14 2 0 0 OA 国史大系

著者
経済雑誌社 編
出版者
経済雑誌社
巻号頁・発行日
vol.第5巻 日本紀略, 1901

言及状況

レファレンス協同データベース (1 libraries, 2 posts)

『日本紀略』を探している。
『日本紀略』を探している。

教えて!goo (1 users, 1 posts)

1060年完成の新唐書に「神功天皇」の名が登場するので、平安時代の前半に、大足姫(氣長足姫)に対して「天皇号」が諡られたはずですね。 ↓ No2で書いたように 887年に崩御した光孝天皇を最後に、1840年に崩御した光格天皇まで漢風諡号は贈られていないのです。 ※ 安徳とか順徳とか 徳 の字数名が贈られているようです(訂正) また正式な日本の歴史書 日本書紀 - 続日本紀 - 日 ...

OKWave (1 users, 1 posts)

1060年完成の新唐書に「神功天皇」の名が登場するので、平安時代の前半に、大足姫(氣長足姫)に対して「天皇号」が諡られたはずですね。 ↓ No2で書いたように 887年に崩御した光孝天皇を最後に、1840年に崩御した光格天皇まで漢風諡号は贈られていないのです。 ※ 安徳とか順徳とか 徳 の字数名が贈られているようです(訂正) また正式な日本の歴史書 日本書紀 - 続日本紀 - 日本 ...

Twitter (9 users, 37 posts, 3 favorites)

