- 著者
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松村 嘉久
- 出版者
- The Association of Japanese Geographers
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- pp.171, 2014 (Released:2014-10-01)
1 はじめに 1980年代,満州国(1932-1945年)に郷愁を覚える日本人が,日中友好ムードのなか,中国東北を旅行するブームがあった(高媛2001)。それから30余年が過ぎ,満州国で過ごした記憶を持つ人々は,日本でも中国でも減り,これからの30年で確実にいなくなるであろう。満州国時代の観光資源に関しては,近い将来,その時代の当事者がいない状況で,見る側と見せる側とのせめぎあいのもと,編集され消費される時代が到来する。 満州国の首都・新京,現在の長春には,満州国時代の都市計画や地割が色濃く残り,当時の政府・軍部関係の近代建築を中心として,「観光」対象となり得る地域資源が多数存在する(周2011;邸ほか2010)。一般に,現代中国の近代化遺産は,植民地の負の「記憶」と重なるため,歴史的文化的な普遍的価値を評価しようとする動きがある一方,対外的にも対内的にも政治的な思惑や意味付けが埋め込まれ,不安定な状態に置かれ続けてきた。 本報告では,長春における満州国時代の近代遺産が現在,「観光」という文脈のもと,どのように保全・利用されているのか,加えて,見る側と見せる側のせめぎあいのなか,満州国時代の観光資源がどのように編集されてきたのかに迫りたい。2 満州国時代の観光資源の分布と保全・利用状況 人民広場や新民広場を中心に放射線状にのびる道路網,寸分狂わず南北軸を描く人民大街や新民大街。長春の衛星画像を見ると,日本や中国の伝統的都市にないヨーロッパ的な文法も取り込み,満州国の新首都を建設しようとした当時の技術者たちの意気込みが感じられる(越澤2002)。 満州国時代の近代建築が現存しているのは,旧市街地の人民広場や新民広場や文化広場の周辺,南北に走る人民大街や新民大街の沿道である。これら近代建築の多くは,補修保全され大学や病院などの施設として利用されていて,文物保護単位などで史跡指定はされているものの,一般の観光客は立ち入り難い状況にある。観光利用されているのは,太陽泛会所(旧満州国外交部)と松苑賓館(旧関東軍司令官官邸)くらいである。 中国共産党吉林省委員会(旧関東軍司令部)などは,外観の写真撮影すら阻まれる。革命政権の共産党は,旧権力の施設を接収利用したため,雲南省などの辺境でも,土司の要塞のような邸宅や大地主の立派な古民家の類も観光資源化されていない。 一方,旧市街地の中心の人民広場から,東北の外れに立地する「偽満皇宮博物館」と,西南の外れに立地する「長春電影制片廠」(旧満映)は,博物館として内外の観光客に公開されている。3 観光資源をめぐる諸相の動態 満州国時代の近代遺産を見る側は,満州国への郷愁を求めた80年代の日本人客から,90年代半ば以降,中国の国内観光客へと劇的に移行した。同時に,中国では国内観光振興と愛国主義教育との連動が強まり,見せる側の観光資源の意味づけも変容し,「愛国」・「抗日」・「中華民族」といったナショナリズムを喚起する言葉が目立つようになる(松村2000)。日本人の中国東北観光では,送り出す日本側での宣伝と,受け入れる中国側での解説に80年代からギャップがあり,90年代に広がった。 見せる側の論理に関して言及するなら,偽満皇宮博物館や長春電影制片廠などは,域外からの国内観光客の対内的なまなざしを意識して,満州国の負の記憶を増幅し,ナショナリズムを強化する象徴として,利用されている。しかしながら,その他の近代建築の多くは,それらを日常生活のなか淡々と利用することが,負の記憶を克服する手段であるかのように,全く観光資源化されていない。 2005年にマカオ歴史地区が世界文化遺産登録され,中国本土でも植民地支配と絡む近代化遺産を再評価する動きが高まった。近年,長春でも,対外的なインバウンド客のまなざしも意識しつつ,満州国時代の近代建築の普遍的価値を認め,観光利用しようとする機運も生まれつつある。日中双方で満州国世代がいなくなるなか,両国の未来を切りひらく議論は,満州国時代の遺産をどのように後世へ継承していくのかをめぐって,展開していくのかもしれない。参考文献越澤 明 2002. 『満州国の首都計画』ちくま学芸文庫. 高 媛 2001. 記憶産業(メモリアルインダストリー)としてのツーリズム─戦後における日本人の「満州」観光─. 現代思想29(4):219-229. 周 家彤 2011. 長春市における「満州国」遺跡群. 現代社会研究科研究報告6(愛知淑徳大学):97-111. 松村 嘉久 2000. 祖国中国をいかに見せるのか─観光,スペクタクル,中華民族主義─. 中国研究月報623:1-26. 邸 景一・荻野 純一 2010.『中国・東北歴史散歩─広大な大地に刻まれた近代日本の足跡─』日経BP出版.