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安政年間の「武鑑」によれば、五味靱負豊済は山内豊著の次男で、山内容堂(豊信)の実弟らしいです。(コマ番号97/111) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547070?tocOpened=1 「寛政重修諸家譜」によれば、養家の五味家は山内家の分家で、山内一豊の弟・山内法眼の子の政義が五味姓を名乗ったらしいですね。(コマ番号174/542) http://dl ...
松平長七郎は、村上元三が書いた小説の主人公ですね? 里見浩太朗が主演のテレビドラマも人気がありました。 「幕府祚胤伝」という江戸時代に編纂された書物には、徳川忠長の子として長七という子供がいたことになっています。(コマ番号138/282) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/105?tocOpened=1 「世俗伝、有名長七殿者 ...
以下の本には、田沼意次の息子の意知を殿中で殺害した佐野善左衛門政言こそが、佐野源左衛門常世の子孫であると書かれています。(コマ番号304/338) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959093/302?viewMode= 「政言は今でこそ平武士ではあるが、其祖先は源左衛門常世と云ひ、歴たる家柄であつた・・・」 しかし「寛政重修諸家譜」では ...
江戸幕府が編纂した大名・旗本・御家人の公式系図集「寛政重修諸家譜」には、相良義陽は「よしひ」とふりがなが振られています。(コマ番号362/542) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718 Wikipediaには参考文献として、二つの古書が「国立国会図書館デジタルライブラリー」から引用されていますが、どちらも「ヨシヒ」「よしひ」とふりがな ...
「寛政重修諸家譜」には以下のように書かれています。(コマ番号241/542) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718 「はじめ三好山城守康長が許にあり。後豊臣秀次につかへ、そののちめされて東照宮につかへたてまつる。」 佐野綱正はもともとは三好康長の家来でしたが、豊臣秀次が三好康長の養子であった関係で秀次に仕えるようになったらしいで ...

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年録[384](文化8・主計→庄三郎) https://t.co/QTChAs3s4t 寛政譜(右上段に多宮) https://t.co/h5rRXuG4W3 番士名簿(46コマに多宮) https://t.co/a9j92lqz3K 年録[351](寛政12・近藤不在) https://t.co/rtbigk1JSh 江戸幕府日記(寛政12・110コマに多宮→主計) https://t.co/AAsgc2H1Lv
寛政譜は https://t.co/aXoptqdXaI 正武の系譜で最後に保昌 久米之助 家督の記録は江戸幕府日記(144コマ) https://t.co/eRgl6rhorC 小普請室賀壱岐守支配で名代に松下源次郎 この松下は久米之助の母の実家だと思う
明治18年(1885)士族編入した南山郷士が 農民の系図を目的の為に作成ししたならわかるけど 維新前に死んだ椿井政隆が多数の農家を後醍醐天皇の南山郷士とする椿井文書を作成した目的とはなんだろう? 椿井家は足利尊氏に仕えた先祖の末裔だから入れないのに https://t.co/hGRwmzQif9 。
『百家系図』で「○小堀〔藤原氏秀郷流(内藤・椿井)〕」 https://t.co/EgmHR0RH4B とまとまってるということは小堀家改易と椿井文書とが関係してる可能性はあるんじゃないのかな。 偶然ではないのかも。 寛政重脩諸家譜 https://t.co/GiWzzzWfIb を見ても小堀家との関係性はわからないけど https://t.co/bxTp71XdXU
@silosato 既にお調べがついているかもしれませんが美濃明細記に有る佐藤三四郎は寛政譜その他に掲載されています(リンク先) この三四郎は生涯寄合と思われますので文書にある御代官の佐藤三四郎とは別人になろうかと 寛政譜 https://t.co/a46uEQxwKE 武鑑(大成武鑑宝暦11年) https://t.co/QptdEP77Dk
