著者
福留 範昭 亘 明志 Noriaki Fukudome Watari Akeshi 強制動員真相究明ネットワーク事務局 長崎ウエスレヤン大学 現代社会学部 社会福祉学科
出版者
長崎ウエスレヤン大学
雑誌
長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所研究紀要 (ISSN:13481150)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.17-25,

本稿_<(1)>では、朝鮮人強制労働被害者の遺骨問題を、「記憶」と「記録」をキーワードにして社会運動論的観点から考察している。韓国では、「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」が設立され、強制動員真相究明の事業が開始された。その一環として、強制動員被害者の遺骨の収集と返還の活動がある。日本政府は、日本に残された強制動員被害者の遺骨の調査と返還に協力を約束した。本稿では、先ず日韓政府によって60年間放置されてきた遺骨に対する事業が始まった経緯を概観した。そして、日本政府が行っている遺骨調査の進展状況を眺め、調査の問題点を指摘した。さらに、この遺骨調査の持つ意味を踏まえ、調査が実りあるものになるために、何が必要であるかを考察した。
著者
亘 明志
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.36, no.1, pp.41-51,179, 1991

It is true in a certain sense that bodies are social phenomena, but they are not static. I will construct the sociality of bodies in the relations between the following two propositions.<br> 1 ) Human beings are bodies, (the body as being)<br> 2 ) Human beings have bodies, (the body as having) '<br> The body as being' means the immanency of bodies (being-in-the-world) , and 'the body as having' shows the transcendency of bodies. '<br> The body as being' and 'the body as having' stand for the ambiguity of bodies,but theoretically it may be possible to separate and to relate both each other in social demensions. Both work under certain conditions as 'the social device' on bodies. I call this social device the media in a wide sense.<br> The paradox of the body is led by the relations between 'the body as being' and 'the body as having'. For instance, 'the body as being' dose not appear as the subject until 'the body as having' is inserted into the social device, which is shown precisely in the Panopticon model of M. Foucalt.<br> M. McLuhan defined the media as 'the extension of bodies', which means not only the functional extensions as tools but also 'the implosion' of the central nervous system. The new electronic media creates the new realities which depend on the new relations between 'the body as being' and 'the body as having'. It means the paradox of the body in the new dimension.<br> Simuracres precede the realities, or the realities themselves become the results of the simulation, which Baudrillard shows as the process of the hyper-reality. But it's not the monotonous simulation. In the local and minute levels the tremor of the realities which results from the new paradox of the body develops.<br> In this paper, I will discuss the repetition of the paradox of the body in contemporary societies, and show the analytical framework of the dynamic processes on the 'simulation society'.
著者
亘 明志 Akeshi Watari 長崎ウエスレヤン大学現代社会学部社会福祉学科 Faculty of Contemporary Social Studies Nagasaki Wesleyan University
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.49-55,

現代のメディア文化において、視覚的要素、とりわけスペクタクルが重要な位置を占めることはいうまでもない。このスペクタクルを、単に「見世物」という限られた意味ではなく、現代社会を構成する基本的な原理として考察したのが、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』である。ドゥボールはアカデミックな研究者ではない。レトリスムを標榜する前衛的な映像作家として出発し、都市を中心にさまざまな芸術活動、政治活動を行い、「漂流」「転用」あるいは「状況の構築」といった実践的な概念を作り出していく。こうしてドゥボールは、現代社会を批判的に把握するキー概念として、「スペクタクル」という概念に到達するが、その背景には膨大な実践があるだけに、語義の詮索だけでは十分ではない。そこで、現代のメディア文化をとらえる一つの視点として、(1)ドゥボールの「スペクタクル」という概念はいかにして形成されたのか、(2)現代社会を「スペクタクルの支配」ととらえたときに切り開かれる問題系はどのようなものか、(3)「スペクタクル」の概念をめぐって提起されるあらたな課題はどのようなものか、について考察した。
著者
福留 範昭 亘 明志 Noriaki Fukudome Watari Akeshi 強制動員真相究明ネットワーク事務局 長崎ウエスレヤン大学現代社会学部社会福祉学科 Faculty of Contemporary Social Studies Nagasaki Wesleyan University
出版者
長崎ウエスレヤン大学
雑誌
長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所研究紀要 (ISSN:13481150)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.17-23,

本稿は、朝鮮人強制動員犠牲者の遺骨およびその返還に関し、主として実地調査および社会運動への参与観察に基づく考察である。現在、日韓政府によって強制動員犠牲者の遺骨返還事業が行われている。しかし、「民間徴用者」の遺骨の返還に関しては、いまだ具体的な方針が立てられておらず遺骨の確認や収集に困難が予想される。戦後60年以上経た現在、記録や人びとの記憶が喪失されつつあり、強制動員犠牲者の遺骨の確認が難しいからである。本稿では、遺骨を探す韓国の遺族の状況(第二節)、日本に残されている強制動員犠牲者の遺骨の実態や遺骨の調査・発掘について考察した(第三節)。そしてこれらを踏まえ、日韓の遺骨返還事業を意味あるものにするために、問題点を指摘した(第四節)。
著者
福留 範昭 亘 明志 Noriaki Fukudome Watari Akeshi 長崎ウエスレヤン大学現代社会学部福祉コミュニティ学科 長崎ウエスレヤン大学現代社会学部福祉コミュニティ学科 Faculty of Contemporary Social Studies Nagasaki Wesleyan University Faculty of Contemporary Social Studies Nagasaki Wesleyan University
出版者
長崎ウエスレヤン大学
雑誌
長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所研究紀要 (ISSN:13481150)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.33-39,

本稿では、戦前日本に在住した朝鮮人の遺骨の問題を、壱岐の芦辺町の遺骨を中心に論述する。本研究の目的は、遺骨を通し共同体における言説と社会意識を分析すること、および遺骨をめぐる事象を戦後補償運動との関連で分析することにある。本稿(研究I)では、これらの研究目的のための基礎的部分を構成する事実関係を整理することを目指した。その内容は、(1)敗戦直後における朝鮮人の帰国の状況、(2)壱岐における帰国船の海難事故、(3)芦辺町の遺骨をめぐる経緯、(4)芦辺町の遺骨に関する問題点である。本稿は研究IIに継続される。本稿は研究IIに継続される。
著者
亘 明志
出版者
長崎ウエスレヤン大学
雑誌
長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所研究紀要 (ISSN:13481150)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.21-31, 2005-03-31

「近代化」とは歴史的な概念であるとともに、特定の社会、とりわけ非欧米社会のアイデンティティを問う概念でもある。しかし、それを一次元的尺度とみなすことは危険である。「近代化」には、経済発展や産業化には還元できない要素があるからである。そうした「近代化」の多様性をとらえようとする流れのなかで、近年、「近代化」と視覚などの身体感覚や表象との関連を取り上げる論考が見られるようになった。そこで、本論文では、視覚や表象の近代化に関する議論を踏まえながら、従来からの近代化論のいくつかのタイプ-合理化モデル、主体化=従属化モデル、メディア・モデル-についても身体論的観点から見直し、相互の関連性を明らかにするよう試みた。