著者
大谷 伸治
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.124, no.2, pp.237-260, 2015-02-20 (Released:2017-12-01)

This article discusses the development of political scientist Yabe Teiji's ideas about democracy in relation to the debate over how Japan's constitutional monarchy should function (kokutairon), based on an analysis of a critique of Yabe's seminar at Tokyo Imperial University submitted in 1938 by one of his students, Odamura Kojiro, as the answers to the final examination. The author begins with an examination of the copy of Odamura's list of criticisms about the seminar, which contain corrections and revisions made in Yabe's handwriting prior to Odamura's expulsion from the university after the publication of his ideas in the national press. Yabe's glosses pertained more to adding comments about the kokutai question than merely correcting a student's final exam. With the exception of the comments devoted to Japan's "sovereign dictatorship", Yabe's comments attempted to substantiate the kokutai question in more concrete terms, in an attempt to place it within the context of the discourse regarding democracy. In the correspondence that ensued between teacher and student, Yabe was again challenged by Odamura and again made revisions to his ideas, upon examination of which, the author of the present article notices wide-ranging changes occurring in Yabe's approach to democratic institutions. In sum, in response to Odamura's demands Yabe, while not referring specifically to Japan, is found emphasizing his patented understanding of "democracy as an institutional mechanism", but also attempting to more accurately describe its connections and interaction with the idea of "kokutai". However, an even more significant change occurred in Yabe's thinking on the subject after his study of the legalistic arguments on the rule of law posed by National Socialist German Workers Party jurist Otto Koellreutter and a consequent attempt to place kokutai within the fundamental norms prioritizing the positive (as opposed to natural) constitutional legal order. Therefore, Yabe offered the possibility of providing legal legitimacy to interpretations and constitutional amendments indispensable to the implementation of the further centralization of executive powers desired by the new regime. This development in Yabe's political science was, the author argues, first given impetus by Odamura's critique. Nevertheless, since Yabe was of the fundamental opinion that kokutai was a non-entity, he did not go into concrete detail on the subject. That is to say, although kokutai exists as a fundamental norm, it has no actual function as a frame of reference for constitutional interpretation. Consequently, Yabe came to the rather illogical conclusion that constitutional interpretation was ultimately determined extra-legally within the struggle for political power, an idea that became, quite unintentionally on Yabe's part, fraught with the danger of having the reverse effect on the actual process of kokutai-based reforms.
著者
大谷 伸治
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
vol.122, pp.37-46, 2019-10-21

「原子力の平和利用」の始原をめぐっては、冷戦の中でヘゲモニーを握りたい米国政府と潜在的核保有国化を企む日本の保守派が結託しプロパガンダをおこなったことにその責を求めてきた。しかし、3・11 後に本格化した政治史的アプローチによる日本原子力開発史研究は、原子力政策が保守派と革新派の合同プロジェクトとして暗黙の合意を得て始まったこと、またそれにもとづいて55 年体制が形成されたことを明らかにした。一方、3・11 後の原発問題に関する教育実践は、高校新科目「歴史総合」を視野に、「原子力の平和利用」の始原を問う歴史学習の必要性を提起するに至っているが、保守派を断じる従来の認識に留まっており、真の意味での歴史学習を構想するには至っていない。本稿は、新しい歴史学の成果を踏まえて、保守派のみならず革新派の動きも含め総合的に、戦後日本における「原子力の平和利用」の始原を問いなおす戦後史学習案を提案する。
著者
大谷 伸治
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Education, Hirosaki University (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.120, pp.31-41, 2018-10

"「終戦」の日はいつか?"―この問いに、多くの日本人は8月15日と答えるだろう。昭和天皇がラジオ放送(玉音放送)でポツダム宣言受諾の旨を国民に伝えた日であり、現在「終戦記念日」とされているからだ。しかし、玉音放送をもって終戦と捉える見方(「8・15 終戦」史観)は正確ではない。第一に、ソ連参戦により、8月15 日後にも戦闘があった地域の存在を忘却している。第二に、8月15 日は国際法的に終戦といえない。ポツダム宣言受諾の旨を連合国に通告したのは8月14 日。正式に降伏文書に調印したのは9月2 日である。高校日本史教科書はおおむねその点を正確に記述しているものの、小中学校教科書は学び舎を除き「8・15 終戦」を採用しており、小中学校の段階で「8・15 終戦」史観を再生産してしまう現状がある。そのため、小学校から「8・15 終戦」史観を相対化する授業が必要だと考え、樺太・千島戦など北海道の事例を教材化し実践を試みた。
著者
大谷 伸治
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
vol.120, pp.31-41, 2018-10-12