寛永諸家系図伝(1643年頃)に良く戦績を上げた椿井定房の末裔は記録が無いけど(55コマ) https://t.co/FptoLJrBVu 寛政重修諸家譜(1789~1818)には山城国椿井村に末裔存在すると記録されるようになり https://t.co/GiWzzzE6u3 、 椿井文書メモ
寛永諸家系図伝(1643年頃)に椿井家から分派した内藤家の記載は無く(55コマ) https://t.co/FptoLJrBVu 寛政重修諸家譜(1789~1818)には椿井家の正興が妻の父・内藤忠政の子政次から請われ1651年内藤姓を名乗るとある https://t.co/GiWzzzE6u3 。それだけでなく 椿井文書メモ
西坊胤昌は「圓滿院宮の坊官」と寛政重脩諸家譜 https://t.co/peufbgst43 にあるけど、 「圓滿院宮」とは当時の親王さんの誰かを指していて、 親王さん付きの西坊胤昌さんという意味ではないのかな?? それとも大津市の圓滿院にはずっと西坊家が勤めていたのかな? 椿井文書メモ https://t.co/0nOD8QwewF
2人の椿井まさたかは同年代同祖。 御書院番椿井政堯 椿井文書作者かもしれない椿井政隆。 寛政重修諸家譜 https://t.co/GiWzzzWfIb に書かれた椿井村の定房の子孫へ当て嵌め士族編入する為に明治時代に 諸系譜の椿井家系図が https://t.co/6llwKMNLJN 作られたとしたら? https://t.co/PLMCz7fBzL
椿井文書の椿井政隆が作った系図とかで彼の先祖となっている 椿井定房は、戦での功績もあるのに https://t.co/GiWzzzWfIb なぜ彼の子孫だけは地方在住と書かれて、 他の人達は物凄く出世しているんだろう? 謀書の罪にとわれたとかかな?? https://t.co/p0PrB5vdzr
>椿井政隆が先祖と主張してる定房の弟・政吉の孫・政次の室が内藤忠政女 https://t.co/tde7od0m7l 。 忠政養子清成の孫が水野守政正室 https://t.co/u9WQS3FWsm 片埜神社岡田鳴鶴 https://t.co/0TEti6Kj43 が仕えた水野忠敞 https://t.co/IfSQX0wpLa とは超遠縁の親戚か。 だからどうだと言うのか。
>椿井政隆が先祖と主張してる定房の弟・政吉の孫・政次の室が内藤忠政女 https://t.co/tde7od0m7l 。 忠政養子清成の孫が水野守政正室 https://t.co/u9WQS3FWsm 片埜神社岡田鳴鶴 https://t.co/0TEti6Kj43 が仕えた水野忠敞 https://t.co/IfSQX0wpLa とは超遠縁の親戚か。 だからどうだと言うのか。
椿井政隆が先祖と主張してる定房の弟・政吉の孫・政次の室が 内藤忠政女 https://t.co/CQFS2GxpjQ 。 忠政養子清成の孫が水野守政正室 https://t.co/7tm8xvS281 片埜神社岡田鳴鶴 https://t.co/Xzhlpyj2k4 が仕えた 水野忠敞 https://t.co/fK62ufYxOh とは 超遠縁の親戚か。 https://t.co/jHZiPkzsfc
椿井政隆が先祖と主張してる定房の弟・政吉の孫・政次の室が 内藤忠政女 https://t.co/CQFS2GxpjQ 。 忠政養子清成の孫が水野守政正室 https://t.co/7tm8xvS281 片埜神社岡田鳴鶴 https://t.co/Xzhlpyj2k4 が仕えた 水野忠敞 https://t.co/fK62ufYxOh とは 超遠縁の親戚か。 https://t.co/jHZiPkzsfc
書院番・椿井(小堀)秦五郎政堯 https://t.co/rV3uHXlXe0 と 椿井家養子(平手=野口)由房(尾張群書系図部集(下),1997)と 1895-1910年頃中田憲信編『諸系譜』の椿井権之助政隆 https://t.co/fjHM3z9Q32 は 仲良しだから、上田の龍骨の絵を政隆が模写した際に名前を併記? それとも勝手に書いた? https://t.co/hjoI3m26Kd
八所神社宮司家が元々所蔵していた『伏龍骨之図并序』(椿井文書,P.85)は 椿井権之助政隆の印で 書院番・椿井(小堀)秦五郎政堯 https://t.co/7CM04PceER と 椿井(平手=野口)由房(尾張群書系図部集(下),1997)が併記され出来過ぎなほどドラマティック。 これがいつから神社に合った物なのかが。
