町田 明広 (@machi82175302)

投稿一覧(最新100件)

安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。 https://t.co/4aFWiVXKcV………
RT @1414bakumatu: [港区芝5]お盆休みその③。幕末と豚。ネットで論文『江戸時代における豚の飼育と薩摩藩』(井上忠恕)に出会いました。1995年からの江戸・薩摩藩上屋敷(現NEC本社一帯)発掘調査で出土した獣骨から藩邸で豚の飼育がされていたことなどを論考されてい…
RT @lalan1858: 「江戸藩邸毎日記」が、去年、家からでも閲覧できるようになっていたのか。 関連してメモのため、↓これも貼っておきます。 「対⾺宗家文書の可能性」 https://t.co/8jt1Z0te3g
宮間純一さんから『明治太政官文書を対象とした分散所在史料群の復元的考察に基づく幕末維新史料学の構築』(東京大学史料編纂所研究成果報告、JSPS科研費研究成果報告書)をご恵贈いただきました。ありがとうございました。貴重な成果報告、じっくり勉強させていただきます。 https://t.co/iHwourvDKY
続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co/nAmxbsUysz………
今からちょうど158年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)で詳述。 https://t.co/nAmxbsUysz……
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https://t.co/A65OnLvEDg……
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnLvEDg……
RT @machi82175302: 拙稿「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英戦争を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』15号)は「KUIS学術情報リポジトリ」で公開されました。 https://t.co/AMFvBExx7b
拙稿「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英戦争を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』15号)は「KUIS学術情報リポジトリ」で公開されました。 https://t.co/AMFvBExx7b
拙稿「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要11号、2019年)はこちらで!https://t.co/wcj78NXwo7…
RT @ishihara_shun: 紀要廃止論への応答として。 リンクのようなインタビュー記録も、紀要だからこそ、後世の当事者や研究者が利用可能な形にできました。 石原俊 西村怜馬 羽切朋子 羽切学「硫黄島民1世・川島フサ子さんのライフヒストリー ─幼少期の生活経験から戦時強…
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。手前みそだが、幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://t.co/qtxOT4NEf0……
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/qtxOT4NEf0……
今からちょうど157年前、慶応2年2月3日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を伴ひ、山口に帰る」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要9号、2017年)を参照下さい。https://t.co/A65OnLvEDg……
RT @zasetsushirazu: 知野文哉氏の博士論文「土佐明治維新史とその歴史意識の形成-坂本龍馬を中心に-」。読み応えがある。 なお知野氏には、著書『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)や、論文「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)、「瑞山会考」(『土佐史…
今からちょうど158年前、元治1年12月28日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。本件については、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』2016.3)参照。https://t.co/bR9OnAPPKD……
安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。 https://t.co/4aFWiVFAYN……
拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv……
今からちょうど158年前、元治1年12月2日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016.3)を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv……
RT @zasetsushirazu: 嘉永6年9月15日(1853年10月17日)、幕府は大船建造の禁止令を解禁した。下記リンクは、幕末の仙台藩が建造した洋式帆船に関する論考や史料を収録した、佐藤大介・黒須潔・井上拓巳編著『仙台藩の洋式帆船開成丸の航跡』(東北大学災害科学国際…
RT @bookslope: 今日10月14日は #大政奉還 の日だ。 #大政奉還 の前には #大政委任 というのがあるべきだが、そのへんのことは町田明広 @machi82175302 先生の論文『元治国是の確立と大政委任』を読むべし。 #町田明広 https://t.co…
続き)このあたり、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に― 」を参照ください。以下、ダウンロードも可能です。https://t.co/in1GB6HhU2……
続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co/nAmxbsUysz……
今からちょうど157年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)で詳述。 https://t.co/nAmxbsUysz…
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https://t.co/A65OnLvEDg…
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnLvEDg…
RT @zasetsushirazu: 町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)曰く、薩摩藩は抗幕姿勢を貫くためにパートナーとしての英国との関係を重視していて、一旦ぎくしゃくした両者の関係を改善するためにも、英国公使パークス…
RT @zasetsushirazu: 明治39年4月8日、長岡護美(長岡雲海、長岡良之助)が死去。肥後熊本藩主・細川斉護の子で、熊本藩を代表する人物。明治期、オランダ公使などを歴任。呉永台「幕末期肥後藩の中央政治参加への試み」(『年報地域文化研究』18)は、文久2年までの長岡…
RT @zasetsushirazu: 慶応4年3月15日(1868年4月7日)、幕臣・川路聖謨が死去。ロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、勘定奉行などを歴任した幕臣。戊辰戦争の中、短銃で自殺。濱野靖一郎「漢学的政治学の実践」(『年報政治学』69-1)は、川路を「幕末期の侍…
RT @zasetsushirazu: 平成5年(1993年)3月19日、歴史家の吉田常吉が死去。著書に『安政の大獄』(吉川弘文館)や『井伊直弼』(吉川弘文館)などがある。死後に刊行された『幕末乱世の群像』(吉川弘文館)は既発表の論考の再録で、小泉雅弘氏の書評(『駒沢史学』49…
RT @zasetsushirazu: 明治6年3月14日、日本人と外国人の結婚について定めた内外人婚姻規則が、太政官布告第103号として公布された。小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)曰く、国際結婚の問題は、条約改正の議論の中で論点となった内地雑居の問題に…
RT @zasetsushirazu: 明治23年3月9日、尾崎忠征(尾崎八右衛門)が死去。幕末の尾張藩出身で、徳川慶勝に重用された。佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205)は、尾崎が近衛忠煕と緊密に連携し、「尾張藩と朝廷をつなぐ役割」を果…
RT @zasetsushirazu: 慶応2年1月21日(1866年3月7日)は、町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、18日に小松帯刀・木戸孝允らの会談で概要が決まった薩長同盟の内容を、坂本龍馬(長州藩から薩摩藩士と認識されてい…
RT @zasetsushirazu: 明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去。何者かに暗殺されたが、真犯人は不明。当時、明治政府の参議を務めていた長州藩出身者は、広沢と木戸孝允だけだった。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、事件…
RT @zasetsushirazu: 波田永実「別格官幣社再考」(『流経法學』20-2、2021年)曰く、明治維新に際して、「「御一新」 を実感させ将軍や大名に勝る天皇の絶対的な尊貴性とその意思を「国民」に分かりやすく「可視化」する」手段の1つが、湊川神社など「別格官幣社の創…
RT @zasetsushirazu: 大正2年2月17日、坂崎紫瀾(坂崎斌)が死去。坂本龍馬を主役に据えた小説『汗血千里の駒』の作者で、瑞山会の『維新土佐勤王史』の執筆も担当した。知野文哉「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)は、土佐の維新史を語る上での坂崎の…
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://t.co/qtxOT4NEf0…
RT @zasetsushirazu: 文久2年12月22日(1863年2月10日)、国学者・塙忠宝(塙次郎)が死去。塙保己一の長男で、『続群書類従』などを編纂した。久田信行「盲唖学校の成立と山尾庸三(補遺)」(『群馬大学教育実践研究』31)は、伊藤博文と山尾庸三が塙を暗殺した…
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/qtxOT4vv0S…
今からちょうど156年前、慶応2年2月3日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を伴ひ、山口に帰る」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要9号、2017年)を参照下さい。https://t.co/A65OnLvEDg…
RT @zasetsushirazu: 明治29年2月2日、川田甕江が死去。幕末期に板倉勝静(幕府の老中を務めた)に仕えた漢学者で、明治期に修史局などに出仕し、東京大学教授にも就任。古賀勝次郎「安井息軒の門生たち(2)」(『早稲田社会科学総合研究』10-3)は、近代史学の形成に…
RT @zasetsushirazu: 昭和7年1月31日、穂積歌子が死去。渋沢栄一の長女で、法学者の穂積陳重と結婚。穂積重行編『穂積歌子日記』(みすず書房)がある。同書に関する書評(『史学雑誌』101-4)の中で佐々木隆氏は、歌子が政治に対する豊富な知識と理解力を有していたで…
RT @zasetsushirazu: 明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に加盟(大隈重信、江藤新平らも一緒)。大隈と共に原市之進への大政奉還提案を試みたことがある。後藤新「台湾出兵の一考察」(『武蔵野法学』12)は、外務卿…
RT @zasetsushirazu: 酒入陽子「戊辰戦争における彦根藩戦死者顕彰碑考」(『滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要』54、2021年)は、東京都世田谷区の豪徳寺(彦根井伊家の菩提寺で、井伊直弼の墓もある)にある、戊辰戦争で大鳥圭介ら旧幕府軍と戦って死んだ彦根藩士たち…
RT @zasetsushirazu: 明治34年1月20日、伊藤圭介が死去。1803年〜1901年まで生きた日本初の理学博士。遠藤正治ほか「神田外語大学附属図書館所蔵シーボルト編/伊藤圭介・賀来佐之録「日本植物目録」について」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)は、植物学を学…