“「終戦」の日はいつか?”―この問いに、多くの日本人は8月15日と答えるだろう。昭和天皇がラジオ放送(玉音放送)でポツダム宣言受諾の旨を国民に伝えた日であり、現在「終戦記念日」とされているからだ。しかし、玉音放送をもって終戦と捉える見方(「8・15 終戦」史観)は正確ではない。第一に、ソ連参戦により、8月15 日後にも戦闘があった地域の存在を忘却している。第二に、8月15 日は国際法的に終戦といえない。ポツダム宣言受諾の旨を連合国に通告したのは8月14 日。正式に降伏文書に調印したのは9月2 日である。高校日本史教科書はおおむねその点を正確に記述しているものの、小中学校教科書は学び舎を除き「8・15 終戦」を採用しており、小中学校の段階で「8・15 終戦」史観を再生産してしまう現状がある。そのため、小学校から「8・15 終戦」史観を相対化する授業が必要だと考え、樺太・千島戦など北海道の事例を教材化し実践を試みた。
著者
大谷 伸治
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.126, pp.53-60, 2021-10-25

本稿の目的は、矢部貞治(東京帝国大学法学部教授・政治学)が大学生時代に受講した講義を特定し、教授たちからどのような影響を受けたのかを考察することである。(2)では、吉野作造(政治史)、上杉慎吉(憲法、社会学)、美濃部達吉(憲法)、田中耕太郎(商法)からの影響を考察した。
著者
大谷 伸治
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-16, 2011-12-26

本稿は、昭和戦前期に国民精神文化研究所で「日本政治学」の確立に従事した藤澤親雄の思想について論じるものである。 これまでの藤澤を取り上げた研究は、藤澤=独善的な日本主義者という固定観念が強いあまりに、藤澤の言説をいくつか 引用するだけで、自由を否定する単純な反近代・反動復古主義者と評価してきた。 しかし、藤澤は主観的には、個人の価値や民主主義等の西欧近代的なものを根本的に否定したことはなく、自由主義・個 人主義が果たした歴史的意義を認め、その良さを残しながら、危機を乗り越える新しい原理を日本の国体に見出し、それを体系化しようとしていた。また、それはすべてが日本主義的・民族主義的に論じられたわけではなく、西洋諸思想との関連を有しており、「道」「産霊」といった日本的・東洋的な用語を冠していながらも、その目的意識や内容は、彼が批判した矢部貞治の衆民政論と非常に類似していた。すなわち、藤澤と矢部のデモクラシーに対する見方は根本的に違ったが、自由主義・個人主義を克服し、あらゆる対立矛盾を統合する天皇を中心とした民族共同体の構築を目指すという構造的な面において、両者は一致していた。 したがって、藤澤の「日本政治学」は、単にファシズム体制を正当化するために唱えられたとするのは正確ではなく、当 時さかんに叫ばれた近代の危機に対する政治学的な処方箋の一つであり、彼の意図に反し、当時の日本における代表的な政治学者の一人である矢部貞治の西欧的なデモクラシー論と親和性をもつものであった。 また、藤澤が、天皇機関説のみならず、天皇主権説をも否定していたことや、天皇からの恩恵的な権利だとはいえ、「臣民に食を保証する権利」という生存権に類するような権利を認めるべきだと考えていたことも興味深い事実であった。 しかし一方で、天皇の権威に服することで日本人はすべて自由であり、天皇にまつろはぬ者には強制力を行使してもかま わないと、国体・天皇に対してあまりに盲目的であった点において、藤澤の「日本政治学」はやはり問題であった。
著者
大谷 伸治
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.3, pp.35-60, 2021 (Released:2022-03-20)

