著者
宮本 一夫 中橋 孝博 田中 良之 小池 裕子 田崎 博之 宇田津 徹朗 辻田 淳一郎 大貫 静夫 岡村 秀典
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2004

本研究は、山東半島における先史時代の水田探索調査、膠東半島の石器の実測調査、黒陶の安定同位体比分析、山東半島先史時代古人骨の形質人類学的分析、遼東半島四平山積石塚の分析の5分野から構成されている。これらの調査研究は、研究代表者が提起する東北アジア初期農耕化4段階説における第2段階と第3段階の実体を解明するための研究である。まず第1の水田探索調査では、これまで山東で水田遺跡が発見されていなかったが、楊家圏遺跡と両城鎮遺跡でボーリング調査と試掘調査を行うことにより、楊家圏遺跡では龍山文化期に畦畔水田が存在する可能性が高まった。また膠東半島の趙家荘遺跡では龍山文化期の不定型な畦畔水田が発見されており、水田のような灌漸農耕が山東において始まった可能性が明らかとなった。さらに黒陶の安定同位体比分析により、山東東南部の黄海沿岸では龍山文化期にイネがアワ・キビより主体であることが明らかとなった。これはフローテーションによる出土植物遺体分析と同じ結果を示している。さらにこの分析によってイネであるC3植物が膠東半島、遼東半島と地理勾配的に低くなっていることが確かめられ、このルートでイネが龍山文化期に伝播した可能性が高まった。これは東北アジア農耕化第2段階にあたる。第5の研究テーマで分析した四平山積石塚の分析により、この段階に膠東半島から遼東半島に人が移動し在来民と交配していく過程が明らかとなった。さらに石器の分析により、石器もこの段階から膠東半島から遼東半島への伝播が存在することが証明された。さらに東北アジア農耕化第3段階である岳石文化期には、多様化した加工斧と農具が伝播しており、木製農具などの定型化した農具と水田など灌概農耕が、この段階に人の動きとともに膠東半島から遼東半島へ拡散した可能性が高い。なお、形質人類学的な分析では限られた資料数のため人の系統に関する決定的な証拠を得ることはできなかった。
著者
西本 豊弘 藤尾 慎一郎 永嶋 正春 坂本 稔 広瀬 和雄 春成 秀樹 今村 峯雄 櫻井 敬久 宮本 一夫 中村 俊夫 松崎 浩之 小林 謙一 櫻井 敬久 光谷 拓実 設楽 博巳 小林 青樹 近藤 恵 三上 喜孝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
学術創成研究費
巻号頁・発行日
2004

弥生時代の開始が紀元前10世紀末であることが明らかとなった。その後、日本列島各地へは約500年かかってゆっくりと拡散していった。さらに青銅器・鉄器の渡来が弥生前期末以降であり、弥生文化の当初は石器のみの新石器文化であることが確実となった。
著者
中橋 孝博 分部 哲秋 北川 賀一 篠田 謙一 米田 穣 土肥 直美 竹中 正巳 甲元 眞行 宮本 一夫 小畑 弘己
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2008

In order to elucidate the homeland of immigrant Yayoi people and Jomon people, we performed morphological, mtDNA, and stable isotope analysis on ancient human skeletal remains of China, Russia, Mongolia, Okinawa and Taiwan, where people' s exchange with the Japanese archipelago in prehistoric age have been assumed. As a result, we obtained a lot of new, useful data regarding the ancients people in these area. And, in Ishigaki Island, we determined the age of human fossil(about 20, 000 years ago) and have contributed to the discovery of the first Pleistocene human fossil in this area.
著者
宮本 一夫 宇田津 徹朗 田中 克典 三阪 一徳 小畑 弘己 上條 信彦 米田 稔 欒 豊実 靳 桂雲
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2015-04-01

研究代表者が提起する東北アジア初期農耕化4段階説の内、第2段階の山東半島から遼東半島へのイネの伝播仮説を、土器圧痕調査で実証した。同段階の偏堡文化の朝鮮半島無文土器文化の成立への影響を、山東半島・遼東半島の土器製作技術の調査によって明らかにした。また、この段階の山東半島の水田の存在について楊家圏遺跡のボーリング調査によって示した。さらに第4段階の北部九州の弥生文化の成立年代を炭化米の年代によって明らかにした。
著者
宮本 一夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.151, pp.99-127, 2009-03

