著者
和田 忍
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.85, pp.125-153, 2016

アングロ・サクソン期のイングランドにおけるゲルマン民族の民族的特徴を示す証拠は数少なく,詳細な記述はほぼない。ブリテン島が政治的にキリスト教化されたのは6世紀末になってからといわれているが,そこへ侵略してきたアングロ・サクソン人や,その後のデーン人が,ブリテン島に定着してからすぐに完全にキリスト教化したとは考え難い。そのため,デーン人がブリテン島を侵略した9世紀から11世紀半ばまでのデーンローに関する資料を用いてゲルマン民族的異教信仰の痕跡を調査することで,当時のイングランドにおけるゲルマン民族の特徴を考察した。今回は調査資料を限定して,グズルム(Guthrum)がアルフレッド大王(Alfred the Great)およびエドワード(King Edward)と取り交わした条約(ウェドモアの条約,the Treaty of Wedmore)と,クヌート(Cnut)がイングランド王として制定した世俗法(第2クヌート法典,II Cnut)の2点を中心に扱った。これらの資料を考察した結果,そこで述べられているゲルマン民族的異教信仰および元来のゲルマン民族による慣習は古アイスランド語文献で述べられている内容とほぼ一致した。このことからアングロ・サクソン期のイングランドにも,ゲルマン民族的異教信仰やゲルマン民族的な慣習が少なからず行われていたことはわかるが,その程度までは測れないという考えに至った。アングロ・サクソン期の末期までにイングランド国民がゲルマン民族的な慣習をすべてなくしてしまったと結論付けられるが,キリスト教に対峙する内容のものが消え去り,地名や曜日の名称など,キリスト教社会に容認された内容が残っていることは興味深い。
著者
栗原 健
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.84, pp.67-83, 2016

近世ヨーロッパを見舞った「小氷河期」と呼ばれる寒冷期は,嵐や洪水など多くの気象災害をもたらした。この気候変動に応えて16世紀後半のドイツに登場したのが,「嵐の説教」と呼ばれるルター派の説教文学である。この中で聖職者たちは民衆の疑問に対応して,気象現象は悪魔や魔女からではなく神から来ること,神は人を改心に導くため嵐や自然災害を用いることなどを,マルティン・ルター以来の神学伝統に基づいて説き聞かせている。彼らによれば,気象災害から逃れるためには人はまじないなどに頼るのではなく,改心して行いを改めるべきである。しかし,敬虔な信仰者であっても命が守られるとの保証はない。このため人々は神の慈愛を信頼し,自らの生死を神の手に委ねるよう勧められた。これらの講話は災害被災者に対するカウンセリングの先駆と言うべきものであり,環境危機の時代に住む現代人に対しても種々の示唆を与えてくれるものである。
著者
高橋 薫
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.79, pp.1-39, 2014-09-16

かつてウェルギリウスがローマ帝国のひとびとのアイデンティティを高めるべく、トロイア戦争の落ち武者アエネアスを建国の雄としてその生涯を歌ったのに倣って、フランスでも中世以来アエネアスの同輩フランクスがフランス建国の祖であったという伝承が存在した。一六世紀最大の天才詩人ロンサールもこの主題にのっとった叙事詩の完成を目指したが、改革派対カトリック信徒という、国家のアイデンティティそのものの崩壊と当時の歴史学の発展により、所詮は虚構であるその叙事詩『ラ・フランシヤード』は完結の域には程遠い状態で出版された。世紀をあらためて一七世紀初頭、三人の韻文家がこの物語の完成を目指した。そのうちのひとり、クロード・ガルニエはロンサールの弟子を名乗って未完の叙事詩の続編を歌った。本稿で扱うのはロンサールとは異なり、より近代的な歴史記述のなかにフランクス伝承を組み入れ、いまだ尾を引く夢の国家的叙事詩の作成を目論んだ、ガルニエ以外の「遅れてきた」一六世紀詩人ふたりの作品である。本国での評価も低いため作者・作品の梗概に紙幅を割かれ、予定の枚数を大幅に超えたため複数回にわたって連続論評することをお赦しいただきたい。まず第一回はニコラ・ジュフランの作風を取り扱うものとする。
著者
和田 忍
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.81, pp.269-292, 2015

