著者
麻生 将
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.22-41, 2011 (Released:2018-01-23)
参考文献数
77
被引用文献数
1 2

People have often regarded a specific person or group as being different, and excluded them. Exclusion is a universal phenomenon, and it sometimes is manifested spatially. Still, exclusion is a complicated phenomenon because buildings that are related to groups of people who are different are not only destroyed but can also be converted by exclusionary groups. Such buildings include various narratives, memories, or discourses of exclusion, so it is possible to call such converted buildings “landscapes of exclusion.” The purpose of this research is to analyze the process that generated “landscapes of exclusion” for Catholics on Amamioshima in the 1930’s.Catholicism came to Amamioshima in the early Meiji era. Originally, the local religious groups called Noro or Yuta tried to exclude Catholicism from Amamioshima, but many people believed Catholicism would contribute to the education, medical treatment, and welfare of people on Amamioshima, and they were baptized. From the late Meiji era to the early Showa era, Catholicism was generally regarded as being different; however, because Catholicism contributed to the social welfare of people on Amamioshima, it was not excluded until the 1930’s. Catholics established a mission school called the Oshima Girls’ High School at a local assemblymen’s behest, but Catholicism became the target of suspicion because many missionaries were Canadian. As a result, the mission school was closed through an opposition movement among some locals. Owing to this incident, Catholicism was excluded socially and spatially by various local people: journalists, local assemblymen, military men, and local residents. Eventually, all Catholic workers were excluded from Amamioshima, and most believers were forced to abjure their faith. They were prohibited from gathering and praying by the local residents, and the Catholic community collapsed until the end of World War II. As a result, the unique Japanese ideological space, known as Japanese Imperialism, was expanded in Amamioshima prior to the rest of the country.In addition, the real estate of Catholics was not sold but instead became public property. This paper addresses the case of the Renga-Midou chapel in Naze City. In the process of conversion, Renga-Midou was given the mantle of Naze City’s future prosperity and became the symbol of Japanese Imperialism and its justification for the exclusion of Catholics from Amami-oshima and Japan. In this act the symbol of Renga-Midou was changed from being a symbol of Catholicism to one of Japanese Imperialism, while at the same time creating a “landscape of exclusion.” This was related to the situation of Amamioshima, which was an unstable borderland in the modern Japanese ethnic nation-state.
