著者
白川 葉子 高見沢 実 尹 莊植 水沼 淑子 嶋田 昌子
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住総研研究論文集 (ISSN:21878188)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.133-144, 2016 (Released:2017-08-10)

本研究は,外国人居留地としての歴史的背景と資産をもつ横浜山手に現存する個人所有の住宅(洋館)を取り上げ,その土地・建物の履歴・変遷に関する歴史的資料の調査と現所有者・居住者の聞き取り調査を行った。横浜山手には公開施設である「山手西洋館」,学校や教会が所有する元「住宅(洋館)」,個人所有の住宅(洋館)が現存しているが,そのうち個人所有は,21 棟であり,その多くは近年所有者を変えながらも,住まいとして機能し続けている。そしてその建物は,横浜山手において,地域の特徴を形成する重要な要素として,その存在意義を確立しているといえる。
著者
小沢 朝江 池田 忍 水沼 淑子
出版者
東海大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

(1)近世内裏における天皇常御殿と女御常御殿を比較すると、同じ用途の部屋でも天皇御殿の方が天井が高く、仕様も高い。また本途(1坪当たりの大工工数)は、天皇常御殿の御学問所など表向の御殿に次いで高いのに対し、女御常御殿は若宮御殿よりも低い。したがって両常御殿の寸法の差異は、女性の身体寸法に合わせたものではなく、天皇と女御の「格」の差を表現したものと判断される。(2)女御御里御殿は、女御の御産に用いる御殿であり、延宝度以降南東隅を上段、上段の西室を二の間、北室を寝所兼産所とする平面を踏襲したが、寛政度以前が上段・寝所を中心とする内向きの御殿であるのに対し、寛政度は、上・下段から成る儀式空間に変化した。この寛政度上段・二の間の「錦花鳥」「子の日の小松引き」の障壁画は、一見異なる画題ながら「根引きの小松」のモチーフで連続する。小松は、江戸時代中期以降定着した「内着帯」に用いられる道具のひとつで、寛政度の障壁画は御里御殿が「内着帯」の儀式空間に変化したことを視覚的に表現したと考えられる。(3)旧東宮御所(明治42年竣工、現:迎賓館)は、従来欧州の宮殿建築を参考にしたと指摘されていたが、洋館でありながら明治宮殿(明治21年竣工)や近世内裏の配置を参考に設計され、特に1階の寝室や居間は、東宮が東宮妃側を訪れるという近世以来の用法を前提に計画されたことが判明した。一方、東宮妃側にも政務を行う御学問所や内謁見所を設けた点は近世と大きく異なり、東宮妃の公務への関与が想定された。また、各室を東宮・東宮妃側で同型同大で設け、意匠にも大きな格差をつけないこと、東宮妃側のみ子ども用の椅子やフットレスト(足台)を配置したことは、東宮妃が東宮と「一対」であり、東宮妃が理想の妻・母であることを強調したと考えられ、明治天皇以前とは異なる「理想の家族」という新たな天皇・皇后像の表現が意図された。
著者
水沼 淑子
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
vol.25, no.59, pp.463-466, 2019-02-20 (Released:2019-02-20)
参考文献数
6

The Toma residence located in Chigasaki was constructed in 1930, and Nishimura Architect Company joined in the construction. Nishimura Architect Company was normally conducting design with construction, but in the Toma house the company was responsible only for the design. The Toma Family possess the design books, specifications and estimates by Nishimura Architect Company. Those documents show that the company used original specifications, considering the Western style housing.
著者
水沼 淑子 加藤 仁美 小沢 朝江
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住宅総合研究財団研究年報 (ISSN:09161864)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.147-158, 2001 (Released:2018-05-01)

本研究は,御用邸・離宮など皇族別荘を研究対象とし,近代における海浜別荘の成立・変容過程とその建築や使い方の特質を明らかにすることを目的とする。戦前に設けられた離宮・御用邸25件,宮家の別邸49件を見ると,宮家の別邸は震災前は御用邸が設けられた海浜別荘地に多いが震災後山間部の新興別荘地に拡がること,本邸の多くが洋館を備えるのに対し別邸は大部分和館のみであること,などの傾向を指摘できる。御用邸においては,和館であっても床に絨毯敷が導入され,椅子座が広く導入されている一方,宮家では,数寄屋の伝統を継ぐ田舎家風の意匠への嗜好が強く見られる。また,天皇家は一施設もしくは一段舎の利用者を特定し,複数施設・複数殿舎を使い分けていた。
著者
平井 聖 水沼 淑子 磯野 さとみ 加藤 仁美
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住宅総合研究財団研究年報 (ISSN:09161864)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.201-211, 1996 (Released:2018-05-01)

明治維新後,東京の旧大名家の屋敷地の多くは官公庁舎用地や軍用地にされたが,有力な旧大名等の屋敷地の内には公収されず宅地化されたものも少なくなかった。明治末期,東京の宅地総面積の約1/4は,1万坪以上の宅地を所有する100人程度の大土地所有者-旧大名などの華族,財閥,豪商,新興富豪等によって支配されていた。この内,旧大名で最大の土地をもっていたのが,旧福山藩主の阿部正桓である。旧福山藩阿部家は,中屋敷のあった本郷西片町(現在の文京区西片1・2丁目)で明治期より賃地貸家経営を行なっていた。本稿では,規模的にも性格的にも東京の宅地形成に影響を与える存在であった大名屋敷跡地の一つである本郷西片町における明治年間の住宅地形成の経緯を阿部家蔵等の史料にもとづき追跡し,基盤整備及び建設家屋の実態,貸地貸家経営のしくみについて解明することを目的とした。その結果,以下の点が明らかとなった。(1)宅地の基盤整備は,従来からの屋敷地内の道路の骨格を基木として道路を開設し宅地割にあわせた街区を形成し,明治後半には下水,水道,瓦斯,電話等が整備されていった。(2)貸地賃家経営の実態として,旧藩士の居住に対し優遇措置を施していたほか,借地人に対し借地上の建設家屋に対し建築費の助成をしたり,借地内の下水や井戸の面積を地代対象面積から差し引いたり,借地上に家屋が末建築である期間の地代を猶予するなど,さまざまな方策を講じていた。(3)建設家屋の実態については,明治10年代の作事関係書類によりその仕様と平面,坪当たり単価等が明らかとなった。(4)宅地及び貸家の維持管理は,家職や差配人,人夫により地主の負担で,道路・下水・井戸・貸家の修繕のほか,防疫から防災や防犯等生活面にいたるまで行なわれていた。今後は,賃地,賃家,建設家屋と居住者の関係,権利移動の実態について解明していく予定である。