著者
服部 亜由未 HATTORI Ayumi
巻号頁・発行日
2013-03-25

名古屋大学博士学位論文 学位の種類 : 博士(地理学)(課程) 学位授与年月日:平成25年3月25日
著者
服部 亜由未
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.182, 2009

<B>はじめに</B><BR> 近世後期から近代における北海道の基幹産業は漁業であり,その中心をなしたのがニシン漁であった.ニシンの粕は北前船により,西日本を中心とした日本各地に運ばれ,魚肥として綿や菜種などの商品作物へ利用された.太平洋戦争中,及び戦後における食料難の時代には,重要な食料として求められるなど,ニシンの漁獲量が皆無になる1960年ごろまで,需要は高かった.さらに,技術の発展や漁場の拡大により,大量の労働力が求められた.近世にはアイヌ民族を使役し,アイヌ民族が減少すると,本州からの出稼ぎ者を雇うことで成り立っていた.ニシン漁を介して多くの人々が移動し,その影響力は大きかった.<BR> しかし,1960年には北海道日本海側でのニシン漁は幕を閉じ,ニシンは「幻の魚」と称されるようになった.そして,ニシン漁の担い手たちは今,姿を消しつつある.現在,ニシン漁経験者各人の中に記憶として眠っている体験をまとめることで,史料分析からは描き出せない具体的内容を付加できる最後の段階にきているといえる.<BR> 一方,北海道の日本海沿岸地域では,ニシン漁に関係する建造物の保存運動や,「ニシン」をキーワードに観光化策への連結も主張されるようになってきている.<BR> 本報告では,ニシン漁が行なわれていた時代のニシン漁と漁民とのかかわり,特にニシンの不漁から消滅にかけた漁場経営者や出稼ぎ者の対応について検討する.また,近年のニシン漁に基づく活動を紹介し,ニシン漁を考える意義について述べたい.<BR><B>ニシン漁と漁民</B><BR> 3月下旬から5月下旬の2ヵ月という短い期間に,獲れば獲るほどお金になったニシン漁には,多くの労働力が必要とされた.特に,江戸時代に行なわれていた場所請負制度が廃止されると,漁場が増加した.漁場経営者は漁業権を獲得すれば,自由に漁場を開くことができ,漁場周辺の人だけでは足らず,多くの出稼ぎ者が雇われた.<BR> ニシンは豊漁不漁を繰り返し,その漁獲地は北へ移っていった.漁の傾向が予測できない状態で,漁場経営者は多額の出資をして準備を行ない,出稼ぎ者は出稼ぎ地域を決定しなければならなかった.漁獲量が変動する中で,ニシン漁場経営者たちは,漁を行なう網数に適した出稼ぎ者を雇い,漁獲量が多い場合には,臨時の日雇い労働者を雇う形態をとっていた.また,衰退期には,ニシン漁以外の収入源や共同での漁場経営への移行,生ニシンの加工業への転換が見られた.一方,出稼ぎ者は初年度には身内とともに出稼ぎに行くが,その後は各自の判断により地域や漁場を決めた.そして,不漁期を経験した人々への聞き取り調査からは,2年続いて不漁であれば,3年目には他の漁業や他業種の出稼ぎに転換する傾向が見受けられた.報告では,史料や聞き取り調査から判明した実態を紹介・検討する.<BR><B>ニシン漁に基づく町おこし</B><BR> 北海道日本海側の市町村には,ニシンが獲れなくなった現在においても,ニシン漁にまつわる歴史や文化が存在し,ニシン漁によってその市町村が形成されたことを感じさせる.各自治体史編纂の地域史においては,この点が強調されてはいるが,自村のみの事例紹介でとどまっている.そのような中,後志沿岸地域9市町村では,「ニシン」という共通の資源を基軸にした「後志鰊街道」構築の試みがなされている.報告者はこのような興味深い取組みを後志地域だけでなく,北海道日本海側全域,東北を中心とした出稼ぎ者の出身地域,さらには北前船の寄港地を含んだ地域にまで拡大できないものかと考えている.こうしたニシンによる地域交流圏を仮称「ニシンネットワーク」として調査研究を進め,各自治体の町おこしに協力していきたい.<BR> ここではその第1報として,出稼ぎ者の出身地域である青森県野辺地町の沖揚げ音頭保存会の活動を紹介する.当会は,利尻島への出稼ぎ者を記した「鰊漁夫入稼者名簿(利尻町所蔵)」がきっかけとなり,2008年に結成された会であり,祭りや小学校での実演,指導を行なっている.2009年9月に利尻町の沖揚げ音頭保存会との交流会を行なった.<BR><B>ニシン漁再考</B><BR> 昨今,放流事業の成果もあってか,再びニシンが獲れるようになり,話題となっている.ただし,現在漁獲される石狩湾系ニシンは,かつての北海道サハリン系ニシンとは種類が異なっており,かつてほどの漁獲量にはならないと予想される.しかし,利益至上主義による乱獲をしてはならないことを過去の経験から学ぶ必要がある.<BR> また,北海道日本海側の地域形成の議論には,出稼ぎ者出身地域とのつながりからのアプローチ「ニシンネットワーク」論が有効であると考える.そのために,北海道と出稼ぎ者出身地域との両地域を対象とし,史料の発掘や経験者への聞き取りを積み重ねていきたい.<BR>
著者
服部 亜由未
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.63, no.4, pp.303-323, 2011 (Released:2018-01-23)
参考文献数
81
被引用文献数
2