16 0 0 0 OA 維新日乗纂輯

RT @zasetsushirazu: 明治24年1月12日、妻木頼矩(妻木多宮、妻木田宮、妻木棲碧)が死去。幕末の幕臣で、鳥羽・伏見の戦いの後、大坂城を新政府に引き渡す役目を担った。大塚武松編『維新日乗纂輯』第3巻(日本史籍協会)に、「妻木頼矩手記 戊辰正月大坂城引渡始末」が…

3 0 0 0 OA 書評

RT @zasetsushirazu: 家近良樹氏による、良樹『近世京都・大坂の幕府支配機構』(清文堂出版)の書評PDF。『社会経済史学』82-3。 https://t.co/46Q4laQrix
RT @zasetsushirazu: 文化4年12月1日(1807年12月29日)、儒学者の柴野栗山が死去。尾藤二洲・古賀精里と共に「寛政三博士」と呼ばれる。伊能秀明・勝見知世「明治大学図書館蔵・長久保赤水「新刻日本輿地路程全図」の柴野栗山序文について」(『図書の譜』25、2…
今からちょうど15年前、元治1年12月28日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。本件については、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』2016.3)参照。https://t.co/bR9OnAPPKD…
安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。https://t.co/4aFWiVXKcV…
RT @zasetsushirazu: 明治20年12月19日、吉原重俊が死去。幕末の薩摩藩が派遣した第2次海外留学生。イエール大学に初めて入った日本人で、後に日本銀行の初代総裁。吉原重和「新島襄と吉原重俊(大原令之助)の交流」(『新島研究』104)は、米国留学中の吉原と同じく…
RT @zasetsushirazu: 明治5年11月16日(1872年12月16日)、岩倉使節団がパリに到着。福井憲彦「岩倉使節団の見たパリ」(『学習院史学』34)は、使節の一員だった久米邦武の『米欧回覧実記』にパリがどのように描かれているか、また当時のパリがどんな状態だった…
RT @zasetsushirazu: 明治25年12月14日、黒田麹廬が死去。幕末の膳所藩出身で、『ロビンソン・クルーソー』を初めて邦訳した。堀井健司「幕末維新期における版権についての一考察」(『出版研究』40)は、福沢諭吉の『西洋事情』を黒田が勝手に改訂したという『増補和解…
拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAPPKD…
RT @zasetsushirazu: 大正9年12月9日、岡谷繁実が死去。幕末の館林藩士で、幕府による長州征伐の回避に向けて活動した時期がある。著書『名将言行録』は、井上泰至「近世軍書の研究に対するアメリカ日本研究の有効性」(『国際日本文学研究集会会議録』29)曰く、「近世軍…
RT @zasetsushirazu: 安政6年11月14日(1859年12月7日)、浮田一蕙が死去。ペリー来航の際に「神風夷艦を覆するの図」を描いた絵師。安政の大獄で投獄された。中谷伸生「浮田一蕙「長篠合戦図」」(『関西大学博物館紀要』9、2003年)は、従来の研究では「勤皇…
RT @zasetsushirazu: 昭和21年(1946年)12月5日、歴史家の大塚武松が死去。遺稿集『幕末外交史の研究』(宝文館)がある。時野谷勝が同書の書評(『史林』35-4)で「殆ど全生涯を地味な史料編纂事業に打込み」云々と評したように、日本史籍協会の『渋沢栄一滞仏日…
RT @zasetsushirazu: 明治13年12月4日、鮫島尚信が死去。幕末の薩摩藩英国留学生の1人で、外交官として活躍。下記リンクでPDFを閲覧できる御幡真人「洋書を追いかけて(後編)サムライ・帝国図書館・神秘主義」(『国立国会図書館月報』727、2021年)は、図書館…
今からちょうど157年前、元治1年12月2日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016.3)を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv…

5 0 0 0 OA 史籍雑纂

RT @mitsuha001: 次は平井収二郎『隈山春秋』。土佐勤王党の平井収二郎の在京日記で、武市の在京日記と見比べて読むと楽しいです。岡田以蔵が大坂で麻疹にかかった際の「30歳以下でかからない者は居ない」の記述はこちらに載ります。『史籍雑纂』第5にあり、国デジオンラインで読…
RT @zasetsushirazu: 大正11年11月10日、中島永元が死去。肥前佐賀藩出身で、幕末期には大隈重信らと共に長崎に遊学し、フルベッキに学んだ。松谷昇蔵「内閣制度導入前後における文部官僚」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』66、2021年)は、学校経営の前歴を持…
RT @zasetsushirazu: 平野隆「明治前期東京における財界の形成とその性格」(『近代日本研究』6)曰く、東京商法会議所は明治10年、渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三野村利助・大倉喜八郎・渋沢喜作・竹中邦香・米倉一平により、東京府知事・楠本正隆に願書が提出され、翌年…
RT @zasetsushirazu: 昭和56年(1981年)11月3日、経済史研究者の堀江英一が死去。主な著書の1つに『明治維新の社会構造』(有斐閣、1954年)があり、『堀江英一著作集』全4巻(青木書店)の第1巻に所収。朝尾直弘氏の書評(『史林』38-2)があり、『朝尾直…
RT @zasetsushirazu: 安政6年10月7日(1859年11月1日)、頼三樹三郎が死去。梅田雲浜らと交流し、安政の大獄で処刑された。遺体は大橋訥庵が埋葬。任萌萌「頼三樹三郎が頼山陽を偲ぶ詩」(『比較日本文化学研究』14、2021年)は、文人としての面に着目し、父・…
RT @zasetsushirazu: 明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢と…
RT @zasetsushirazu: 重田麻紀「毛利家家臣による知行地支配の基礎的考察」(『駿台史学』171、2021年)は、元治甲子戦争(禁門の変)の責任者として切腹した幕末期の当主・益田親施(益田右衛門介)が有名な、長州藩の永代家老・益田家について、家臣団や知行地をめぐる…

