k.wada (@wadakogorou)

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RT @shiteki_bungaku: 「俯瞰」の極北へ : 司馬遼太郎「逃げの小五郎」(連作短篇集『幕末』より)論 https://t.co/YZRCvXOd7q #CiNii
RT @kuma_kichi_1Q63: @wadakogorou 「義家ー義親ー為義」とする本が多いのですが、最近は 佐々木 紀一「源義忠の暗殺と源義光」 (山形県立米沢女子短期大学紀要 (45), 19-29, 2009-12) https://t.co/ItwLETbGN…
今度は「無頼漢 木戸僕甚助伝」を書き起こしてみようかな(気が遠くなる
原口清「廃藩置県政治過程の一考察」(『名城商学』第29号別冊 1980年1月)は自分にとって示唆に富んでいてとても為になる論文。 https://t.co/tC13Flu3oB
学生時代に初めて読んだ論文は 渡邊幾治郎「木戸孝允の欧米巡遊と其の成果」(『日本歴史』37号 1951年6月)だったと記憶。 https://t.co/IsJsJlyaLO 明治天皇や大隈重信研究の大家渡邊氏による70年前の論稿で、木戸の欧米巡遊の成果を「漸進主義に依る憲法政治と政治に於ける人民の発見」としています。
国デジを検索していたらこんなものが! 西村天囚 (時彦) 「無頼漢 木戸僕甚助伝」(『維新豪傑談 : 天囚聞書』春陽堂 明治24年8月 ) https://t.co/OVIJkkOPnm 明治24年の時点で広戸甚助の伝記があったことに驚き。甚助が亡くなった直後位かなと思うが、どのような経緯でこれが書かれたのか気になる。

10 0 0 0 OA 維新回顧巨人伝

伊藤痴遊「木戸孝允の任侠」(『維新回顧巨人伝』登美屋書店 大正15年) https://t.co/82ZVPQbzbw https://t.co/Rk9qUNULy6 https://t.co/TRgLuj9CeC
『松菊公遺芳集』とは、出石郡教育会編『維新史蹟但馬出石に隠れたる木戸松菊公遺芳集』(出石郡教育会 昭和7年)のことだと思います。 国デジで読むことができます! https://t.co/VrwzgQu32u

6 0 0 0 OA 木戸松菊先生

あ、内容は勿論これだけではありません。私が以前読んで個人的に気になった点を紹介したに過ぎません。蘇峰の講演を文字起こししたものでページ数も多くないので読みやすいと思います。 因みに国デジでも読めます。 https://t.co/zzT0EKiD9a
参考文献= ジュリオ・アントニオ・ベルテッリ「イタリア海軍大尉カルロ・グリッロの未刊書簡に見る明治初期の日本 (1871−72年)」(『イタリア学会誌 』63 イタリア学会 2013年) https://t.co/Oug7dQ0P7D
こんなの見つけました。 増野弘幸「陶淵明「帰去来兮辞」における雲の表現について」(『大妻国文』41 2010年 大妻女子大学) https://t.co/h1XdN8b4fj 増野氏によれば、「陶淵明の作品において雲は志の高潔さや高貴さの比喰物として扱われている」とのことで、いかにも木戸が好んで用いそうな表現だ。
内山京子「木戸孝允と明治初期の新聞界」は『日本歴史 』727 (吉川弘文館 2008年12月)所収です。 https://t.co/RlEUc031Uz
このような論文もあり、読んでみたい。 太田昭子「アンテナ 岩倉使節団と模擬裁判事件」(『ケース研究』 2019(1) 日本調停協会連合会 2019年) https://t.co/LPsQ55x3Mt
長谷川栄子「岩倉使節団成立過程の再検討-『岩倉具視関係史料』所収の新出書簡を用いて-」(熊本学園大学論集『総合科学』19巻2号 2013年) https://t.co/Fp7Dw3y0TB 2013年に刊行された『岩倉具視関係史料』所収の岩倉使節団編成に関わる数点の新出書簡を分析し使節団成立過程の問題を検討した論稿。
このような論文もありますのでご参考までに。 増野弘幸「陶淵明「帰去来兮辞」における「松菊」の表現について」(『大妻国文』第46号 2015年3月) https://t.co/fHZTdQ1EjY ふと、木戸が萩の村田清風旧宅に「清風松の碑」を建てた行動原理と繋がるものがあると感じました。
RT @ao2yo4: メモ:岩倉具視関係史料の行方 「岩倉使節団成立過程の再検討 -『史料』所収の新出書簡を用いて」長谷川栄子 大隈重信の回顧録などから当初、「大隈使節団」構想があったとする大久保利謙氏の研究。長谷川氏は史料の木戸孝允の書簡などから、継承しつつ新たな仮設を…

