- 著者
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堀川 康史
- 出版者
- 公益財団法人 史学会
- 雑誌
- 史学雑誌 (ISSN:00182478)
- 巻号頁・発行日
- vol.125, no.12, pp.1-24, 2016 (Released:2018-01-28)
応永2年(1395)閏7月、九州探題今川了俊は京都に召還され、翌年2月までに解任された。室町幕府の九州政策の大きな転換点となったこの解任劇は、足利義満期の政治史や地域支配を論じるうえで不可欠の事件として知られているが、その政治過程、とりわけ解任に至った理由・経緯については不明な点が少なくない。本稿は、1390年代前半の九州情勢との関わりを重視する立場から、これらの点について検討を加えるものである。
検討の結果、解任の理由は了俊と九州大名との協力関係の断絶とそれにともなう九州経営の崩壊に求められることが明らかになった。その経緯は以下の通りである。
まず両島津氏との関係について見ると、長く対立関係にあった了俊と両島津氏は、明徳2年(1391)に和平を結んだものの、探題派国人の権益保護と両島津氏との和平は両立せず、和平の成立後まもない時期から南九州では局地的紛争が発生した。了俊は反島津氏を掲げる南九州国人一揆の意向もあって和平の破棄を決断し、明徳5年(1394)2月以降、再び両島津氏との戦いに突入していった。
ついで大友氏との関係に目を転じると、応永初年に大友親世と有力庶家の田原・吉弘両氏の間で内訌が生じた際、了俊は反親世派を支援したことで親世と断交した。親世は大内義弘・両島津氏と結ぶことで了俊に対抗し、結果として応永2年までに了俊は大友・大内・両島津の三者と敵対関係に陥った。この九州大名との協力関係の断絶が、了俊の九州経営を崩壊に導いていくことになった。
最後に足利義満はというと、通説とは異なり京都召還の直前まで了俊を支援していた様子が読みとれる。しかし、有力大名が揃って了俊に敵対し、九州経営の崩壊が徐々に明らかになったことにより、最終的に義満は了俊の解任を決断したと考えられる。応永3年(1396)2月、渋川満頼の探題就任が九州諸氏に報じられ、20年以上に及んだ了俊の九州経営はここに終わりを迎えることになったのである。