@tonchi_jin 東大寺二月堂お水取りでも椿の造花をたくさん作ります。 奈良といえば 東大寺 のりこぼし椿 白毫寺 五色椿 伝香寺の散椿(筒井順慶) 椿井氏先祖の椿井定房は筒井氏と大きな戦績を得ますから、 うちはこれが椿井の起源かな?とかも思うのです https://t.co/GiWzzzWfIb 椿井文書メモ
椿井定房(政房)兄弟の政勝は興福寺衆徒。 興清は興福寺阿弥陀院住職だけど 天文元年(1532)七月十日大和天文一揆で焼失してるはずだから、再建されたのかな? 姉妹は斑鳩の中宮寺?の尼僧と 本庄大蔵大輔秀義が妻。誰だ?? https://t.co/GiWzzzWfIb 椿井文書メモ
椿井政長が山城国椿井城を失ったのは政吉討ち死にの1612かも。 定房(政定)の家系図はなくただ山城国椿井村に子孫続くとある。 定房の尾張国中島郡の所領があるから、 志水家家臣後に尾張藩士の椿井家がその末裔の可能性はあるんだけど 椿井姓は多系統あり https://t.co/GiWzzzWfIb 椿井文書メモ
政安の姉妹の椿井きいが7才から 崇源院(徳川秀忠の妻・家光公の母)の御側に。 政安の兄・政次も父の代にあっている 台徳院(秀忠)に仕え 息子の内藤正興は常憲院(綱吉)へ。 政安も山城国の椿井城を失った後 大猷院で所領を受け、寛政11年書院番へ https://t.co/cataxUaBW6 。 椿井文書メモ
寛永諸家系図伝藤原氏癸8(57コマ) https://t.co/2EiChfR6OJ では正安の妹の椿井きいが大奥で奉公していた「法名智慶……女中がたの作法を制す……七歲より崇源院殿……高徳院」 寛政では姉? https://t.co/GiWzzzWfIb 江戸城本丸女中法度の基礎的研究,福田千鶴 https://t.co/oKWfLAyvrt 椿井文書メモ
椿井政安が寛永諸家系図伝の頃の御書院番だけど、 その後はその兄の政次の家系が 内藤家となって神田の御書院番となる。 でも寛政重脩諸家譜の編纂が始まる2年前の 寛政9年に、また椿井政安の家系の 政堯が御書院番に。 プチ・編集合戦があったりして(^▽^;) 椿井文書メモ https://t.co/7CM04PceER
寛政重脩諸家譜の椿井政安(~1670)は、 椿井政隆が自らの先祖とした椿井定房の弟政吉の三男・政安。 大猷院殿行った時、山城国の椿井城を失ってたから政長・定房の時だろうか。 政安は後に書院番となるから、 椿井文書メモ https://t.co/cataxUaBW6
椿井仁右衛門房隆の養子が 中島郡の野口由房(1739~1807))(尾張群書系図部集下巻,1997) だけど、 日本史研究709号P49系図5の 房隆と 寛政重脩諸家譜の定房 https://t.co/GiWzzzWfIb の間の男系椿井家系譜が無い。 野口由房は椿井越前守政里の女の子孫ではあるけれど。 椿井文書メモ https://t.co/Dyj8nRDkaV
新編武蔵風土記(1830)の椿井喜之助政尭 https://t.co/pgBWglVvtL -武藏國都筑郡小机領萬福寺村-(神奈川県川崎市麻生区万福寺)は 1793年家督を継いだ寛政重脩諸家譜の椿井政堯?? https://t.co/7CM04PceER 椿井文書メモ https://t.co/Mrh9WCJcFS
大猷院殿御実紀巻10(17コマ)1627の椿井喜之助政安 https://t.co/AzDeM2RMoC が 寛政重脩諸家譜の椿井政安(~1670) https://t.co/cataxUaBW6 か? 椿井文書メモ
明治8年頃から椿井氏と名乗る人と椿井定房(政定)を結び付ける場合、 定房(政定)以降を創作しないと無理だよね? 寛政重修諸家譜には山城国相楽郡椿井に 椿井定房(政定)の子孫が居ると記載されてはいるけれど、定房以降は記録されていないから https://t.co/GiWzzzWfIb 。 椿井文書メモ https://t.co/CzmmEnRTRN
寛政重修諸家譜には山城国相楽郡椿井に 椿井定房(政定)の子孫が居ると記載されてはいるけれど https://t.co/GiWzzzWfIb 、 こと、明治8年から椿井氏を名乗るある人とをもしつなげるとしたら、 明治8年頃椿井村に実在する椿井家と 寛政重修諸家譜の椿井氏をつなぐ創作をせねばなりません。 椿井文書 https://t.co/zdWf2fDPc3
椿井政勝の子・定房の子孫が山城国の椿井に定住してると 寛政重修諸家譜に記載されているから https://t.co/GiWzzzWfIb その椿井村の椿井氏へ接ぎ木する系図を作成するのが一番楽ちんではある。 椿井文書メモ https://t.co/SCPcluetlM
