著者
榎原 雅治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.130, pp.219-237, 2006-03

中世社会では徳政の実行が統治者の統治者たりうる条件とされ、代替わりや天災・戦乱などを契機にしばしば徳政の実行が宣言されたことは、中世史ではすでに常識となっている。笠松宏至氏は、鎌倉後期に公武両権力によって行われた徳政の篇目は仏神領の興行と雑訴の興行(公平な裁判)にあることを明らかにしたが、その後、五味文彦氏によって平安末期の荘園整理令がすでに代替わり徳政としての性格をもっていたことを明らかにされ、応安の半済令についても、笠松氏や村井章介氏によって将軍代始めの仏神領興行の徳政としての性格をもつものであることが明らかにされた。これによって統治者の代替わりに徳政が実施されることは、中世の成立期から南北朝期まで一貫して認められる現象であったことが明らかになっている。さらに海津一朗氏は、鎌倉後期の仏神領の興行が荘園制の再編を促し、その結果、「寺社本所一円領」と「武家領」からなる中世後期荘園制が成立していくことを明らかにしている。中世後期荘園制は鎌倉後期〜南北朝期の徳政を論理的根拠として存立していたことが提起されたわけであるが、中世後期研究の側でこの提起を受けとめた議論はまだ展開されていない。本稿では、足利義持、義教、義政という義満を後継する室町殿の代始めの土地政策に注目し、沽却された土地の返付訴訟、およびそれに対する幕府の態度について検討した。そして室町期においてもなお、代始めにあたって寺社領興行(沽却地の返付)を求める社会動向があり、またそれに応じることを徳政であると考える為政者側の考え方と施策が存在していたことを明らかにした。In medieval society the implementation of "tokusei" (lit:"virtuous government") was a provision that could be exercised by rulers. It has become commonly accepted within medieval history that declarations of the implementation of tokusei were frequently made at times of succession, disasters and war. Hiroshi Kasamatsu has said that decisions to implement tokusei under the dual authority of the imperial court and shogunate during the late Kamakura period are to be found in connection with the policy of protction temple and shrine land and legal action (impartial courts). Later on, Fumihiko Gomi showed that edicts establishing the shoen system at the end of the Heian period already contained provisions for tokusei at the time of succession. Kasamatsu and Shosuke Murai have said that the edict halving the taxes paid to rulers during the Oan era (1368-1375) contains what amounts to the first tokusei for temple and shrine land at the start of the reign of new shogun. This shows that the implementation of tokusei upon the succession of a ruler was a recognized phenomenon throughout the time starting at the beginning of the medieval period through to the period of the Southern and Northern Courts. Furthermore, Ichiro Kaizu says that the policy protection temple and shrine land at the late Kamakura period encouraged a reorganization of the shoen system, resulting in the establishment of the late medieval shoen system, which consisted of the "Jisha honjo ichien ryo" and the "Buke ryo". It has been asserted that the shoen system of the late medieval period was logically underpinned by tokusei from the late Kamakura through to the period of the Southern and Northern Courts. However, discussion accepting this assertion has yet to take place within research on the late medieval period.This paper focuses on the land policies at times of succession by Ashikaga Yoshimochi, Yoshinori and Yoshimasa, the rulers who succeeded Ashikaga Yoshimitsu and lived in the Muromachi palace in Kyoto. It discusses legal action for the return of land that had been sold and the attitude of the bakufu toward such action. It also shows that for the Muromachi period as well there was a social movement at the beginning of the period that demanded the taking of temple and shrine land (the return of sold land). Further, it explicates the existence of measures and the attitude of the ruling class, which believed that acceding to such demands was tokusei.
著者
春田 直紀 佐藤 雄基 薗部 寿樹 小川 弘和 榎原 雅治 呉座 勇一 湯浅 治久 高橋 一樹
出版者
熊本大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2018-04-01

