著者
溝口 常俊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.83-102, 1987
被引用文献数
1

現在のバングラディシュの商品流通において,定期市とならんで重要な役割を果たしているのが行商人である.本稿は,従来ほとんど顧みられることのなかった行商人に焦点をあて,その空間的,時間的行動を明らかにすることを目的としている.種々雑多な行商人の中でも,最もポピュラーなアルミニウム食器の行商人を選び,行商先の村,販売額,掛売額等を聴き取った.<br> アルミニウム食器の生産・流通経路は,まず諸外国から輸入されたアルミインゴットが,チッタゴンからダッカへと運搬され,工場で各種の食器が生産される.それが卸売店を経てマーケットタウンの小売店および全国に散らばる行商人販売網を通して消費者にわたる.<br> ミルザプール(ダッカ北西70kmの町)に拠点を構える行商人の行動様式をみると,年間のスケジュールでは,乾期に出稼ぎ地で行商をし,雨期は自村で漁業をおこなう.行商活動は9人のグループを組み共同生活をしながらおこなわれる。食料,生活必需品は共同購入するが,行商であげた利益は各自の財産となる.販売圏は根拠地からおよそ6km圏内で,それぞれ天秤棒を担いで売り歩く.各自得意先の村と顧客を持っており,一週間のスケジュールとしては金曜日(ムスリムの休日)に休みをとる傾向がみられる.仕入れはダッカおよび近隣の町カリヤクールの卸売店でおこない,グループの1人が交代で月に1~2回でかける.<br> 各自200人前後の顧客を持っており,彼等に対して,中古品を回収するとともに,掛売をしている.この販売方法が買手にとって都合がいいばかりでなく,売手にとっても結果的には高収益をもたらすことになっている.<br> さて,ムスリムが多数を占める社会ゆえかムスリムの女性はもちろん,ヒンドゥーの女性すらめったに外出しない.高密度に分布している定期市への買物も男性がおこなう.それゆえ,戸別訪問してくれる行商人が彼女たちに強く求められるのである.事実,筆者がある1日,行商人につきそって取材した時,女性がいききと品定いめに現われた.また,行商人の「未収金帳簿」の顧客リストに少なからず女性の名前が連ねられていた.サリー,腕輪などもその多くをほとんど行商人から入手している.<br> 今後の課題として,アルミ食器以外の多種多様の行商人の行動様式を,本稿で試みた空間的および時間的行動調査を通して分析し,明らかにしていきたい.
著者
溝口 常俊
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.97-122, 1986-04-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
22
被引用文献数
2 3

The purpose of this article is to document the changing process of the yakihata (shifting cultivation) villages from the early Edo Period to the present. The study area, Shirakawa-Go, is located in the northwest of Gifu Prefecture. There were 23 villages in Shirakawa-Go and all of them included many yakihata fields. The author discovered and studied some historical documents concerning yakihata in the Shirakawa village office. They are Genroku (1694) and An-ei (1774) Era kenchi-cho (cadasters in Edo Era), Kyoho (1720s) and Tempo (1830s) Era mountain drawings and Meiji Era cadasters (1888). The author examined the distribution of yakihata in every koaza (sub-division of village) from the Genroku Era onward, and the form and location of each unit of yakihata fields in the late Meiji Era when the greatest expansion of yakihata occurred. Also investigated were the historical changes of landownership of yakihata. The main results are summarized as follows:It has been believed in previous studies that yakihata had decreased with the passage of time. But the present study shows the opposite. That is to say, yakihata had rather increased from the early Edo Period to the late Meiji Era. Only after the late Meiji Era did they begin to decrease, becoming extinct in a fairly short time.The main location of yakihata moved from around the residential sections to land farther away, and also from gentle slopes to steeper slopes. As for the changing process of the agricultural land use, it has been hypothesized that the general tendency is that yakihata were transformed to paddy field. However, this tendency was not proven clearly in this study. Almost all the yakihata fields had turned into forest or wasteland, not to paddy fields.There were 630 units of yakihata fields in Shirakawa-Go in the late Meiji Era. The mean area of a unit was about 1ha. The typical yakihata fields were cleared at 700-1, 000m elevation, within a distance of 1-2km from the farmer's houses, and on the easterly slopes of the mountains with a gradient of 20-30 degrees.Next, in relation to the changes in landownership, the following findings were made: In the Genroku Era, some villages consisted only of honbyakusho (independent farmers), and others of honbyakusho and kakae (subordinate farmers). There was not a great difference in the landholdings among honbyakusho in each village. On the other hand, kakae owned less land than honbyakusho. However, during the latter half of Edo Period, both types of farmers were engaged in developing new land, especially of new yakihata fields. So, by the An-ei Era, the kakae came to own a considrable area of land and became independent of the honbyakusho. And at about the same time, many village-owned yakihata fields were cleared, and in these common yakihata fields, any farmer in the village was entitled to utilization at any time for their own profit. So we could not End the typical differentiation of social strata among farmers in the study area.Shirakawa-Go was characterized by its low agriculutural productivity in the Edo Period and Meiji Era. However, the population there grew during the same period of time. It can thus be inferred that the large area of yakihata fields cultivated in those days played an important role in supporting the growth of population.
著者
溝口 常俊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.14-34, 1989-06-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
49
被引用文献数
1 1

