著者
田嶋 玲奈 後藤 春彦 吉江 俊
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.84, no.758, pp.871-881, 2019 (Released:2019-04-30)
参考文献数
17

The purpose of this study is to clarify the history of the development in Chiba Newtown and the process of the generation of non-dwelling facilities through the interviews on the developers and analysis of the physical change of living environment. Through the research, followings were identified:  1)The transition in Chiba NT development for 45 years ChibaNT has been developed for 45 years, and the plan was changed several times. At first, the project aimed to supply housings and it registered as the “new housing and urban development project”. Thus, residential area occupied a large proportion of area in masterplan. However, the plan and its concept changed and the development area were shrunk, and it had decisive influence on forming today’s living environment. Especially, the number of commercial and business facility estates has increased based on the change of plan which introduces specific business facilities and multiple land use. And also the developers actively attracted private enterprises by introducing “Limited-term land rent right.” In addition, the change was influenced from rapid change of housing demands and the attack of expropriation committee in Chiba by citizens who are protesting against Narita Airport construction.  2)Emergence process and accumulation of non-dwelling facilities Huge part of the area for residential estate change to the area for the commercial and business facilities, under the influences of the change of the plan including the shrinking of the development area, extension of planning period, and introducing of the estate of specific business facilities and multiple land use. Especially, the ratio of commercial and business facility estates in Chuou district and Makinohara district became large, and a lot of non-dwelling facilities were built between 1995 and 2015. And this change overlaps with the change on the masterplan. In 1995, small commercial facilities located near ChibaNT-Chuou Sta. and at neighborhood centers and a business concentration area were being formed on the north side of ChibaNT-Chuou Sta. On the other hand, in 2015, large commercial facilities located near ChibaNT-Chuou Sta. and along the main road, and the new residential areas are constructing. Laboratories and offices accumulated in "business mall", and logistics facilities were being formed in the northeastern part of the Chuou district. As described above, there are two types of accumulation trend in the commercial and business facility estate, which was changed from residential estate. One is the accumulation of large commercial facilities, another one is that of logistics and business facilities.
著者
田嶋 玲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

1.はじめに<br> いわゆる「民俗芸能」についての研究は、1990年代以降その様式や内容に着目した研究に代わって、現代における村落社会の変化に伴う文化変容や観光資源化プロセスなどが主要なテーマとなった。特に、演劇に分類される民俗芸能については、芸能の担い手である演者の実践に注目した研究がなされてきた。一方、上演を成立させるもう一つの「担い手」である観客や上演の主催者については、まだ議論の余地があるといえる。また、地理学ではこれまで特に神楽が議論の対象となってきたが、同じく演劇性をもった民俗芸能である地芝居(農村歌舞伎)に触れているものは少ない。<br> そこで、本研究では著名な地芝居の一つである「檜枝岐歌舞伎」を例に、上演を支える構造とその変遷を公演記録をもとに分析し、地芝居の上演をめぐる環境の変化を明らかにする。<br><br>2.研究対象の概要と方法<br> 檜枝岐歌舞伎は、福島県檜枝岐村で江戸時代から現在まで伝承・上演が続けられてきた地芝居の一つである。上演は村民による一座「千葉屋花駒座」がボランティアで運営しており、出演者もほとんどが村民である。現在では観光化が進み、村の重要な観光資源ともなっている。<br> 檜枝岐歌舞伎は村内での上演が活動の中心となっているが、村外での上演も過去から現在まで幅広く行われている。本研究では特に村外で上演を行った場所と、上演の開催名目や主催者に注目する。一座関係者から提供を受けた公演記録帳3冊からこれらの点を分析し、その対象期間は提供資料に記載された範囲の1967年11月から1996年9月までとした。<br><br>3.上演場所の変化とその要因<br> 1960年代終盤から1980年代までの村外上演は、旧伊南村や旧南郷村、石川町など同じ福島県内や、新潟県旧入広瀬村や旧守門村、群馬県片品村や栃木県栗山村など、比較的檜枝岐村に近接した町村部での開催が中心となっていた。その開催名目や主催者を見ていくと、1970年代初頭までは祭礼に招かれての上演がいくつか見られた。しかしそれ以降は、敬老会や高齢者福祉施設での上演が増加していった。これは、会津地方周辺における地芝居を取り巻く社会的状況の変化が要因と考えられる。高度経済成長期以降、それまで村落地域の一般的な娯楽であった地芝居は、テレビなどの新しい娯楽の登場や担い手となる若者の流出で、幅広い世代が楽しめる娯楽としての地位を急速に失っていった。その結果、次第に観客は高齢者層中心となっており、その状況が反映されたものと推察される。<br> その後、1980年代後半以降の村外上演は、県内の都市部や他の都県での開催が増加していった。その名目も、フェスティバルや民俗芸能の上演を目的とした大会が中心であり、「伝統文化」としての扱いを受けることが一般的となった。これは檜枝岐歌舞伎が観光化し、外部に広く知られる民俗芸能となったことが要因と考えられる。檜枝岐歌舞伎は1960年代後半から徐々に観光資源として扱われはじめ、村内での上演に多くの観光客が集まるようになった。そして1980年代には村内での上演に800人以上を集客するまでになり、福島県を代表する伝統文化として注目が集まっていたことが窺える。<br> こうして檜枝岐歌舞伎の外部公演を支える観客や主催者は、娯楽や祭礼の一要素としての上演を期待する村落地域の住民から、「伝統文化」の上演を期待する都市住民へと変化していったといえる。
著者
田嶋 玲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.335, 2020 (Released:2020-03-30)