13 0 0 0 OA 漂民御覧之記

RT @zasetsushirazu: 寛政5年9月18日(1793年10月22日)、漂流した末にロシアで数年を過ごして帰国した大黒屋光太夫が、将軍・徳川家斉や松平定信に謁見。光太夫は、ロシアで知られている日本人として、桂川甫周(その場にいた)と中川淳庵の名前を挙げた。桂川甫周…
RT @zasetsushirazu: 慶応元年8月26日(1865年10月15日)、薩摩藩の新納久脩と五代友厚らがブリュッセルで、フランス貴族モンブランを相手にベルギー商社計画と呼ばれる契約を調印(ベルギー政府の証人が立ち会い)。宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(『…
RT @zasetsushirazu: 明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、聖謨が自殺した後、川路家当主になる孫の川路太郎が海外留学から戻るまで、家を守らなければならなかった。井上勲「史料紹介 川路高子『上総日記』解題」(『学習院大学史料館紀要』…
RT @a_iijimaa1: 前にも紹介した1931年の科学演劇(小学校理科)脚本。全部で30本の脚本があり、思わず笑っちゃう落語風のものもあれば、『青い鳥』を思わせるものや、ロシア民話風のものもあって、とても面白い。1本15分くらいで上演できる感じ。 https://t.c…
RT @MtIkoma630: @machi82175302 1866年に八丈島の島民34人が東沙(プラタス)島に漂流し上陸、中国漁船に救助され香港に運ばれ、香港政庁の保護を受け、翌年イギリス商船で横浜に送還された、という史実を初めて知りました。https://t.co/uS1…
RT @zasetsushirazu: 伊故海貴則「明治維新期地域社会における「多数決」導入」(『立命館大学人文科学研究所紀要』124、2020年)は、静岡県駿河国地域では、地租改正によって「総員の納得できる合意は事実上、不可能」と認識され、「合意形成の一手段として「多数決」が…
RT @zasetsushirazu: 明治17年9月15日、安達清風が死去。幕末の鳥取藩出身で、磯田道史「幕末維新期の藩校教育と人材登用」(『史学』71-2・3)によれば、「藩内きっての俊英」であり、藤田東湖の影響を受けて能力主義による人材登用の必要性を主張した。徳川慶喜の側…
続き)このあたり、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に― 」を参照ください。以下、ダウンロードも可能です。https://t.co/in1GB6YkW2…
RT @zasetsushirazu: 昭和14年9月7日、渡辺蒿蔵(天野清三郎)が死去。吉田松陰の松下村塾門下生の、最後の生き残り。幕末期には奇兵隊にも加入した。海外留学して帰国した後、造船技術者として活躍。牛見真博「近代造船の先駆者・渡辺蒿蔵(下)」(『大島商船高等専門学校…
RT @zasetsushirazu: 文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。成島柳北の祖父で、第12代将軍・徳川家慶に信任された儒学者。『徳川実紀』を編纂した。藤實久美子「徳川実紀の編纂について」(『史料館研究紀要』32)曰く、実紀の編纂に成島を推薦したの…
RT @zasetsushirazu: 明治27年9月2日、柳原前光が死去。幕末の公家で、明治期には主に外交官として活躍。皇室典範の起草にも関与したが、笠原英彦「明治皇室典範の制定過程と柳原前光」(『法学研究』91-12)によれば、皇室典範に「譲位」を規定しようとした柳原案は伊…
RT @zasetsushirazu: 明治31年8月27日、島田篁村(島田重礼)が死去。幕末期に昌平黌で助教を務めた儒学者で、明治期には東京帝国大学教授などを務めた。古賀勝次郎「安井息軒を継ぐ人々(3)」(『早稲田社会科学総合研究』11-1)曰く、明治以降の儒学の衰退を憂慮し…
RT @zasetsushirazu: 安政5年7月16日(1858年8月24日)、島津斉彬が死去。西郷隆盛が慕った薩摩藩主で、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、斉彬は「優秀な蘭学者たちと交流しながら蘭書を翻させ、その知識…

22 0 0 0 OA 斃休録

RT @kokeshinookimon: 彰義隊は成一郎と天野八郎のあいだで内部対立があって、成一郎たちは彰義隊と袂を分かつ。天野の史料については以下のものがある。 https://t.co/fhAd4Sc4RQ
RT @zasetsushirazu: 明治3年7月19日(1870年8月15日)、小松帯刀が死去。7月18日もしくは20日死去とする説もある。幕末の薩摩藩家老で、島津久光が不在の場では名代を務めた、幕末政局の重要人物。根占献一「小松帯刀と新時代」(『学習院女子大学紀要』21)…
RT @zasetsushirazu: 慶応2年6月18日(1866年7月29日)、西郷隆盛が寺島宗則らを伴い、鹿児島滞在中の駐日英国公使パークスと会談した。町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)によれば、「薩英間の本格的…
RT @zasetsushirazu: 明治22年7月19日、杉田玄端が死去。岩瀬忠震の推挙で蕃書調所に出仕した医師・蘭学者で、その後は外国奉行支配翻訳御用頭取や沼津陸軍医学所頭取などを務めた。鈴木敏夫「江戸時代における養生書の研究」(『北海道大学教育学部紀要』22)は、杉田の…

43 0 0 0 OA 猪飼勝三郎届書

RT @kokeshinookimon: 国会図書館憲政資料室所蔵「川村正平(恵十郎)関係文書」の「猪飼勝三郎届書」。 平岡円四郎が刺客に襲われたことを知らせる史料。 渡辺甲斐守の旅籠よりの帰路に襲われ、深手を負ったとある。 https://t.co/jPxUBSIutI #青…
RT @zasetsushirazu: 慶応3年5月24日(1867年6月26日)、兵庫開港が勅許。青山忠正「通商条約の勅許と天皇」(『佛教大学歴史学部論集』5)曰く、2年前の条約勅許で「現実に行われている外交・貿易と、その事実を国家のトップが認めていないというねじれ構造は解消…
RT @zasetsushirazu: 1900年6月23日、レオン・ロッシュが死去(異説あり)。幕末の駐日フランス公使。略歴について、西堀昭「第2代日本駐箚フランス公使ミッシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Leon Roches…
RT @rekishi_info: 恐らく、今回の青天を衝けの薩摩藩の動きは、町田明広先生の『慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―』(神田外語大学日本研究所紀要)が参考になりそうです! https://t.co/upjt9qfq5i #青天を衝け

