著者
小島 聡子
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
Artes liberales (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.69-86, 2010-06-25

近年,地域の言語の多様さの例として,伝統的「方言」ではなく「標準語」とも異なる独特の言葉が取り上げられるようになってきた。これらの語のあり方の多様さを反映して,「地方共通語」や「新方言」など様々な用語もある。具体的には,東北地方に特有なものとして「しなきゃない」(=「しなければならない」),「お先します」などが知られている1)。本稿では,そのような伝統的「方言」とも「標準語」とも異なる地域に独特な言い方について,岩手の例を挙げてみたい。

22 0 0 0 IR 藤原清衡論(上)

著者
樋口 知志 HIGUCHI Tonoji
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテスリベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.82, pp.93-115, 2008-06

藤原清衡(1056 − 1128)はいわずと知れた奥州藤原氏の初代であり,平泉の地に開府を果たして奥羽両国に覇権を樹立し,80余年続いた絢爛豪華ないわゆる平泉文化の礎を築いた人である. 清衡が出生した天喜四年(1056)という年は前九年合戦(1051 - 62)の最中であり,康平五年(1062)に同合戦が源氏・清原氏連合軍の勝利=安倍氏の「滅亡」というかたちで終結したとき,彼は実父の経清を失っている.その後,奥六郡主安倍頼時の娘である彼の母は清原武則の長子武貞の許に再嫁し︑清衡も母の連れ子としてともに清原氏の人となった.彼はその後清原氏の一員として少年・青年期を過ごすが,永保三年(1083)に勃発した後三年合戦(1083 - 87)では清原氏当主の座にあった異父異母兄の真衡や異父同母弟の家衡︑オジの武衡と戦い合い︑合戦終結後は清原氏嫡系男子としてたった一人生き残った.かくして奥羽の二大戦乱を生きぬいた清衡はその後も弛まぬ歩みを続け,十二世紀初頭頃にはついに平泉開府を果たしたのである. 本稿では,そのような数奇な生い立ちと前半生をもつ彼の人生の軌跡について,文献史料の精確な読み直し作業に立脚しつつ,あらためて根本から再考してみたい.というのは,彼の生涯についてはこれまで諸先学によって数多く論及されてきたものの,巷間に流布している通説的見解にもあるいは史的事実に反する誤謬が少なからず含まれているのではないかと愚考されるからである. 平泉の世界遺産登録のことが頻繁に話題とされ奥州藤原氏に関わる平安末期の文化遺産に熱い視線が注がれている昨今であるが,近年そうした動きとも連動するかたちで,前九年・後三年合戦期や奥州藤原氏の時代に関わる諸遺跡の発掘調査が進められて考古学的知見がいちじるしく増大し︑また歴史学(=文献史学)の側においても『陸奥話記』『奥州後三年記』や『吾妻鏡』といった関連する諸文献の史料批判や読み直しにもとづき基礎的研究の拡充が図られるなど,かなりの研究成果の蓄積がみられた.本稿ではそれら数々の新たな成果を踏まえながら,奥州藤原氏初代清衡の全生涯について,時代の趨勢やその変遷との関連をも重視しつつできるかぎり詳細に論じてみたい. もしも本稿における所論の中に,今後の奥羽の古代・中世史研究や平泉文化研究の発展にいささかなりとも寄与しうるところがあるとすれば,まさに望外の幸いという他ない.

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出版者
岩手大学教養部
巻号頁・発行日
1966
著者
北村 一親
出版者
岩手大学
雑誌
Artes liberales (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.1-35, 2007-12