令和2年度は、以下の研究活動で成果をあげた。(1)10月3日にオンラインで研究会「中世肥後の文字史料と地下社会」を主催した(熊本中世史研究会と共催)。この研究会では、池松直樹氏と兒玉良平氏が「「肥後国中世地下文書・銘文史料」概観」、春田直紀氏が「大百姓の文書と水利開発―舛田文書と現地の調査成果から―」、廣田浩治氏が「地下文書論からみた中世の肥後~肥後国中部を中心に~」という題目で研究報告し、総合討論も行った。この研究会に先立ち、池松直樹氏・杉谷理沙氏・兒玉良平氏により、肥後国中世地下文書・銘文史料目録が作成された。 (2)2月20日にオンラインで第11回中世地下文書研究会(諏訪ミニシンポジウム)を主催した。この研究会では、岩永紘和氏が「「大祝家文書・矢島家文書」原本調査報告」、金澤木綿氏が「「守矢家文書」原本調査報告」、佐藤雄基氏が「「守矢家文書」における鎌倉時代の文書」、湯浅治久氏が「戦国期の諏訪社造営と「先例」管理―地域権力と地下文書の接点―」という題目で研究報告し、村石正行氏のコメントの後全体討論も行った。(3)畿内・近国班が連携している神奈川大学国際常民文化研究機構の奨励研究のフォーラム「中世熊野の海・武士・城館」が1月23日にオンラインで開催され、本科研グループからは坂本亮太氏が「紀州小山家文書の魅力と可能性」と題して報告し、村上絢一氏がコメント報告を行った。なお、この奨励研究の成果報告書として、3月に『熊野水軍小山家文書の総合的研究』が神奈川大学より刊行された。(4)3月27日にオンラインで中世の荘園制と村落に関する研究会を主催し、朝比奈新氏と似鳥雄一氏が報告して、討論も行った。(5)研究協力者(熊本大学教育学部日本史研究室所属)の協力を得て、日本中世の「浦」関係史料に関するデータベース(全国版)を作成した。
著者
村岸 純 西山 昭仁 矢田 俊文 榎原 雅治 石辺 岳男 中村 亮一 佐竹 健治
出版者
日本地球惑星科学連合
雑誌
日本地球惑星科学連合2016年大会
巻号頁・発行日
2016-03-10

都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクトの一環として,本研究では17世紀以降に関東地方に被害を及ぼした地震を対象とし,既刊地震史料集に所収されている史料に基づいて地震史料データベースを構築している.近代的な機器観測による記録がない歴史時代の被害地震について,被害分布や地震像などを検討するためには,史料の収集とその記述内容の分析が必要である.地震史料の調査・収集は20世紀初頭から開始されており,これまでに刊行された地震史料集は全35冊(約28,000頁)に及ぶ.しかしながら,これらの既刊地震史料集には,「史料」以外にも様々な種類の「資料」が収められており,自治体史や報告書の叙述からの抜粋記述なども含まれ,玉石混淆の状態にある.そのため,データベース化に際しては歴史学的に信頼性の高い史料のみを選択し,原典に遡って修正や省略部分の補足を行う校訂作業を実施している.なお,本研究で構築しているデータベースは,既存の「古代・中世地震・噴火史料データベース」や「ひずみ集中帯プロジェクト古地震・津波等の史資料データベース」と同様に,史料本文のテキストにはXML言語を使用している.また本研究では,安政二年十月二日(1855年11月11日)の夜に発生して,江戸市中や南関東一円に甚大な被害を与えた安政江戸地震について,新史料の調査・収集や既存の史料に関する分析を実施した.千葉県域では新たな史料を収集し(村岸・佐竹,2015,災害・復興と資料,6号),茨城・神奈川県域では収集した史料の再検討を行った(村岸ほか,2016,災害・復興と資料,8号,印刷中).さらに,被災地である関東地方からより離れた遠地で記された有感記録についても既刊地震史料集に所収されている史料を用いて検討した.地震発生当日の十月二日夜に遠地で記録された史料を選び出し,その中から「夜四ツ時」や「亥刻」と記されている信頼性の高い日記史料のみを選定した.このようにして厳選された史料にある遠地での有感記事に基づいて,震度を推定した.また,有感記事が記された当時の場所について,他の史料や当時の絵図,日本史における研究成果などに基づいて現在の地名を調査・検討し,その緯度・経度を導き出して遠地での有感記録の分布図を作成した.付記)本研究は文部科学省受託研究「都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト」の一環として実施された.
著者
榎原 雅治 本郷 恵子 末柄 豊 伴瀬 明美 前川 祐一郎 高橋 典幸 井上 聡 須田 牧子 遠藤 珠紀 小川 剛生 高橋 一樹
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