失礼。真興の時から内藤だった。 https://t.co/y7akGD7cww
内藤氏の冒頭の椿井は、土地に椿井という称号をつけたという意味では? 内藤家が椿井と稱號したわけではないと思う。 https://t.co/y7akGDofyw 中田憲信(~1910年)編『諸系譜』はそう解釈したのかもしれないけれど。 椿井文書記録 https://t.co/Fcx7qnnXpQ
『寛政重修諸家譜 https://t.co/GiWzzzWfIb 』の 内藤正勝(~永禄11年3月15日)が 中田憲信(~1910年)編『諸系譜 https://t.co/fSlnJkDjqx 』では 「椿井加賀政勝(~永禄11年3月15日)」 になってる。 椿井文書メモ https://t.co/oS4WX2tSfr
内藤定房(政定)の子孫は内藤のはずでは? 弟の政吉の孫の政安が関東の椿井氏の祖 https://t.co/y7akGD7cww 。 内藤定房(政定)の子孫も山城国で同じく「椿井家」の名前で分家しているという記録があれば、 平群町教育委員会所蔵古文書類や椿井政隆作系図と合うのにね。 椿井文書記録 https://t.co/D3BC3VFL9c
『諸系譜 https://t.co/QgOrdq1zpu 』の「椿井権之助政隆」 が作成した系図が 『寛政重修諸家譜 https://t.co/y7akGD7cww 』(1799-1812)へ影響し 祖先・内藤定房(政定)が長男で政吉は三男としたのに 政隆さんご自身を『寛政重修諸家譜』へ書き加えなかった理由とはなんでしょう? 椿井文書記録 https://t.co/MXadxjnZUO
中田憲信が編した『諸系譜』を信じないと、 『諸系譜 https://t.co/6llwKMNLJN 』の「椿井権之助政隆」 は 『寛永諸家系図伝 https://t.co/2EiChfR6OJ 』や 『寛政重修諸家譜 https://t.co/GiWzzzWfIb 』の内藤家から分家した椿井家末裔にはならない。 信用していいのだろうか? 椿井文書メモ
南朝後村上天皇第18世孫を自称する中田憲信が編した『諸系譜』の「椿井権之助政隆」 https://t.co/6llwKMNLJN は、 『寛政重修諸家譜 https://t.co/GiWzzzWfIb 』にも『寛永諸家系図伝』にも出て来ない。 彼の父も祖父も曾祖父も養子。 彼は本当に藤原家傍流内藤家分家の椿井家の子孫なのだろうか?
@DErQBDf3CFbqKuJ ちなみに、この藤十郎ですが万延元年前後に亡くなっていると思われます 次の代は新庄源六郎ですが、諱がわかりません 旗本なので寛政譜に載っており知行高から直徳の家系になろうかと思いますが確定はできません 寛政譜 https://t.co/1IuGvQB7Ng
寛政重修諸家譜を眺めていると 常陸麻生藩新庄氏の先祖アゲアゲ具合が面白かったので紹介。 新庄氏、歴代室町将軍に仕えてたことになっていて 新庄直昌は、妻に久我大納言の娘を迎えたことになっている。 新庄氏、実際は近江国人今井氏の分家の地侍にすぎないのにね。 https://t.co/k734gYaHYR https://t.co/hf1Ph7sGfT
間嶋彦太郎は加藤光泰の娘婿、だった。https://t.co/45BKy69Fhl
椿井権之丞と椿井政隆と椿井萬次郎の血縁関係を示す『諸系譜』。 でも『寛政重脩諸家譜』を併せ見ると椿井家の先祖は足利尊氏に仕えた人 https://t.co/GiWzzzE6u3 で、 後醍醐天皇の南山郷士というのは矛盾。 椿井文書メモ https://t.co/yzeBosP2qE
@Wakiya_Teishu この人ですね 年録(安政6年) https://t.co/bfKgIgB96t 幕臣辞典によると高2570石とあるので 寛政譜(戸田氏 忠高の系譜) https://t.co/RomxUEIZi6 の子孫かと思われます
@pririn_ 『諸系譜』の椿井政隆ご先祖の椿井三河政定(藤千代丸) https://t.co/CVV6FHBdU4 が 『寛政重修諸家譜』の伊香郡数十邑を与えられた 内藤定房(藤千代丸) https://t.co/y7akGDofyw なのね。 3代の養子の後の椿井文書の椿井政隆は藤原家末裔 https://t.co/QgOrdqiCru で大蛇退治のヒーローである、と。
『平群姓正嫡椿井家系図』の椿井政隆?の大蛇退治も、 『諸系譜』の椿井政隆の先祖の藤原右将中懐房近江伊香大蛇退治 https://t.co/vHbUsf5Nvh も、 『寛政重修諸家譜』内藤定房が椿神社がある伊香郡数十邑を与えられた逸話 https://t.co/GiWzzzE6u3 を元にしたおとぎ話で創作話のお遊びでは?椿井文書