焼畑村落の変容過程を江戸時代初期から現在にわたって明らかにすることが本稿の目的である。従来の研究において,焼畑は時代が下ると少なくなると信じられていた。しかし,白川郷を対象とした本研究においては反対の結果が得られた。すなわち,焼畑は江戸時代初期から明治後半にかけてむしろ増えてきたのである。生産性の乏しい地域にもかかわらず,この時期に人口が増えているのは膨大な焼畑開墾によるものと考えられる。焼畑が減り始めたのは明治後半以降のことである。 焼畑主要地は居住地周辺から遠ざかり,山地の緩やかな斜面から急な斜面へと移っていった。農業的な土地利用の変容過程として,仮説の一つとして唱えられていた焼畑から水田という変化は白川郷では認められず,ほとんどの焼畑が森林もしくは畑地に変っていった。明治後半,白川郷には630筆の焼畑があった。1筆の平均面積は約1haであった。焼畑は700-1,000m,居住地から1-2km,傾斜20-30度の東斜面に最も多く分布していた。 土地保有の変化に関して,以下の結果が得られた。本百姓と本百姓に従属する抱からなっていた元禄時代の村において,本百姓の間では土地保有上顕著な差はなかったが,抱は本百姓より少ししか保有していなかった。しかし,江戸時代後期になると,両者ともに新しい土地を開墾し始め,ともに焼畑を開いた。安永時代までに,抱はかなりの土地を保有するようになり,本百姓から独立していった。同時期に,多くの村有の焼畑が開かれ,その共有の焼畑は村のいかなる農民もいつでも自分の利益のために使うことが認められていた。それゆえに,この地域では,他の一般の近世村落とは異なり,農民層の顕著な分解はみられなかった。 近世における広大な焼畑の開墾,焼畑耕地の分散と共同作業,農民層の未分解,焼畑の森林・畑地への転換などの事象は,山梨県湯島村でも追跡でき,焼畑村落の共通した性格と考えられる。
著者
溝口 常俊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.83-102, 1987-06-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
8
被引用文献数
1 1

現在のバングラディシュの商品流通において,定期市とならんで重要な役割を果たしているのが行商人である.本稿は,従来ほとんど顧みられることのなかった行商人に焦点をあて,その空間的,時間的行動を明らかにすることを目的としている.種々雑多な行商人の中でも,最もポピュラーなアルミニウム食器の行商人を選び,行商先の村,販売額,掛売額等を聴き取った. アルミニウム食器の生産・流通経路は,まず諸外国から輸入されたアルミインゴットが,チッタゴンからダッカへと運搬され,工場で各種の食器が生産される.それが卸売店を経てマーケットタウンの小売店および全国に散らばる行商人販売網を通して消費者にわたる. ミルザプール(ダッカ北西70kmの町)に拠点を構える行商人の行動様式をみると,年間のスケジュールでは,乾期に出稼ぎ地で行商をし,雨期は自村で漁業をおこなう.行商活動は9人のグループを組み共同生活をしながらおこなわれる。食料,生活必需品は共同購入するが,行商であげた利益は各自の財産となる.販売圏は根拠地からおよそ6km圏内で,それぞれ天秤棒を担いで売り歩く.各自得意先の村と顧客を持っており,一週間のスケジュールとしては金曜日(ムスリムの休日)に休みをとる傾向がみられる.仕入れはダッカおよび近隣の町カリヤクールの卸売店でおこない,グループの1人が交代で月に1~2回でかける. 各自200人前後の顧客を持っており,彼等に対して,中古品を回収するとともに,掛売をしている.この販売方法が買手にとって都合がいいばかりでなく,売手にとっても結果的には高収益をもたらすことになっている. さて,ムスリムが多数を占める社会ゆえかムスリムの女性はもちろん,ヒンドゥーの女性すらめったに外出しない.高密度に分布している定期市への買物も男性がおこなう.それゆえ,戸別訪問してくれる行商人が彼女たちに強く求められるのである.事実,筆者がある1日,行商人につきそって取材した時,女性がいききと品定いめに現われた.また,行商人の「未収金帳簿」の顧客リストに少なからず女性の名前が連ねられていた.サリー,腕輪などもその多くをほとんど行商人から入手している. 今後の課題として,アルミ食器以外の多種多様の行商人の行動様式を,本稿で試みた空間的および時間的行動調査を通して分析し,明らかにしていきたい.
著者
川田 稔 溝口 常俊 服部 亜由未
出版者
人間環境学研究会
雑誌
人間環境学研究 (ISSN:13485253)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.113-115, 2011 (Released:2011-12-29)

It is known well that in the early Showa period there were contentions between two factions of army officers; the Imperial Way Faction (Kohdoh-ha) and the Control Faction (Tohsei-ha). Nagata Tetsuzan was a leading figure of the Control Faction and Mazaki Jinzaburo, the other. Nagata sent letters to Mazaki. This paper introduces five of them in Mazaki Collection owned by Modern Japanese Political History Materials Room in National Diet Library.
著者
梶川 勇作 溝口 常俊
出版者
金沢大学文学部
雑誌
金沢大学文学部論集 史学・考古学・地理学篇 (ISSN:13424270)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-40, 2001-03

金沢大学文学部名古屋大学文学研究科
著者
平井 松午 溝口 常俊 出田 和久 南出 眞助 小野寺 淳 立岡 裕士 礒永 和貴 鳴海 邦匡 田中 耕市 渡辺 誠 水田 義一 野積 正吉 渡辺 理絵 塚本 章宏 安里 進
出版者
徳島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究は、各地に所蔵される近世後期に作成された実測図もしくは実測図系絵図の作成法とその記載内容・精度の比較検討を行い、その上で近世実測図を用いたGIS 解析法の確立を目指したものである。その結果、徳島藩・金沢藩・鳥取藩では藩領全域をカバーする測量図がそれぞれ独自の手法によって作成されていたこと,また近世後期の城下絵図についても測量精度が向上して,これらの測量絵図が GIS 分析に適した古地図であると判断した。