夫余は吉長地区を中心に生まれた古代国家であった。まず吉長地区に前5世紀に生まれた触角式銅剣は,嫰江から大興安嶺を超えオロンバイル平原からモンゴル高原といった文化接触によって生まれたものであり,遼西を介さないで成立した北方青銅器文化系統の銅剣であることを示した。さらに剣身である遼寧式銅剣や細形銅剣の編年を基に触角式銅剣の変遷と展開を明らかにした。それは吉長地区から朝鮮半島へ広がる分布を示している。その中でも,前2世紀の触角式鉄剣Ⅱc式と前1世紀の触角式鉄剣Ⅴ式は吉長地区にのみ分布するものであり,夫余の政治的まとまりが成立する時期に,夫余を象徴する鉄剣として成立している。前1世紀末から後1世紀前半の墓地である老河深の葬送分析を行い,副葬品構成による階層差が墓壙面積や副葬品数と相関することから,A型式,B型式,C・D型式ならびにその細分型式といった階層差を抽出する。この副葬品型式ごとに墓葬分布を確かめると,3群の墓地分布が認められた。すなわち南群,北群,中群の順に集団の相対的階層差が存在することが明らかとなった。また,冑や漢鏡や鍑などの威信財をもつ最上位階層のA1式墓地は男性墓で3基からなり,南群内でも一定の位置を占地している。異穴男女合葬墓の存在を男性優位の夫婦合葬墓であると判断し,家父長制社会の存在が想定できる。A1式墓地は族長の墓であり,父系による世襲の家父長制氏族社会が構成され,南群,北群,中群として氏族単位での階層差が明確に存在する。これら氏族単位の階層構造の頂点が吉林に所在する王族であろう。紀元後1世紀には認められる始祖伝説の東明伝説の存在から,少なくともこの段階には既に王権が成立していた可能性が想定される。夫余における王権の成立は,老河深墓地の階層関係や触角式銅剣Ⅴ式などの存在から,紀元前1世紀に遡るものであろう。沃沮は考古学的文化でいうクロウノフカ文化に相当する。クロウノフカ文化の土器編年の細分を行うことにより,壁カマドから直線的煙道をもつトンネル形炉址,さらに規矩形トンネル形炉址への変化を明らかにし,いわゆる炕などの暖房施設の起源がクロウノフカ文化の壁カマドにある可能性を示した。さらにこうした暖房施設が周辺地域へと広がり,朝鮮半島の嶺東や嶺西さらに嶺南地域へ広がるに際し,土器様式の一部も影響を受けた可能性を述べた。こうした一連の文化的影響の導因を,紀元前後に見られるポリッツェ文化の南進と関係することを想定した。Fuyu was an ancient state that appeared around the area of Jichang. In this paper, the author shows that the antennae-type bronze swords that first appeared in the Jichang region in the 5th century B.C.E. were the result of cultural contact among the peoples from the Hulunbuir plains on the other side of the Daxingan Mountains from the Neng River to the Mongolian Plateau, and that they belonged to a northern bronze culture that was established independently from Liaoxi. The author also identifies changes and developments in antennae-type bronze swords based on a chronology for Liaoning-type swords and narrow swords, the type used for the body of the sword. It was found that these swords were distributed from the Jichang region to the Korean Peninsula. The IIc-type antennae-type iron sword from the 2nd century B.C.E. and the antennae-type V-type iron sword dating from the 1st century B.C.E. are distributed in the Jichang region only, and developed as iron swords that symbolized the Fuyu at the time when Fuyu became politically united. The author also made a study of Laoheshen funerals that took place at cemeteries dating from the 1st century B.C.E. through to the first half of the 1st century C.E. Using the differences in rank based on the composition of funerary items that have a correlation to grave area and the number of funerary items, the author extracted four different ranks (A, B, C and D) and their subtypes. By verifying the grave distribution for each type of funerary item, the author identified a distribution of three clusters of cemeteries. That is to say, the existence of a relative difference in the ranks of the groups emerged in order from the southern cluster to northern cluster to the middle cluster. The A1-type cemetery for those of the highest rank who had prestige items such as helmets, Han mirrors and 'fu' cooking vessels was a male cemetery consisting of three graves, which occupied a certain position within the southern cluster. We may assume that society evolved, to one that buried couples together with the male taking precedence, to a patriarchal society, based on aehaeological evidence that buried females and males together but in different pits. A1-type graves are those of clan chieftains. A patriarchal society developed based on patrilinear descent and the differences in rank of the clan units are evident from the southern, northern and middle clusters. We may speculate that the royal family located in Jilin stood at the apex of this hierarchical structure for these clan units. From the existence of the Dongming myth detailing the clan's primogeniture confirmed to date from the 1st century C.E, it is possible that by this stage, if not earlier, sovereignty had already been established. Given the hierarchical relationships at the Laoheshen cemetery and the existence of V-type antennae-type bronze swords, the establishment of sovereignty in Fuyu most likely goes back to the 1st century B.C.E. In terms of archaeology, the culture of Woju is comparable to the Krounovka culture. Sub-typing pottery chronology for Krounovka culture revealed that wall furnaces gave way to tunnel-shaped fire pits with linear flues, which then evolved into standard tunnel-shaped fire pits. Thus, the author demonstrates that it is possible that the origin of heating systems such as the kang lies in the wall furnaces found in Krounovka culture. The author also explains that the spread of this sort of heating to surrounding areas and then further to the Yeongdong, Yeongseo and then the Yeongnam regions of the Korean Peninsula, possibly had an effect on some pottery types as well. The author concludes that a contributing factor to this sequence of cultural influences was the progression southward of Pol'tse culture that occurred around the beginning of the Christian era.
著者
宮本 一夫
出版者
日本中国考古学会
雑誌
中国考古学 = Chinese archaeology (ISSN:13490249)
巻号頁・発行日
no.17, pp.7-20, 2017-12