アルフリッチによる『聖人伝』(Ælfric Lives of Saints)には,「呪術について」という説話が収録されている。この説話の中にはhæðen 'heathen' の語が5 度出現し,聖書的な文脈での「異教徒」の意味で使用されている。本論では,アルフリッチがhæðen という語彙に上述の意味に加えて,ヴァイキングの存在も含めていると考えられることを示す。アルフリッチは,この「呪術について」の説話において,ヴァイキングを示す「デーン人」(ða Denisca 'the Danes')という語を使用していない。それ故,彼は直接的にヴァイキングを言及していない。しかし,このテキストにおいて,hæðenとともにscucca(sceocca)といった語彙を取り上げて分析すると,アルフリッチはこれらの語彙を通じて,ヴァイキングを意識していることがわかる。そして,アルフリッチは,キリスト教の教理を浸透させるという説教集の目的とは別に,この呪術についての説話を通じて,ヴァイキングがイングランド人に対して脅威となる異教徒であると示唆している。
著者
沖田 瑞穂
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.75, pp.285-308, 2013-10-10

日本の昔話の「花咲爺」は,殺されて死体から有用植物を発生させるハイヌヴェレ型神話の要素を持つと同時に,中国の「狗耕田」,中国や台湾の「蛇むこ」などの説話とも同じ構造を持っており,古栽培民的要素と焼畑雑穀農耕に由来する要素の二層から成り立っているということが,古川のり子の研究により明らかにされている。本稿ではこの古川説に加えて,比較対象をルーマニアの「リンゴ姫」,インドの「ベル姫」,さらにはエジプトの「アヌプとバタ」の説話に広げ,これらの説話に共通した構造を抽出した。その特徴は,主人公が次々に変身する「連続変身」であり,おそらくエジプトのものが最も古く,エジプトから中国,日本へと伝播し,ルーマニアとインドの話はエジプトから中国への伝播の途中で分岐したものと考えられる。また,連続変身の本来の形は,「人間→動物→木→木製品→(灰)→再生」というものであったと推定される。
著者
榎本 恵子
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.76, pp.61-87, 2013-10-10

「喜劇の父」と評価され,フランス演劇に大いなる影響を与えた古典ラテン喜劇作家テレンティウスの作品の翻案が初めて17世紀フランスの舞台で上演されたのは1691年である。同じように「喜劇の父」と称されていたプラウトゥスの喜劇の翻案が上演されてから,約60年後のことである。ブリュエスはパラプラと共同でテレンティウスの『宦官』を『口の利けない男』として翻案し上演した。彼らの前には,ラ・フォンテーヌが翻訳し出版されているが,上演された記録はない。 テレンティウス原作『宦官』が如何に劇作家や観客の興味を引く作品であったかを考察し,この作品が17世紀のフランスの風習と,演劇の規則にそぐわない側面があることを浮き彫りにする。それにもかかわらず,時代の流れに適応させていったラ・フォンテーヌ,ブリュエスとパラプラの視点を検討する。そしてそこから17世紀フランスの劇作家にとって古典喜劇作家「テレンティウス」が意味するものを改めて確認していく。
著者
前之園 春奈
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.79, pp.17-30, 2014-09-16

ジャン= ジャック・ルソーの『エフライムのレヴィ人』は,旧約聖書の『士師記』を下敷きにして書かれている。作品の最後にはアクサという娘が登場するが,このアクサのエピソードはルソーが創作したものである。このアクサの自己犠牲の行為が『社会契約論』における「全面譲渡」の身ぶりと同じであると考えられることから,『エフライムのレヴィ人』を政治的作品として位置づけた読解を試みた。本稿では,ルソーがアクサのエピソードを挿入することによって,「全面譲渡」成立の瞬間の原風景を物語化して読者に呈示していることを明らかにした。
著者
小田 格
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.77, pp.77-132, 2013-10-10

広東省国家通用言語文字規定は,中華人民共和国国家通用言語文字法の施行規則として,広東省人民政府により,2011年12月に制定・公布され,翌2012年3 月から施行されている地方政府規章である。本稿では,本規定の立法過程や関連報道等について記述するとともに,社会言語学的資料にもとづき,漢語方言の使用規制に関する第11条,第12条および第16条の実際の運用状況について検討をくわえた。その結果,現段階では,これらの規定に則して,なんらかの規制が課されているものとはみとめられず,かつ,関連報道や同省人民政府の対応等にかんがみるならば,ただちに規制が強化されるものとは判断できないという結論にいたった。しかし一方で,本規定の内容や立法過程等にてらすならば,現在のような状態が長期にわたり安定的なものかについては,疑問なしとすることができないことから,今後の動向にひきつづき注視していかなければならない。