著者
西谷 正 甲元 眞之 山本 輝雄 中橋 孝博 田中 良之 宮本 一夫 中園 聡
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1994

平成8年度は、本研究3個年計画の最終年度に当たるので、過去2年間にわたって実施した調査成果を総合的にまとめ上げることを主眼とする研究を実施した。そのため、収集した膨大な調査資料を改めて整理、分析するとともに、研究成果報告書の原稿を執筆した。その間、支石墓研究会も開催し、第15回をもって最終回とした。その際、中国の遼東半島や朝鮮の西南海岸部・済州島の支石墓について補足し、また、日本の出土遺物として重要な供献小壺についても研究の現状を把握した。その結果を要約すると、支石墓は中国の東北地方から朝鮮の全地域において、主として青銅器時代に築造された。中国では、いわゆる石蓋土壙墓が支石墓を考える上で重要である。おそらく中国で成立した卓子形の支石墓は、朝鮮の西北部にまず伝播した後、変容を遂げながら南部地方へと波及し、碁盤形支石墓を生んだ。朝鮮の全域で独特に発達した支石墓は、いうまでもなく、もともと巨大な上石とそれを支える支石からなることに特徴があるところから名づけられた墳墓である。ところが、最近の調査例のように、実に多種多量の形式が見られるようになってくると、形式分類もひじょうに複雑なものとならざるをえない。それでもなお、共通点として指摘できるのは、巨大な上石を使用していることであるのに対して、支石をもたないものもけっして少なくないのである。そこで、巨大な上石の下にある墓室の構造を基準として形式分類を試みた。日本の支石墓は、縄文時代終末期から弥生時代中期にかけて、北部九州を代表する墓制の一つである。上石の下部に埋葬施設としての土壙・甕棺・配石などがある。古くは、土壙の場合が多いが、新しくなると甕棺が多くみられる。甕棺を埋葬施設とする点は、日本独自の特徴である。支石墓の存在形態を見ると、大規模な群集を示さず、数基ないし十数基からなる。
著者
山本 輝雄
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文報告集 (ISSN:09108017)
巻号頁・発行日
vol.389, pp.143-149, 1988-07-30 (Released:2017-12-25)
被引用文献数
1

There are two methods of the lay-out of the main buildings of Obakushu Buddhist temples in Kyushu district. The one is the lay-out in Kara-dera (Buddhist temples for the Chinese in Nagasaki). In this lay-out the main buildings face to the small courtyard paved by stone. The other is the lay-out in Buddhist temples which have a building for the priests to sit in meditation and were founded after A. D. 1661, when Manpuku-ji was established as one of branches of Buddhism schools in Japan. This lay-out takes triangular position with Daiyuhoden (the building for the priests to worship Buddha), Senbut-sujo (the building for the priests to sit in meditation) and Zen'etsudo (the building for the priests to eat together).
著者
山本 輝雄
出版者
福岡国際大学・福岡女子短期大学
雑誌
福岡国際大学紀要 (ISSN:13446916)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.87-98, 1999-03-05

黄檗派寺院にのみ国内では特異な天王殿という建物について,全国的に調査研究した結果,19寺院に天王殿の存在を確認した。これらの天王殿に関して,その建物の向き,伽藍全体に占める位置,安置される中心的仏像などを調べた結果,天王殿とは従来の見解のように「寺門の特異様式」とは考えられず,前方には弥勒像を安置して世俗の"救済"を,後には韋駄天像を安置して仏教の聖なる空間の"護法"という宗教上の機能(働き)をもつ大雄宝殿同様に仏教寺院にとって大変重要な堂宇の一つであることを明確にした。ただし,建築の形式としては,天王殿は中国建築の「屏門(屏風門)」を採用したのであろう,と考えた。さらに,江戸時代を通じての天王殿の歴史の理解を試み,天王殿が"護法"のみの機能から始まったが,"救済"と"護法"の機能を兼ね備えることで黄檗派寺院の確立がなった後,両機能の中を揺れ動きながらの歴史的な展開過程を経て,遂に仏教の"擁護"の機能になって幕末を迎えた,と考えた。