10 0 0 0 OA 中外医事新報

RT @yaduki_bm: 私が大変お世話になってる論文がネットで読めるようになってた 兵助の暗殺についてお医者さんがまとめてくれた論文です https://t.co/no5Brm1r1P
RT @TatsuUwa: 今日は来島又兵衛も登場。来島を狙撃したのは川路利良と聞いたことがあります。個人的な話ながら私は来島の生誕地近くで育ちまして、現在生誕地には石碑があります。長州の馬屋原二郎が大正になり語った『元治甲子禁門事変実歴談』 はなかなか面白いです。 #青天を衝…
RT @zasetsushirazu: 慶応2年1月8日(1866年2月22日)、木戸孝允が上京。薩長同盟に繋がるが、手引きした薩摩藩士・黒田清隆の行動は、独断によるものだった可能性が高い。町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)、同『薩長…
続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co/nAmxbsCper…
RT @zasetsushirazu: 明治5年4月16日(1872年5月22日)、砲術家の村上範致(村上定平)が死去。幕末の田原藩出身で、渡辺崋山に期待され、高島秋帆に師事した。幕府の講武所にも招聘された。鵜飼尚代・佐久間永子「村上範致と著述古記録に関する基礎研究」(『名古屋…
RT @zasetsushirazu: 文久2年4月23日(1862年5月21日)、寺田屋事件が発生。京都所司代襲撃などを企図した有馬新七らと、島津久光が鎮撫のため派遣した大山綱良らが薩摩藩士どうしで斬り合った。工藤憲一郎「藩屏概念の具現化をめぐる相剋」(『国士舘大学政経論叢』…
RT @zasetsushirazu: 明治44年5月13日、谷干城が死去。幕末の土佐藩出身で、坂本龍馬とも交流があった。中野目徹氏は、小林和幸『谷干城』(中公新書、2011年)の書評(『史学雑誌』122-8に掲載)で、西南戦争での活躍や貴族院の重鎮としての立場など重要人物であ…
RT @zasetsushirazu: 安政5年3月24日(1858年5月7日)、幕臣の岩瀬忠震と福井藩の橋本左内が、初めて会った。その後、交流は活発になり、「外交問題や一橋派の運動を通じて、両者は信頼できる同志」になった(別所興一「幕末・維新期の対外観の転回」『愛知大学綜合郷…
RT @zasetsushirazu: 明治29年5月6日、高崎五六(高崎猪太郎)が死去。町田明広「第一次長州征伐における薩摩藩」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)及び同『薩長同盟論』(人文書院)曰く、元治元年に岩国領主・吉川経幹に対して、長州征伐を寛典処分とする薩摩藩・島津…
RT @BungakuReportRS: 佐古 愛己 - 京都府立京都学・歴彩館所蔵『(東坊城家)和書目録』、『(東坊城家)漢書目録』 (青山忠正先生・今堀太逸先生 退職記念号) https://t.co/oZEH8whZSy
今からちょうど156年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)で詳述。 https://t.co/nAmxbsCper
RT @zasetsushirazu: 明治6年4月9日、広沢健三が死去。初期の明治政府で、木戸孝允と並ぶ長州藩出身の大物だった広沢真臣の子。米国留学中、 19歳の若さで病死した。重松優「広沢真臣の子,健三のアメリカ留学について」(『学苑』930、2018年)は、明治初年の教育…

お気に入り一覧(最新100件)

[港区芝5]お盆休みその③。幕末と豚。ネットで論文『江戸時代における豚の飼育と薩摩藩』(井上忠恕)に出会いました。1995年からの江戸・薩摩藩上屋敷(現NEC本社一帯)発掘調査で出土した獣骨から藩邸で豚の飼育がされていたことなどを論考されています。ぜひご一読を♪  https://t.co/jLipbOHmeW
明治39年4月8日、長岡護美(長岡雲海、長岡良之助)が死去。肥後熊本藩主・細川斉護の子で、熊本藩を代表する人物。明治期、オランダ公使などを歴任。呉永台「幕末期肥後藩の中央政治参加への試み」(『年報地域文化研究』18)は、文久2年までの長岡を幕末政治史の中で分析。 https://t.co/0c8kMnH8KD

8 0 0 0 OA 佐川町誌

『佐川町史』に那須盛馬の書翰がほぼ全文含まれています。平尾道雄は一部使っていますが、あまり知られていないものなのでは。西郷の一存で田中光顕が薩摩藩に召し抱えられたことなどが書かれており、興味深い。 https://t.co/qovq1zFYCs
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去。何者かに暗殺されたが、真犯人は不明。当時、明治政府の参議を務めていた長州藩出身者は、広沢と木戸孝允だけだった。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、事件捜査に関する通説を再検証。 https://t.co/XCToPjhXws
波田永実「別格官幣社再考」(『流経法學』20-2、2021年)曰く、明治維新に際して、「「御一新」 を実感させ将軍や大名に勝る天皇の絶対的な尊貴性とその意思を「国民」に分かりやすく「可視化」する」手段の1つが、湊川神社など「別格官幣社の創建と列格であった」。 https://t.co/9LmSF3xjdt
文久2年12月22日(1863年2月10日)、国学者・塙忠宝(塙次郎)が死去。塙保己一の長男で、『続群書類従』などを編纂した。久田信行「盲唖学校の成立と山尾庸三(補遺)」(『群馬大学教育実践研究』31)は、伊藤博文と山尾庸三が塙を暗殺したことは「ほぼ確実」とする。 https://t.co/WwIBcyl1u9
清水光明「昌平黌儒者・古賀侗庵の意見書」(『明星大学研究紀要 人文学部 日本文化学科』28、2020年)は、従来の研究で知られていない古賀侗庵の意見書には「天保改革期の政治史・思想史・文学史に関する重要な内容」が含まれ、幕末の尊王思想の出版・流通に影響したとする。 https://t.co/EhhpgFCIZ2
宮澤歩美「維新期江戸における譜代藩の「大勢挽回」運動」(『國學院大學大学院紀要 文学研究科』52、2021年)は、大政奉還後の譜代諸藩の江戸における上洛命令拒否・徳川慶喜助命嘆願運動を、先行研究(鈴木壽子『幕末譜代藩の政治動向』同成社など)とは異なる視点で分析。 https://t.co/rPvepmHFXv
明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢との対立にまつわる疑惑の研究。 https://t.co/TirYg23gSe
重田麻紀「毛利家家臣による知行地支配の基礎的考察」(『駿台史学』171、2021年)は、元治甲子戦争(禁門の変)の責任者として切腹した幕末期の当主・益田親施(益田右衛門介)が有名な、長州藩の永代家老・益田家について、家臣団や知行地をめぐる基礎的事項を分析。 https://t.co/YNYZJxD74Y
文久3年9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍軍人カミュが、横浜で殺害された(井土ヶ谷事件)。沢護「井土ヶ谷事件と遺仏使節池田筑後守」(『千葉敬愛経済大学研究論集』29)曰く、事件はフランスに対して、横浜居留地防衛のための軍隊を常時駐屯させる口実を与えた。 https://t.co/c1B7vDDuHO
明治31年7月5日、神田孝平が死去。蕃書調所・開成所で教授を務めた洋学者で、兵庫県令などを歴任。南森茂太「「政體書」体制時代における神田孝平の地方制度論」(『経営と経済』99(1-4))曰く、議事体裁取調所総裁の山内容堂の下で、政策ブレーンとして働いた時期もある。 https://t.co/qv04A8yVtp
明治10年6月26日、儒学者・山田方谷が死去。幕末の老中・板倉勝静(備中松山藩主)のブレーンで、対馬藩の大島友之允が財政援助要求を幕府に建白する際、全面的に協力した。木村直也「元治元年大島友之允の朝鮮進出建白書について(上)」(『史学』57-4)参照。 https://t.co/vq1KowVlAU
麓慎一「明治初期のサハリン島問題とパークス」(『環日本海研究年報』24)によれば、英国公使パークスは、「明治政府に穏健なサハリン島政策の選択を求めた」。その一方でパークスは、「ロシアによる日本の北方地域への脅威は限定的なものと考えるようになった」とする。 https://t.co/oqOTLCK6rl