遼東半島は,遼西から朝鮮半島への道のりの中間に位置するとともに,山東から遼東 半島を経て朝鮮半島という道のりが存在するように,東北アジアの文明の十字路ということができる.ここでの考古学的な調査は1895 年の鳥居龍蔵の調査に始まった.その後,東亜考古学会による1927 年の貔子窩の調査によって本格的発掘調査が始まり,1942 年の日本学術振興会による文家屯貝塚の調査まで日本人研究者による発掘調査が続いた.こうした資料は大半が今日も日本の大学で所蔵されており,植民地的考古学として位置づけることができるであろう.日本人の大陸侵略による植民地考古学資料としての戦前の発掘調査を振り返るとともに,その学史的動向を探る.そして,今日の学問的水準によって発掘調査品という一次資料を再検討や再調査する意義とその成果をまとめる.特に遼東半島の先史土器編年の確立こそが,朝鮮半島や日本列島を含めた東北アジア全体の歴史的な叙述を行うにあたって重要であることを述べたい.さらに,こうした植民地考古学的資料を扱うことによって,今日の中国考古学における日本人研究者の役割を語ってみたい.// ------------- //辽东半岛位于辽西和朝鲜半岛中间,又有从山东经辽东半岛至朝鲜半岛的路线,可以称作是东北亚文明的十字路口。日本研究者有关辽东半岛的考古学调查肇始于1895 年的鸟居龙藏。真正意义上的发掘调查始自东亚考古学会1927 年貔子窝的调查,持续至日本学术振兴会1942 年文家屯贝丘的调查。如今,这些资料中的大部分依旧被日本的大学收藏,可以将其定位成殖民地考古学。作为日本人侵略大陆的殖民地考古学的材料,回首这些战前发掘的调查,以探求其学术史的动向。依照当今的学术水准,重新审视和调查这些第一手的材料(发掘调查品),并总结其意义和成果。尤其,伴随着辽东半岛先史陶器编年的确立,涵盖朝鲜半岛及其日本列岛的整个东北亚的历史性的叙述可以说是非常重要的。再有,根据处理这些殖民地考古学的材料,想要陈述当今日本研究者在中国考古学研究中的作用。
著者
西谷 正 甲元 眞之 山本 輝雄 中橋 孝博 田中 良之 宮本 一夫 中園 聡
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1994

