著者
兎内 勇津流
出版者
ロシア史研究会
雑誌
ロシア史研究 (ISSN:03869229)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.3-25, 2017-05-30 (Released:2021-08-08)

It is known that the depth of the Tatar Strait passage is not enough to pass large cargo boats, and only small ships can pass through it from Okhotsk Sea to Japan Sea, or sail from these waters through Amur River to Nicholaevsk-na-Amure and Komsomol'sk-na-Amure. Against such common sense, the Soviet government planned to dredge and prepare channels in the Amur Estuary so as to make them deep enough to pass large boats such as liberty ships. It was a very hard task, and the Construction Unit no. 201 under the NKVD had organized and engaged in this work, so much work was done by prisoners. The Unit had once dissolved in 1942, but in the next year, the Unit and its work were assumed by the Kommisarriat of Sea Transportation. The channels helped to navigate many cargo boats from the United States to the ports in the Russian Far East. When World War II started, the US began to assist the Allied Powers, providing huge amount of materials useful to perform the war. After Nazi-Germany started war with the Soviet Union, the US began to assist the Soviet Union on large scale under lend-lease terms. The most used cargo route from the US to the Soviet Union was from West Coast of the US via North Pacific Ocean to Russian Far East ports, especially Vladivostok, After Japan started war with the US, Japan had limited navigation of foreign vessels through the Tsugaru Strait, so boats on this route had to pass the La Pérouse Straits or the Tatar Strait. The Japanese Navy watched the La Pérouse Strait carefully, but could not extend their eyes to the Tatar Strait and failed to grasp the situation of lend-lease aid to the Soviet Union. The Japanese government and Army had collected information on the lend-lease to the Soviet Union and analyzed it, but this was insufficient, and did not urge Japanese leaders to reconsider their hope of German victory, or later, achieving peace through the intermediation of the Soviet Union.
著者
クズネツォフ セルゲイ・イリッチ 兎内 勇津流
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.155-165, 2019-03-25

この論文では、1945-1947年のモンゴルにおける日本人抑留の原因と結果について検討する。史料と文献について概観し、モンゴルにおける収容所の地理的配置と、モンゴル経済におけるその労働力の使用について示す。抑留者の死亡率とモンゴル人民共和国領内の埋葬地、祖国への帰国についてのデータを挙げる。モンゴルにおける日本人抑留者に関する歴史的記憶の保持についての資料が含まれる。
著者
兎内 勇津流
雑誌
情報処理学会研究報告人文科学とコンピュータ(CH)
巻号頁・発行日
vol.1995, no.50(1995-CH-026), pp.19-24, 1995-05-25

昨年9月にNIFTY?Serveの生涯学習フォーラム内に発足した図書館フォーラム会議室は、これまで1600発言近い書き込みがあるなど、盛況である。パソコン通信内で図書館をキーワードとしたオープンな交流の場はこれがはじめてと思われるが、その現状を報告するとともに、その背景、有効性と限界、将来の展望について考えてみたい。
著者
兎内 勇津流
出版者
専門図書館協議会
雑誌
専門図書館 : bulletin of Special Libraries Association, Japan (ISSN:03850188)
巻号頁・発行日
vol.244, pp.34-44, 2010-11

北海道大学スラブ研究センターは、ロシアをはじめとするスラブ・ユーラシアの地域研究に携わる、国内の中核的機関であり、2010年には共同利用・共同研究拠点の指定を受けた。その図書室および北大附属図書館等の関連コレクションは、国内最大規模のものであり、内外の多くの研究者から活用され、高く評価されている。その運営は、主題専門家の教員を中心に行われている、国内的では少数の例のひとつであるが、収集水準の維持・向上、地域的バランスの改善、収蔵スペースの確保などが課題である。
著者
兎内 勇津流
出版者
大学図書館研究編集委員会
雑誌
大学図書館研究 (ISSN:03860507)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.1-14, 2005-03

NII の総合目録においては,著者名典拠レコードの新規登録件数が低下傾向にあり,書誌レコード中の著者標目フィールドと著者名典拠とのリンク形成率もまた低下傾向にある。その一方,著者名典拠レコードの「歩留まり」には向上が見られるが,これには新規レコード作成に与かる館の減少が関係している可能性がある。NII の総合目録システムにおいては,参加館が多く登録書誌レコードが増えるほど目録負担が軽減され,それがさらに拡大を生むという循環の一方で,参加館の中に目録作成能力が十分でない館が増え,「歩留まり」の低下により,維持コストを引き上げる等の負の循環が生じるおそれがあり,それを踏まえた運営体制が要請される。
著者
杉浦 秀一 山田 吉二郎 根村 亮 下里 俊行 兎内 勇津流 貝澤 哉 北見 諭 坂庭 淳史 川名 隆史 室井 禎之 渡辺 圭 今仁 直人 堀越 しげ子 堀江 広行 斎藤 祥平 山本 健三
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010-04-01

本研究の目的は、ロシア・プラトニズムという観点から19-20世紀のロシアの文化史の流れを再構築することである。本研究では20世紀初頭の宗教哲学思想家たちを分析し、彼らが西欧で主流の実証主義への対抗的思潮に大きな関心を向けていたこと、また19世紀後半のソロヴィヨフの理念はロシア・プラトニズムの形成に影響を及ぼしたが、彼以前の19世紀前半にもプラトニズム受容の十分な前史があったことを明らかにした。したがってロシア・プラトニズムという問題枠組みは、従来の19-20世紀のロシア思想史の図式では整合的に理解し難かった諸思想の意義を理解し、ロシア文化史を再構築するための重要な導きの糸であることを確認した。