お気に入り一覧(最新100件)

「俯瞰」の極北へ : 司馬遼太郎「逃げの小五郎」(連作短篇集『幕末』より)論 https://t.co/YZRCvXOd7q #CiNii
@wadakogorou 「義家ー義親ー為義」とする本が多いのですが、最近は 佐々木 紀一「源義忠の暗殺と源義光」 (山形県立米沢女子短期大学紀要 (45), 19-29, 2009-12) https://t.co/ItwLETbGN5 をもとに 「義家ー為義」を採用する人も多いのです。
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去。何者かに暗殺されたが、真犯人は不明。当時、明治政府の参議を務めていた長州藩出身者は、広沢と木戸孝允だけだった。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、事件捜査に関する通説を再検証。 https://t.co/XCToPjhXws
図は、大阪会議当時、木戸孝允自身が書いた「政府改革図案」。 この図の枠組みを基礎として、明治8年4月14日に「立憲政体樹立の詔」が発せられました。 (国立国会図書館デジタルアーカイブ https://t.co/M97v6r9kq5 より)

10 0 0 0 OA 中外医事新報

私が大変お世話になってる論文がネットで読めるようになってた 兵助の暗殺についてお医者さんがまとめてくれた論文です https://t.co/no5Brm1r1P
慶応2年2月5日(1866年3月21日)、木戸孝允の手紙(薩長同盟の6か条)に、坂本龍馬が内容を保証する裏書きをした。町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、龍馬が長州藩要路の一部から薩摩藩士と見られていた点が意味を持った。 https://t.co/Vz75SjD6eh
明治33年1月5日、秋月悌次郎が死去。幕末の会津藩出身で、文久3年8月18日政変の立役者の1人。明治期に熊本で教師となり、同僚の小泉八雲から敬愛された。中西達治「会津藩降伏と秋月悌次郎」(『金城学院大学論集 人文科学編』16-1)は、戊辰戦争の会津藩降伏の時期を分析。 https://t.co/P4r2WqcGQY
奥中康人「岩倉使節団が見聞した西洋音楽」(『待兼山論叢』33、1999年)は、明治政府が国家プロジェクトとして西洋音楽を教育に導入したことで、人為的に西洋音楽が日本に普及したと指摘し、その意味で岩倉使節団の西洋音楽体験を重視する。 https://t.co/98cIxpbapJ
上田長生「維新期陵墓政策の特質と展開」(『待兼山論叢 史学篇』42)は、幕末期に創出された陵墓が、近代天皇制の形成と共にどのように管理されたのか、神仏分離の内実を含めて分析。上田氏の著書『幕末維新期の陵墓と社会』(思文閣出版、2012年)第1部第4章に結実。 https://t.co/UBwoYsJ6Oq
明治15年8月9日、大島友之允が死去。幕末の対馬藩士で、木戸孝允と親しかった。沈箕載「幕末期の幕府の朝鮮政策と機構の変化」(『史林』77-2)によれば、朝鮮進出(征韓)を主張し、対馬藩への財政援助を幕府に要求する運動に積極的で、幕閣に働きかけを行った。 https://t.co/i7A1xGyx34
明治18年3月23日、亀井茲監が死去。幕末の津和野藩主で、明治初年の神祇行政を担った。岩谷泰之「森鴎外と仏教」(『大正大学大学院研究論集』42)は、亀井家典医の家に生まれた森鴎外について、その思想形成上の茲監の影響を、茲監が仏教を排除した点に着目しつつ分析。 https://t.co/5n9FZJgKpD
国立国会図書館のデジタルで「山口史蹟概覧 皇政復古七十年記念」を見つけて、かぶりつきで読んでる。山口市役所発行 そうとう、面白い。各支藩のあった場所とか、諸隊会議所の場所とか まだ、あのころの記憶を持った人たちが生きている時代だからくわしい https://t.co/g6EWjdAmE5
明治26年9月26日、光妙寺三郎(光田三郎)が死去。幕末の長州藩出身で、西園寺公望や中江兆民とはパリの留学仲間。留学中、岩倉使節団で渡欧した木戸孝允を度々訪問。「決闘は文明の花なり」と論じた(手塚豊「光妙寺三郎の決闘是認論及び「決闘条規」」『法学研究』43-8)。 https://t.co/RGUjMXTXEj
PDFあり。木戸孝允表象の変遷についての論考。 ⇒髙橋小百合 「元勲から色男へ : 木戸孝允表象と視覚メディア」 『層 : 映像と表現』11 (2019.3) https://t.co/SzWxjOuVKo
"CiNii 論文 -  元勲から色男へ : 木戸孝允表象と視覚メディア" https://t.co/kjoiyLo2d0 ※本文リンクあり
昭和6年2月24日、久米邦武が死去。日本の歴史学の先駆者で、大隈重信の親友。杉谷昭「和魂漢才から和魂洋才へ」(『純心人文研究』12)は、久米が岩倉使節団の報告書『米欧回覧実記』執筆のため玉虫左太夫(万延元年遣米使節に参加)の『航米日録』を参考にしただろうと指摘。 https://t.co/fAJuZHAF2P
あまり知られていないけれど、鳥羽伏見で負けていたら、天皇を山陰道に逃がす手筈で、そのルートを確保しに行ったのは西園寺公望。彼の伝記には、ちゃんと山陰道鎮撫のことも載っている。 https://t.co/E21F7uLNPU
木戸孝允も見たポンペイの石膏遺体――「古死屍」(『米欧回覧実記』)の銅版画とオリジナルのステレオスコープ写真については、藤沢桜子氏のきわめて興味深い論文をネット上で読めた。緻密な実証による発見、多分野に及ぶ示唆に富んで、私のような素人にもとても面白かった。https://t.co/tVuuxxv3I6
明治32年9月26日、大木喬任が死去。幕末の佐賀藩出身で、明治期に東京府知事、文部大臣、司法大臣などを歴任。湯川文彦「明治初年の民政改革における〈教育〉の台頭」(『日本の教育史学』58)は、学制公布時の文部卿・大木の、民政経験を活かした教育への取り組みを分析。 https://t.co/V3ejpVtAby
渡邊忠司「王政復古期の京都警固体制」(『鷹陵史学』40、2014年)は、慶応3年12月の王政復古で旧幕府の京都市中の治安維持組織が解体し、早急な対応を必要とした新政府の思惑と、「主君」を失った元与力・同心たちの求職意識が合致したことによる警察機構の整備過程を分析。 https://t.co/RnoaLMdZhO
メモ:岩倉具視関係史料の行方 「岩倉使節団成立過程の再検討 -『史料』所収の新出書簡を用いて」長谷川栄子 大隈重信の回顧録などから当初、「大隈使節団」構想があったとする大久保利謙氏の研究。長谷川氏は史料の木戸孝允の書簡などから、継承しつつ新たな仮設を描く。 https://t.co/3eji0YuiOn