室町時代は日本の伝統文化の形成された時代であるといわれている。本研究では、さまざまな理由によってこれまで全体像が把握されていなかったこの時代の公家や僧侶の日記を解読し、出版やデータベースの作成によって、その全文紹介を進めた。また日記に登場する人物について研究し、室町文化の形成を考える上で不可欠な人物データベースを作成した。
著者
林 譲 横山 伊徳 加藤 友康 保谷 徹 久留島 典子 山家 浩樹 石川 徹也 井上 聡 榎原 雅治 遠藤 基郎 大内 英範 尾上 陽介 金子 拓 木村 直樹 小宮 木代良 近藤 成一 末柄 豊 藤原 重雄 松澤 克行 山田 太造 赤石 美奈 黒田 日出男 高橋 典幸 石川 寛夫
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2008-05-12

東京大学史料編纂所が60年間にわたって収集・蓄積した採訪史料マイクロフィルムをデジタル化し、ボーンデジタルによる収集の仕様を確立し、一点目録情報などのメタデータを付与したデジタルデータを格納するアーカイヴハブ(デジタル画像史料収蔵庫)を構築し公開した。あわせて、デジタル画像史料群に基づく先端的プロジェクト・歴史オントロジー構築の研究を推進し、研究成果を公開した。
著者
服部 英雄 稲葉 継陽 春田 直紀 榎原 雅治
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2000

文献資料のみに依拠してきた従来型の歴史学の隘路を切り開くべく、地名を史料(歴史資料)として科学的に活用する方法を確立した。地名を網羅収集する作業を進め、文字化されていない未記録地名を収集し、地図に記録し印刷した(主として佐賀県および熊本県阿蘇郡)。地名を史料として利用するため、電算化による検索を九州各県および滋賀県で進めた。研究上の環境整備を進めるいっぽうで、地名の歴史史料としての学問的有効性を確認し、拡大する作業を行った。交通に関わる地名、タンガ(旦過)、武家社会を考える地名イヌノババ(犬の馬場)、対外交渉史を考える地名トウボウ(唐房)をはじめ、条里関係、荘園関係、祭祀関係などの地名の分布調査、および現地調査を進めていった。地名の活用によって、研究視野が拡大される例。唐房地名は中世チャイナタウンを示す。従来の研究は対外交渉の窓口は博多のみであると強調してきたが、唐房は九州北部(福岡県、佐賀県、長崎県)、九州南部(鹿児島県)にみられる。一つの港津にトウボウ(当方)のほか、イマトウボウ(今東方)もあって、複数のチャイナタウンがあった。綱首とよばれる中国人貿易商の間に利害の対立があったことを示唆する。福岡・博多は新河口を開削して(御笠川や樋井川、名柄川)、干潟内湖を陸化し、平野の開発を進めた。それ以前には多くの内湖があって、それに面して箱崎、博多、鳥飼、姪浜、今津の港があった。自然環境・立地は類似する。博多のみが卓越していたわけではない。貿易商社たる綱首は一枚岩ではなく、競合した。それぞれが幕府、朝廷(大宰府)、院・摂関家と結びつく。地元では相互が対立する寺社と結びついた。チャイナタウンは多数あって、カンパニー・ブランチを形成した。これは考古学上の成果(箱崎遺跡で中国独自の瓦検出)とも一致する。従来の研究にはなかった視点を獲得した。