著者
沼本 克明
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.1-12,63, 1990

通説では、半濁音符はキリシタン資料で成立し、それが日本側資料に広がり定着したものであると説かれて来ている。然し、近時そういう考え方に疑問が持たれるようになり、キリシタン資料の国内資料への影響は殆ど無かったのではないかという見方も提出されて来ている。キリシタン資料からの影響が考えにくいとするならば、どのような経緯が考えられるかという立場から、本稿では従来余り言及の無かった江戸期唐音資料に視点を当てて、それからの影響によって半濁音符が定着したとする考え方を提出する。即ち、江戸期唐音資料には、その振り仮名の右肩に「イ゜」「サ゜」「テ゜」「ハ゜」の如き注意点が頻用されている。この方式が日本語表記の「パピプペポ」に残り、半濁音符としての定着をみたとするものである。
著者
山口 幸洋
出版者
日本語学会
雑誌
国語学 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
no.155, pp.p1-16, 1988-12
著者
林 四郎
出版者
日本語学会
雑誌
国語学 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
no.45, 1961-06
著者
李 英児
出版者
日本語学会
雑誌
国語学 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.1-15, 2003-10

原因・理由を表す条件句「ホドニ」から「ニヨッテ」への勢力交替現象は,中世の口語資料を用いた先行研究全般において言及されているが,17世紀前半に成立したと推定される『捷解新語』においても,中世から近世にかけての歴史的変遷の影響と思われる「ホドニ」の減少と「ニヨリ」の増加が確認できる。本稿では,『捷解新語』原刊本の原因・理由表現句の改修本・重刊本における改修状況を,改修されなかった箇所も視野に入れ,意味論的解釈/語用論的解釈という観点を導入して新たな意味づけを行った。
著者
東条 操
出版者
国語学会
雑誌
国語学 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-12, 1950-10
著者
馬淵 和夫
出版者
日本語学会
雑誌
国語学 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
no.31, pp.61-90, 1957-12
著者
野村 剛史
出版者
日本語学会
雑誌
国語学 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
no.158, pp.p1-14, 1989-09
著者
田中 宣廣
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.44-59, 2003-10-01

岩手県宮古市方言のアクセントは,柴田1955で「のぼりアクセント核」体系とされて以来注目されてきたが,不明な点が多かった。この方言のアクセントの全体像を詳細な調査により明らかにした。音声レベルでは,(A)1基本アクセント節内でアクセント節例によっては2箇所が高まる重起伏調・(B)語によっては声の上昇位置が定まっている・(C )上昇した音節からは少しずつ下降する調子がある(後続語によっては下降しない)・(D)有声音無声化が音調に影響がある・(E)特殊音との関係で音調を担う単位は音節,の5特徴が認められた。音韻論的解釈の結果,アクセント体系は東京式アクセントの「さがりめ」体系とは異なる「のぼり核」体系であることが明確になった。また,同一語の単独1語文と付属語接続時の各実現音調で高い部分が異なる,以前"山が動く"と表現された現象や,基本アクセント節の音調が「起伏」でも「無核」であることなどに合理的説明が得られた。
著者
野林 正路
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.13-29, 2002-01-01

隣接科学の一部に「単一の標準特性では対象を確定指定できない」とする見方がある。語は,その使用者たちが他の選択可能性を排して標準化した対象の特性(の束)を語義に引きつけている。したがって類語による対象指示は,「家族的類似性の網目」状の錯綜を示す。この錯綜が語彙論の未開,広くはコミュニケーションにおける共約可能性の壁になってきた。だがこの稿では,その錯綜が,実は,秩序であることを論証する。具体的には(まえかけ)類を例に,話者たちの語の指示用法を行列に描き,「網目」の秩序が類義の2語(視点)の交差・複合で編成された中間分節構造,「複用語彙」の反復でつくられている事実を明らかにする。この形式は基本的には,対象を4種の論理的に可能,必然の「意味の野」に確定指定する働きをもつ。本稿では,話者たちがこの形式を用いて伝達系・モノ離れの実用言語を,認識系・モノ絡み,世界像構成の連関言語に還元(逆も)し,開放している事実を考証した。
著者
高山 倫明
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.16-29, 2003-07-01