平成8年度は、本研究3個年計画の最終年度に当たるので、過去2年間にわたって実施した調査成果を総合的にまとめ上げることを主眼とする研究を実施した。そのため、収集した膨大な調査資料を改めて整理、分析するとともに、研究成果報告書の原稿を執筆した。その間、支石墓研究会も開催し、第15回をもって最終回とした。その際、中国の遼東半島や朝鮮の西南海岸部・済州島の支石墓について補足し、また、日本の出土遺物として重要な供献小壺についても研究の現状を把握した。その結果を要約すると、支石墓は中国の東北地方から朝鮮の全地域において、主として青銅器時代に築造された。中国では、いわゆる石蓋土壙墓が支石墓を考える上で重要である。おそらく中国で成立した卓子形の支石墓は、朝鮮の西北部にまず伝播した後、変容を遂げながら南部地方へと波及し、碁盤形支石墓を生んだ。朝鮮の全域で独特に発達した支石墓は、いうまでもなく、もともと巨大な上石とそれを支える支石からなることに特徴があるところから名づけられた墳墓である。ところが、最近の調査例のように、実に多種多量の形式が見られるようになってくると、形式分類もひじょうに複雑なものとならざるをえない。それでもなお、共通点として指摘できるのは、巨大な上石を使用していることであるのに対して、支石をもたないものもけっして少なくないのである。そこで、巨大な上石の下にある墓室の構造を基準として形式分類を試みた。日本の支石墓は、縄文時代終末期から弥生時代中期にかけて、北部九州を代表する墓制の一つである。上石の下部に埋葬施設としての土壙・甕棺・配石などがある。古くは、土壙の場合が多いが、新しくなると甕棺が多くみられる。甕棺を埋葬施設とする点は、日本独自の特徴である。支石墓の存在形態を見ると、大規模な群集を示さず、数基ないし十数基からなる。
著者
宮本 一夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.151, pp.99-127, 2009-03-31

夫余は吉長地区を中心に生まれた古代国家であった。まず吉長地区に前5世紀に生まれた触角式銅剣は,嫰江から大興安嶺を超えオロンバイル平原からモンゴル高原といった文化接触によって生まれたものであり,遼西を介さないで成立した北方青銅器文化系統の銅剣であることを示した。さらに剣身である遼寧式銅剣や細形銅剣の編年を基に触角式銅剣の変遷と展開を明らかにした。それは吉長地区から朝鮮半島へ広がる分布を示している。その中でも,前2世紀の触角式鉄剣Ⅱc式と前1世紀の触角式鉄剣Ⅴ式は吉長地区にのみ分布するものであり,夫余の政治的まとまりが成立する時期に,夫余を象徴する鉄剣として成立している。前1世紀末から後1世紀前半の墓地である老河深の葬送分析を行い,副葬品構成による階層差が墓壙面積や副葬品数と相関することから,A型式,B型式,C・D型式ならびにその細分型式といった階層差を抽出する。この副葬品型式ごとに墓葬分布を確かめると,3群の墓地分布が認められた。すなわち南群,北群,中群の順に集団の相対的階層差が存在することが明らかとなった。また,冑や漢鏡や鍑などの威信財をもつ最上位階層のA1式墓地は男性墓で3基からなり,南群内でも一定の位置を占地している。異穴男女合葬墓の存在を男性優位の夫婦合葬墓であると判断し,家父長制社会の存在が想定できる。A1式墓地は族長の墓であり,父系による世襲の家父長制氏族社会が構成され,南群,北群,中群として氏族単位での階層差が明確に存在する。これら氏族単位の階層構造の頂点が吉林に所在する王族であろう。紀元後1世紀には認められる始祖伝説の東明伝説の存在から,少なくともこの段階には既に王権が成立していた可能性が想定される。夫余における王権の成立は,老河深墓地の階層関係や触角式銅剣Ⅴ式などの存在から,紀元前1世紀に遡るものであろう。沃沮は考古学的文化でいうクロウノフカ文化に相当する。クロウノフカ文化の土器編年の細分を行うことにより,壁カマドから直線的煙道をもつトンネル形炉址,さらに規矩形トンネル形炉址への変化を明らかにし,いわゆる炕などの暖房施設の起源がクロウノフカ文化の壁カマドにある可能性を示した。さらにこうした暖房施設が周辺地域へと広がり,朝鮮半島の嶺東や嶺西さらに嶺南地域へ広がるに際し,土器様式の一部も影響を受けた可能性を述べた。こうした一連の文化的影響の導因を,紀元前後に見られるポリッツェ文化の南進と関係することを想定した。
著者
宮本 一夫
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010-04-01