10 0 0 0 OA 中外医事新報

私が大変お世話になってる論文がネットで読めるようになってた 兵助の暗殺についてお医者さんがまとめてくれた論文です https://t.co/no5Brm1r1P
明治15年5月25日、後藤碩田(今四郎、真守)が死去。幕末期に小河一敏、宮部鼎蔵、松村大成らと交流を持ち、後藤重巳「幕末期京都情報の流布をめぐって」(『別府大学紀要』38)曰く、「豊後における勤王運動の経済的支柱」。蒐集した史料を『碩田叢史』として編纂。 https://t.co/BOy4PMLO3C
昭和54年(1979年)5月17日、平尾道雄が死去。幕末維新の土佐藩や坂本龍馬などの研究で知られ、その一連の研究は良くも悪くも、「今日まで土佐藩研究の礎と評される」(笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」『京都産業大学日本文化研究所紀要』26、2021年)。 https://t.co/WvTSa3GYHr
大賀郁夫「幕末期譜代延岡藩の風聞探索活動」(『宮崎公立大学人文学部紀要』28-1、2021年)は、文久2年の延岡藩の探索活動を分析。重視された藩は島津久光の率兵上京があった薩摩藩、熊本藩、小河一敏が注目された岡藩。また、唐津藩世子の小笠原長行への評価が高いという。 https://t.co/hJiJDASYtl
天保7年1月18日(1836年3月5日)、石川忠房が死去。ロシア使節ラクスマンの応接を担当した幕臣で、多仁照廣「石川忠房と寛政期北方外交と蝦夷地経営」(『敦賀論叢』5)曰く、松平定信の意を受けて、「寛政期の幕府北方外交と蝦夷地経営を唯一通して実務を担当した人」。 https://t.co/ROfNfdbYU6
昭和6年2月20日、鮫島武之助が死去。薩摩藩出身で、鮫島尚信の弟。許海華「長崎唐通事何礼之の英語習得」(『関西大学東西学術研究所紀要』44)などによれば、幕末期に前田正名らと共に、何礼之の私塾に入った。明治期に、第三次・第四次伊藤博文内閣の書記官長などを務めた。 https://t.co/zWHyRibxFM
佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205、2020年)は、幕末の薩摩藩家老の寓居で、薩長同盟の舞台として注目されている近衛家別邸・御花畑について、「それ以前の実態」も含めて考察。薩土盟約の舞台となったことへの言及もある。 https://t.co/pAJttOjkZN
慶応4年1月14日(1868年2月7日)、鳥羽・伏見の戦いの情報を得た長崎奉行・河津祐邦が長崎を退去。吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)曰く、その後1ヶ月、松方正義・佐佐木高行らによる長崎会議所が暫定統治。 https://t.co/FCiMiYm2NR
濱口裕介「幕末期カラフトを踏査した佐倉藩士たち」(『佐倉市史研究』31)は講演録。 関連の深いほかの論文に、「安政年間における老中家臣の蝦夷地調査」(『史友』35)、「幕末期アイヌ風俗改変政策に関する地理的考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』64)などがある。 https://t.co/xJkptvdFep
弘化3年12月13日(1847年1月29日)、箕作省吾が死去。『坤輿図識』などを編纂し、世界地理を紹介。吉田松陰らに影響を与えた。辻田右左男「箕作省吾「坤輿図識」-著者をめぐる1,2の問題-」(『奈良大学紀要』2)曰く、省吾の著作は幕末社会にセンセーションを巻き起こした。 https://t.co/yCWaEmxjwp
明治43年1月20日、清水卯三郎が死去。慶応3年のパリ万博に、唯一の日本人商人として出品。薩英戦争後に五代友厚と寺島宗則を匿った。白山映子「清水卯三郎の政治観」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』49)は、「海外からの啓蒙思想を移入した人物」の1人として分析。 https://t.co/94lpM0o3v7
宮永孝「近世における西洋人の日本人観」(『社会志林』66-3、2019年)は、16〜20世期の長いスパンで、「外国人の眼に写った日本および日本人のすがた、その国民性について歴史的に概括する」。シーボルト、オールコック、オイレンブルクなど様々な事例を紹介する。 https://t.co/58mHV9YY3X
明治33年1月8日、浅野氏祐が死去。幕末期に神奈川奉行、外国奉行、陸軍奉行などを歴任。小笠原長行の率兵上京に加担した。岩瀬忠震は、文久遣欧使節団に浅野を加えるべきと考えていたらしい(河北展生ほか「木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡」『近代日本研究』5、1988年)。 https://t.co/TeZDVRWhKd
明治26年12月5日、松平容保が死去。幕末期、京都守護職を務めた。中西達治「孝明天皇の松平容保宛て宸翰」(『金城学院大学論集 人文科学編』16-2、2020年)は、孝明天皇が容保に与えた宸翰を明治天皇が把握していたかもしれないという、白石烈氏の近年の見解などを考察。 https://t.co/HLGKVvJKbb
慶応3年10月3日(1867年10月29日)、土佐藩が大政奉還を建白。井上勲「大政奉還運動の展開過程」(『学習院大学文学部研究年報』20)曰く、徳川慶喜は土佐藩論に、幕府から離反しつつある勢力を議院制に組み込み、「幕府もしくは徳川氏の政治統合力を回復する展望」を見た。 https://t.co/PaFHpL84v2
明治24年10月28日、幕末の対馬藩家老だった樋口鉄四郎が死去。明治元年、対馬藩が、日本の王政復古を朝鮮に通告するよう新政府から命じられた際、朝鮮に派遣された。牧野雅司「維新期の書契問題と朝鮮の対応」(『待兼山論叢』44、2010年)は、朝鮮側の対応を分析。 https://t.co/vsbxRnBZE9
明治6年9月27日、沢宣嘉が死去。文久3年8月18日政変の際の「七卿落ち」の公家の1人で、生野の変に参加した。吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)曰く、大隈重信を新政府の徴士参与に推挙した。外務卿などを歴任。 https://t.co/FCiMiYm2NR
能川泰治「幕末維新期における政治・社会の変動と大阪城」(『金沢大学歴史言語文化学系論集 史学・考古学篇』12、2020年)は、幕末期に来日した外交官が、見学対象として大阪城に興味を持っていた事実を紹介。オールコックなど、豊臣秀吉ゆかりの城と知っていた者もいた。 https://t.co/lobJnXEhlH
呉永台「幕末期肥後における〈藩是〉確立とその意味」(『年報地域文化研究』23、2020年)は、文久2年4月、藩是を決定した肥後藩政府には「徳川恩顧の大名としての自己認識があった」と指摘し、藩是の確立を要求した肥後勤王家とは、将軍家への距離感に違いがあったとする。 https://t.co/RlbIB3pMu0