母語の発音の省察,それも一般に書記に反映しないアクセントのようなものへの反省は,異言語との接触に始まるのがつねであろう。日本語のアクセントに対する自覚も,字音の声調との出会いを契機としているだろうし,またその声調も,仏典の転読等を通じ,梵語に照らして観察されたと言われている。以後,日本語のアクセントは専ら平・上・去声といった字音声調の枠組みで把握され記述されたが,その枠組みは遡れば漢訳仏典の梵語音訳で長短の標示に与るものでもあった。本稿では,漢訳仏典の強い影響下に成った日本書紀の歌謡・訓注の音仮名と,日本語のアクセントの関連を探り,一部の音仮名にアクセントの反映が考えられること,また朧気ながらも母音の長短を掬い取っている可能性のあることを指摘した。
著者
工藤 力男
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.91-92, 2002-04-01

国語学会は国語研究の進展と会員相互の連絡を図ることを目的とし,広く全国の国語学研究者および国語に関心を持つ人々を会員として運営されている学会です。これは,左開きの現在は目次の裏に掲げられている「国語学会について」の冒頭である(傍点は引用者による)。本誌第153集の「学界展望」の拙文で,この文言の非現実性について発言することがあった。それに対して,すぐに徳川宗賢氏からはがきが寄せられた。紛失してしまったそれには,本学会のある会合で,この文言と学会名が時代遅れであることを言って冷笑された旨が書かれていた。1997年秋の大会で「学会運営についてのアンケート」が実施された。徳川代表理事による報告が第192集に掲載されている。それによると,学会名称の変更を望む意見は少数派だったが,変更を望む人は「日本語学会」を選ぶ傾向があったという。代表理事というたちばから,徳川氏はご自身の見解を示していないが,今ご存命だったら,さらに改革を進めていたかもしれないと思う。その展望には,己れのことを,「これはおちこぼれの隠れKameianたる(いな,もはやたりしとすべきか)わたし」とも書いた。北陸の大学に学んで国語国文学を専攻し,格助詞の歴史に関する論文を書いて卒業したわたしは,いわゆる旧派「国語学」の学生であった。言語学関係で履修した科目は,4科目10単位に過ぎない。二十代の終りに大学院に学び,亀井孝氏の著述に触れて,己れの勉強の挟く偏っていることを知ったが,悲しいことに,貧弱な頭脳は早くも硬化して,言語学を吸収することができなかった。せめて氏の精神だけでも学ぼうという思いがその文言になったのである。学問の姿勢が亀井氏に近いたちばにある小松英雄氏は,新著『日本語の歴史』に書く,「このような妄論が現今の概説書に出てくるのは,国語学が国文学と密着して近世国学の伝統を継承し,鎖国状態を続けたまま,言語学の進歩についてこなかったことの悲惨な結末である」(23頁)と。「悲惨な結末」はわたしの姿そのものである。小松氏はまた,「近年は,旧来の国語史の内容をそのままにして,名称だけを日本語史と改める風潮が顕著に認められる」(19頁)とも言う。もとより覚悟のうえで,新酒のために新しい革袋を用意するつもりでこの名称を用いてきたわたしは,この批判を甘受するものである。崩れた姿勢が正装することで直ることもある。以上,個人史的な回想である。客観的な状況は,先の徳川氏稿,第193集の山口佳紀氏稿,第200集の特集に寄せられた諸氏の稿,そして,205号来の本欄の稿などで具体的になった。現在の学会の態勢が学問にも教育にも時代遅れであることは明らかである。外国人との接触多からずとも,「国語学」の名称がいかに不自然であるかは理解しうるはず。同じ日本語が対象なのに,外国人の研究は「日本語学」,日本人のそれは「国語学」だという奇妙なことを,もうやめようではないか。漢字文化圏では,韓国も自らの言語の学を「国語学」と称するが,他国のことは言わず自分の身辺を清潔にしたい。「日本語」という名称に大日本帝国の匂いを嗅ぎとる人もある。わたし自身,「君が代」が歌えない人間なので気持ちはわかるが,反対に「国語」の方に帝国の匂いを感ずる。人さまざまである。それなら,中国・韓国で用いる「日語」「日語学」でもいい。世界を席捲する「英語」が英国にとらわれないように,いっそ好ましいかもしれない。そもそも,この学会の英訳名には「国語」の含意がない。名詮自性,これが自分のかかわる研究領域での願いである。かく思うゆえに,特に術語は正確・厳密に用いるべきことを,いくつかの文章に書いてきた。言語の研究にたずさわる者として当然のことであろう。「日本語」を研究対象とする学会なら,「日本語学会」が最適である。「日語」を採れば,当然「日語学」「日語学会」。文部行政の申し子たる旧派国語学会から,時代錯誤の言語教育行政に変更を迫る力を備えた学会に再生せねばならない。明春の大会には学会名の変更を決定すべきである。本学会の幹部には,学会の分裂を招きはしないかと,学会名の変更をためらう節があるようだが,ためらう時間が長ければ長いほど,国語学と日本語学の乖離は大きくなるだろう。現に昨冬,日本語文法学会が発足したのは,そのためらいに業を煮やしたからではなかろうか。日本語史に無智なままになされる現代語研究は危ういし,現代語の構造を見透さない日本語史研究は寂しい。双方にまたがる,あるいは諸領域にわたるさまざまな研究がある。それらの要になることこそ,本学会の存在意義であろう。わたしは至らぬまでも,蛸壷から首だけでも出して四方に目配りしつつ余生を過ごしたい。学会誌の名称は,現在用いられていないものに探すなら,『日本語学会雑誌』あるいは『日語学会雑誌』がいい。これなら決して古くなることがないだろうから。
著者
菊地 康人
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.46-60, 155-156, 2000-06-30

