著者
山崎 達雄
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集 第24回廃棄物資源循環学会研究発表会
巻号頁・発行日
pp.119, 2013 (Released:2014-01-21)

絵葉書の発行が、日本で始めて認められるのは明治33年(1900)。名所旧跡・社寺、仏像彫刻・名画、汽車・船・飛行機の乗り物、俳優や花街の名妓、駅や浄水場等の建物・施設、博覧会や災害等、あらゆる事象が絵葉書の題材として取り上げられています。 当時、最新の技術を集めた塵芥焼却炉も、塵芥焼却炉の竣工に併せて、京都市、大阪市、東京市、名古屋市や一宮市等で、それぞれ特徴のある絵葉書が発行されている。その内容を紹介したい。
著者
鈴木 康久 山崎 達雄
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.89-152, 2021-03-31

京都市民の憩いの場である鴨川は、江戸期の寛文年間に整備された新堤によって空間的な基盤が整ったといえる。この新堤に関する研究は少なく、実態が明らかにされていない。そこで、2018 年に京都産業大学図書館が入手した宝永年間の作成と考えられる「川方勤書」と、表裏一体となる「賀茂川筋名細絵図」の記載に基づき、堤防の整備区間、形状、管理手法について明らかにすると共に、堤防の整備目的について考察した。その結果として明らかになったことは、寛文年間に鴨川の五条橋から上流の両岸に約4200 間の新堤が整備された。その後、洪水の度に西堤は修復を行っていたが、東提は延宝二年と四年の洪水で流失している。そこで、元禄十一年に改修が行われたが、東堤では下鴨領境から下鴨神社の間と、九条殿下屋敷から二条通の間は改修されずに遊水地となっていた。堤防の形状については、西堤の堤防高が2 間に対して、東堤は1 間と洪水が起きた際には東提側に溢れるようにされていたことが明らかとなった。新堤の整備目的は、この遊水地の存在と堤防高の違いなどから、洛中を洪水から守るためと考えられる。さらに、堤防の修復については、修復業務全体を川方が担い、大工方が仕様書を作成し、落札者を奉行所の与力が決める分業体制が整っていたことなど、堤防の整備内容や管理など様々なことが明らかとなり、江戸期における治水行政の一端を知ることができた意義は大きい。
著者
山崎 達雄
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集 第31回廃棄物資源循環学会研究発表会
巻号頁・発行日
pp.131, 2020 (Released:2020-11-30)

歴史的にみてごみの処理が社会的に問題となるのは、近世に入ってからである。川を塵捨場のように心得る風潮が生まれ、各都市で川への塵芥の投棄が目立ち、塵捨場の整備も進められた。明治になると、外国人の目を意識してか、立小便、入れ墨や裸体の禁止等が、明治6年に制定された「地方違式?違条例」によって取り締まられ、塵芥の川への投げ捨てや道等への放置も禁じられている。これまで当たり前であったことが陋習とみなされ、規制されたのである。条例を子供まで理解できるように、条文にルビがふられ、えときした「図解」も作成された。「図解」のなかには鮮やかに彩色されたものもあり、「違式詿違条例」の「図解」の出版状況を概括するとともに、それらを通じて、明治初期の塵芥処理事情を考察したい。
著者
山崎 達雄
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集
巻号頁・発行日
vol.28, 2017

屎尿は、古くから肥料として利用されてきたが、西洋の知識が明治になって入ってくると、人糞中のアンモニアが飛散し、人の健康を害すると考えられるようになりました。勧業寮は、肥料としての利用を広げる狙いもあって、人糞に硫酸を注いで硫酸アンモニウムとして固定する乾糞製造を、明治9年(1876)4月に本所中ノ郷出村で行っています。勧業寮の乾糞製造は、既に農業経済史の視点から紹介されていますが、東京都の公文書等も含めて、乾糞製造と悪臭苦情について改めて論述し、廃棄物の処理の記録の重要性を再認識したい。
著者
山崎 達雄
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集 第30回廃棄物資源循環学会研究発表会
巻号頁・発行日
pp.145, 2019 (Released:2019-11-20)

私達が排泄する屎尿は、下水道が整備される以前は、屎尿が肥料として有用であったことから、人力による運搬の外、高瀬舟等により、近郊農村にとどまらず、宇治や乙訓等まで運ばれ、古くから利用されていました。屎尿の運搬は、明治に入ると、博覧会等で入洛する外国人の目を気にしてか、厳しく規制され、特に、明治5年(1872)の日出1時間前に限る運搬時間の制限は、百姓にとって死活問題でありました。このため、屎尿の汲取・運搬の利便を図るため、汲取会社の設立が計画され、排出量の調査まで行われています。これらは、「京都府史」に記載されていますが、内容は断片的で、詳細が記述されたとされる京都府行政文書の「郡村掛庶務一件」は現存せず、実際に会社が設立されたのかは不明でした。汲取会社に関連する史料を、下鴨村の村長等を歴任した鈴木家文書等にみつけることができましたので、京都の廃棄物処理史の一断面として報告したい。
著者
山崎 達雄
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集
巻号頁・発行日
vol.27, 2016

廃棄物を意味する言葉として、近世においては、「塵芥」や「ごみ」が使われていますが、尼崎、峰山、紀伊田辺での「ごみ語」の用例、さらに、具体的な塵芥の内容や、その処分方法も含めて報告する。