文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。将軍・徳川家慶の信任を得た儒学者で、『徳川実紀』を編纂した。家慶の日光参詣に随従した際の日記『晃山扈従私記』がある。成島柳北の祖父。具島美佐子「成島柳北研究」(筑波大学博士論文、2017年)が、司直に多く言及。 https://t.co/PDWQYa67kL
長屋隆幸「尾張藩海防史料「赤心秘書」についての紹介・翻刻」(『愛知大学綜合郷土研究所紀要』64、2019年)は、伊藤直之進藤景(大垣藩出身で尾張藩に仕官した)が、尾張藩の重臣に宛てた上書を紹介したもの。異国船漂着に際して陸戦の備えも必要であることなどを論じた。 https://t.co/iDFXtbkGzy
明治25年8月25日、中路延年(中路権右衛門)が死去。佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205、2020年)曰く、「幕末の尾張藩と薩摩藩を直接仲介した人物」で、「尾張藩の世論を王政復古に導くのに大きな役割を果たしたとされている」。 https://t.co/pAJttOjkZN
明治35年8月18日、西村茂樹が死去。幕末の佐倉藩出身の啓蒙思想家。西川泰夫「千葉県郷土史:近現代史の一断面:幕末から開明期における佐倉藩士と洋学「西国の心学、心理学」との接点」(『放送大学研究年報』26)は、「心理学」という日本語誕生のヒントとして西村を分析。 https://t.co/IhcioV2GOi
池田勇太「元田永孚における開国論への転換」(『異文化研究』11、2017年)は、「攘夷は和親との対で和戦の問題、開国は鎖国との対で国交・貿易の問題」と整理し、鎖国体制下での和親や開国を見据えた破約攘夷論などの外交態度があったことを前提に、幕末期の元田永孚を分析。 https://t.co/NGFaGJQ1my
@machi82175302 こちらです。たぶんこれ熊本県立図書館に所蔵があるものと同一かと。轟木は結構史料が残ってますね。 https://t.co/VD2R7dsTAn
間瀬久美子「近世後期の朝廷と幕府の災害祈禱」(『千葉経済論叢』61、2019年)によれば、幕末の京都朝廷が行う祈祷は攘夷問題が大半となり、一方で幕府は地震災害に関連する祈祷を推進。内憂外患で権威を喪失した幕府は、祈祷の発令で権威の回復を企図したものと指摘。 https://t.co/dy0xpIFwf0
佐藤麻里「将軍の死と「自粛」する江戸社会」(『学校教育学研究論集』24、2011年)は、江戸時代後期の将軍死去による鳴物停止などをめぐる「自粛」と「強制」の問題を分析。特に、商売停止は町奉行の命令ではなく、町名主の「申合わせ」から始まった「自粛」だったとする。 https://t.co/CIzzLPddCe
明治31年7月5日、神田孝平が死去。幕末期に幕府の蕃書調所および開成所で教授職などを務めた。奈倉哲三「もう一つの戊辰戦争」(『国立歴史民俗博物館研究報告』157、2010年)は、慶応4年4月の『中外新聞』第12号に掲載の神田による論説「日本国当今急務五カ条の事」を紹介。 https://t.co/ciEqNG3wM6
大正10年6月19日、鍋島直大が死去。幕末の肥前佐賀藩主で、鍋島閑叟の子。明治13年にイタリア公使として海外赴任。谷口眞子「読み替えられた「葉隠」」(『早稲田大学高等研究所紀要』9)は、中村郁一という人が、直大を通じて葉隠を天皇に献納しようとしたことに言及。 https://t.co/2ZRO7XM7yd
明治32年5月8日、村田氏寿が死去。幕末の越前福井藩士で、『続再夢紀事』の編纂者。勝海舟が神戸に私塾を開く資金の援助を松平春嶽に求める際、門弟の坂本龍馬に託したのが、村田宛の書簡だった。吉田健「文久三年の龍馬と福井藩」(『福井県文書館研究紀要』8)参照。 https://t.co/UOawCo1JaQ
上野大輔「幕末期長州藩における民衆動員と真宗」(『史林』93-3、2010年)によれば、村田清風は海防のために宗教も利用しようと考え、長州藩内の真宗僧侶たちもキリスト教や排仏論への対抗から要請に応じた。月性の門下・大洲鉄然の僧兵隊結成の動きなどを分析。 https://t.co/epYE9WUSSW
れいのるず秋葉かつえ「自称詞の歴史社会言語学的研究―「拙者」から「僕」へ―」(『ことば』39)は、「僕」が日本語に定着していく過程を分析。幕末の吉田松陰は「僕」を最初に使った人ではないが、「「僕」を多用し、「僕」を広げた人」だと指摘。渡辺華山の事例などを紹介。 https://t.co/Vqbx2DlZ6a
有泉和子「フヴォストフ・ダヴィドフ事件と日本の見方」(『ロシア語ロシア文学研究』36)は、文化年間に起きた、レザノフの来航事件やゴロヴニン事件と並ぶ、日露関係の重要事件(蝦夷地周辺が攻撃された事件)を分析。3つの出来事が複雑に絡み合った実態を明らかにする。 https://t.co/oz0cWo1J4U
明治6年4月19日、司法卿・江藤新平、文部卿・大木喬任、左院議長・後藤象二郎が明治政府の参議に任命された。高橋秀直「征韓論政変の政治過程」(『史林』76-5)曰く、この人事に基づく改革は大蔵大輔・井上馨の期待を裏切り、井上と腹心・渋沢栄一の辞表提出に繋がる。 https://t.co/IhaUxVJ2AB
工藤憲一郎「藩屏概念の具現化をめぐる相剋-寺田屋事件の思想的一断面-」(『國士舘大學政経論叢』27-1)は、島津久光の率兵上京に関して、久光と有馬新七らの間で基本目標はほぼ同じだったが、軍事力行使に対する考えに隔たりがあったと指摘。 https://t.co/LxBEW9cFjv
明治20年4月15日、伊地知貞馨(伊地知壮之丞、堀次郎、堀仲左衛門)が死去。幕末の薩摩藩出身で、島津久光の側近として重きをなした時期がある。薄培林「近代日中知識人の異なる琉球問題認識」(『関西大学東西学術研究所紀要』47)は、琉球処分に関わった伊地知に言及。 https://t.co/b1Q6imZ0Ds
安政7年3月3日(1860年3月24日)、井伊直弼が桜田門外の変で死去。幕末の彦根藩主で、安政の大獄を断行した幕府の大老。廣木尚「大隈重信にとっての歴史認識」(『早稲田大学史記要』50)は、井伊直弼の銅像除幕式に維新の元勲クラスで大隈重信だけが出席したことなどを紹介。 https://t.co/jCZydfWO0Q
松尾晋一「アヘン戦争情報と幕府対外政策」(『東アジア評論』11、2019年)によれば、老中・水野忠邦は長崎から入ってきたアヘン戦争情報のみに依拠して条件反射的に対応を行い、対馬などを経由して届いた情報が活用されなかった。また、幕閣内で情報の秘匿が行われたと指摘。 https://t.co/UsUwrLYxlJ
明治20年3月7日、黒田長溥が死去。薩摩藩主・島津重豪の子で、幕末の筑前福岡藩主。蘭癖と呼ばれた大名の1人。慶応元年に加藤司書や月形洗蔵らを弾圧した「乙丑の獄」について、西尾陽太郎「黒田長溥と筑前勤王派」(『史淵』98、1967年)をネット上で読むことができる。 https://t.co/fYc8wN3o4w
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去(暗殺)。慶応期に木戸孝允と共に長州藩政府の中核を担い、慶応3年には京都で討幕の密勅を受け取った。明治政府で参議などを務めた。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、暗殺事件の捜査を分析。 https://t.co/XCToPjhpGU
