著者
板垣 竜太 戸邉 秀明 水谷 智 Ryuta Itagaki Hideaki Tobe Satoshi Mizutani
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The Social Science(The Social Sciences) (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.27-59, 2010-08-10

本稿は国際的な視野から日本植民地研究を再考した。その際、「比較帝国研究」の枠組とは一線を画すことに留意し、日本帝国を他の植民地帝国と比較するというよりは、日本植民地研究の史学史と現況に焦点を合わせた。すなわち、マルクス主義、近代化論、ポストコロニアル論などの欧米の学界に由来する歴史研究の枠組が、日本植民地研究にどう受容され、対話がおこなわれ、批判され、鍛えられてきたかに注目し、議論を展開した。
著者
板垣 竜太 Ryuta Itagaki
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The Social Science(The Social Sciences) (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.37-68, 2023-02-28

本論文は,黄海道平山郡の刑事訴訟記録(1946~47年の94件)の分析を通じて,日本の植民地支配から解放されて間もない時期の北朝鮮社会における社会規範の急速な変化の様態を明らかにすることを目的としている。この時期、裁かれる側だけでなく,罪を認め,裁き,罰を与える側も,その根拠となる法令も,ともに流動的な状況にあった。新たな予審制度の導入や、公判への参審員の参加、公判の即日宣告制など、裁く方式にも大きな変化が見られた。民衆の新たな政治的要求にある程度応じながら,「人民」の名においておこなわれていった刑事司法では,ときに厳しい,ときに寛大な判断がくだされた。これは<罰>が与えられるべき<罰>だ,これは<罰>が与えられるべきものではない,という判断が繰り返されるなかで,社会の「ノーマル」(標準,正常)が徐々に形成されていった。
著者
板垣 竜太 Ryuta Itagaki
出版者
同志社大学社会学会
雑誌
評論・社会科学 = Hyoron Shakaikagaku (Social Science Review) (ISSN:02862840)
巻号頁・発行日
no.142, pp.159-180, 2022-09-30

本資料は,2021年8月30日に起きたウトロ放火事件の公判(京都地方裁判所)に際して担当検事に提出した意見書である。本件は国内外で一般にヘイトクライムと総称されるものに他ならず,したがってそうした一貫した視点から裁かれるべきものである。人種差別撤廃条約の締約国である日本の国家機関は,ヘイトクライムを人種差別的な暴力行為について加重処罰する義務がある。それは人種差別的動機にもとづくヘイトクライムの被害が通常の犯罪に比べて深刻なものだからである。意見書ではこの観点から本件の被害の深刻性,広範性,長期持続性を論証するとともに,被告人の人種差別的動機を錯誤相関や脅迫的効果の意図といった側面から実証した。
著者
板垣 竜太 Ryuta Itagaki
出版者
同志社大学社会学会
雑誌
評論・社会科学 = Social science review (ISSN:02862840)
巻号頁・発行日
no.134, pp.141-177, 2020-09

本資料は,京都大学が保管する琉球民族遺骨の返還を求める集団訴訟で,京都地裁に提出した意見書である。本意見書は,まず人骨研究を中心とする近代人類学の系譜を整理したうえで,京都大国大学の人類学者が統計学的な手法を駆使しながら集団的に人骨研究を進めたことを明らかにした。そのうえで京都帝大の人類学者による琉球遺骨の収集には,解剖学教室の金関丈夫によるもの(1929年)と病理学教室(清野謙次人類学研究室)の三宅宗悦によるもの(1933年)の2系統があり,前者は台北帝国大学に移管され,後者が京都帝大に残されたことを論証した。最後に,人骨収集の態度において,本州・四国・九州における慎重さと,南島における手軽さが対照的であったことを示し,植民地状況においては「純粋」な科学的研究に対する法的・倫理的な歯止めが働かなくなったという意味で,それを「植民地主義的ダブルスタンダード」と呼んだ。資料(Material)
著者
板垣 竜太 Ryuta Itagaki
出版者
同志社大学社会学会
雑誌
評論・社会科学 = Social science review (ISSN:02862840)
巻号頁・発行日
no.128, pp.39-65, 2019-03

