著者
友田 尋子 山田 典子 三木 明子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.48-54, 2015-01-25

はじめに フォレンジック・ナーシング(Forensic Nursing)は,「司法看護」や「法看護」と和訳されているが,後者の「法看護」は法医学(Forensic Medicine)と対比する和訳として用いられることが多い。本稿はForensic Nursingを,2014年に設立した日本フォレンジック看護学会(http://jafn.jp/)同様に,「フォレンジック看護学」とする。フォレンジック看護学は,イギリス,オーストラリア,アメリカでは1つの確立した看護学分野として位置づけられている。 実は看護場面で出会う対象者と,司法との接点は多い。例えば,DVや虐待を受けた被害者と加害者の両者への看護,交通事故の被害者への看護,現場で患者から暴力を受ける医療職への看護,薬物・アルコールによる中毒死の患者や遺族へのかかわり,虐待などによる脳死者からの臓器移植コンサルテーション,オカルト儀式や宗教団体のなかで宗教の名のもとに行われる人権侵害や身体侵襲,外来受診や手術を受ける受刑者や服役中に病院で出産する受刑者などである。 欧米でのフォレンジック看護は,犯罪を防止し被害者をなくすことを目的とし,被害者と加害者を救済するための看護活動である。日本における現行の加害者支援は,司法精神看護(医療観察法病棟の看護),矯正看護(少年院や刑務所など矯正施設における看護)であり,被害者支援では性暴力被害者への看護としてSANE(Sexual Assault Nurse Examiner:性暴力被害者支援看護師)の育成が,特定非営利法人「女性の安全と健康のための支援教育センター」で行われており,2014年春で330人の修了生がいる。また,フォレンジック看護の視点での教育ではないが,子どもの虐待被害者支援としてけがや病気への看護,DV被害者への早期発見を中心とした看護が存在している。 しかし,日本の大学や大学院では学問的体系がなく,フォレンジック看護学の視点での教育や実践は始まったばかりと言える。その先駆けとしては,2011年4月から甲南女子大学大学院で開講したフォレンジック看護教育や,東京医科歯科大学大学院の司法解剖医学・看護学,2014年3月に設立した日本フォレンジック看護学学会がある。このような動きをとらえながら,本稿ではフォレンジック看護学への期待と展望について考える。
著者
熊谷 晋一郎 栗原 房江
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.878-884, 2010-10-25

なぜ医療の道に進んだのか 栗原 私たちは2人とも,障害をもち医療へ携っています。今回は障害をもつ者として,教育と臨床に期待することを,話し合ってみたいと思います。 私の障害について最初にお話ししますと,小学校3年の春の健診で聴覚に障害があるとわかりました。当時は,25~30 dBの軽度であり,日常生活に支障はないと言われていました。19歳の頃,めまいで倒れて,それから少しずつ聴力が下がっていきました。それでも右耳が40 dB,左耳が35 dBぐらいで推移していました。25歳頃,右耳が突発性難聴になって90~100 dBと低下し,昨年の終わりぐらいからは左耳も落ち出して,今年になってスケールアウトになりました。
著者
高田 みつ子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.444-450, 1986-06-25

桜井女学校附属看護婦養成所のミッション関係の往復書簡 昭和60年(1985)は,日本の地で正式な看護婦養成が開始されて,ちょうど100年目にあたった.日本看護協会の通常総会においても,その記念行事が行われた. 最初にわが国で看護婦養成が行われたのは,明治18年(1885)の有志共立東京病院看護婦教育所である.次に設立されたのは京都看病婦学校,3番目に設立されたのが,桜井女学校附属看護婦養成所(以下桜井と記す)である.前者2校は母体がしっかりしていることもあって,すでに多くの研究がなされ,看護婦養成の歴史はかなり明らかにされている.それに比較し,桜井は,後の女子学院が明治35年12月27日,明治39年12月10日の2度の火災と昭和20年5月24日夜半から25日未明にかけての東京大空襲1)で,内部資料をほとんど焼失してしまったため疑問な部分が多く残されたままであった.また,桜井の設立者であるマリア・T・ツルー(Maria T. True)自身のミッション関係の記録も今まで紹介されていなかった.
著者
児玉 有子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.486-488, 2010-06-25

看護基礎教育の教員経験者は誰もが「もっと同僚がたくさんいたら」と何度も感じた経験があるだろう。しかしながら,この問題に関する議論はどこかで解決をあきらめ,身を尽くして教育や研究に従事している教員が多いのではないだろうか。かくいう私もその一人だった。 筆者は看護基礎教育に携わったのち,現在は研究員として看護職の資格を生かしながらさまざまな医療に関する研究に従事している。看護系大学の教員という立場を離れた今,冷静に看護の教育現場を振り返ったときに気になったのは,看護の教育,研究に携わる看護職〈大学教員〉の数があまりにも少ないことである。
著者
亀山 美知子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.13-16, 1995-01-25

