著者
土肥 直美 田中 良之
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.95, no.3, pp.325-343, 1987 (Released:2008-02-26)
参考文献数
64
被引用文献数
2 2

周知のように,北部九州地方は,金関の"渡来混血説"によって,弥生時代の開始期に朝鮮半島からの移住があったとされる地域である(金関,1976).この金関の説に従うならば,北部九州は,弥生時代における渡来遺伝子の影響が最も強かった地域と考えられる.そして,これらを支持する成果も,人類学•考古学双方から得られつつある(池田,1982;埴原,1984;山口,1982;永井,1985;尾本,1978;小田,1986;下条,1986;田中,1986).したがって,古墳人形質の地理的変異は,弥生時代以来の混血による遺伝子拡散の過程とみることができよう.我々はこれらの成果を踏まえた上で,さらに,北部九州を中心とする渡来遺伝子の動き,すなわち,より詳細な渡来の実態について形質人類学的立場からのアプローチを試みた.資料は,主として九州大学所蔵の古墳人頭蓋であるが,既報告のデータもできるだけ収集し,併せて使用した.計測はマルチンの計測法(Martin & Saller,1957)および顔面平坦度(山口,1973)について行い,地理的変異をみるために主成分分析を適用した.また,北部九州からの拡散過程をみるために,渡来的形質の分布パターンと北部九州からの距離との関係を, single step migration モデル(Hiorns & Har-rison,1977)との対比において考察した.結果は,マルチンの計測値•顔面平坦度ともに,北部九州における渡来遺伝子の強い影響を支持した.特に,マルチンの計測値については,第1主成分のスコアと筑前から各群までの距離の関係から,北部九州を中心とする渡来的形質の地理勾配が再確認された.この地理勾配には明らかな方向性が認められたが,筑前を起点として描くカーブはルートによって異なる.すなわち,1)筑後•肥前および豊後を経て南九州に至るルートは,急激な fa11-off curve を描く.これは,弥生人において金隈から大友を経て西北九州へと至るカーブと同様である.2)北豊前から南豊前•豊後を経て南九州に至るルートは,緩やかな fal1-off curve を描く.これらに対して,3)北豊前•西瀬戸内を経て中部瀬戸内に至るルートは直線をなし,山陰を経て近畿へと至るルートは不規則な線を描く.また,金隈を起点として,佐賀東部•土井ケ浜•古浦とつないだ線も不規則である.1)2)は,ともに fall-off curveを描くものの,その傾斜は大きく異なる.両ルートは,基本的に,前者が山間部•海浜部を経由するのに対して,後者は平野部を通る点に大きな相違点がある.さらに,3)のルートは single step migration モデルのようなランダムな拡散では説明できないパターンであり,渡来系遺伝子の高い移動性を示したものと考えられる.これらの分布パターンは,古墳時代における政治的•文化的関係をそのまま反映したものではない.したがって,これらは,むしろ渡来人および混血を経たその子孫が,北部九州を起点として,婚姻や移住によって,農耕に適した土地へと拡散していった過程を示すものと考えられる.
著者
宮本 一夫 中橋 孝博 田中 良之 小池 裕子 田崎 博之 宇田津 徹朗 辻田 淳一郎 大貫 静夫 岡村 秀典
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2004

本研究は、山東半島における先史時代の水田探索調査、膠東半島の石器の実測調査、黒陶の安定同位体比分析、山東半島先史時代古人骨の形質人類学的分析、遼東半島四平山積石塚の分析の5分野から構成されている。これらの調査研究は、研究代表者が提起する東北アジア初期農耕化4段階説における第2段階と第3段階の実体を解明するための研究である。まず第1の水田探索調査では、これまで山東で水田遺跡が発見されていなかったが、楊家圏遺跡と両城鎮遺跡でボーリング調査と試掘調査を行うことにより、楊家圏遺跡では龍山文化期に畦畔水田が存在する可能性が高まった。また膠東半島の趙家荘遺跡では龍山文化期の不定型な畦畔水田が発見されており、水田のような灌漸農耕が山東において始まった可能性が明らかとなった。さらに黒陶の安定同位体比分析により、山東東南部の黄海沿岸では龍山文化期にイネがアワ・キビより主体であることが明らかとなった。これはフローテーションによる出土植物遺体分析と同じ結果を示している。さらにこの分析によってイネであるC3植物が膠東半島、遼東半島と地理勾配的に低くなっていることが確かめられ、このルートでイネが龍山文化期に伝播した可能性が高まった。これは東北アジア農耕化第2段階にあたる。第5の研究テーマで分析した四平山積石塚の分析により、この段階に膠東半島から遼東半島に人が移動し在来民と交配していく過程が明らかとなった。さらに石器の分析により、石器もこの段階から膠東半島から遼東半島への伝播が存在することが証明された。さらに東北アジア農耕化第3段階である岳石文化期には、多様化した加工斧と農具が伝播しており、木製農具などの定型化した農具と水田など灌概農耕が、この段階に人の動きとともに膠東半島から遼東半島へ拡散した可能性が高い。なお、形質人類学的な分析では限られた資料数のため人の系統に関する決定的な証拠を得ることはできなかった。
著者
田中 良之 金 宰賢
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1997