記録映画「朝鮮の子」(1955年3月)は、東京都立朝鮮人学校への東京都教育委員会の廃校通知(1954年10月)をきっかけとして、それに対する反対運動のなかから製作された。本稿はこの映画の製作プロセスに注目し、そこに表れている関係性を歴史化することを目的としている。「朝鮮の子」の製作は在日朝鮮人の教育運動組織が推進し、在日朝鮮映画人集団が共産党系の記録教育映画製作協議会のメンバーとともに脚本、演出にあたった。荒井英郎が中心となって進めた脚本の<初稿>にもとづき、1954年12月下旬から撮影がはじまるが、内容に異論が出たため、1955年1月には一度撮影を中断し、京極高英を中心に脚本の<改訂稿>をまとめた。その過程で、子どもの語りを中心としたつくりに変わった。実際に作文を原典とするシーンは多くないものの、改訂により全体として朝鮮人の主体性がより強まる内容になった。この映画には、朝鮮人学校の教育実践とそれをとりまく教育運動をめぐる関係性が記録されており、とりわけ「敏子」の作文シーンはそうした特徴をよく示している。ただ、脚本改訂や資金難により当初の予定より完成が遅れた。その間に廃校反対運動は学校の各種学校化を前提とした条件闘争に転換しており、結果的に上映も不活発だった。The documentary film "Children of Korea (Chōsen no ko)", released in March 1955, was produced in the midst of the counter movements against the Tokyo Metropolitan Board of Education's decision in October 1954 to close the Tokyo Metropolitan Korean Schools (Tōkyōtoritsu Chōsenjin Gakkō). This article analyzes the making process of "Children of Korea" in order to historicize the political and social relationships which were reflected both explicitly and implicitly in the film. The documentary was produced by the Korean education movement organizations and was scripted and directed by the Zainichi Korean Cineaste Group (Zainichi Chōsen Eigajin Shūdan) with the professional assistance of Japanese members of the Documentary and Educational Film Production Council (Kiroku Kyōiku Eiga Seisaku Kyōgikai) which was led by the Japanese Communist Party. Based on the ‹first draft› of the scenario written by Arai Hideo, they started shooting from late December 1954. Facing with objections within the production staffs, however, they ceased shooting for a time and asked Kyōgoku Takahide to rewrite the scenario, what I call the ‹revised version›. One of the most radical revisions was that Korean schoolchildren had come to narrate in most of the scenes as if they read their own compositions. As a result, the representation of the independent identity of Zainichi Koreans had been emphasized in the film. Educational activities in Korean schools and relationships among educational movements at the time were vividly recorded in "Children of Korea". Toshiko/Minja's scene of reading her composition well-reflected such relationships and changes in the film. However, due to the scenario revision and financial difficulty, the completion of the film had delayed more than a month. During the delay, the strategy of the counter movement had shifted from the anti-closure of the Metropolitan Korean Schools to negotiation on conditions in privatizing the schools, ending up with the inactive screening of the film.論文(Article)
著者
板垣 竜太 Ryuta Itagaki
出版者
同志社社会学研究学会
雑誌
同志社社会学研究 (ISSN:13429833)
巻号頁・発行日
no.25, pp.45-65, 2021-03

本論文は、北朝鮮で活躍した言語学者・金壽卿(1918-2000)が記した朝鮮戦争手記(1994年脱稿、未公刊)を資料とし、そこに登場する研究者や学生の記述を抽出して分析することにより、既存の研究では明らかにし得なかった戦場および戦前・戦後の知識人らのリアルな姿を浮かび上がらせようとするものである。まず、この手記は金壽卿が主に離散家族向けに書いたものであるという資料の性格を明らかにしたうえで、言語学者に関する記述と戦時中または戦後に死去または行方不明となった人々に関する記述に分けて、手記の内容を検討した。こうした検討作業を通じて、この手記の記述が戦地に赴いた知識人の揺れ動く姿を等身大で描いたものであると位置づけた。研究論文(Original paper)