著者
佐藤 雄基
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.4-34, 2020 (Released:2021-12-01)

治承・寿永の内乱の偶然の産物として、前例のない武家政権が関東に成立した鎌倉時代において、天皇と武家の関係をどのように考えるのかは中世国家論の焦点であったが、鎌倉時代人の《現代史》認識においても難問であったため、鎌倉時代には様々な天皇像・歴史叙述が生み出されていた。本稿では、そうした天皇像の語りが、政治状況と交錯しながら、どのように変化してきたのかを論じた。現実に機能した天皇像・歴史像のもとでどのように「史料」が生成し、それらを後世の歴史家がどのように読みといたのか、複層的に議論を進める。 鎌倉時代は三度の皇統断絶を経て、天皇像の危機的な状況が生まれる一方で、新たに登場した武家政権の位置づけをめぐって武家像(将軍像)を含みこんだかたちで、天皇像が新たに語られ、また、人びとも天皇像について自らと関連づけて語り始めていた。武家を組み込んだ天皇・藤原氏の像を歴史叙述として体系化したのは『愚管抄』の著者慈円であった。第一章では、慈円の言説が黒田俊雄の提唱した権門体制論と親和的な像であること、また、源頼朝が自らを諸国守護の権門として位置づけようとした構想とも無関係ではなかった。但し、慈円の国制像は必ずしも同時代的に共有されていた訳ではない。後鳥羽院は武芸をはじめとする諸芸能を好み、文武を包摂した君主像を追求していたし、幕府の側でも源実朝が後鳥羽院を模倣して「文」に基づく統治者意識を高めていた。前例のない「武」の権力をどのように位置づけるのか、様々な模索のもとで幕府像も揺れ動いた。 こうした慈円の構想が現実味をもつのは、承久の乱後の摂家将軍・九条道家の時代であった。第二章では、「文武兼行」の摂家将軍の国制構想が、京・鎌倉に及ぼした影響を検討した。必ずしも九条家に対抗する国制像をもっていなかった鎌倉北条氏は、寛元・宝治・建長という十三世紀半ばの政変を経て、九条家を排除して、後嵯峨院政を支持し、親王将軍を擁立する。京都・公家とは異なる関東・武家が明確に成立し、公武関係が整序された。 得宗(北条氏の家督)は天皇・公家を包摂する国制像をもたなかった。鎌倉後期の治天は幕府への依存を深めながら、武家を包摂する国制像をもたず、得宗(北条氏)が天皇・親王将軍をそれぞれ支えるという国制となった。北条氏は公家政権の徳治主義を模倣し、独自に「文」を担うとともに、裁判を担うことを自己の任務としたが、天皇・公家と《距離を置く》ことを志向した。そうした北条氏の姿勢ゆえにかえって、幕府の圧倒的な実力を背景にして、人びとの間で得宗をめぐって天皇像とも関連づけて様々な噂が語られるようになった。武家独自の政道観・式目観や得宗・天皇の観念融合の結果、武家が公家・天皇と併存するかたちで中世社会のなかに定着した。
著者
春田 直紀 佐藤 雄基 薗部 寿樹 小川 弘和 榎原 雅治 呉座 勇一 湯浅 治久 高橋 一樹
出版者
熊本大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2018-04-01

令和2年度は、以下の研究活動で成果をあげた。(1)10月3日にオンラインで研究会「中世肥後の文字史料と地下社会」を主催した(熊本中世史研究会と共催)。この研究会では、池松直樹氏と兒玉良平氏が「「肥後国中世地下文書・銘文史料」概観」、春田直紀氏が「大百姓の文書と水利開発―舛田文書と現地の調査成果から―」、廣田浩治氏が「地下文書論からみた中世の肥後~肥後国中部を中心に~」という題目で研究報告し、総合討論も行った。この研究会に先立ち、池松直樹氏・杉谷理沙氏・兒玉良平氏により、肥後国中世地下文書・銘文史料目録が作成された。 (2)2月20日にオンラインで第11回中世地下文書研究会(諏訪ミニシンポジウム)を主催した。この研究会では、岩永紘和氏が「「大祝家文書・矢島家文書」原本調査報告」、金澤木綿氏が「「守矢家文書」原本調査報告」、佐藤雄基氏が「「守矢家文書」における鎌倉時代の文書」、湯浅治久氏が「戦国期の諏訪社造営と「先例」管理―地域権力と地下文書の接点―」という題目で研究報告し、村石正行氏のコメントの後全体討論も行った。(3)畿内・近国班が連携している神奈川大学国際常民文化研究機構の奨励研究のフォーラム「中世熊野の海・武士・城館」が1月23日にオンラインで開催され、本科研グループからは坂本亮太氏が「紀州小山家文書の魅力と可能性」と題して報告し、村上絢一氏がコメント報告を行った。なお、この奨励研究の成果報告書として、3月に『熊野水軍小山家文書の総合的研究』が神奈川大学より刊行された。(4)3月27日にオンラインで中世の荘園制と村落に関する研究会を主催し、朝比奈新氏と似鳥雄一氏が報告して、討論も行った。(5)研究協力者(熊本大学教育学部日本史研究室所属)の協力を得て、日本中世の「浦」関係史料に関するデータベース(全国版)を作成した。
著者
西田 友広 佐藤 雄基 守田 逸人 深川 大路 井上 聡 三輪 眞嗣 高橋 悠介 貫井 裕恵 山田 太造 堀川 康史 中村 覚 高田 智和
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2021-04-05