In order to scrutinize the fishery management of Hokkaido in the Taisho and early Showa eras when there were poor herring harvests, this paper focuses on the actions of herring fishery people with special reference to the records of the Minami family.The volume of the herring catch was changing, but the timing of change in the herring harvests differed by region. The herring fishery in Takashima changed dramatically during the Taisho and early Showa eras.Many of the herring fishery laborers were migrant workers. They did not work in the same fishery every year, but moved to other fisheries which gave them better conditions. The maximum concern in the fishery management, therefore, was whether a sufficient supply of very good migrant workers could be secured.How did the Minami fishery procure manpower?Employing workers was generally entrusted to the leader of herring fishermen every year. He called together workers from around his home. However, even as the poor herring catches continued, it was hard to attract workers, and so the managers themselves also came to try to employ fishery workers. The start of this practice corresponded to the year when the entire Minami fishery ran a deficit. From that time on, they went on business trips to Akita Prefecture during the two weeks after the New Year to solicit laborers.How did fishery managers deal with persistent poor catches?First, the location of the herring fishery could be shifted. If it were possible, the Minami fishery could have expanded the fishery into a richer region, but this was impossible. Therefore, it bought raw herring in Sakhalin where there was still a big catch and processed them in Takashima. The system of herring fishery changed from fishing in Takashima to purchasing raw herring from Sakhalin. Second, the Minami fishery tried to make up for the loss of the herring fishery by operating various other fisheries. Not all herring fishery losses could be compensated through this approach, however, so the Minami still had to rely on herring fishing in the following year. Third, fishery managers supplemented their fishing income by operating side businesses. In the case of the Minami family, the management of a public bath and the leasing of houses, lots, and fishery places were important and helped mitigate the various challenges of operating the fishery. It was steady income and made up for the deficits in the fishery.
著者
川田 稔 溝口 常俊 服部 亜由未
出版者
人間環境学研究会
雑誌
人間環境学研究 (ISSN:13485253)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.113-115, 2011 (Released:2011-12-29)

It is known well that in the early Showa period there were contentions between two factions of army officers; the Imperial Way Faction (Kohdoh-ha) and the Control Faction (Tohsei-ha). Nagata Tetsuzan was a leading figure of the Control Faction and Mazaki Jinzaburo, the other. Nagata sent letters to Mazaki. This paper introduces five of them in Mazaki Collection owned by Modern Japanese Political History Materials Room in National Diet Library.
著者
服部 亜由未
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.182, 2009 (Released:2009-12-11)

