著者
原田 幹
出版者
日本考古学協会 = Japanese Archaeological Association
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
no.39, pp.1-16, 2015-05

本研究は、実験使用痕研究に基づいた分析により、良渚文化の石器の機能を推定し、農耕技術の実態を明らかにしようとする一連の研究のひとつである。 長江下流域の新石器時代後期良渚文化の「石犂」と呼ばれる石器は、その形態から耕起具の犂としての機能・用途が想定されてきた。本稿では、金属顕微鏡を用いた高倍率観察によって、微小光沢面、線状痕などの使用痕を観察し、石器の使用部位、着柄・装着方法、操作方法、作業対象物を推定した。分析の結果、①草本植物に関係する微小光沢面を主とすること、②先端部を中心に土による光沢面に類似する荒れた光沢面がみられること、③刃が付けられた面(a面)では刃部だけでなく主面全体に植物による光沢面が分布するのに対し、④平坦な面(b面)では刃縁の狭い範囲に分布が限定されること、⑤刃部の線状痕は刃縁と平行する、といった特徴が認められた。 石器は平坦な面(b面)が器具に接する構造で、先端部の方向に石器を動かし、左右の刃部を用いて対象を切断する使用法が考えられた。使用痕の一部には土との接触が想定される光沢面がみられるが、その分布は限定的であり、直接土を対象とした耕起具ではなく、草本植物の切断に用いられた石器だと考えられる。 前稿で検討した「破土器」と同じように、石犂の使用痕も草本植物との関係が想定され、従来の耕起具とは異なる解釈が必要である。この点について、農学的な視点からのアプローチとして、東南アジア島嶼部の低湿平野で行われている無耕起農耕にみられる除草作業に着目し、破土器、石犂は、草本植物を根元で刈り取り、低湿地を切り開くための農具であったとする仮説を提示した。 実験的な検討など課題は多いが、本分析の成果は、従来の良渚文化における稲作農耕技術に関する理解を大きく変える可能性がある。
著者
植田 文雄
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.95-114, 2005

祭祀形態の一つとして,祭場に柱を立てる立柱祭祀が世界各地の民族例に存在する。日本列島では,上・下諏訪大社の「御柱祭」が著名であるが,一般論としてこの起源を縄文時代の木柱列など立柱遺構に求める傾向が強い。しかしこれまで両者の関連について論理的に検証されたことはなく,身近にありながらこの分野の体系的研究は立ち遅れている。また,しばしば縄文時代研究では,環状列石や立石も合わせて太陽運行などに関連をもたせた二至二分論や,ラソドスケープ論で説明されることも問題である。そこでまず列島の考古資料の立柱遺構を対象に,分布状況や立地環境から成因動機・特性を考察し,立柱祭祀の分類と系統の提示,およびそれらの展開過程について述べた。考察の結果,列島では三系統の立柱祭祀が存在し,それらが単純に現在まで繋がるものでないことを指摘した。<BR>次に視点を広げ,人類史の中での立柱祭祀を考究するために,世界の考古・歴史資料を可能な限り収集し,列島と同手法で時間・空間分布や立地環境,形態などの特性について検討した。対象とした範囲はユーラシア大陸全般であるが,古代エジプト,南・北アメリカの状況も触れた。合わせて類似する儀礼として,樹木の聖性を崇拝する神樹信仰をとりあげ,列島と関係の深い古代中国の考古資料と文献資料から,神樹と立柱が同義であったことを指摘した。さらに,近代以前の人類誌に立柱祭祀と神樹信仰の事例を求め,世界的な分布状況や特性を検討し,その普遍性について述べた。そして,これら考古・歴史・民族資料を総括して史的展開過程の三段階を提示し,立柱祭祀の根源に神樹信仰が潜在することも論理的に示すことができた。また,普遍的には死と再生の祭儀が底流しており,列島の縄文系立柱祭祀はその典型であることが理解された。<BR>新石器時代当初には,生産基盤の森や樹木への崇拝から神樹信仰が生まれ,自然の循環構造に人の死と再生を観想して立柱祭祀がもたれたと考えられる。その後は,各地域の史的展開のなかで各々制度や宗教に組み込まれつつ,目的も形態も多様化したのである。
著者
井出 靖夫
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.111-130, 2004