藤本孝一氏によれば「興福寺官務牒疏」には椿井文書という説があるという。 でもまだ実証されたわけではない。 紅葉山文庫に獻納したのは西城の御書院番の椿井政堯(つばいまさたか)とかじゃないよね? https://t.co/7CM04OU5qJ https://t.co/anAK1oRhQZ
南朝・後村上天皇第17代と自称する裁判官・中田憲信 https://t.co/7fr5GlYvQs が『諸系譜』を書写。 椿井文書の椿井政隆親子を三代の養子を挟むことにより https://t.co/6llwKMvCvF 藤原家傍流内藤家の椿井家 https://t.co/GiWzzzE6u3 へつないだ誰かの意図とはなんでしょう? https://t.co/qP5Jx01lT9
@historian_chop 江戸時代の頃も、応仁の乱くらいの時代の頃も、それは変わりないということですか? そして寛政重脩諸家譜の記述のみで、良房以降は洛中に戻らず荘園の大和国平群の椿井で子孫は暮らし続け、 書いてはいないものの、 土着したと考えられる? #椿井文書 https://t.co/GiWzzzE6u3
@historian_chop 征夷大将軍三男の良房が大和国平群郡へ土着したのに、 その子孫が椿井文書の椿井政隆の遠い祖先?(諸系譜)の 山城国の椿井を賜った 右京大夫政信なのですか? 京職の右京大夫。 https://t.co/GiWzzzE6u3 土着はしてないように思いますが
@historian_chop 良房の荘園が平群にあったという記録があれば、そうなのかもしれません。 寛政重脩諸家譜では右京職の長官・右京大夫政信が山城国相楽郡薗部庄を【賜った】。その時点では貴族。荘園は山城国 https://t.co/GiWzzzE6u3
@historian_chop 武士が赴任して住んだ先を全て所領と考える?? ではなぜ『寛政重脩諸家譜』は 「大和国平群郡椿井に住せしより(*椿井と)稱號とす」 「山城国相楽郡薗部庄を【たまひて】其地にうつり住す」 を使い分けているのだろうか。住むだけで良いのに #椿井文書 https://t.co/7CM04OU5qJ
@historian_chop 武家の本貫地は所領。椿井家は藤原氏支流内藤家から派生。 『寛永諸家系図伝』52頁 には山城国相楽郡とみみずで書いてある気がするし、 https://t.co/2EiChg89QJ 『寛政重脩諸家譜』 https://t.co/GiWzzzE6u3 でもそうで。 なんで大和国平群郡が本貫地になるのかが解らないです。椿井文書ややこしい
高城氏は藤原家支流。 高城胤政の兄 高城胤吉の妻は千葉勝胤の女、 千葉氏は小見胤政 https://t.co/TVH7NOgIpP (63枚目)と同じく桓武平氏。 椿井文書?の藤原胤政 https://t.co/P1iypkrXTC 椿井政隆作系図の中御門胤堯(最後) https://t.co/QN1SFiWKVj 椿井政堯まさたか https://t.co/rV3uHX3NZS https://t.co/pC7YSCKLLJ
興福寺元衆徒中御門系圖(写) 中御門家最後に「胤堯」 https://t.co/GHmd4DxpWa 。 寛政重修諸家譜の椿井家最後に西城の御書院番 「政堯まさたか」 https://t.co/7CM04OU5qJ 。 先祖に光圓堯深房。 偶然かな?それとも偽作された椿井文書なのかな? https://t.co/sC6IAr8xuc
@baneon 興福寺元衆徒中御門系圖 https://t.co/3C5lbeBUiO は 中御門さんの名前に『寛政重修諸家譜・第222』 椿井文書の椿井政隆と同じころ生まれた 【椿井政堯まさたか(寛政五年十二月二十一日(*1794/01/22)26歳で家継)】 https://t.co/7CM04OU5qJ の「堯」の漢字が多用されてますね
寛政重修諸家譜,第5輯(1812年) で掲載されているのは 馬部氏が偽書椿井文書著者椿井政隆作『平群姓正嫡椿井家系図』を根拠に 1770年生まれとした椿井政隆(1770-1837)と同じ頃生まれた 寛政五年十二月二十一日(*1794/01/22)家を継。時に二十六歳と書かれた 椿井政堯まさたか https://t.co/7CM04OU5qJ
寛永諸家系図伝(No.121,藤原氏 癸8のp.52から) https://t.co/2EiChg89QJ では 椿井氏の家紋は裏菊か栄螺。 寛政重脩諸家譜では十六裏葉菊か栄螺か下り藤(藤原氏傍流だし) https://t.co/cataxUrEY6 。 馬部氏が見た椿井萬次郎の墓の家紋は? 椿井文書椿井政隆がこの流れなら一致するはず。