岩手大学人文社会科学部紀要Ἦταν στρυϕνός, οἱ ϕίλοι του ἦταν λίγοι( Σεϕέρης( 1979: 266))本稿は筆者が「人文学の終焉,或いは過去との訣別」という副題を供し,1998年9月28日に行った岩手言語学研究会における研究発表を基に,その後の東京外国語大学大学院での集中講義,筆者が独自に企画したロマンス語学セミナー,更に岩手大学人文社会科学部で筆者が担当する講義・演習等の中で学生諸君に語ったことを再構成したものである。 向後,知性が軽視され,曲解され,若い世代が貧弱な知性に曝されることになるとしたら,また彼等がそのような状況の中で成長し,更に次世代を育てていくとしたら,燦然とした人類の未来を望むことは難しいであろう。我々は知性の時代の終焉を阻み,豊かな知性を眷養すべく全身全霊を賭して学道に情熱を注ぐ必要がある。マクス・ヴェバ(ウェーバー)が„Nun kann man niemandem wissenschaftlich vordemonstrieren, was seine Pflicht als akademischer Lehrer sei. Verlangen kann man von ihm nur die intellektuelle Rechtschaffenheit"「大学で教鞭をとるものの義務はなにかということは,学問的にはなんぴとにも明示しえない。かれにもとめうるものはただ知的廉直ということだけである」( Weber( 1919:24),邦訳はウェーバー( 1980:49)6 bis))と嘗て説いたのと同じく現在の我々,大学人に求められるものは,「知的な誠実さ,公正さ」である。 「大学は,政治的には,いつの世でも,無力であり,大学の武器は,精神力と真理だけ」(滝川(1960:28))であるからこそ時流に流されることなく,あらゆる感覚を鋭敏にして時局に臨む覚悟が我々に要求される。人文学的知見は当にこの感覚を涵養せしむるものである。 周知の如く,劣僕なる筆者は諸彦諸賢には及ぶべくもないが,弱才乍らも研究及び教育を行う上で経験し思料したことを人文学の発展のために微力ながら供することができれば幸甚であると考え,本拙文を起稿した次第である。故に本稿にて筆者が所懐を述べるに僭越な点,数多あれども,平に御容赦あれかし。 以下,先んじて現在の日本における知性の悲況を一瞥し,人文学的知見を涵養することが如何に大切であるかを提示する所存である。本稿は晦渋な措辞,並びに煩多な憑拠の多用にも拘らず耐忍の上,読過される聖哲諸氏に供せんとするものである。"And he said unto them, He that hath ears to hear, let him hear." 「人文学」に対する概念定義は「人文学方法論(別稿)」にて行うが,本導論を通読する上で必要な程度の定義をここに示しておくことにする。本稿でいう「人文学」とは「自然科学」Naturwissenschaft と対立する概念であり,方法論においてハインリヒ・リケルトが相対的に「一般化的」であるとした「自然科学」と対立させて,相対的に「個性化的」であるとした非自然科学の諸学を統括した「文化(科)学」Kulturwissenschaft と等価である。但し,本稿では「人文諸学」という観点から正確にはKulturwissenschaften と対応するが,「人文諸学・文化諸学」とはせずに,総称的に「人文学」という名称を用いた。誤解の無いように付言するならば,Kulturwissenschaften と言っても本稿は文献学的伝統を基盤に据えることをあくまで重視するという点で当代の「文化科学」cultural studies とは一線を画する。アラン・ソウカルの『ソウシャル・テクスト』誌事件が本稿の意趣を代って表しているのでここでは更なる説明を省略する。(ソーカル / ブリクモン(2000)。当代の「文化科学」に対するゲルマニストからの批判は木村(2003)を参照) アルヴィン・カーナンが言及する領域は本稿とは異なり,「社会科学」分野が含まれないが,最も判りやすい言葉で「人文学」の核となる概念を説明しているのでここに引用しておく。(その邦訳で「人文科学」としている英語の原語はhumanities である。) カーナン曰く,「人文科学とは,人間が語る物語,人間の思考方法,人間の過去の姿,言葉によるコミュニケーションや説得,そして,なかでも人間の存在の奥底を突き動かす音楽などの研究からなる。これらの学問領域は,換言すれば,最も根本的な人間的な知の方法についての研究であり,日常生活を送るうえだけでなく,人間が生きるうえで最も役に立つものである。」(カーナン(編)( 2001:3)) 筆者としては極度にスコラ学Scholastik に傾くのを避けながら,Logica(論理)として統括されるArtes sermocinales, logicae, verbales のトリウィウムTrivium を中心に,Physica(自然) として纏められたArtes reales のクワドリウィウムQuadrivium をも包容させて,つまり「人文」と「自然」を連繋すべくアルテス・リベラレスArtes liberales( Freien Künste) を常に視野に収めて人文学研究を進めたいと念じている。これは人間が宇宙をも含む壮大な自然と調和するための欠くべからざる視点であると考える。(アルテス・リベラレスにおける諸学に関してはKoch(hrsg.)( 1959) の諸論文を参照。) なお,外国語の固有名を片仮名表記する場合,『外来語の表記(内閣告示・内閣訓令)』等を参考にしながらも原語の発音を可能な限り忠実に写すことを旨とした。外来語音ということで日本語の音韻体系の枠組みから外れることがあることも明記しておく。よって,筆者の表記が翻訳者の表記あるいは一般に普及している表記と異なる場合も生じたが,翻訳書の書誌的記述では当然ながら翻訳者の表記法を踏襲した。(但し,今更,如何ともし難い国名等の表記においては慣用に従わざるを得なかった。)
著者
家井 美千子 IEI MICHIKO
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテス リベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.93, pp.15-31, 2014-03