日本の近代において,ナイチンゲールとジャンヌ・ダルクほど称揚された女性は少ない.とりわけ,ナイチンゲールについては,明治の初頭に紹介され始め,現代に至っても一定の評価を受け続けている.それは女性の事業家であり,政治手腕を発揮した女性であり,何よりも「博愛」の象徴としての看護に携わった女性としてであろう. だが,フェミニズムの立場からフロレンス・ナイチンゲールの足跡を評価する論文等は,日本において比較的少ない.本稿では,ナイチンゲールをフェミニズムの観点で,再評価しようと思う.
著者
和田 圭壮
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.196-201, 2020-03-25

はじめに 私は、福岡教育大学(以下、本学)の美術教育ユニットで、書写・書道教育学を専門として教えています。本学では、「板書指導」という授業を開講しています。この授業は、小学校教員養成向けの授業で、90分15回の授業のうち、書写・書道の教員が手書き文字の良さを知るための講義やチョークによる美しく整った文字の書き方の実技を7回行っています。残りの8回で国語・算数・理科・社会・道徳の板書計画を、それぞれの専門の教員に指導していただいています。教員6名によるリレー式の授業となっています。
著者
原 萃子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.76-85, 1988-02-25

ここ数年来,学術研究の国際交流が学術審議会の答申1)などの影響もあってか,従来の一方交通的かつ先進国志向の交流のみならず,国際協力という意図を強化した交流のあり方が考慮されるようになってきたと身近なところで感ずる. 新潟大学医療技術短期大学部(本学)は,1986年の年の瀬もおしせまった12月24日,私たちにとっては正に近くて遠い国であった大韓民国々立清州専門大学(〒310忠清北道清州市司倉洞山53番地)と姉妹校関係の調印式を行い,主として看護学の領域で交流を深めていくことになった.
著者
金井Pak 雅子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.431, 2020-05-25

ヘルスケアにかかわるすべての人にお勧めしたい 本書を開いて最初に目を引くのは、第1章として「医療は誰のものか」で始まることである。“まずヒポクラテスから始まる”というイメージがある一般的な医学・医療概論とは違うという印象をもった。そこでは、人道主義、患者の権利、倫理などに続いて、「人の気持ちを慮ることの大切さ」について著者らのユニークかつ重みのある体験が語られている。たとえば、産婦人科医である著者の1人(男性)が、若いときに患者の気持ちになってみようと、分娩台に上がってみた(下着をつけずに!)という記述がある。このように、医療職にとって最も大事なものはなにかを理解するための哲学的な問いが、頭でだけ考えたものではない描写で随所にあらわれている。同様に、第2章は「健康とは何だろうか」をテーマに、well-being について身体的・社会的・精神的な視点から、地に足の着いた解説がされている。 第3章は、医療の誕生から現在そして未来への展望が、最先端の医療技術の課題などについて「全人的医療」をキーワードに解説されている。環境汚染による健康被害(水俣病、四日市喘息など)の歴史は、医療者としてしっかりと認識しておくべき課題であるが、その記述も充実している。さらに近代社会における人類最大の健康課題とされてきた感染症対策として、ペストやコレラそして天然痘、結核についてその発生から終息に至る経緯がわかりやすくまとめられ、エイズ(薬害エイズ問題を含む)や重症急性呼吸器症候群(SARS)に関しては、グローバル感染症として国際協調体制の構築が強調されている。この書評を書いている今、新型コロナウイルスによる感染がパンデミックとなり、日本でも感染者が出てさまざまなイベントが中止となっている。「見えない敵」との闘いは、人々を不安に陥れるのみならず、生活の基盤である経済に大打撃を与える。感染症対策の国際的強化のみならず、社会や経済への影響を最小限にする努力が求められていることを、学んでおく必要がある。
著者
大島 弓子
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.378-382, 2020-05-25

2020年5月12日にナイチンゲール生誕200年を迎える。この機に、看護職がもつパワーを最大限に発揮し人々の健康の向上に役立たせようという趣旨の「Nursing nowキャンペーン」がなされている。これは、イギリスの議員連盟、世界保健機関(WHO)、国際看護師協会(ICN)などが中心となり広まっている、世界的なキャンペーンである。 私は日本におけるキャンペーンの実行委員を務めており、この活動を通じ、あらためてナイチンゲールのことを考える機会を得た。そして同時に、今回を私自身の歩み続けてきた道を振り返る機会としたいと思っている。本稿ではそれらをふまえつつ、看護をめざす人、歩んでいる人の糧になることを期待して、あらためて看護の魅力とそれを動かすエネルギーについて、ここにあげてみたい。
著者
中野 美保
出版者
医学書院
雑誌
看護教育 (ISSN:00471895)
巻号頁・発行日
vol.51, no.8, pp.678-681, 2010-08-25