阿弖流為も桓武天皇の時代802年に処刑され河内国植山(宇山?上の山?)で葬られている。桓武天皇が行幸する先である、河内国交野郡の上の山遺跡の上の山の辻あたりに葬られたのかも。 https://t.co/5AAJFLy6k3 https://t.co/6NSVRDSL0p
@madosaki7180 Wikipeの記事からこれ(日本紀略)>https://t.co/S9IotTeaEi の202ページの記述を確認したんですが、「両虜斬於河内国植山」としかないのですよ。
@zxd01342 室生龍穴の初見は『日本紀略』弘仁九年七月丙申https://t.co/n36o1ZAy79
5. 吉祥龍穴 『日本紀略』弘仁九年七月丙申(十四日)https://t.co/n36o1ZAy79に「遣使山城国貴布禰神社。大和国龍穴等処祈雨也」と記されています https://t.co/umgGeVV04i
日本紀略 https://t.co/RVOvbXezl6 寛弘元年閏九月十三日(1004)条に「有行幸点地 依可行幸松尾平野北野也」とある。この年は岩にもとづいて参照。
(長和元年七月八日)「皇太后宮(彰子)自上東門遷御枇杷殿」 https://t.co/zrxP2fBGXn 。(十一月廿二日)「依大嘗会天皇行幸八省院 悠紀近江国主基丹波国」。 今鏡にこの歌が出ている https://t.co/WKy1Jryc7x 。
三条天皇の折の大嘗会は、冷泉院崩御により即位の翌長和元年(1013) https://t.co/zrxP2fBGXn に行われた。「(閏十月廿七日)天皇禊東河 二条末」。そこよりはるか西、小塩山の麓大原野に少将井尼がいたらしい。
寛弘二年十一月十五日に内裏が焼亡し、「(廿七日)天皇幷中宮幸左大臣東三条院」 https://t.co/4oCrYIFcoN (日本紀略)とある頃か。当時の左大臣は道長。藤原長家(998-1074)は上東門院彰子(988-1074)の異母弟。
六条左大臣源重信は長徳元年の疫癘の年道兼と同じ五月一日に死亡した https://t.co/bMVklWrf7d (日本紀略)。子の相方も長徳四年ころに亡くなっているらしい(川田康幸「『栄花物語』における源重信像」 https://t.co/NFhRptYN5x 小右記から)。
日本紀略 長保三年二月四日 (1001) https://t.co/u0NH0ibyik 「左大臣(道長)養子右近権中将源成信 与右大臣顕光息男右近少将藤原重家相伴 向三井寺出家 仍両大臣驚向彼寺」
日本紀略 https://t.co/1LJC2XkK21 に、万寿三年正月(1026) 四日「致仕大納言藤原公任於解脱寺出家 年六十一」とあるが、これよりも前に詠まれた、ときめるわけにもいかなそう。
後一条天皇が亡くなった直後の長元九年四月廿二日「権中納言従三位源朝臣顕基於大原出家年三十七」(日本記略) https://t.co/xqqx3zL8gn
小右記長和二年延暦寺檀那院律詩懐寿が花山天皇御願寺を破壊させた、日本紀略万寿三年四月廿八日前権少僧都懐寿卒 https://t.co/1LJC2XkK21 。 懐<園>は「叡山法師 筑後守源道済子」(勅撰作者部類 https://t.co/b39IMEf0Wu )
長徳元年三月九日「..関白(道隆)病間暫触内大臣(伊周)..」四月六日「道隆依病入道」、十一日「入道関白藤原朝臣道隆薨南院」、廿日大払、廿一日賀茂祭、廿二日解陣、「宣旨云関白葬送来廿四日也」、廿四日吉田祭。 https://t.co/bMVklWrf7d
日本紀略には永延二年八月十六日「摂政新造二條京極第...今日之遊希代之事也」 https://t.co/NIDunV6C6X 永祚二年五月十日「入道太政大臣以二條京極第 永為仏寺号積善時」 https://t.co/X2VfgpM4Pw などと出ている。摂政、入道太政大臣は兼家。
日本紀略には永延二年八月十六日「摂政新造二條京極第...今日之遊希代之事也」 https://t.co/NIDunV6C6X 永祚二年五月十日「入道太政大臣以二條京極第 永為仏寺号積善時」 https://t.co/X2VfgpM4Pw などと出ている。摂政、入道太政大臣は兼家。
「高橋良成」は安芸守として意見十二箇条に見えるhttp://t.co/JeRzeMPFnfが、延喜十三年二月廿三日(913)「安芸守良成犯罪」と日本紀略に出るhttp://t.co/fB1WPo2JL9頃の話であり、歌を詠んだ方と同じとは限らない。遠流は重すぎ、という程度の罪か。
む、推量の助動詞。あかず(飽かず)、心残りであることに。(長元九年四月六日 1036)天皇不予(十七日)崩于清涼殿 春秋二十九 (五月十九日)奉火葬浄土寺西原 神楽岡東面也(略)立伽藍於神楽岡東 名曰菩提樹院 http://t.co/xqqx3zL8gn 日本紀略
