著者
秋山 虔
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.49-57, 1986

『源氏物語』「螢」巻の物語論は、光源氏と玉鬘との対話の過程において、物語についての通念を百八十度逆転させ、物語こそ人間の歴史を過不足なく構築するものであると主張する。この主張には律令政府の伝統的価値規範にもとづく一定の公的立場から書かれた官撰国史の権威をも一蹴する気概を感取しうるが、ここに展開される虚構の理論は、とりもなおさず『源氏物語』の作者による『源氏物語』創作の方法についての自注と解することができよう。そうした視点から、最近ことに重視されている准拠・引用(引詩・引歌)等の問題をあらためて爼上にのぼせ、『源氏物語』のまさに現代史として屹立する達成であることを明らかにしたい。
著者
益田 勝実
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.2, no.4, pp.59-60, 1953-06-01
著者
助川 幸逸郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.5, pp.44-54, 2012-05-10 (Released:2017-11-02)

風巻景次郎は、文学作品の政治的・社会的背景に言及することが多く、その論調はときに「外在批評」と評された。そのいっぽうで、自身の「読過の印象」から立論をはじめている場合もあり、研究姿勢にぶれを感じさせる。この疑念を解く鍵は、私小説に対する風巻の激烈な批判である。風巻は、日本に真の近代小説が存在しないと考えていた。そして、真の近代小説が存在しうる社会的条件を解明し、この状況を打破したいと願っていた。じぶんのもとめる真の近代小説の像を克明に胸にいだいておくために、みずからの感性は捨てされない。とはいえ、理想の文学の存在条件にせまるためには、社会的背景に目をむけなければならない。風巻の「矛盾」には、彼なりの一貫性があった。理想の文学を創作するのではなく、それが生みだされるための制度設計をすること――風巻にとって、文学研究者が何をなすべきかは明確であった。しかし、「真の近代小説」こそが「理想の文学」だと、現在の文学研究者はナイーヴに信じられなくなっている。こうした状況下にあって、文学研究者の使命はどこにあるのかを考えてみたい。
著者
菅原 健史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.25-34, 2017-02-10 (Released:2022-03-10)

第一次世界大戦下に発表された武者小路実篤『ある青年の夢』は、戦争を嫌いつつも非戦論者になりきれない青年を始めとして、戦死者の亡霊たち・戦争で家族を失った人々・神と悪魔・参戦諸国を擬人化した日太郎らなど多彩な人物が登場し、劇中劇や夢も含む複層構造の挿話群が展開される反戦劇である。本論はそれらを貫く主題を「安全保障のジレンマ」とその克服であると想定し、国際政治学の観点を導入して同作品の再評価を試みる。
著者
坪井 秀人
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.61-70, 1994

ベンヤミンのメディア論と同時代に著された大宅壮一の『文学的戦術論』と大熊信行の『文学のための経済学』『文芸の日本的形態』のメディア/文学論には、その読者論的な先駆性にもかかわらず、映画等の新しいメディアと比較される「印刷文学」の方法的劣性を前提にして、エクリチュールに対する抑圧として機能していく側面がある。一九三〇年代の文学の黙読性の問題を主軸に、大宅論における創作の「事実」と「技術」の問題、大熊の連載形式論などを検討して、右の抑圧性の所在を批判的に考察した。
著者
北條 勝貴
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.5, pp.39-54, 2013 (Released:2018-05-18)

平城京二条大路側溝から出土した治瘧の呪符木簡は、定説的には唐・孫思?撰の医書『千金翼方』に基づき、列島固有の文脈も加味して作成されたと考えられている。しかし、同種の呪言は八世紀に至るまでの複数の中医書に散見し、『千金翼方』より上記の木簡に近い表現を持つものもある。その淵源を遡ってみると、前漢・王充撰『論衡』に引かれる『山海経』にまで辿り着く。鬼門を守る神が疫鬼を虎に喰わせるという辟邪の文章は、やがて儺の呪言として展開してゆくが、その過程で、山林修行で培われた医薬・呪術の知識・方法、洪水と疫病の流行による世界の破滅/更新を説く神呪経の言説を含み込んでゆくことになる。そうして成立した短い呪言の一語一語には、その直接意味するところ以上に、豊かで複雑な自然環境/人間の関わりをうかがうことができるのである。
著者
高田 衛
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.21, no.3, pp.1-21,29, 1972

