- 著者
-
中橋 孝博
飯塚 勝
- 出版者
- 一般社団法人 日本人類学会
- 雑誌
- Anthropological Science (Japanese Series) (ISSN:13443992)
- 巻号頁・発行日
- vol.106, no.1, pp.31-53, 1998 (Released:2011-07-01)
- 参考文献数
- 77
- 被引用文献数
-
3
5
弥生文化がいち早く開花した北部九州において, 縄文から弥生への変革を担ったのは土着の人々か, それともこの時期に大陸から渡来した人々なのか, この点について出土人骨に関する形態学的, 人口学的な観点から考察を加えた。当地域の弥生人骨の出土は中期に集中しており, 縄文晩期~弥生初期の住人については資料欠落のため, 直接的な検討ができない。しかし, 中期人骨を判別分析した結果によると, その中に含まれる縄文系弥生人の比率は10~20%に留まり, 殆どが渡来系弥生人で占められている。中期の前半と後半でも人骨形質に変化はなく, こうした人口構成は遅くとも中期初めまでに形成されたと考えられる。もし, 水稲耕作を柱とする弥生社会の出現と発展が土着の縄文系弥生人に依るものだとすると, 200~300年後の同地域に, 形質の大きく異なる渡来系の人々が大多数を占めるような社会が出現することは説明困難である。考古学的諸事実から, 初期渡来人の数は土着集団に較べて少数であったと考えられるが, 土着系集団と渡来系集団の間に人口増加率で大きな差があったと想定すれば, 弥生中期に至るまでの人口比の逆転現象は説明可能である。弥生文化の開花とその発展は, 当初より渡来系集団が牽引者となり, 急速に自身の人口を増やしていった可能性が高い。