ヨウダ・ラシイを中心に,標記各語の互いに類似する用法について,比較検討する。ヨウダは<対象を直接観察し,観察に密着した一体のものとして様子を述べる>場合に,ラシイは<観察に推論を加えて,または伝聞に基づいて,判断内容を述べる>場合に使う。<観察対象と判断内容の距離>が近いと捉えればヨウダ,遠いと捉えればラシイが使われるといってもよい。「観察に密着して様子が見てとれる」とも,「観察に推論を加えた結果そう判断される」とも捉えられる場合は,ヨウダもラシイも使える。なお,伝聞用法のラシイとソウダの違いは,前者が<信じるに足る>という判断を加えて採用するプロセスを含むのに対し,後者は<そのまま伝える>点にある。様態のソウダは<現実とは区別して捉えられた`可能世界'を思い描いて述べる(また,現実がそのように思い描かせるような性質をそなえている)>場合に,ダロウは<見当をつけて述べる>場合に使う。
著者
竹内 史郎
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.97-83, 2004-01-01

従来ミ語法は、その形態的特徴のために、形容詞の語法体系において一端を担うものであると積極的に主張されることが躊躇されてきた側面がある。形容詞性と動詞性が併存するとされ、主にマ行四段動詞との関連から併存の理由を説明する試みもなされてきた。しかしながら、ミ語法は、構文的意味の観点からすると形容詞構文に等しく、マ行四段動詞構文とは異なることが明らかになった。したがって、構文的意味に整合する形で形態的側面の説明が求められるが、語尾生成の際の子音選択のあり方・形容詞活用、格助詞ヲ等の上代語の文法の特性を考慮すれば、ミやヲはその動詞性を保証するものではないと認められる。形容詞性と動詞性の併存をみる解釈は、ミやヲの考察において近代語の文法に依拠したために解釈に至る過程で飛躍を含んでしまったものと考えられる。