著者
倉本 香
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2001, no.84, pp.71-86, 2001-11-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
27

周知のように、カントは道徳理論において、ア・プリオリに自ら立法した道徳法則に従って自己規定する主体が自律的主体であることを明らかにしたが、カントが一七七六年から一七八七年にかけて断続的に行った教育学講義からは、カントが教育の中心は道徳的陶冶にあり、その最終目的は世界公民的見地から世界福祉に関心を持つ人間、即ち、世界公民の育成にあると考えていたことを読みとることができる.つまり、カントの教育論はカントが道徳理論で明らかにした自律的主体の形成理論として解することができるのである。その際、カントが自らの教育理論を実践するものとして評価した汎愛派のバゼドウとの思想的連関に着目してみたい。カントが教育学の講義でバゼドウの著書を教科書として使用し、さらにカントがバゼドウの汎愛学舎を支援したことは有名なエピソードであるが、当時の学校には根本的な欠陥があると考えていたカントにとって、体罰や無意味なコトバ知識の暗記に頼った従来の教育方法を批判して「人間の友 (Menschenfreunde) 」としての実践的市民の育成という教育理念を掲げたバゼドウの学校は、「自然にも全公民の目的にも適合した教育施設」 (II 447) と思えたようである。しかし、「明らかに徹底的に堕落している」学校教育の改革構想を世に問うたバゼドウが目指したのは、人間の友としての実践的市民、即ち「愛国者 (Patriot) 」の育成であり、カントが目指したのは世界公民の育成であった。すると次のことが問題となってくる。カントが愛国者の育成を目指したバゼドウを評価するのはなぜか、愛国者への教育と世界公民への教育はいかにして両立し得るのか、という問題である。従来ほとんど着目されることがなかったカントとバゼドウの思想的連関について本論文ではこのような観点から考察し、以下のことを明らかにしてみたい。 (1) カントとバゼドウの接点は、道徳的品性樹立のための指導者への服従・従順という「徳の訓練」を重視する点において認められるが、「徳の訓練」は「法則的強制への服従と自由の使用とを結合」 (IX 453) して自律的な実践的主体を形成するためのものとされること、 (2) 世界公民である自律的・実践的主体を同時に愛国者にもなし得るためには反省的判断力の原理が不可欠であるが、しかし (3) ア・プリオリな普遍的法則と反省的判断力との協働は、カントが考えた、自己の行為の道徳性を判定する厳密な基準を「あたかも道徳的であるかのように」合目的的に考えられた別の基準にすり替えてしまうことに等しく、そのために、本来ならば道徳法則に従う自律的な世界公民のための教育が、自己を「あたかも道徳的であるかのように」思いこむだけのたんなる愛国者の育成となってしまう可能性があることを指摘する。 (4) そして最後に、ア・プリオリな道徳法則によってのみ意志が規定されるというカント実践哲学の基本的枠組みを再度見直し、道徳性の超越的な基準とともに普遍的法則を自らに対して与えるということが自由な行為の可能性の制約そのものであり、この制約によってのみ世界公民への教育が可能となることを確認したい。
著者
倉本 香
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 1, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.19-34, 2012-09

カントの自由は人間の自然的な傾向性から独立して自らに法則を与えるという意味での自律としての自由であり,その法則は人間にとって自然的な自愛や自己幸福を度外視して意志の格律の普遍妥当性のみを純粋に命じる道徳法則である。このような法則に従う自由な意志が道徳的な善の根拠となる。しかし自由な意志は同時にこの法則に背く悪への傾向性を持つ。では,悪への傾向性を持つ人間はいかにして善へと転換しうるのか。主としてカント宗教論の論述に即してこの問題を論じたうえで,あらためて,宗教ではなく道徳の次元で人間の自由を問う意味を考えてみる。
著者
倉本 香
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-16, 2009-09

本論文は,モノローグ的と批判されるカント実践哲学の再検討を行う。カントによれば,理性的存在者はフェノメノンとヌーノメンという二つの性質を持っているのだが,それがいかにして同一の主体において「二重に」現れてくるのか,という点に焦点を当てて論じている。この「二重性」は,道徳法則の働きによって他者の「均質性」と「異質性」としてあらわれると解釈することで,カント実践哲学のモノローグ性を克服する可能性を示し,実践的複数主義としてのカント解釈のあらたな問題圏を切り開いてみたい。This paper tries to reconsider Kants' practical philosophy sitting in judgment upon a monologue. According to Kant, rational being has the dual natures, one is homo noumenon,the other is homo phaenomenon. Therefore the attention is focused on this dualism to examine how the dual natuers appear on the same subject. We can interpret this dual function of rational being appears the 'homogeneity' of others and the 'heterogeneity' of others by the effect of the moral law. Through this interpretation, it is possible too that there may be one different reading of Kants' practical philosophy from monologue and there is no difficulty to open up a new subject of Kantianism as the practical pluralism