著者
麻生 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.219-243, 2016-09-30 (Released:2016-10-11)
参考文献数
56
被引用文献数
1

本研究の目的は,近代日本の地域社会で生じたキリスト教集団をめぐる排除の事例を検証し,一連の事件を通して排除を正当化する「排除の景観」の性質を明らかにすることである.本研究では,1933年の美濃ミッション事件と,1930年代半ばの奄美大島のカトリック排撃の2つの事件を事例とし,これらの事件において排除する側と排除される側双方の言説を検証した.その結果,次のことが明らかになった.1. 美濃ミッション事件では,排除に関わる言説はナショナル,ローカルのほかにグローバルなスケールが確認された.2. 奄美大島のカトリック排撃事件では,排除の言説および実践はナショナルとローカルの二重の文脈を持っていた.3. 二つの事件では,キリスト教集団の施設に様々な言説が付与され,排除を正当化する物語が込められた「排除の景観」が形成された.
著者
麻生 将
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.15-15, 2006

新聞をはじめとするマス・メディアがある特定の空間スケールをもって報道をし、その結果様々な社会的・地理的現象が生じるという事例は、近代社会におけるひとつの特徴とも言える。そして近代の、宗教集団と地域社会との諸関係の中で生じる諸現象においてもマス・メディア、特に地域メディアが一定の役割を果たしている事例が少なからず見られる。 こうしたことを踏まえ、本研究は1930年代に起こった美濃ミッション事件という一宗教集団と地域社会との間に生じた事件の中で、美濃ミッションをめぐる様々な言説がせめぎ合う状況、すなわち美濃ミッションをめぐる言説空間の生成に地域メディアがどのような役割を果たしたのかを考察することを目的とする。そして美濃ミッションに対する空間的排除の論理の正当化に地域メディアがどのような役割を果たしたかを考察することを目的とする。 美濃ミッションとは、アメリカ人宣教師セディ・リー・ワイドナー(以下、ワイドナーと呼ぶ)によって1918年に大垣市郭町に設立されたプロテスタントの教団である。ワイドナーは大垣市を中心とする西美濃に教会を設立し、布教活動を展開した。その中で大垣市の美濃ミッション本部での幼稚園経営の他、在日朝鮮人や寡婦、母子家庭の親子、孤児、紡績工場の女性労働者らを積極的に保護し、布教を行った。こうした社会的に排除される傾向、要素を相対的に多く持つ人々、集団と積極的に関わりを持つことで次第に美濃ミッションという教会が周囲から「異質な」存在と見なされるようになっていったと考えられる。それは美濃ミッション事件における周辺住民や様々な社会集団の行動からそのように分析されるが、詳細は別稿に譲る。 次に美濃ミッション事件について概要を述べる。1933年6月、大垣市の市立小学校に通う美濃ミッション所属の児童らが、修学旅行の恒例行事であった伊勢神宮への参拝を信仰上の理由で拒否し、修学旅行への不参加を申し出た。これに対し学校側は児童とその母親、そしてワイドナーに対して神社参拝についての「教育的指導」を行った。しかし彼らは信仰上の理由で参拝拒否を貫いた。その結果、同年6月下旬から10月まで複数の新聞社がこれを大々的に報道した。大垣市教育委員会は8月、児童らに対して小学校令第38条に基づく性行不良を理由に出席停止、停学の処分を下し、彼らはそれぞれ市外の私立学校に転校した。 この事件において美濃ミッション排撃を主題とする講演会がたびたび開催された。また暴力的な市民が美濃ミッション本部の敷地へ押しかけて罵声を浴びせ、投石を行うなど日常的な暴力行為を行った。そして大垣市内および周辺の各界関係者らは新聞紙上で美濃ミッションへの批判を展開していった。6月から9月にかけて暴徒による美濃ミッションへの焼き討ち計画があり、実行される寸前で警官がこれを止めさせたという。事件そのものは、同年9月に入ってから新聞報道も自然に減少し、次第に終息していった。 今回使用する新聞は1933年6月から10月頃の美濃大正、岐阜日報、朝日、毎日そして読売の各紙である。 報道の焦点は当初、神社参拝を拒否した信者個人に当てられていた。それが6月22日から7月6日の投書記事が連日掲載される前後から、次第に美濃ミッションそのものに報道の焦点が移っていった。ここではいくつかの記事を挙げ、そこに現れている空間スケールを読み解く。 例えば1933年7月18日の大阪朝日新聞岐阜県版と同年8月6日の美濃大正新聞にはそれぞれ「…幼稚園閉館を断行を以て帝国の版図より悪思想を駆逐せんことを期す」「…更に全国的に経過報告をして神社参拝を拒否するような思想を国内から撲滅すると同時に此際愛国的観念を強調することが最も緊要だと思う。」とある。美濃ミッションの児童そして関係者の態度はナショナルなスケールで「異質な」ものであるという報道がなされた。特に後者の記事は岐阜県選出の衆議院議員大野伴睦のインタビューであるが、このような地元出身の有力者の発言がナショナルな文脈の言説と同時にローカルな文脈での親近感や美濃ミッション排撃の信念、確信を市民に与えたと考えられる。そして美濃ミッションをめぐるナショナルスケールの「異質さ」という言説がより強固に生成されていったと考えられる。 他方、大垣市民は身近な存在であった美濃ミッションに対する恐怖や怒りといった言説を抱き、日常的暴力を繰り返していた。そしてこのことは地域メディアでたびたび報道された。 美濃ミッション事件は大垣市でのローカルな事件であったが、美濃ミッションを巡る言説はナショナルな文脈であるとともに身近な存在への恐怖、怒りといった言説であった。こうした異なる文脈の言説を地域メディアが報道することで、美濃ミッションに対する空間的排除の論理が正当化されたのである。
著者
麻生 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.298, 2023 (Released:2023-04-06)