1941年、日本人研究者によって調査された中国遼東半島の上馬石貝塚の遺物実測や写真撮影を行い、発掘調査報告書を刊行するための基礎作業を行った。調査地点や層位関係を基に、出土土器の相対的な年代関係を、型式学的に明らかにした。これにより、遼東半島新石器時代から初期鉄器時代までの、ほぼすべての土器編年を明らかにした。そして、BII区が遼寧式銅剣段階であることを明らかにし、その実年代が西周後期から春秋期にあることから、弥生開始の実年代が前8世紀にあることを検証した。さらに、土器の圧痕分析や土器製作技術の分析から、無文土器時代の文化内容が遼東に起源することを明らかにした。
著者
秋山 進午 田 広金 高浜 秀 山本 忠尚 宮本 一夫 大貫 静夫 TIAN Guangjin 郭 治中 郭 素新 谷 豊信 岡村 秀典
出版者
大手前女子大学
雑誌
国際学術研究
巻号頁・発行日
1995

〔研究成果概要〕我々は中国内蒙古文物考古研究所(代表:田広金)と共同して、内蒙古涼城県にある湖"岱海"において"遊牧騎馬民族文化の生成と発展過程の考古学的研究"を行った。"岱海"は内蒙古の南東部に位置し,万里の長城の北,僅か10Kmにある。いわゆる"内蒙古長城地帯"のただ中である。湖の南岸の丘陵上には仰韶文化遺跡,北岸には龍山文化とオルドス青銅器文化遺跡が並び,農耕文化と牧畜文化が入り交じる"農牧交錯地帯"である。我々はこの,研究テーマに対する絶好の地点を選び,中国で最初の"地域研究"を行った。[平成7年度]初年度には先ず仰韶文化後期の「王墓山上遺跡」の発掘調査を行い,住居址15基ほかの遺構と土器,石器,骨角器など多数の遺跡を発見した。調査によって,この原始聚落が層位的に2時期に分かれ,また,遺物の研究によって,第2期をさらに前・後に細分することが出来た。[平成8年度]二年目には石虎山I・II遺跡の発掘調査を行った。石虎山遺跡は仰韶文化前期の遺跡で,黄河流域の仰韶文化が北方へ拡大して,この地に初めて農耕をもたらした重要遺跡である。発掘調査によってII遺跡から14基の住居址や多数のピット,墓等を発掘し,後岡一期文化期の聚落の状況を初めて明確にした。II遺跡では聚落を巡る環濠とその中から多数の獣骨を発見し,当時の生活環境研究に貴重な資料を得た。[平成9年度]三年目には飲牛溝遺跡においてオルドス青銅器文化期の墓地を発掘し26基の土坑墓を発掘し,副葬品や犠牲畜骨を発見した。併せて龍山文化期の板城遺跡の考古測量調査と住居址2基を発掘した。以上のように,3か年の調査期間において,この地域における農耕の始まりから,その展開過程,続いて牧畜を主たる生業とするオルドス青銅器文化の牧畜民への交代の様相を追求することが出来た。発掘調査と平行して,東は遼寧省から西は寧夏回族自治区,甘粛省に到る万里の長城に沿って関係遺跡と遺物の調査を行い,研究資料の蓄積に務めた。