1.はじめに 福島県の檜枝岐村で江戸時代より伝承されている「檜枝岐歌舞伎」は,祭日に上演される「地芝居」と呼ばれるジャンルの芸能である.今日ではその伝統性・真正性が高く評価されており,福島県を代表する「民俗芸能」「伝統芸能」として多数の観光客を集めている. これまで,ある地域で伝承されている芸能を対象とした研究では,「担い手」を演者のみに限定する研究が多かった.しかし現代においては,芸能の上演は行政や観光関係者,そして観客などの多様な主体が絡み合うことで初めて成立している.本報告では,近代以降における社会変化の中で,檜枝岐歌舞伎の上演が成立する空間がどのように変化してきたか,そして,その上演の存立基盤を形成する主体がどのように多様化してきたかを明らかにする.2.観光化以降における上演空間の変容 歌舞伎は江戸時代に檜枝岐村へ伝来して以降,「大衆芸能」として村民の手で上演されており,村の紐帯ともなっていた.その在り方が大きく変化したのは戦後のことである. 昭和20年代以降,研究者によって「檜枝岐歌舞伎」が見出され,県内の芸能大会に出場しメディアに取り上げられることで「貴重な民俗芸能」となっていった.しかし,テレビをはじめとする新しい娯楽の登場と,経済成長に伴う若者の流出によって,昭和40年代には上演が困難になった. 一方その頃,檜枝岐村は奥只見ダム建設に伴う電源収入を元手に,全村を挙げて尾瀬を中心とした観光化を推し進めていた.その中で檜枝岐歌舞伎も観光資源として見出され,村内の鎮守神で上演される歌舞伎に外部から多数の観光客が集まるようになった.すると,これに対応するように上演空間も大きく変容していった. 観光客が収容しきれないほどまで増えると,境内は階段状の観客席へと造り替えられ,照明や音響設備も整えられていった.物的な面だけでなく質的な面も大きく変化した.畑作から民宿などの観光業に転換した村民は,上演日には観光客の対応に追われるようになり,上演を見るのが難しくなってしまった.その結果,歌舞伎の上演は村の紐帯という役割を失い,観客は外部からの観光客で占められるようになったのである.3.存立基盤を構成する主体の多様化 檜枝岐歌舞伎と檜枝岐村を取り巻く戦後の変化は,観客以外にも多数の主体を上演の存立基盤に加えていった. 檜枝岐村とその周辺地域では,江戸時代から各村落に地芝居が点在し,それらの上演を演技指導者や道具貸し出し業者が支えていた.戦後,その存立基盤はより複雑化していく.ミクロスケール(村内)では,観光化に伴って村民が演者・行政・民宿などの主体に細分化されていき,上演を共に支えつつも,「伝承」と「利用」のバランスを巡るせめぎ合いが発生するようになった.メソスケール(周辺地域〜県内)では,特に檜枝岐村と直接関わる地域の企業が多数の寄付を出すようになり,重要な資金源となっている.観客の多くはマクロスケール(全国)に位置する主体だが,彼らは客席を埋め尽くし,多数の拍手やカメラのフラッシュを浴びせることで,演者たちの「原動力」を湧き立たせる重要な役割を担っているのである. 戦後における社会の変化は,一度は檜枝岐歌舞伎の伝承を危うくした.しかし結果的にその変化は,上演の存立基盤に多様なスケールからの主体を招き入れることにも繋がった.現在の檜枝岐歌舞伎の上演は,こうした存立基盤の上に初めて成立しているのである.
著者
荒又 美陽 足立 大育 加納 怜育 菊川 理気 坂本 和大 渋谷 京佑 田嶋 玲 萩原 周太郎 菱沼 航
出版者
東洋大学社会学部
雑誌
東洋大学社会学部紀要 = The bulletin of the Faculty of Sociology, Toyo University (ISSN:04959892)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.117-133, 2018-01

In recent years, seichi-junrei( pilgrimage to animation settings) has become a popular topic of study. Existing researches have mainly focused on the reaction of targeted areas, understanding seichi-junrei as a kind of tourism, and describing the events or souvenirs that are prepared for guests. Few works, however, have studied how the animations in question have affected the areas' image. This paper uses a methodology of literary studies to analyze nine animations and discuss their effect on the areas in which they are set and how they have led to pilgrimage. Although more systematic research is necessary, our work makes the followingconclusions: 1 ) the pilgrimages tend to be held so that fans can have the same experiences as animations' characters. Fans like to visit the everyday places in animations, including schools and small restaurants. One symbolic place is enough to spark a pilgrimage. 2 )Animations need to accurately reproduce these places, since photos taken by pilgrims must correspond with animation scenes. 3 ) Pilgrimages can bring about relationships between residents and anime fans, but this relationship is not necessarily a motivation for pilgrims. 4 ) Recent anime works tend to portray the idealized human relations, which do not oftenexist in reality. However, many fans may expect those ideals when relating to residents. 5 )It is possible that animation works and any resulting pilgrimage can change the image of regions of anime settings, which can obscure regions' actual history.
著者
田嶋 玲
出版者
明治大学大学院
雑誌
文学研究論集 (ISSN:13409174)
巻号頁・発行日
no.50, pp.129-145, 2019-02-28