の地域的展開」『大阪大谷大学紀要』57号、2023年2月 #こんな論文がありました PDF公開されました。山城の狛氏について出自が渡辺党であり、摂津守護代薬師寺氏の与力や六角氏被官の狛氏も同族であると示す、基礎的な研究となります https://t.co/sdDgOtiGnu
拙稿「沼沢系林崎流の成立と展開」(『山形大学歴史・地理・人類学論集』24号)が公開されました。 近年進歩してきている居合のテキスト研究を踏まえ、近世の刀剣をめぐる論点や、居合という武芸を例に技術の伝播と変容過程を論じてみました。拙い文章ですがご笑覧ください。 https://t.co/jX1w1h0xAu

223 0 0 0 OA 続群書類従

室町幕府的始の射手については、 続群書類従. 第23輯ノ下 武家部「御的日記」 https://t.co/e35NBq8mt6 https://t.co/p6P4gRU7kd
武田信也「武家故実の地方展開に関する一考察(1) : 小笠原家の豊後下向とその景気」 大友氏に武家故実を伝授した刑部少輔家を中心に、京都小笠原氏の系譜やそれぞれの動向について検討されています。京都小笠原氏について知りたい方は必読の内容です。 https://t.co/bMhrxu4wKE
参考論文をいくつか挙げておきます。まずは、大坪舞「近衞前久が継承した鷹の言説 : 『鷹百首』と『皇鷹記』の引用書目の検討を通して」 細川高国が小笠原流弓馬故実および鷹狩の伝承に果たした役割の大きさがよく分かる内容です。 https://t.co/VH4IZ1uYJN
細川高国が犬追物の再興に熱心だった件、政元期から京兆家が犬追物を盛んに興行していたこともありますが、個人的には、高国が師匠・小笠原尚清の日記と共に小笠原氏の秘伝を継承しており、幼少の稙盛を後見する立場だったことも大きな要因と考えます。こちらの論文を参照。 https://t.co/VH4IZ1MzBl
もう一方の京都小笠原氏庶流、政清弟・元清から始まる刑部少輔家も義澄の近江落行に従ったらしく、永正8年5月(船岡山合戦の直前)に元清の子・元宗が義澄の使者として豊後大友氏の元を訪れたようです。元宗は永正4年4月に大友氏が催した犬追物で検見を務めているそうで。 https://t.co/bMhrxu4wKE

11 0 0 0 OA 装束図解 : 他一

緌の発生について、私個人の考えとしてもっとも納得できるのは関根正直「装束図解」にある『冠の緒の端が打ち散って、水干の菊綴のようになったものが装飾化した』という説です。http://t.co/B91uRcKTQl

フォロー(383ユーザ)の投稿一覧(直近7日間)

フォロワー(202ユーザ)の投稿一覧(直近7日間)