著者
福山 達夫
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
Artes liberales (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.185-208, 1993-12-10
著者
横山 英信
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテス リベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.96, pp.93-113, 2015-06

日本の政権は,2009年8月の総選挙でそれまでの自民党・公明党連立政権から民主党・社民党・国民新党連立政権(10年5月に社民党は連立離脱)へ交代したが,12年12月の総選挙の結果,民主党政権から自公連立政権(=安倍政権)へ再び交代した。そして,この政権再交代の下で,日本農政の動向も変化している。 民主党連立政権の農政の中軸に位置づけられた「農業者戸別所得補償制度」(以下,戸別所得補償制度)は,以前の自公政権の下で07年度から開始された,農業生産に係る価格・所得補填の対象を一部の大規模経営体に限定する「品目横断的経営安定対策」(08年度から「水田・畑作経営所得安定対策」と改称)とは異なって,全農業者を対象とする価格・所得補填措置であった。09年8月の総選挙で民主党が大勝した一因も,その際の選挙公約として打ち出した戸別所得補償制度が多くの農業者の支持を得たことにあった。 この戸別所得補償制度に対して,当時野党であった自民党は「バラマキ政策」と批判しており,それゆえ,政権再交代後の農政に戸別所得補償制度を否定する色合いが見られるのは半ば当然であるが,それは以前の自公政権下の農政にそのまま戻ったものではない。 すなわち,価格・所得政策を見るならば,それは品目横断的経営安定対策に単純に復帰したわけではなく,以前とは異なった特徴を持つものになってきた。加えて注目すべきは,政権再交代後の農政には,戦後農政の基底をなしてきた米政策・農地政策の基本的枠組みを根底から再編しようとする方向が明確に打ち出されていることである。 このような農政再編は,現在,農林水産省が13年12月に公表した「4つの改革」をベースに据えて進められている。その帰趨は今後の日本農業・農村の動向に大きな影響を与えることになろう。 以上に鑑みて,本稿は,政権再交代後の農政再編の内容とその基本的な性格を,近年における日本農政の展開動向を踏まえて明らかにすることを課題とする1)。
著者
盛田 紗緒莉 小島 聡子
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
Artes liberales (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.29-42, 2016-01-29

一般に,大学は高校よりは広い地域から学生が集まっている。そのため,大学入学後異なる言語圏の出身者と話す機会が増え,言葉の地域差のヴァリエーションに興味を持つ学生は少なくない。岩手大学の学生は,東北地方出身者が8割以上を占め,中でも半数近くは岩手県の出身1)なので,首都圏の大学に比べれば,言語のヴァリエーションは少ないかもしれない。しかし,東北地方の面積は広大で内部の言葉の地域差は小さくなく,岩手大学の学生たちも,大学進学後に言葉の違いに気がつくことがあるのは他の大学の学生と同じである。 とはいえ,岩手大学の学生たちが大学で必ずしも「地元の言葉」で話しているというわけではない。近年は「方言ブーム」などもあって,方言に対する劣等感は減っているという指摘もあるが,東北地方では未だに方言に対するコンプレックスは根強く,学生たちも例外ではない。そのため,「地元の言葉」は出さないようにしている学生も少なくない。また,特に盛岡市など都市部出身の学生たちは,自身の言葉を「標準語である」と意識しているか,あるいは少なくとも「あまりなまっていない」と思っていることが多い。つまり,お互いに「標準語」で話していると思っている学生が多いのである。それにもかかわらず,通じない言葉があり,それが地域差によるものであると発見すると,一段と興味をそそられることも多いようである。 本研究では,そのような「標準語」的な表現の中で一部の学生たちが用いている「あるくない?」「するくない?」などと使う「クナイ」という形に注目し,東北地方における地域的な広がりと使用状況を明らかにしようとするものである。 「あるくない?」は動詞「ある」に「クナイ」という形式が付いた形で,「あるよね?」あるいは「あるんじゃない?」と同じような意味を持つ表現として用いられる。岩手大学では,主として秋田出身の学生が多く発話していることが観察される。しかし,岩手大学でも使用しない学生の方が多く,初めて聞いて驚く人も少なくない。一方,「あるクナイ」を使用する人は,相手に驚かれて初めて通じない場合があると気が付くようである。この形は,秋田県のいわゆる伝統的な方言の範疇に入るような表現ではなく,使っている人にも方言であるという意識はない。 そこで,本稿では,「あるくない」のような〈動詞+クナイ〉という形式が,どのような地域的な広がりを持ち,また,どのように用いられているのかについて,岩手大学の学生を対象に東北地方における実態を調査した。 その結果,秋田県では地域的にも広く用いられ,また,待遇的にも敬体で用いられることもあるなど,用法も広いことが明らかになった。さらに,周辺への広がりという点では,秋田県の南側に接する山形県では同様に用いられている可能性があるが,岩手県・青森県・宮城県・福島県ではほぼ用いられることがないことがわかった。
著者
樋口 知志 佐藤 友理
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
Artes liberales (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.41-67, 2010-06-25

