著者
瀬崎 圭二
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.3, pp.99-112, 2005

資本主義の成熟、交通、情報網の拡張といった外部的環境の変容の中、明治30年代から流行を紹介する雑誌が続々と刊行されると共に、流行を知の対象として位置付け、分析していくような言説が流通していくことになる。そうした中、藤井健治郎の「流行の意義性質及び其伝播に就いて」(『東亜之光』明治43・2)や、三越の流行会会員であった高島平三郎の「流行の原理」(『みつこしタイムス』明治43・7)は、ガブリエル・タルドを初めとした欧米の社会学、心理学の理論を基盤に、科学的に現象としての流行を捉えようとした。やはり流行会の会員であった森鷗外の小説「流行」(『三越』明治44・7)は、一人の男が用いていく事物が全て流行のものとなっていくことを「己」の「夢」として描き出しているが、この小説は、事物の商品化に際した商人や使用人たちの<夢>を表象すると共に、同時代の流行論が展開した覇権への欲望という<夢>を吸収するところに成立している。流行を知の対象とするこうした言説によってその実定性は確保され、まさに1910年前後、単なる一過性のはやりの現象である流行から、常に<新しさ>の誕生と消滅を繰り返す近代の流行、すなわち流行へのシフトチェンジが生じるのである。
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.122-136, 2015-11-15 (Released:2016-11-15)

安部公房の脚本による「目撃者」は、一九六四年一一月二七日に放送されたテレビドラマである。このドラマは姫島に起こった実際の集団暴行致死事件を素材としており、この事件は当時のメディアで「西部劇」や「映画」になぞらえられていた。ドラマは、事件を再現表象するドキュメンタリー・ドラマの制作そのものを描いており、そのような方法を採ることで、関係者による事件の隠蔽を批評する立場に立つと共に、事件の再現表象の困難を伝え、さらには映像による再現表象そのものを問いかけようとするのである。このような方法を採用した「目撃者」は当時も高く評価されていたが、ドキュメンタリー番組が定着していった当時の状況を相対化する表現としても評価できよう。
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.11, pp.51-63, 2011

<p>石原慎太郎「太陽の季節」は、発表当初から毀誉褒貶の激しい作であったが、その背景には、青年男女が自らの世代に近い作家の作品を消費するような戦後大衆社会の姿がある。もともと映画との親和性を持っていたこの作が実際に映画化され、「太陽族」という現象と流行語を生むほどの物語として大衆に消費されていったとき、アメリカの文化を吸収したところに生成した湘南のそれは、国内の海辺へと蔓延していったのである。</p>
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.44-58, 2018-05-15 (Released:2019-05-15)

J・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』の邦訳を契機として、一九八〇年代の日本には言説としての消費社会論が広まり、システムとしての消費社会が形成されていった。当時の夏目漱石のテクストの受容もそのような状況と無関係ではなく、角川文庫版漱石作品の表紙カバーとして採用されていたわたせせいぞうのイラストや、森田芳光監督による「それから」の映画化にも消費の力学を認めることができる。しかし、映画「それから」のアダプテーションには、女性表象やイメージ・ショットなどの点において原作の〈死後の生〉を見出すことができ、消費され得ない何ものかが表象されているとも言える。
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.50, no.11, pp.1-10, 2001

ホップソング等において現在でも反復され続ける夏の海における出会いの物語は、明治期の海水浴の誕生とほぼ時を同じくして語られるようになる。江見水蔭『海水浴』等のテクストに如実にあらわれているように、その場で男性の欲望に晒され続ける女性の身体は、男性を海水浴に誘う装置として機能し、さらに浜辺で<待つ>女性を男性が<さらう>といったようなジェンダー・ロールが、男性の欲望のもとに形象されることになるのである。
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.122-136, 2015

<p>安部公房の脚本による「目撃者」は、一九六四年一一月二七日に放送されたテレビドラマである。このドラマは姫島に起こった実際の集団暴行致死事件を素材としており、この事件は当時のメディアで「西部劇」や「映画」になぞらえられていた。ドラマは、事件を再現表象するドキュメンタリー・ドラマの制作そのものを描いており、そのような方法を採ることで、関係者による事件の隠蔽を批評する立場に立つと共に、事件の再現表象の困難を伝え、さらには映像による再現表象そのものを問いかけようとするのである。このような方法を採用した「目撃者」は当時も高く評価されていたが、ドキュメンタリー番組が定着していった当時の状況を相対化する表現としても評価できよう。</p>
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.11, pp.35-44, 2004