1.はじめに 無教会主義は内村鑑三(1861~1930)によって創始されたキリスト教のグループの一つであるが,指導者や体系化された神学,儀式化された聖礼典,礼拝堂などを持たず,「既成の教会論を転倒」した運動であり,彼らの礼拝の場は「大自然という教会堂」であった(赤江 2013).すなわち既存のキリスト教の組織化,体系化された信仰実践ではなく,『聖書之研究』などの雑誌の読者によって支えられる「紙上の教会」であり,日常生活に根差した信徒たちそれぞれの場における祈りや聖書学習などの信仰実践であった(赤江 2013).このような無教会主義キリスト教の姿は近年人類学や地理学などで注目されている「生きられた宗教 Lived Religion」(McGuire 2008)とも関連すると考えられる.本発表は無教会主義キリスト教の詳細な記録を残した斎藤宗次郎(1877~1968)が描いた様々な風景画を通して,視覚資料による無教会主義の思想の検討を試みる. 2.『聴講五年』の挿絵 『聴講五年』は上・中・下の三巻,合計670ページから成るテクストで,斎藤が花巻から東京に転居した後の1926年9月から内村が死去した1930年3月までのおよそ三年半にわたる記録で,内容は今井館や日本青年館などでの聖書講義の内容のほか,内村の言葉,内村の家族の様子,内村の最期の様子,斎藤と無教会関係者との会話や活動などを記録したものである.また,斎藤はこれらの記録を内村の下での活動中から執筆していたが,第二次大戦後に清書し,1953年に完成させた.斎藤はこのテクストに膨大な文章とともに風景や人物などの数十点の挿絵を描いている.挿絵は合計62点で人物が47点,それ以外が15点で,人物を多く描いていた.人物の描き方について,内村の姿を描く際は人物を比較的大きく描く一方,集会に大勢の人々が集う様子や内村邸の庭先の数名の関係者を描く際は比較的小さめに描いていた.これらの挿絵は本文の内容と密接に関係しており,斎藤が後世に伝えるべき記録として必要に応じて描いたと考えられる.この点は近世京都名所を描いた『都名所図会』の人物の描き方との関連も考えられよう(長谷川 2010). 3.挿絵に投影される無教会主義の思想 図1の左は1929年5月16日の夕方に斎藤が現在の世田谷区の楠林で,左は1930年1月18日に現在の杉並区荻窪の林で,それぞれ祈る場面を描いた挿絵である.『聴講五年』の中で斎藤が自ら祈る場面をいわばメタ的に描いたものであるが,注目すべきは祈る自身の姿だけでなく,周辺とはるか遠くの景観を描いている点である.斎藤にとっては自分が存在する周囲の空間,そして自身の目に映る遠景も含めたまさに「生きられる空間」こそが信仰の実践としての祈りや賛美などを行う,彼にとっての「生きられた宗教」たる無教会主義キリスト教の信仰実践の場であった.こうした挿絵は斎藤の無教会主義キリスト教の信仰と思想を視覚化したものだったのである.言い換えれば,こうした風景や景観を描いた視覚資料は単に歴史的な景観を復元するだけではなく,日常的な信仰実践やその思想の研究,すなわち宗教史研究や思想史研究との接続も可能な資料なのである. (本稿の作成にあたってはJSPS科研費基盤研究(C)19K01193の助成を一部使用した.)
著者
麻生 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b> </b>本報告では、国指定文化財となっているキリスト教関連施設の観光地化の可能性について、都道府県ごとの立地係数を求めて検討を試みた。その理由は以下のとおりである。<br> 1. キリスト教関連施設を含むある施設や場所は、文化財指定を受けることが観光地化のアドヴァンテージになる可能性が考えられるため。 <br> 2. 文化財指定を受ける際、当該施設または事物の真正性や文化的・歴史的な価値が重要な要素となるが、それは観光地化の主要な要素でもあるため。 <br> 3. キリスト教関連施設の観光に関する統一的な統計資料がほとんど存在しないため。 <br><b></b> 本報告では2014年9月時点での国宝・重文・登録の各有形文化財(建造物)を対象とする。その中でキリスト教関連施設は159件に上ることが明らかになった。内訳は国宝が1件、重要文化財が26件、登録文化財が132件となっている。重要文化財の半数に当たる13件が長崎県に存在するが、これらは幕末から明治・大正期にかけて建設されたカトリック教会の建物である。また、登録文化財が10件以上の都府県は東京都、愛知県、滋賀県、京都府であるが、このうち愛知県については、犬山市の明治村に全国各地から移築された近代期のキリスト教関連施設が存在するためである。滋賀県については、近江兄弟社を設立したヴォーリズによって設計された複数のキリスト教関連施設が指定されたことも大きく関係すると考えられる。なお、東京都と京都府については、ミッションスクールの複数の校舎が登録文化財指定を受けたため、このような件数となった。 <br> 国指定文化財のキリスト教関連施設の立地係数を都道府県ごとに求めて地図化した結果、幕末から明治前期の比較的早い時期にキリスト教が伝わった都道府県で立地係数が2.0以上と高い値を示していることが明らかになった。こうした都道府県では現在もキリスト教関連施設が観光地として観光ガイドなどでも紹介されることが多い。他方、立地係数が低い(0~0.5)複数の県では明治期にキリスト教への排撃運動がたびたび見られたが、こうした歴史的経緯も現在のキリスト教関連施設の観光地化の状況を規定する要因の一つと考えられる。すなわち、立地係数による観光地化の可能性の検討を通して、地域の近代化または近代史に関わる社会的・文化的文脈を捉える材料の一つとなり得る。<br> &nbsp;&nbsp;キリスト教関連施設の観光地化の指標として、国指定文化財の立地係数がある程度有効であることと、立地係数が地域の近代化の歴史的背景や社会的文脈を読み解く際の指標としても少なからず有用であることが確認された。今後はデータのより精密な分析とともに、本発表で用いたデータを活用して都道府県ごとのキリスト教関連施設の観光地化の調査を進めていきたい。また、国指定のみならず各都道府県によって文化財指定を受けたキリスト教関連施設の調査・検討も行っていきたい。 <br>(参考文献)<br>&nbsp;麻生将2015.現代日本におけるキリスト教関連施設の分布状況と観光地化の可能性に関する試論.立命館大学地理学教室編『観光の地理学』259-280. 文理閣. <br> 福本拓2004.1920年代から1950年代初頭の大阪市における在日朝鮮人集住地の変遷. 人文地理56-2:42-57. <br> 松井圭介2012. ヘリテージ化される聖地と場所の商品化.山中弘編『宗教とツーリズム―聖なるものの変容と持続―』192-214. 世界思想社.