この皇太后は道長次女で禎子内親王母(三条天皇中宮)妍子(994-1027)。(万寿四年九月)落飾崩、奉葬、中陰法事http://t.co/kwRq1LgHUe (長元元年九月九日)周忌善根http://t.co/7TnVwZYgWC日本紀略。江侍従は大江匡平衡と赤染衛門のむすめ。
この皇太后は道長次女で禎子内親王母(三条天皇中宮)妍子(994-1027)。(万寿四年九月)落飾崩、奉葬、中陰法事http://t.co/kwRq1LgHUe (長元元年九月九日)周忌善根http://t.co/7TnVwZYgWC日本紀略。江侍従は大江匡平衡と赤染衛門のむすめ。
正暦三年二月(略)六日(略)奉為円融院法皇 周闋御斎会 請僧百口。(略)廿四日(略)於朱雀門大祓 依諒闇了也。http://t.co/zSrR3CJ6ni 円融天皇の子一条天皇が、花山天皇のあと即位したのは満6歳の時でこの歌は満12の時。
正暦二年(991)二月(略)十二日(略)円融寺法皇不予(略)今日法皇崩 年三十三。(略)十九日(略)葬(略)天皇及侍臣侍女着素服。 http://t.co/A5Hx4iI01X 日本紀略。
こひぢ(泥)と恋を掛け、涙にくれる様子をあらわす(岩)。(長和元年七月十六日 1012/8/06)式部大輔大江朝臣匡衡卒 http://t.co/tvpaY1rfVu 日本紀略。赤染衛門(-1041)。美作三位は道長異母兄道綱のむすめで、上東門院の女房であった藤原豊子。
一条天皇の治世 正暦四年(993) 日本記略http://t.co/OV9RwHZLxc 六月 「転読大般若経(略)為消疾疫之難也」「今月 人民悉咳疫 五六月間 有咳逆疫」 七月「(七月に入り病で、落餝していた)左大臣雅信薨」 八月「赦除(略)免調庸(略)為慎三合 救皰瘡之患也」
けさから話題の舒明天皇の時代にどんなことがあったのか、 http://t.co/awWJDdPqgc とりあえず日本紀略あたりからでも見てみるかな。
984年に譲位していた円融天皇(959-991) は正暦二年二月十二日、健康をこわしたことにより大赦が行われた日に死亡( http://t.co/A5Hx4iI01X 日本紀略)。兼通の子朝光(951-995)は長徳元(正暦六)年三月二十日おそらく当時流行の疫病で死亡。
「一条院御時帥后被管(?)」「中関白二郎母高内侍号自帥」(國)。 http://t.co/3jGMyrTThm 以権中納言同隆家朝臣 為出雲権守 去正月依奉射危花山院法皇 又奉呪詛東三條之聞也 又縁坐左遷之者有其数
「一条院御時赴配所」「中関白子 母高内侍」(國)。藤原伊周(974-1010)は中関白道隆と高内侍高階貴子の子。長徳二年二月十一日...内大臣并中納言隆家卿家人與華山院人闘乱...四月二十四日...以内大臣藤原伊周朝臣 為太宰権帥 http://t.co/3jGMyrTThm
「冷泉院御時赴配所」(國)。醍醐天皇の子源高明(914-983)は左大臣であったが、安和の変により太宰権帥とされた。安和二年三月二十五日 左馬助源満仲...等 密告中務少輔源連橘繁延等謀反由 ...禁中騒動 殆如天慶之大乱 http://t.co/ccNIdYWWb4
(寛和二年)花山院法皇着藁履登台山 座主以下僧綱等相従者三十許人 諸人掩涙嗚咽 ○七月二十二日 法皇微行 赴播磨国書写山 謁性空聖人 或本三年 ○十月日 法皇於天台山戒壇院 受廻心戒 http://t.co/RrmHhx0lcf 日本紀略
日本紀略では正暦四年六月ころ http://t.co/OV9RwHZLxc から疫病のことが出ているようだ。咳疫、咳逆疫、皰瘡などの表現が出ている。variolaが強く示唆されそうだけど、すべての疫病死がそのためかはわからない。
三条天皇(976-1017)は、寛和二年七月十六日 外祖摂政右大臣(兼家)南院で元服、皇太子となった。 http://t.co/cMBqOJ7fhu 小大君は東宮に出仕していたらしい。
『日本紀略』後篇第一「醍醐天皇」辛未十一年(延喜十・910)六月条。  十五日辛未、太上法皇於亭子院賜酒於侍臣。令中納言紀朝臣(長谷雄)記事。  今月、霖雨不休、京都洪水泛濫。中納言紀朝臣(長谷雄)作苦雨賦。  http://t.co/ZwLjGBfhW7(406頁)
【和漢朗詠集116)花⑪】116②◆応和元年(961AD)3月5日村上天皇の催した冷泉院池亭の桜花宴で。◆「日本紀略」後編四のp.885の最期から二行目~p.886にかけて、そのときの記事がある。http://t.co/SBV1Y5zUNk

Wikipedia (2 pages, 2 posts, 1 contributors)

収集済み URL リスト