明治三七年一月五日の「大阪朝日新聞」に掲載された第一回目の「天声人語」は、前年一二月の勅語奉答文事件に代表されるような対露強硬論の高まりの中でその名と記述を形成している。当時の「大阪朝日」の紙面では数少ない言文一致体と、それによって記される、書き手の責任を回避するような信憑性の希薄な情報によって、対露強硬論は展開されたのである。「天声人語」はそのような形で連載をスタートしたが、現在のそれは、結末に対する期待を予め孕んだ記述の束ではないという点において、もはや連載ではなく<場>として認識されていると言えよう。
著者
瀬崎 圭二
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.175-190, 2003-03-01

明治40年代に本格化するデパートメントストア的な販売法は、実際的行為のレベルにおける&lt;万引&gt;の可能性を広げることとなった。急増する&lt;万引&gt;を前にした目本精神医学の泰斗呉秀三は、「万引(窃盗の一種)の精神状態」(明治42・1)の中で、欧米の精神医学が呈する&lt;窃盗癖=kleptomania&gt;なる概念を導入し、&lt;万引&gt;の原因を女性の&lt;ヒステリー&gt;から生じる&lt;虚栄心&gt;へと帰着させる。この呉の医学的見解こそが、呉服店/百貨店における女性の&lt;万引&gt;に対する認識のパラダイムを形象することになるが、言うまでもなくそれは性的な偏差を伴った欧米の精神医学を反復するものでしかなく、&lt;万引&gt;する女性達に対して&lt;病&gt;の認識を付与していくことになった。このような認識のパラダイムに亀裂を入れるのが寺田寅彦の「丸善と三越」(大正9・6)であり、寅彦の言説は、医学的認識の中で保持されている&lt;虚栄心&gt;という読解コード自体を疑問に付すと同時に、消費システムの虚構性を暴露する可能性を持った行為として&lt;万引&gt;を捉えている。こうした試みは、物理学という内部に自足することのない寅彦の言説における&lt;エッセイ的思考&gt;によって支えられていたと言えよう。
著者
瀬崎 圭二
出版者
広島大学大学院文学研究科
雑誌
広島大学大学院文学研究科論集 (ISSN:13477013)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.49-75, 2010-12

The Japanese seaside in the Taisho era becomes leisure and the place of sports. By the Saneatsu Mushanokōji Yūjō (Friendship) that made such situation a background, the representation that the youth who idealized a Western body are conscious of each other's bodies is seen. It is the time when a concept called "the physical beauty" of the woman spread out, and, for Taisho era, the seaside comes to have the image as the place to expose the "physical beauty" to. The fi lms of Taisho era has a meaning as the medium which does representation of the body, and the representation that made the body of the woman of the seaside a problem is seen in the films Amateur Club where Jun'ichirō Tanizaki participated in. The novel Chijin no Ai (Naomi) that absorbed cinematographic representation abundantly is similar. In the seaside done representation of by the films Amateur Club, there is in particular points to absorb an American beach image "signifi cance" of the cultural history in various meanings.
著者
狩野 充徳 岸田 裕之 勝部 眞人 妹尾 好信 高永 茂 伊藤 奈保子 本多 博之 西別府 元日 中山 富廣 有元 伸子 竹広 文明 古瀬 清秀 フンク カロリン 三浦 正幸 久保田 啓一 野島 永 瀬崎 圭二
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

多くの伝承・伝説に包まれた世界遺産・厳島は、人間社会の傍らで、人びとの暮らしとともにあった。無文字時代には、原始的宗教の雰囲気を漂わせながら、サヌカイト・安山岩交易の舞台として。有史以後には、佐伯景弘らの創造した伝説を原点に、中世では信仰と瀬戸内海交通・交易の拠点として、近世では信仰と遊興の町として、近代では軍事施設をもつ信仰と観光の町としてあった。そして、それぞれの時代に、多くの伝承・伝説が再生産されていったのである。