本稿は、筆者が新たに発見した政治学者・矢部貞治が書いた三点の史料にもとづき、共同体的衆民政と協同民主主義の異同、すなわち戦前・戦時・戦後の連続/断絶を詳らかにし、その成果にもとづいて、周知の矢部の憲法改正案と天皇退位論を再検討するものである。 敗戦を前にした矢部政治学は、戦時期の自己批判によって二度目の発展を遂げた。 デモクラシー論では、南原繁の政治哲学に接近した。デモクラシーの本義を「古代人の自由」に見出し、共同体的衆民政が孕んだ全体主義に堕す構造的問題を克服した。それは戦前への単純な回帰ではなかった。協同民主主義は、戦前の自由的衆民政と共同体的衆民政ないし協同主義を止揚したものだった。地域の生活協同体の自治に国民が参加することで、自由と公共性を両立した民族共同体の構築をめざした。 国体論では、里見岸雄の国体論を採り入れ、一君万民論から君民一体論へ変化した。しかし、それは戦前から影響を受けていた美濃部達吉の国体論との止揚だった。これが矢部国体論の真骨頂であった。内容自体は後追いにすぎないが、新体制期の失敗を活かし、デモクラシーと接合する国体論を構築すべく、戦前・戦時に敵対していた国体論を一本化した。 こうして再編された根本規範としての国体の「表出」が憲法改正案であり、象徴天皇論に結実した。しかし、天皇はあくまで形式的な統治権総攬者として位置づけるべきだとした。この点では、国民主権を明記した日本国憲法とはやや距離がある。しかし、これを求めた理由は英国型の立憲君主制下の議院内閣制を理想としたからであった。また、天皇が政治責任を取って自主的に退位することを大前提としていた。 協同民主主義とは、敗戦が必至の状況に直面したからこそなされた矢部政治学そのものの自己革新であった。この意味で、共同体的衆民政から協同民主主義への変化はまさに、被強制性と自発性をあわせもった「敗戦転向」であった。
著者
大谷 伸治
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.126, no.2, pp.161-199, 2017-02
著者
大谷 伸治
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.121, pp.19-28, 2019-03-28

前号にて、佐藤卓己氏らの研究に学び、「8・15 終戦」史観の相対化を図る授業実践を報告した。本稿は、その教材研究で、佐藤氏の研究以後の歴史教科書における「終戦」記述と玉音写真の変化を追跡調査した結果を報告する。佐藤氏の調査当時最新の2002 年版は、玉音写真を掲載したのは2 冊のみであった。それを受けて氏は「教科書での『玉音写真』掲載は例外的」としていた。しかし、2011年以降の改訂から増え始め、現行では9冊に増加した。さらに玉音写真の掲載によって、植民地解放に関する写真・記述が削除されてしまった。
著者
大谷 伸治
巻号頁・発行日
2016-03-24

Hokkaido University(北海道大学). 博士(文学)
著者
大谷 伸治
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-16, 2011

本稿は、昭和戦前期に国民精神文化研究所で「日本政治学」の確立に従事した藤澤親雄の思想について論じるものである。これまでの藤澤を取り上げた研究は、藤澤=独善的な日本主義者という固定観念が強いあまりに、藤澤の言説をいくつか引用するだけで、自由を否定する単純な反近代・反動復古主義者と評価してきた。しかし、藤澤は主観的には、個人の価値や民主主義等の西欧近代的なものを根本的に否定したことはなく、自由主義・個人主義が果たした歴史的意義を認め、その良さを残しながら、危機を乗り越える新しい原理を日本の国体に見出し、それを体系化しようとしていた。また、それはすべてが日本主義的・民族主義的に論じられたわけではなく、西洋諸思想との関連を有しており、「道」「産霊」といった日本的・東洋的な用語を冠していながらも、その目的意識や内容は、彼が批判した矢部貞治の衆民政論と非常に類似していた。すなわち、藤澤と矢部のデモクラシーに対する見方は根本的に違ったが、自由主義・個人主義を克服し、あらゆる対立矛盾を統合する天皇を中心とした民族共同体の構築を目指すという構造的な面において、両者は一致していた。したがって、藤澤の「日本政治学」は、単にファシズム体制を正当化するために唱えられたとするのは正確ではなく、当時さかんに叫ばれた近代の危機に対する政治学的な処方箋の一つであり、彼の意図に反し、当時の日本における代表的な政治学者の一人である矢部貞治の西欧的なデモクラシー論と親和性をもつものであった。また、藤澤が、天皇機関説のみならず、天皇主権説をも否定していたことや、天皇からの恩恵的な権利だとはいえ、「臣民に食を保証する権利」という生存権に類するような権利を認めるべきだと考えていたことも興味深い事実であった。しかし一方で、天皇の権威に服することで日本人はすべて自由であり、天皇にまつろはぬ者には強制力を行使してもかまわないと、国体・天皇に対してあまりに盲目的であった点において、藤澤の「日本政治学」はやはり問題であった。