現在,多種多様な広告が世の中に溢れ,広告論なる研究も数多く行われているが,近代以前の広告が辿った歴史についてはこれまであまり語られてこなかった。広告の歴史を繙くと,江戸時代に誕生した「引札」という今のチラシ広告に相当する広告媒体がある。江戸時代以前にも,看板,暖簾等の広告媒体は存在したが,とりわけ引札は我が国の商業史上大きな役割を果たし,今日の日本における広告文化の基礎を築いたという意味で重要である。さらに引札は,人々の生活に密着した大衆的なものであっただけに,他の史料には記されていない人々の生活,当時の社会情勢や文化を知る手掛かりとしても貴重な「史料」である。
著者
小林 睦
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテスリベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.82, pp.1-16, 2008-06

本稿の目的は,ハイデガーにおける「生命」概念を理解するために,彼の思索と生物学との関係を整理・検討してみることにある1)。これまで,ハイデガーと生の哲学との関係については多くの議論がなされてきたが,彼の哲学と生物学との関わりについては,あまり語られることがなかったように思われるからである。 そのためには,ハイデガーがその著作や講義録で行なっている,必ずしも多いとは言えない生物学への言及を手がかりに,彼が当時の生物学によって提案されていた主張をどのように評価あるいは批判していたのか,また,彼がその生物学からどのような影響を受けていたのか,を明らかにする必要がある。 哲学者としてのハイデガーは,アリストテレス研究から出発して,その思索の途を歩み始めた。このことを考慮するならば,彼の生命観を理解するためには,アリストテレスの「生(ζω´η)」概念から引き継いだものを無視することはできない。周知の通り,アリストテレスの生命論は,歴史的に見て,「生気論」の古典的かつ代表的な形態であるとみなされている。 「生気論(Vitalism)」とは,生命現象には物質には還元できない本質(生気)が伴っており,環境に適応するための合目的性は生命そのものがもつ自律性にもとづく,とする立場である。それは,「機械論(Mechanism)」のような,生命現象がそれを構成する物質的な諸要素が組み合わされることによって生じ,物理−化学的な諸要素に還元することができる,と主張する立場とは真っ向から対立する。生命の本性をめぐる解釈の歴史は,こうした生気論と機械論とが互いにその正当性を主張しあう論争の歴史であったと言うことができよう。 アリストテレスの場合,生命における可能態(δ´υναμις)としての質料を,現実態(εʼντελ´εχεια,εʼν´εργεια)へともたらすものが,形相としての「魂(ψυχη´, anima)」である。魂の定義は多義的であるが,その本義は,〈生きる〉という活動─栄養摂取,運動,感覚,思考─の原理として規定されており,植物・動物・人間などの違いに応じて,魂はその生命活動を具現化する形相にほかならない,とされる2)。 こうした思想を熟知していたハイデガーは,アリストテレスと同じく何らかの「生気論」に与するのだろうか。それとも,同時代の生物学において有力であった「機械論」的な発想に理解を示すのだろうか。あるいは,そのいずれとも異なる第三の生命観を主張するのだろうか。 以上のような問題意識にもとづいて,本稿ではまず,(1)ハイデガーによる生命への問いが何を意味するのかを整理する。次に,(2)ハイデガーが機械論的な生命観に対してどのような態度をとっていたのかを確認する。さらに,彼が「生物学における本質的な二歩」を踏み出したとみなす二人の生物学者──ハンス・ドリーシュとヤーコプ・ヨハン・フォン・ユクスキュル──について,(3)ドリーシュの新生気論に対するハイデガーの評価,および,(4)ユクスキュルの環世界論とハイデガーとの関係,をそれぞれ検討する。その上で,(5)生気論と機械論に対するハイデガーの批判を振り返りつつ,動物本性にかんするハイデガーによる意味規定を分析する。最後に,(6)ハイデガーにおける反進化論的な態度が何に由来するのかを考察し,その思想的な特徴を確認した上で,本稿を閉じることにしたい。