116 0 0 0 OA 大隈伯演説座談

大隈重信の、木戸孝允を語るときの熱量と、西郷を語るときのそれを比べてみるのも面白いですねw木戸公はリベラル https://t.co/pNPCqKhhxo https://t.co/kEX5cJRupa
明治28年3月13日、長三洲が死去。幕末期は広瀬淡窓の咸宜園で学んだ後、長州藩に身を寄せて奇兵隊に参加し、戊辰戦争で各地を転戦。木戸孝允と親しかった。関口直佑「明治初頭における長三洲」(『社学研論集』18、2011年)によれば、「学制」発布に重要な役割を果たした。 https://t.co/6Y3iZWjHEI
黄 逸「岩倉使節団とバーリンゲーム使節団に関する先行研究についての考察」(『文化交渉 東アジア文化研究科院生論集』7、2017年)は、岩倉使節団と、その3年前に清国から欧米諸国に派遣された使節団(北京駐在の米国公使バーリンゲームが率いた)の、比較研究の必要を指摘。 https://t.co/AytmRZzcPV
J-STAGE Articles - 萩藩文久改革期の政治組織 : 政事堂の創設と両職制の改編 https://t.co/8szpPwBbm8 76頁と79頁の概念図は印刷して取っておきたいなあ
J-STAGE Articles - 維新後における大久保利通の政治上の人間関係 https://t.co/U4jEJ5SnLj 木戸さんの日記と照らし合わすと楽しそう #メモ
関口直佑「明治初年の文部行政と辻新次」(『社学研論集』14、2009年)は、従来は明治初年の教育行政研究が、初代文部卿の大木喬任など指導的人物の考察が主で、辻のような実務官僚の研究は不足だと指摘。大木については島内嘉市『大木喬任』(アピアランス工房)など。 https://t.co/fnVEnVaQHO
https://t.co/lMhaLqMDfm この論文読んできたんですけど、今まであんまり語られてこなかった10代~の桂小五郎がしっかり考察されててすごく良かった……!こういうテイストで一冊読みやすい入門書というか簡易伝記みたいなのほしい!

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