日本中世史学は、徹底的な史料批判を実践することで、歴史像の厳密な再構成につとめてきた。しかしながら厳密性を追究した結果、分析対象から漏れてしまう史料も生み出してしまった。それらは断簡・無年号文書・破損汚損文書といった、史料批判の構成要件を満たせなかったものである。本研究は、隣接諸科学を含めたあらゆる方法論を援用し、かつ情報化されたデータをあまねく参照できる環境を整えることで、こうした史料の可能性を徹底的に追究し、有効な研究資源とすることを目指している。併せて、かつて確かに存在していた文書の痕跡を伝来史料から丹念に抽出することで、現存史料の背景に広がる、浩瀚な史料世界の復元に取り組んでゆく。
著者
奈須 恵子 佐藤 雄基 神野 潔 小澤 実
出版者
立教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は、教育史及び歴史学(史学史)の専門家の共同研究のもと、日本の戦前に設立された官公私立大学がほぼ揃うに至る1920年代~30年代の時期を中心にして、大学における史学科及び史学関係講座に注目して研究を行う。具体的には、史学関係の教員・カリキュラムがどのような制度的枠組みのもとに置かれていったのか、それが諸学問における歴史研究・教育の位置づけとどのような関連性をもつのかを検討する。最終的には、教育・研究組織と学術・教育行政という制度的アプローチを通じて、日本の近代学問・大学における歴史研究の位置づけについて解明することを目的としている。
著者
田口 正樹 佐々木 健 林 信夫 加納 修 大月 康弘 小川 浩三 松本 英実 鈴木 直志 新田 一郎 櫻井 英治 粟辻 悠 西川 洋一 佐藤 公美 小林 繁子 神寳 秀夫 佐藤 雄基 佐藤 彰一 石部 雅亮
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

前近代の西洋と日本について、法律家を中心に、公証人、弁護人、軍人、商人など多様な専門家を取り上げて、専門家と専門知を存立・機能させる環境、専門家と専門知が権力構造において占める位置、専門家間の組織形成とネットワークの広がりといった側面を検討して、専門家と専門知の発展を国制史に組み込んだ。ドイツの研究グループとの学術交流により、専門家に関する文化史的視点を補強して、その意味でも従来の国制史の枠を広げた。
著者
佐藤 雄基
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.120, no.11, pp.1793-1829, 2011-11-20 (Released:2017-12-01)

The document form known as kishomon 起請文 was a sworn statement made under threat of punishment from the gods or Buddhas and is symbolic of the diplomatics characterizing medieval Japan as the period in Japanese history most heavily dominated by religion. The kishomon achieved its legitimacy as an integral part of the Kamakura Bakufu's system of litigation. At first glance, the use of kishomon as an instrument for letting divine beings decide in a legal system essentially based on objective decisions about what was reasonable and what was not (rihi 理非) may seem contradictory, but the author's further analysis shows that the application of such forms as sanro kisho 参籠起請 (sworn pledge to be cloistered in a religious institution to await divine judgment) was implemented only in cases where guilt or innocence could not be determined by conventional methods, thus showing its use in a role supplementary to the rule of reason as the foundation of litigation carried out under the Bakufu's Hojo Family Regency. Furthermore, the more systematic the Bakufu's institutions regarding litigation became, the less it was necessary to resort to sanro kisho, to the extent that the kishomon alternative fell into disuse altogether during the Bakufu's later years. Nevertheless, within the function played by kishomon we can see a unique feature of the medieval Japanese rational mind trying to find order by imbuing legal documents with the power of gods and Buddhas. Next the author turns to the era of governance by the households of retired emperors (insei 院政), in which kishomon began to be used in the stratified shoen 荘園 proprietary estate system and being extended to the local level. Here the instrument came be used in various ways in the adversarial aspects of litigation, rather than in the uniform manner stipulated by legal judgments issued by the Kamakura Bakufu. In other words, as changes occurred in the way rights were verified (shoban 証判) on the local level, the legal apparatus of shoen proprietors (honjo 本所) was put in place to settle disputes on the local level through the medium of kishomon, followed by Bakufu law as an extension of it. Finally, the author looks at the aristocratic regimes of the Kamakura period and finds that even during the 12th century, aristocrats preferred in principle not to adopt the then widely popular function of kishomon in their legal dealings, but rather base their rulings on precedents cited from the Ritsuryo 律令 codes. In contrast, the Kamakura Bakufu by utilizing kishomon as a vehicle for legitimizing its right to settle disputes ended up proactively incorporating the instrument into its juridical system. It was only during the regime of retired emperor Gosaga 後嵯峨 (1246-72) that aristocrats began using kishomon like the Bakufu. The author concludes that despite the heavy influence exerted by the Bakufu's use of the kishomon form of divine justice, the principles of adversarial law remained as the characteristic feature of jurisprudence in the dimension of state power and authority throughout the Kamakura period.