はじめに 高齢者は加齢による機能低下に加えて,何らかの原因で長期臥床した場合,急速に日常生活能力が低下する。その結果,自尊感情の低下が生じ,生きる目的や意味が見出せなくなり,生活全体が活動性の低い状態になる。そうした状態を改善するためには,活動性を高め回復意欲を向上させるための,日常生活動作(以下,ADL)の自立に向けた援助が肝要となる。 S氏は70歳代後半の老年期の女性で,膵炎の再燃と寛解を繰り返し,入院8か月目となっていた。受持ち時,リハビリテーション(以下,リハビリ)が再開されたが「何もできない」「思うように立てない」「リハビリが進んでいるように全然感じない」等,否定的な言動が多くみられた。 今回担当した患者に対して,ADLの拡大に向けて,患者が喜びや楽しさを実感することができ,手指の巧緻性を高める指導・援助を行うことが有効であろうと考えた。そこで,遊びを交えたリハビリを行うことで,患者の回復意欲の向上が図られ,効果的にADLを拡大できる指導援助に取り組んだ。 このような「遊びリテーション」(三好春樹氏が提唱している,リハビリに遊びの要素を取り入れたもの)を取り入れることで,高齢者の回復意欲を喚起し,ADLを拡大させるための有効な手段になるかを,実践を通して明らかにしたいと考え,本主題を設定した。
著者
伊澤 紘生 堀 喜久子
出版者
医学書院
雑誌
看護教育 (ISSN:00471895)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.126-131, 2005-02-01

競争の弊害をなくすには「競争の裏側」の論理をもってきて対処すればいい。 伊澤 私たちの文化や文明がまさに同じでしょう。これだけ競争に明け暮れして,さまざまな素晴らしいものを生み出してきた。しかし,同時に,戦争とか,虐待とかいじめとか,あらゆるえげつなさも生んできた。私たちは,競争の論理のもっているいい面と悪い面をいかに認識するか。それには,競争の裏側の論理がちゃんとわかっていなかったらどうしようもないということです。そういうことを徹底的に教えてくれたのがサルなのです。 たとえば,面白い例だけど,10年ほど前,いじめや虐待,不登校,校内暴力など,小学校で激化しつつあるさまざまな問題への対処として,当時の文部省は「競争をあおるようなカリキュラムをなくすように」と通達を出したのです。
著者
藤井 ひろみ
出版者
医学書院
巻号頁・発行日
pp.729, 2018-08-25

SOGI(性的指向・性自認)の多様性は,看護学生のなかにも見られます。筆者が2016〜2017年に実施した看護学生へのインタビュー調査では,同性愛指向や性別違和をもつ看護学生がいろいろな対処行動をとりながら,学んでいる事例が明らかになっています(表)1)。 たとえば,学校で実習服のデザインが男女で異なる場合,戸籍とは異なる性別の制服の着用が許可されるか,ということが学業継続の分岐点の1つになり得ます。その交渉のために学校長や教員へのカムアウトが必要になります。しかし性的な個人情報を,すべての学生が公にしたいわけではありません。また学生からカムアウトをされた看護教育者側は,SOGIに関して学生の「同意なき暴露」(アウティングと言います)をしてはなりません。学校として,実習指導者や患者が学生を受け入れてくれるだろうか,SOGIの多様な学生の状況をどの程度伝えるのか,対応を検討することになります。学生自身も「自分の性的指向の話はしたいと思ってるけど,あの人ちょっといや……みたいに思われる方(患者)もいるかもしれないので,どこまでオープンにしようか……」1)と考えている場合もあります。まずは当該学生と相談し,具体的に起こり得る状況を伝え,意思確認をおこなうことが重要です。
著者
伊藤 亜紗
出版者
医学書院
雑誌
看護教育 (ISSN:00471895)
巻号頁・発行日
vol.58, no.12, pp.1038-1041, 2017-12-25

人間にとって「話す」とは,まぎれもなく発声器官を用いた身体の運動です。しかしそれは同時に,社会的な行為でもあります。社会的な行為であるとはつまり,他者との関係を左右する,意味を帯びた行為であるということ。ちょっとした言葉の選び方や表情のつくり方が,場の雰囲気を変えたり,人間関係を左右しうることは,今さら説明するまでもないでしょう。 それは別の言い方をすれば,私たちの「話す」は,常に他者の期待のうえになされる行為だ,ということです。独り言であれば,他者からの期待が一切ない,いわばまっさらな状態で,私たちは話すことができます(そして多くの吃音当事者が,独り言ではどもりません)。しかし,通常の会話ではそうはいきません。相手が「どうぞ」と言ってお茶を置いてくれたなら,私にはお礼を言うことが期待されているし,相手が真剣な顔で相談をしてきたら,それに真剣に応えることが期待されています。