馬部さんの椿井文書の 椿井政隆(1770-1837) 「平群姓正嫡椿井家系図(『椿井文書』p.19)」の 椿井権之助 政隆は (1770/6/18-1838/01/21) 「寛政重修諸家譜 https://t.co/7CM04OU5qJ 」の椿井政堯(マサタカ)は1770年頃生まれ 「諸系譜 https://t.co/6llwKMvCvF 」の 椿井権之助政隆(~1841/01/18) https://t.co/R8Db73dIqY
「平群姓正嫡椿井家系図」(椿井文書19頁)の政隆 椿井権之助のお誕生日 明和七庚寅年五月廿五日(*1770/6/18)は、 「寛政重修諸家譜」の椿井政堯(マサタカ)と生まれ年は同じじゃないかな 「寛政五年十二月二十一日(*1794/01/22)家を継。時に二十六歳」。 偶然かな? https://t.co/7CM04OU5qJ https://t.co/sRLDSquhZ7
寛政重脩諸家譜に椿井政堯まさたかはいる https://t.co/7CM04OU5qJ 。 1794/1/22に26歳で家督相続だから生まれたのは1769年かな? 馬部さんの椿井文書の椿井政隆は1770年生まれだからほぼ合う https://t.co/W9gel1bFWf https://t.co/1WLqezUA2e
@shibizou 系図だけで良ければこの家系は旗本なので寛政譜にも掲載されています https://t.co/QN2AkPAUkb ただ、諸家系譜を端折って(というか幕府側が精査して正しいと思われる事象のみ)寛政譜に掲載されていますので、諸家系譜の方が面白みはあるのかなと思っています
@Wakiya_Teishu 今起きました(笑) 鋠蔵の名前を見たときにはふるえましたねえ。 さて、この家系ですがwikiの記述が正しいのであれば宇都宮戸田家の分家の旗本で家臣というよりは別家となっていると思われます。 寛政譜 https://t.co/YfAwXTPQAH つづきます。
@sakurai_history ちょっとだけ補足 旗本の桜井氏については寛政重脩諸家譜にでている。(Wikiにも書いてあるけど) https://t.co/LGErPVPgHY
@Wakiya_Teishu https://t.co/PG8HCAIzXe その名前の人が寛政八年に没しています。大番組です。幕臣は良く通称を継承するので、戸田新蔵の名前は受け継がれたのかも知れません。
信濃藤四郎と松平肥前守 候補2 鍋島忠直 元和8年に松平姓を賜り同時に肥前守に任命されている 寛政重修諸家譜 第823巻 https://t.co/nvOZHBd1iX https://t.co/tnUsLHFIJ3
@seabuki たしかに相良氏は、始めのほうから既に「頼」シリーズがおられたようですな  https://t.co/0gtpPjVRRb

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編集者: YasuminB
2023-03-16 11:52:36 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: 桂鷺淵
2022-11-29 14:26:58 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: YasuminB
2021-10-24 15:18:11 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Bcxfubot
2021-01-10 15:10:31 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: 松茸
2020-09-08 01:01:19 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: 松茸
2020-09-08 01:00:18 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Ega Skylark
2020-07-16 09:44:09 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。

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