板垣哲夫「維新後における大久保利通の政治上の人間関係」(『史学雑誌』86-11、1977年)は、慶応3年10月〜明治10年3月、大久保がどんな人物と接触していたか、日記を分析。大久保の政府内での地位上昇に伴い、薩長土肥以外の出身者が中堅官僚として結び付きを強めたと指摘。 https://t.co/dXsq9H1KlB
長谷川栄子「岩倉使節団成立過程の再検討-『岩倉具視関係史料』所収の新出書簡を用いて-」(熊本学園大学論集『総合科学』19巻2号 2013年) https://t.co/Fp7Dw3y0TB 2013年に刊行された『岩倉具視関係史料』所収の岩倉使節団編成に関わる数点の新出書簡を分析し使節団成立過程の問題を検討した論稿。
明治9年1月29日、戸塚静海が死去。シーボルトに学び、将軍家の侍医を務めた初の蘭方医。薩摩藩主の島津斉興と島津斉彬に仕えた時期もあり、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、薩摩藩士の蘭学修行を斡旋していた。 https://t.co/wRrCUR9ATA
上田純子「安政五年萩藩における「会議」と政治機構」(『史学雑誌』107-6)は、「藩政改革派と称された人物の出身階層が一〇〇石前後の大組士であった事実」や、「三〇〇石以上の比較的上級家臣団が、政治的意思決定からは実質的に阻害された存在であった」ことなどを指摘。 https://t.co/LQPyvhGrfh
1894年1月22日、モンブラン(ベルギー貴族)が死去。五代友厚と頻繁に交流するなど薩摩藩と関係が深く、パリ万博への薩摩藩の参加に協力。一時期、明治政府からパリ総領事に任命された。文献に、宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(『社会志林』47-2)など。 https://t.co/WoNCjRFMVx
三好彰「アメリカ人が見た川﨑道民-万延元年遣米使節団のアメリカ最新医療体験-」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13、2018年)は、万延元年の遣米使節団や文久遣欧使節団に随行した佐賀藩の医師・川崎道民に関して、米国の新聞と医学専門誌の記述を紹介。 https://t.co/DmNa8OYVF4
王一兵「幕府天文方における蘭学の展開-蘭学の公学化を中心に-」(『文化』82、2019年)は、18世紀〜19世紀にかけて対外関係の緊張が高まる中、蘭学者たちは、海外情報の収集における蘭学の有用性を発信していくことで権力者の支持を調達して蘭学の発展を目指したと指摘。 https://t.co/CEOForI51K
石井耕「日本の人事政策の起源-江戸幕府後期御家人の人材登用と昇進-」(『北海学園大学学園論集』156)は、日本企業の人事政策の構成要素「学問→試験→登用」の起源が、幕末の幕府にあったと指摘。田辺太一、中村正直など昌平坂学問所の学問吟味及第者を中心に分析。 https://t.co/E3L9cduamE
明治28年10月16日、石河確太郎(石河正竜)が死去。明治の紡績技術者で、幕末期には薩摩藩に招聘されて蒸気船建造や開成所での講義を担当するなど、重用された。堀江保蔵「近代日本の先駆的企業家」(『経済論叢』84-3、1959年)曰く、「紡績業の興隆に尽瘁した人」。 https://t.co/Ho91sW22wJ
明治20年10月16日、真田喜平太(幸歓)が死去。幕末の仙台藩士で、真田信繁の子孫と言われる。高島流砲術を学んだ砲術家で、竹ヶ原康佑「嘉永期における仙台藩重臣・中嶋恒康の海防政策と砲術攻究」(『明治大学博物館研究報告』20)は、中嶋恒康の継承者として真田に言及。 https://t.co/LvlNLtOXRu
明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、慶応4年に夫が自殺した後も明治の世を生きた。揖斐高ほか「国立国会図書館蔵『川路高子日記』-翻刻と解題および人名索引-」(『成蹊人文研究』19)は、夫が奈良奉行を務めていた時期、嘉永4年の日記を紹介。 https://t.co/gIVmZRRosm
安政6年9月14日(1859年10月9日)、梅田雲浜が死去。安政大獄で最初に逮捕され、獄死。中島嘉文「角田家本梅田雲浜安政大獄吟味関係資料について」(『福井県文書館研究紀要』13)は、雲浜の取り調べ調書を分析し、「尊攘運動の理論的支柱」として朝廷で期待されたとする。 https://t.co/I6EKCFy9FZ
文化5年8月17日(1808年10月6日)、長崎奉行・松平康英が死去。英国船フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎湾に侵入した事件の責任で、自刃した。長崎警備の問題について、梶原良則「寛政〜文化期の長崎警備とフェートン号事件」(『福岡大学人文論叢』37-1)がある。 https://t.co/dRUA5KuC6V
明治18年9月27日、都築温(都築荘蔵)が死去。慶応3年10月、大政奉還の趣旨が二条城で諸藩重臣に説明された際、宇和島藩代表として出席。将軍・徳川慶喜にも謁見。大政奉還が勅許されたことを帰国して報告(三好昌文「幕末期宇和島藩の動向(13)」『松山大学論集』12-6)。 https://t.co/ErSjmJSIEO
明治2年8月13日(1869年9月18日)、土肥典膳が死去。岡山藩重臣で、文久2年に京都で国事周旋を開始。中川和明「平田塾と地方国学の展開」(『書物・出版と社会変容』11)曰く、「岡山藩の幕末維新史を語るうえでたいへん重要な人物」。その家臣が足利三代木像梟首事件に関与。 https://t.co/BZUKMIXuJQ
安政2年7月26日(1855年9月7日)、井戸弘道が死去。幕末の幕臣で、嘉永6年のペリー来航の際に浦賀奉行。後年、永井尚志は、学識はあるが、「決断之乏敷は、其短なる所」と評した。河内八郎「伊達宗城とその周辺(続)」(『茨城大学人文学部紀要 人文学科論集』23)より引用。 https://t.co/FJ08lhk5hc
明治40年9月6日、名村泰蔵が死去。幕末のオランダ通詞で、英語・フランス語・ドイツ語も習得し、慶応3年にパリ万博に赴く徳川昭武に随行。明治期には司法官僚の道を歩み、ボアソナード招聘に尽力した。石原千里「名村五八郎と名村泰蔵」(『英学史研究』26)などを参照。 https://t.co/AmsrcN2oDh
明治26年9月1日、細川護久が死去。明治3年に熊本藩知事に就任して、弟・長岡護美と共に熊本藩の藩政改革を推進した。その際、横井小楠の門下生たちを多数登用した。三澤純「熊本藩明治三年藩政改革の再検討」(『文学部論叢』109、熊本大学、2018年)が、新出史料を活用。 https://t.co/asHbl2wznl
天保12年7月14日(1841年8月30日)、林述斎が死去。松平定信に嘱望されて林家を嗣いだことは、林家の最大の画期とされる(小野将「近世後期の林家と朝幕関係」『史学雑誌』102-6)。朝鮮通信使との窓口役も務めた。幕末外交で活躍した林復斎は子で、岩瀬忠震や堀利煕は孫。 https://t.co/cvwwipEKfH