宮澤賢治の残した『銀河鉄道の夜』は,その存在が知られてから継続して数多くの読者に読まれ,今もなお論じ続けられる作品である。従って,現在も「銀河鉄道」的なイメージ画像・映像を日本中の至るところで見かけることができる。殊に岩手県は宮澤賢治が生まれ育った地であるため,彼の残した詩や童話のイメージを有効な観光資源として活かしており,ポスターや看板などにさまざまな「宮澤賢治的なイメージ」を見ることができる。その顕著なものが『銀河鉄道の夜』のイメージであろう。また岩手大学でも,宮澤賢治の母校の盛岡高等農林学校が岩手大学の前身の一つであることから,大学ホームページの「学長あいさつ」において,大学の特徴の一つとして「宮澤賢治も学んだ歴史と伝統」をあげているなど,宮澤賢治の出身校であることを大学の教育に活かそうとしているし,2014年度の大学案内の表紙でも『銀河鉄道の夜』の表現を引用している。このように多種で多数の読者を持つ宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の読まれかたについて,私は最近になって違和感を持つようになった。なぜなら,前記した「銀河鉄道」イメージの画像の多くが,「蒸気機関車に牽引される列車」であるからだ。出版されている各種の『銀河鉄道の夜』の表紙や挿絵にも,蒸気機関車を描くものが少なくない。小学生高学年で,『校本宮沢賢治全集』(以下「校本全集」)の作業前の混乱した本文であった『銀河鉄道の夜』を読んで以来,私は『銀河鉄道の夜』の「銀河鉄道」に蒸気機関車が走っているとは全く考えてこなかった。むしろ「蒸気機関ではない別の乗物」を描いているのだ,と考えてきたのである。「銀河鉄道=蒸気機関車の鉄道」と読む傾向に気付いて以降,私は,校本全集が成立した後の現在よく読まれている『銀河鉄道の夜』(例えば,ちくま文庫版の「宮沢賢治全集」所収のものなど)を再読したが,やはり上述の考えを変更する必要はないと考えている。つまり,『銀河鉄道の夜』の読みで,「銀河鉄道=蒸気機関車の鉄道」は誤読であろうと考えているのだ。しかし,こうした考えを学生たちをはじめとした他の読者に示すと,驚かれることが多い。何故こうした誤読が起こるのかは興味深い問題だが,現段階では,まずは「銀河鉄道=蒸気機関車の鉄道」と読むことは不適当であることを明示し,併せて「銀河鉄道」の動力の選択(蒸気機関ではないこと)は何故なされたのかを考察することを本稿の目的とする。
著者
中里 まき子 NAKAZATO MAKIKO
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテスリベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.85, pp.69-88, 2009-12

ジャンヌ・ダルクについては,500年以上にわたって数多くの文学作品が創作されてきた。すでに15世紀に,クリスティーヌ・ド・ピザンとフランソワ・ヴィヨンによって少女の功績が詩の中に記されたが,ジャンヌを素材とする作品が増え始めたのはフランス革命以後である。その一部を挙げると以下のようになる1)。シラー『オルレアンの乙女(1801)』,シャルル・ペギーの『ジャンヌ・ダルク3幕劇(1897)』と『ジャンヌ・ダルクの愛の神秘(1910)』,アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯(1908)』,バーナード・ショー『聖女ジャンヌ(1924)』,ジョルジュ・ベルナノス『戻り異端で聖女のジャンヌ(1929)』,ポール・クローデル『火刑台上のジャンヌ(1939)』,ベルトルト・ブレヒト『ルーアンのジャンヌ・ダルク裁判1431年(1954)』,ジャン・アヌイ『ひばり(1953)』。文学における特権的な素材である以前に,歴史的人物として,キリスト教の聖女として,ジャンヌ・ダルクは世界中で知られる存在となっている。ジャンヌが後世に残したもの,またそれに対する反響の大きさにひきかえ,彼女の生涯は短く,はかないものであった。
著者
樋口 知志 HIGUCHI Tomoji
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
アルテスリベラレス (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
no.84, pp.151-169, 2009-06

『奥州後三年記』(以下『後三年記』と略称)は十一世紀後期に奥羽北部で起こったいわゆる後三年合戦(一〇八三−八七)の顛末を記した書であるが、同合戦と対をなす前九年合戦(一〇五一−六二)の顛末記である『陸奥話記』(以下『話記』と略称)とは体裁や記述スタイルなど多くの点で様相を異にする。すなわち『話記』が漢文体の硬質な文章で書かれ、しかも叙述中に公文書が多用されているのに対して、『後三年記』の方はわりあい素朴な和漢混淆文で書かれ、筋立てや場面の展開にも多分に物語的要素が色濃い。本書のそうした特徴は周知のように、本来『後三年合戦絵詞』の詞書として伝存したものであることに起因している。きわめて荒く概念的にいうならば、『後三年記』とは『後三年合戦絵詞』の詞書に対する一般的呼称であるということになる。したがって、『後三年記』の諸本には大きく分けて絵巻の模写本と、詞書のみを書写したものとの二種がある。