シービー (@MrCB_Harukaze)

投稿一覧(最新100件)

@ambujam10 捧げ筒のシーンは爆笑ですよね。 桂さんに声をかけられたのは、馬屋原二郎という藩士で禁門の変に参加し、後に『元治甲士禁門事変実歴談』で桂さんの7月18日から19日までの手記を紹介した人のようです。 https://t.co/2JzGM4lZKF
RT @itaru_ohyama: あまり知られていないけれど、鳥羽伏見で負けていたら、天皇を山陰道に逃がす手筈で、そのルートを確保しに行ったのは西園寺公望。彼の伝記には、ちゃんと山陰道鎮撫のことも載っている。 https://t.co/E21F7uLNPU
RT @zasetsushirazu: 須賀忠芳「ストーリー化された歴史観光素材の功罪をめぐって-「幕末会津」をめぐる言説を中心に-」(『観光学研究』17、2018年)は、白虎隊像などの「定番化された「幕末会津」をめぐるストーリー」に関する問題点を、大河ドラマ『八重の桜』の話も…
RT @zasetsushirazu: 明治39年10月27日、海江田信義が死去。大村益次郎の殺害犯処刑を直前で停止させた(粟田口止刑事件)。その理由として、笠原英彦「弾正台と行政監察」(『法学研究』72-3)は、大村との確執や守旧的思想ではなく、手続き上の齟齬だと指摘。 ht…
RT @hayano: (福島民報)【3年連続で未検出 三春の小中学生内部被ばく検査】 http://t.co/HhtBRdXt9m 論文はこれ http://t.co/AeBoogq6Rt 和訳はここ http://t.co/ir7J4BcjyT http://t.co/eV…

お気に入り一覧(最新100件)

このような論文もありますのでご参考までに。 増野弘幸「陶淵明「帰去来兮辞」における「松菊」の表現について」(『大妻国文』第46号 2015年3月) https://t.co/fHZTdQ1EjY ふと、木戸が萩の村田清風旧宅に「清風松の碑」を建てた行動原理と繋がるものがあると感じました。
あまり知られていないけれど、鳥羽伏見で負けていたら、天皇を山陰道に逃がす手筈で、そのルートを確保しに行ったのは西園寺公望。彼の伝記には、ちゃんと山陰道鎮撫のことも載っている。 https://t.co/E21F7uLNPU
明治23年1月23日、新島襄が死去。幕末期に米国に密航した。高久嶺之介「新島襄と京都府政の人々」(『同志社談叢』36、2016年)は、新島が同志社を設立するために行った「大学設立募金運動」についての講演録。京都府知事・北垣国道の積極的な協力があったことなどを紹介。 https://t.co/fvmBlDTyo0
慶応3年7月29日(1867年8月28日)、中岡慎太郎らが土佐藩の白川邸に居を定めた。ここが、陸援隊の屯所とされる。笹川尚紀「土佐藩白川邸・尾張藩吉田邸にまつわる覚書」(『京都大学構内遺跡調査研究年報』2016年度)は、中岡が白川邸を使うに至った経緯などを分析。 https://t.co/yc9PEH3vaJ
須賀忠芳「ストーリー化された歴史観光素材の功罪をめぐって-「幕末会津」をめぐる言説を中心に-」(『観光学研究』17、2018年)は、白虎隊像などの「定番化された「幕末会津」をめぐるストーリー」に関する問題点を、大河ドラマ『八重の桜』の話も交えながら分析する。 https://t.co/HaVdMdT50H
https://t.co/xWWw9iX7LE 高杉東一の『英和新国民大辞書』が国会図書館のデジコレにあることに今日気付いた。山縣さんの揮毫がみれる。
拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に―」(『日本研究所紀要』8号、2016年)では、亀山社中と龍馬の関係、龍馬の長州藩への武器斡旋仲介の真実にも迫ります。 https://t.co/pTir7GrDnX
明治39年10月27日、海江田信義が死去。大村益次郎の殺害犯処刑を直前で停止させた(粟田口止刑事件)。その理由として、笠原英彦「弾正台と行政監察」(『法学研究』72-3)は、大村との確執や守旧的思想ではなく、手続き上の齟齬だと指摘。 https://t.co/nQexpUoYae
熊野秀一「公現法親王の奥羽越列藩同盟における役割について」(『大正大学大学院研究論集』37、2013年)は、輪王寺宮公現法親王が、奥羽越列藩同盟に対して、軍事的象徴、仏法的権威を持つ皇族としての役割を果たしていたとする。 https://t.co/NC4ThImJvC

7 0 0 0 OA 藤公余影

伊藤さんが京都通るたびに霊山登った話は「藤公余影」がソースでいいのかな https://t.co/zPxPvGsqeZ 「明治三十三年初めて公の知遇を忝ふせし以来は、公の官務又は私用を以て京都に過る毎に、未だ曾て一回だも、其先輩にして且恩人たる、木戸公霊山の墓に詣でざる事なし。」
拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に―」(『日本研究所紀要』8号、2016年)は、以下からダウンロード可能です。 https://t.co/in1GB6YkW2
https://t.co/Srql9wezng 伊藤さん談「詰りそれで中村九郎にやられたと云う訳になった。そうして高杉は癇癪を起して西京に飛び出して行ったのだ」割書で来島とケンカして飛び出したんじゃないっけと注記されてますけど、なんか伊藤さんの認識の方が近い気がしてきた。

フォロー(728ユーザ)の投稿一覧(直近7日間)

フォロワー(710ユーザ)の投稿一覧(直近7日間)