the narrative of "Oguri-hogan" -an epic- was composed by the race of outcast artistes in Japanese Middle Ages. It is a magnificient story about death and revival of a hero, The hero "Oguri" was the knight who rode the restivest horse named Onikage. Onikage appears and disapeans in afantastic and symbolic state. If we analyze the character of this world of Ogurihogan with a focus on the image of Onikage, we understand a hidden process of an establishmeut of this story based on the mixture and degeneration of Japanese ancient faith and legend. Onikage succeeds to the pedigree of worship of the horse called "Ryo" in ancient China. "Ryo" (a dragon) was a fantastic animal originated from a horse. But in ancient Japan they thought it a selected, reassuringly and fast running, specified horse, and a demon's messenger Ryome. of course nobody but demon could ride the horse. But in Middle Ages "Ryo" moreover implied "Saenokami", one of ancient unvisible demon that existed on a boundary-line detween the land of the living and Hades. Two images of Ryo were mingled. It's the image that was made through a joint festival of peasants and wandering out cast artistes who entered into peasants' festival. It's "Bato-kannon" -the Horse-headed Merciful Goddess. The substance of the image of Onikage is constituted of two demonism factors, "Ryo" and "Bato-kannon". When this epic was produced with a contact to worship of the horse, Oguni took a special capacity that enables to come and go between the land of the living and Hades in spite of his agony as human, and could be proved the heroic character as human. Onikage is the other self of Oguri, and also Oguri is the inseperable other self of Onikage. The Above-mentioned description is the argument of the first part of "the Ryo and the Bato-kannon".
著者
木村 功
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.11, pp.27-35, 2005

人面牛身で予言をする「件(くだん)」は、明治から昭和初期にかけて西日本の口碑の中に認められる妖怪である。本論では民間伝承と文学テクストを用いて、その誕生から伝播・消滅に至る経緯を考察した。件は農業における厄除けと豊作祈願に起源があり、牛頭天王信仰と関わりながら、産業構造の変化に伴って民衆の意識が仮託される存在へと変化して行った。ついには人間と牛の関係が社会の中で希薄になった事で、殆ど消滅したのである。
著者
平田 英夫
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.7, pp.11-21, 2012

<p>勅撰和歌集の「序文」は「和歌」をどのように記述したのであろか。本論では、序にて示される和歌にまつわる情報のなかでも、その始まりや起源をどのように記述しているのかについて注目し、検討していく。特に古今集仮名序における「この歌、天地の開けはじまりける時よりいできにけり」という天地開闢時に和歌が出現したとする啓示のような文言に、中世勅撰集の序文がどのように向き合っていくのかについて考察した。</p>
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.11, pp.51-63, 2011

<p>石原慎太郎「太陽の季節」は、発表当初から毀誉褒貶の激しい作であったが、その背景には、青年男女が自らの世代に近い作家の作品を消費するような戦後大衆社会の姿がある。もともと映画との親和性を持っていたこの作が実際に映画化され、「太陽族」という現象と流行語を生むほどの物語として大衆に消費されていったとき、アメリカの文化を吸収したところに生成した湘南のそれは、国内の海辺へと蔓延していったのである。</p>
著者
花崎 育代
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.11, pp.57-66, 2006-11-10 (Released:2017-08-01)

昭和五七(一九八二)年一月公表の「核戦争の危機を訴える文学者の声明」は、約半年で五六二名の署名を集めたが、賛否の意見が、反核の是非よりも、その声明自体を問題として展開された。大岡昇平は署名したが、アンケートには答えず、反核集会に出席するような行動もとらず、これに関わるまとまった文学作品も書かなかった。戦争を「人間」と資料重視の手法で作品化してきた大岡には、核戦略が高度化しかつ秘匿されている以上、文学化は不可能であったからだといえる。しかし大岡は「反核」の意志は明確に表明し続けた。