10 0 0 0 IR 林研海の生涯

明治15年8月30日、医師・林研海が死去。幕末の長崎でポンペに学んだ後、榎本武揚や沢太郎左衛門らと同じ船に乗ってオランダ留学。帰国後の明治期に、静岡病院長、陸軍軍医総監などを歴任。高橋慎司「林研海の生涯」(『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊』11-2)参照。 https://t.co/64QIqT03cY
奈良勝司「社会文化史」(『日本研究』57、2018年)は、奈良勝司『明治維新と世界認識体系』(有志舎)、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)、笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』(吉川弘文館)、渡辺尚志『近世百姓の底力』(敬文舎)などの文献を紹介。 https://t.co/CmQUN8utHV
慶応4年6月27日(1868年8月15日)、英学者・嵯峨根良吉が死去。幕末の宮津藩出身で、薩摩藩の開成所に雇用された。竹内力雄「山本覚馬覚え書(5)「管見」を中心に」(『同志社談叢』34)は、慶応3年に、赤松小三郎と同一内容の政体改革意見書を島津久光に提出したことを言及。 https://t.co/UHsSFHSX1v
慶応元年6月24日(1865年8月15日)、喜多岡勇平が死去。幕末の福岡藩士で、黒田長溥に信任され、長州征伐や五卿移転問題の解決に奔走した。梶原良則「長州出兵をめぐる政治情況」(『史淵』129)は、喜多岡の周旋が薩長和解の端緒になったと指摘。藩内の同志に暗殺された。 https://t.co/yHbW3ieHSO
大島明秀「十九世紀国学者における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容と平田国学」(『日本文藝研究』57-1)は、平田篤胤以降の国学者が志筑忠雄の『鎖国論』を「西洋人ケンペルによる日本讃美論」として読み解き、その後の国内で日本の優秀さを説く古典として受容されたとする。 https://t.co/57Sf67XXul
昭和2年7月30日、市川文吉が死去。慶応元年に幕府が派遣したロシア留学生で、明治6年に帰国。その後、再渡航して榎本武揚の樺太・千島交換条約交渉を通訳。宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」(『社会労働研究』39-4)は、父・市川兼恭の日記に出る姿を紹介。 https://t.co/QCwbPScnhb
竹ヶ原康佑「長州処分問題をめぐる仙台藩の動向」(『駿台史学』159、2017年)は、元治元年〜慶応期の仙台藩を分析。西国情勢の探索を通じて、中下級藩士層の中に長州藩への同情的意見が目立ってきたことを指摘。また、単独での行動よりも外部との連携を重視する志向を指摘。 https://t.co/IChCiITVn1
明治2年6月6日(1869年7月14日)、鵜殿鳩翁(長鋭)が死去。幕臣で、日米和親条約交渉に携わり、文久3年に浪士組取扱。永井尚志は、「人材登庸を重んし、職掌を辱めす」と評した(河内八郎「伊達宗城とその周辺(続)」『茨城大学人文学部紀要 人文学科論集』23、1990年)。 https://t.co/FJ08lhk5hc
明治7年7月12日、伊達慶邦が死去。幕末の仙台藩主で、東国最大の国持大名。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主。綿抜豊昭「伊達慶邦一座の七種連歌をめぐって」(『中央大学文学部紀要 言語・文学・文化』119、2017年)は、藩祖の伊達政宗以来行われた、仙台伊達家の連歌を分析。 https://t.co/QoU3vugu19
奈倉哲三「史料蒐集の醍醐味-戊辰戦争期の江戸民衆意識解明を目指して-」(『跡見学園女子大学人文学フォーラム』15、2017年)は、慶応4年閏4月に大村益次郎が江戸府民の「民心朝廷離叛」を把握したことや、民心掌握に天皇の東幸が有効とした大久保利通らの考えを分析。 https://t.co/dq6PZxISfu
安政5年4月23日(1858年6月4日)、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任した。井上勲「大老 井伊直弼」(『学習院史学』35、1997年)は、「大老に期待された役割とは、将軍代替りにともなって発生が予測される危機を管理することである」という見解・論点を、講演で披露している。 https://t.co/SaZ2sGjtnd
井上泰至「文禄・慶長の役を記憶する-「復古」/「維新」の前提としての武家説話-」(『日本文学』59-10、2010年)は、同氏の著書『秀吉の対外戦争』(笠間書院、2015年)第9章の元論文。幕末期に洋学者や幕府の外交担当者を含めて、秀吉を英雄視する見方が出ることを分析。 https://t.co/3P33xpTJpg
岩田みゆき「戸張伝右衛門『慶応日記帳』にみる御料兵の実態について-慶応四年四月脱走前の動向-」(『青山史学』36、2018年)は、幕領で御料兵として徴発された戸張伝右衛門の日記を分析。戊辰戦争で会津まで赴いて新政府軍と戦った人物で、ここでは江戸開城頃までを扱う。 https://t.co/Jomyh3i1q8
元治2年2月28日(1865年3月25日)、西川升吉が死去。幕末の赤穂藩出身で、文久2年に家老の森主税および藩儒の村上真輔を暗殺(文久事件)。土佐藩の吉田東洋暗殺を参考にしたとする説がある。福永弘之「もう一つの「忠臣蔵」(I)」(『神戸文化短期大学研究紀要』24)参照。 https://t.co/nzFutN522u
本庄栄治郎「幕末の上海貿易」(『經濟論叢』46-5、1938年)は、経済史研究の先駆者による戦前の論文。文久期に幕府が上海に派遣した千歳丸と健順丸による貿易について、幕府自らが出貿易を試みた事例として重要で、海外見聞や大洋航海の経験という点でも有意義と指摘。 https://t.co/A58pfU6fLe
昭和9年3月1日、長沢鼎が死去。幕末の薩摩藩英国留学生の最年少メンバー。帰国せず、カリフォルニアでブドウ王になった。森孝晴「長沢鼎の手紙の下書きとそこに込められた思いと精神」(『国際文化学部論集』13-1、2012年)は、留学生仲間だった森有礼への手紙を紹介。 https://t.co/3pNsWlJUrD
須賀博樹「因州鳥取藩と大坂両替商-文久三年~慶応元年の大名貸-」(『経済史研究』21、2018年)は、幕末の鳥取藩主・池田慶徳による国事周旋と京都警衛に関して、その財政状況を分析。鳥取藩が、慶徳の兄・徳川慶篤が藩主を務める水戸藩に、援助金を又貸ししたことも紹介。 https://t.co/FOgSH57x2J
明治41年2月16日、建野郷三が死去。幕末の小倉藩士で、幕長戦争で長州藩と交戦。小倉城の落城後も抗戦を主張し、赤心隊を結成した。明治期に大阪府知事、駐米公使などを歴任。片岡正彦「明治18年の淀川洪水と北河内」(『京都歴史災害研究』18)は、建野の災害対応を分析。 https://t.co/dDk3QUoONs
柳澤京子「長州戦争と労働者」(『お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報』13、2017年)は、幕末の長州戦争(長州征伐、幕長戦争)において、いわゆる諸隊に参加した賃銀労働者集団を分析。諸隊の内部や周辺には、「稼ぎ」を求める人々が集っていたと指摘。 https://t.co/2UWQXV40Fe
明治33年1月5日、秋月悌次郎(秋月韋軒)が死去。幕末の会津藩士で、文久3年8月18日の政変で重要な役割を果たした。中西達治「秋月悌次郎の公用局復帰」(『金城学院大学論集 人文科学編』15-1、2018年)は、慶応2年に勤務していた蝦夷地から京都政局に復帰した経緯を分析。 https://t.co/e9QBC33U9W
明治29年1月4日、伊江朝直(伊江王子、尚建)が死去。琉球の政治家で、明治5年に維新政府慶賀使として上京し、琉球国王を琉球藩王とする勅語を受理。川畑恵「琉球国から琉球藩へ」(『沖縄文化研究』34)曰く、天皇への拝謁は、「明治国家の琉球に対する冊封儀礼」だった。 https://t.co/ND7czAmx5Y
明治16年12月28日、嶺田楓江が死去。幕末の田辺藩士。嘉永2年にアヘン戦争を題材にした『海外新話』を著したが、海外事情を書いた内容が幕府に問題視されて投獄された。奥田尚「嶺田楓江『海外新話』の一部分の紹介」(『アジア観光学年報』9)によれば、吉田松陰も読んだ。 https://t.co/xWj23oBuTz
嘉永元年11月8日(1848年12月3日)、坪井信道が死去。蘭方医で、門下に緒方洪庵や黒川良安(佐久間象山に蘭学を教えた)がいた。村田清風の依頼などにより、長州毛利家に仕えた。森川潤「萩藩医坪井信道」(『広島修大論集』51-2、2011年)が、その経緯を分析。 https://t.co/k4nXCSThbM
明治18年11月27日、小曽根乾堂が死去。坂本龍馬の活動を支援した長崎の商人で、篆刻家・書家としても著名。明治4年、勅命で御璽と国璽を刻した。神野雄二「日本印人研究-小曽根乾堂の生涯とその系譜-」(『熊本大学教育学部紀要. 人文科学』55)が、ほかの事績も紹介。 https://t.co/lPEP0wda0X
明治4年10月8日(1871年11月20日)、安藤信正(信睦)が死去。井伊直弼の横死後、久世広周と共に幕政を切り盛り。坂下門外の変で襲撃された。菊地久「維新の変革と幕臣の系譜(4)」(『北大法学論集』31-2)曰く、「外交に関しては、歴代の老中に傑出した人物であった」。 https://t.co/Cez3hjreHu
明治21年11月18日、日向延岡藩の第7代藩主だった内藤政義(井伊直弼の弟)が死去。大賀郁夫「隠居大名の幕末・維新」(『宮崎公立大学人文学部紀要』25-1、2018年)は、譜代小藩の隠居が幕末をどのように生きていたのか、政義の元治元年〜慶応4年の日記を分析。 https://t.co/8JIBeLzcJG

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