まず、記紀にあらわれるモガリは期間に長短があること、また、古墳主体部の墓墳周辺の存在する柱穴が「殯屋」であるこという見解が一部で定説扱いされていることを確認した。このうち、古墳主体部周辺の柱穴については、柱穴が墓墳に切られた例もあり、墓墳内に石棺を囲んで掘られた例もあることから、造墓前や埋葬前の「結界」である場合があると考えた。この他にも、古墳築造時の作業用の覆い屋であるとの指摘もあることから、少なくとも「殯屋」は否定されることが明らかになった。次に、松山市葉佐池古墳1号石室出土人骨付着のハエ蛹を実態顕微鏡下で観察した。その結果、ハエの種はニクバエ属とヒメクロバエ属のものであることが明らかとなった。この両者のハエの生態が、前者は死後すぐに死体にたかり産卵する一般的なハエであるのに対して、後者は死体が腐敗した後にたかり産卵する種であることから、葉佐池古墳1号石室出土人骨は、死後少なくとも1週間前後は、ハエが活動するような明かりのある場所に置かれており、埋葬されていなかったことが明らかとなった。また、えびの市島内地下式横穴墓において、埋葬後腹部に発生したガスによって骨盤腔外に排出された便が検出されたことから、ガスが腹腔内に充満する期間、おそらくは2〜3週間の間にはモガリを終えて埋葬されたことがうかがえた。以上から、古墳時代のモガリは、古墳上で行われたものではなく、1週間前後以上で2〜3週間以内の間行われるのが通常であった可能性が高く、香川県宮ヶ尾古墳線刻壁画のような小屋状の施設が、これらの所見に最もふさわしい「殯屋」のあり方であると考えられる。また、記紀に記載されたモガリ期間の長さは、死者の階層の高さに基づく墳墓築造と葬送儀礼の長さを反映したものと考えられる。
著者
西谷 正 甲元 眞之 山本 輝雄 中橋 孝博 田中 良之 宮本 一夫 中園 聡
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1994

平成8年度は、本研究3個年計画の最終年度に当たるので、過去2年間にわたって実施した調査成果を総合的にまとめ上げることを主眼とする研究を実施した。そのため、収集した膨大な調査資料を改めて整理、分析するとともに、研究成果報告書の原稿を執筆した。その間、支石墓研究会も開催し、第15回をもって最終回とした。その際、中国の遼東半島や朝鮮の西南海岸部・済州島の支石墓について補足し、また、日本の出土遺物として重要な供献小壺についても研究の現状を把握した。その結果を要約すると、支石墓は中国の東北地方から朝鮮の全地域において、主として青銅器時代に築造された。中国では、いわゆる石蓋土壙墓が支石墓を考える上で重要である。おそらく中国で成立した卓子形の支石墓は、朝鮮の西北部にまず伝播した後、変容を遂げながら南部地方へと波及し、碁盤形支石墓を生んだ。朝鮮の全域で独特に発達した支石墓は、いうまでもなく、もともと巨大な上石とそれを支える支石からなることに特徴があるところから名づけられた墳墓である。ところが、最近の調査例のように、実に多種多量の形式が見られるようになってくると、形式分類もひじょうに複雑なものとならざるをえない。それでもなお、共通点として指摘できるのは、巨大な上石を使用していることであるのに対して、支石をもたないものもけっして少なくないのである。そこで、巨大な上石の下にある墓室の構造を基準として形式分類を試みた。日本の支石墓は、縄文時代終末期から弥生時代中期にかけて、北部九州を代表する墓制の一つである。上石の下部に埋葬施設としての土壙・甕棺・配石などがある。古くは、土壙の場合が多いが、新しくなると甕棺が多くみられる。甕棺を埋葬施設とする点は、日本独自の特徴である。支石墓の存在形態を見ると、大規模な群集を示さず、数基ないし十数基からなる。