はじめに 近世後期から近代における北海道の基幹産業は漁業であり,その中心をなしたのがニシン漁であった.ニシンの粕は北前船により,西日本を中心とした日本各地に運ばれ,魚肥として綿や菜種などの商品作物へ利用された.太平洋戦争中,及び戦後における食料難の時代には,重要な食料として求められるなど,ニシンの漁獲量が皆無になる1960年ごろまで,需要は高かった.さらに,技術の発展や漁場の拡大により,大量の労働力が求められた.近世にはアイヌ民族を使役し,アイヌ民族が減少すると,本州からの出稼ぎ者を雇うことで成り立っていた.ニシン漁を介して多くの人々が移動し,その影響力は大きかった. しかし,1960年には北海道日本海側でのニシン漁は幕を閉じ,ニシンは「幻の魚」と称されるようになった.そして,ニシン漁の担い手たちは今,姿を消しつつある.現在,ニシン漁経験者各人の中に記憶として眠っている体験をまとめることで,史料分析からは描き出せない具体的内容を付加できる最後の段階にきているといえる. 一方,北海道の日本海沿岸地域では,ニシン漁に関係する建造物の保存運動や,「ニシン」をキーワードに観光化策への連結も主張されるようになってきている. 本報告では,ニシン漁が行なわれていた時代のニシン漁と漁民とのかかわり,特にニシンの不漁から消滅にかけた漁場経営者や出稼ぎ者の対応について検討する.また,近年のニシン漁に基づく活動を紹介し,ニシン漁を考える意義について述べたい. ニシン漁と漁民 3月下旬から5月下旬の2ヵ月という短い期間に,獲れば獲るほどお金になったニシン漁には,多くの労働力が必要とされた.特に,江戸時代に行なわれていた場所請負制度が廃止されると,漁場が増加した.漁場経営者は漁業権を獲得すれば,自由に漁場を開くことができ,漁場周辺の人だけでは足らず,多くの出稼ぎ者が雇われた. ニシンは豊漁不漁を繰り返し,その漁獲地は北へ移っていった.漁の傾向が予測できない状態で,漁場経営者は多額の出資をして準備を行ない,出稼ぎ者は出稼ぎ地域を決定しなければならなかった.漁獲量が変動する中で,ニシン漁場経営者たちは,漁を行なう網数に適した出稼ぎ者を雇い,漁獲量が多い場合には,臨時の日雇い労働者を雇う形態をとっていた.また,衰退期には,ニシン漁以外の収入源や共同での漁場経営への移行,生ニシンの加工業への転換が見られた.一方,出稼ぎ者は初年度には身内とともに出稼ぎに行くが,その後は各自の判断により地域や漁場を決めた.そして,不漁期を経験した人々への聞き取り調査からは,2年続いて不漁であれば,3年目には他の漁業や他業種の出稼ぎに転換する傾向が見受けられた.報告では,史料や聞き取り調査から判明した実態を紹介・検討する. ニシン漁に基づく町おこし 北海道日本海側の市町村には,ニシンが獲れなくなった現在においても,ニシン漁にまつわる歴史や文化が存在し,ニシン漁によってその市町村が形成されたことを感じさせる.各自治体史編纂の地域史においては,この点が強調されてはいるが,自村のみの事例紹介でとどまっている.そのような中,後志沿岸地域9市町村では,「ニシン」という共通の資源を基軸にした「後志鰊街道」構築の試みがなされている.報告者はこのような興味深い取組みを後志地域だけでなく,北海道日本海側全域,東北を中心とした出稼ぎ者の出身地域,さらには北前船の寄港地を含んだ地域にまで拡大できないものかと考えている.こうしたニシンによる地域交流圏を仮称「ニシンネットワーク」として調査研究を進め,各自治体の町おこしに協力していきたい. ここではその第1報として,出稼ぎ者の出身地域である青森県野辺地町の沖揚げ音頭保存会の活動を紹介する.当会は,利尻島への出稼ぎ者を記した「鰊漁夫入稼者名簿(利尻町所蔵)」がきっかけとなり,2008年に結成された会であり,祭りや小学校での実演,指導を行なっている.2009年9月に利尻町の沖揚げ音頭保存会との交流会を行なった. ニシン漁再考 昨今,放流事業の成果もあってか,再びニシンが獲れるようになり,話題となっている.ただし,現在漁獲される石狩湾系ニシンは,かつての北海道サハリン系ニシンとは種類が異なっており,かつてほどの漁獲量にはならないと予想される.しかし,利益至上主義による乱獲をしてはならないことを過去の経験から学ぶ必要がある. また,北海道日本海側の地域形成の議論には,出稼ぎ者出身地域とのつながりからのアプローチ「ニシンネットワーク」論が有効であると考える.そのために,北海道と出稼ぎ者出身地域との両地域を対象とし,史料の発掘や経験者への聞き取りを積み重ねていきたい.
著者
服部 亜由未 HATTORI Ayumi
巻号頁・発行日
2013-03-25 (Released:2013-05-22)

名古屋大学博士学位論文 学位の種類 : 博士(地理学)(課程) 学位授与年月日:平成25年3月25日
著者
服部 亜由未
出版者
名古屋大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2010

本年度の研究計画に基づき、以下のように研究活動を実施した。1.出稼ぎ者送出地域の新聞(『遐邇新聞』『秋田遐邇新聞』『秋田日報』『秋田魁新報』マイクロフィルム版)の記事を収集した。記事の経年分析により、ニシン漁業出稼ぎ状況、ニシン漁業に対する考え方やその変化を読み取ることができた。今回は秋田県のみであったが、こうした出稼ぎ者送出地域における報道を、他の地域と比較分析することで、労働力の輩出構造とその展開が明らかになると考えられる。2.ニシン漁獲地域の新聞(『小樽新聞』マイクロフィルム版)の記事を収集した。特に、ニシン漁衰退期にいかなる報道がなされ、各関係者がどのような対策を講じたかを検討し、その結果を『歴史と環境』の1章で述べた。1.の出稼ぎ者送出地域の報道と組み合わせることで、両側面から重層的にニシン漁業を論じることが可能となる。本年度は、後志沿岸地域のニシン漁業転換期である1935・1936年に年代を絞って検討を加えた。3.ニシン漁家経営の衰退にともなう変容に関して、『人文地理』に掲載された中規模ニシン漁家の事例と比較し、より一般性を高めるために、本年度は大規模ニシン漁家青山家の事例について実証し、両漁家の結果を比較検討した上で『歴史地理学』にまとめた。4.最終年度にあたり、これまでの研究成果を、学位論文「近代北海道における鰊漁業の歴史地理学的研究-衰退期に注目して-」にまとめた。この論文は、近代北海道の発展の基となったニシン漁業を取り上げ、従来議論されることが少なかった衰退期に焦点をあてて、ニシン漁業従事者がいかにその危機を脱しようとしたのかを考察したものである。実証研究では、3年間特別研究員として取り組んできた「近代における北海道ニシン漁業出稼ぎ」を中心に、近代北海道のニシン漁業をニシン漁家やニシン漁獲地域のみならず、出稼ぎ者や出稼ぎ者送出地域側からも検討することで、立体的に分析する方法論を展開した。