古代本州北端に居住したエミシ集団は,これまで文献史料によって形作られたイメージが強く,考古学的にエミシ集団の特質について論じられることは少なかった。本州エミシ集団と律令国家との関わり合いや,人やモノの交流の様相についてなど考古学的に明らかにされるべき点は,数多く残されている。よって,本稿では東北地方北部のエミシ集団と日本国との交流に関して,考古学的に解明することを目的とし,またエミシ社会の特質についても明らかにしようと試みた。<BR>東北地方における遺物の分布,集落の構造,手工業生産技術の展開等の分析からは,本州エミシ社会においては9世紀後葉と10世紀中葉に画期が認められることが明らかとなった。<BR>9世紀後葉の画期は,本州エミシ社会での須恵器生産,鉄生産技術の導入を契機とする。9世紀中葉以前にも,エミシと日本国との問では,モノの移動や住居建築などで情報の共有化がなされていたが,国家によって管理された鉄生産などは城柵設置地域以南で行われ,本州エミシ社会へは導入されなかった。しかし,9世紀後葉の元慶の乱前後に本州北端のエミシ社会へ導入される。その後,10世紀中葉になるとエミシ社会では,環壕集落(防御性集落)という特徴的な集落が形成され,擦文土器の本州での出土など,津軽地方を中心として北海道との交流が活発化した様相を示す。<BR>このような9世紀後葉から10世紀中葉のエミシ社会の変化は,日本海交易システムの転換との関連性で捉えられると考えた。8・9世紀の秋田城への朝貢交易システムが,手工業生産地を本州エミシ社会に移して津軽地域のエミシを介した日本国一本州エミシ-北海道という交易ルートが確立したものと推測した。また交易への参加が明確になるにつれて,本州のエミシ文化の独自化が進んでいくことが明らかにされた。
著者
馬場 伸一郎
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.24, pp.51-73, 2007

弥生時代の石器生産・流通論はその開始からその後の変化に分析の視角が集中する一方で,生産・流通出現前段階にある物資の流通との関連性については必ずしも充分な研究がなされているとは言えない。本稿の分析地域とした中部高地(長野・山梨県域)の特に長野盆地南部では弥生中期後葉以後,特定遺跡において労働力を集約化した石器生産と流通と,日本海沿岸地域からの玉類の流通が明瞭である。一方,縄文時代から弥生時代中期後葉の間には黒曜石石材の流通が認められる。それ故,異種の物資流通を比較検討するのに中部高地は格好の地域である。しかし,弥生時代の黒曜石研究では,原産地の利用実態,石材中継集落の有無,原産地遺跡と消費地遺跡の石材流通上の関係等,多くの事柄が未解明であり,石材流通の実態を復元することがまず必要である。それを本稿の目的とした。<BR>分析の結果,(1)弥生中期後葉栗林期に原産地組成に明瞭な変化があり,諏訪星ケ台系の石材に加え,和田和田峠系の石材が一定量組成すること,(2)弥生中期後葉は原産地組成が変化する時期であると同時に,佐久盆地の例が示すように原産地組成が遺跡単位で多様化する時期であること,(3)弥生中期後葉の消費地遺跡では諏訪星ケ台系・和田和田系の双方の石材が搬入され,その大半は集落内の石器製作で消費されていること,(4)弥生中期後葉には,屋外石材集積例の欠落,石材の小形化,石材出土量の減少が認められること,(5)弥生中期後葉には原産地遺跡と消費地遺跡の間に石材中継集落が認められないことが判明した。<BR>このように変化の画期の多くは弥生中期後葉に集中し,当該期は原産地での石材採掘活動を含む「集団組織的石材獲得・流通システム」が欠落しているとした。弥生中期後葉の栗林期は水田稲作を基幹生業とする社会変動期であり,大規模集落の形成・遺跡数増加・特定遺跡で労働力を集約した手工業生産にそれは象徴される。そうした社会変動と黒曜石石材の流通の変化は無関係ではなく,管玉・勾玉・磨製石斧といった交換財が新たに登場したことで,互酬性的な集団関係維持のための交換財であった黒曜石石材はその役目を終えたと考えた。
著者
太田 宏明
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.22, pp.127-145, 2006-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
73

本稿は,物資や情報が分配される状況を分析することで,古墳時代後期における畿内政権と地域社会の関係を明らかにすることを目的としている。このために,古墳時代後期の畿内政権が管理と流通を掌握していた可能性が指摘されている金銅装馬具と畿内型石室構築技術を採り上げ,分析を行なった。資料を分析する際には,まず物資と情報の送り手である政権を構成した支配者層の墳墓を採り上げた。そして,支配者層の墳墓で採用された金銅装馬具や畿内型石室が一定の期間をおいて新しい意匠や構造に変化している点に注目した。意匠と構造の変化を把握することで,各時期において支配者層が標準的に採用している金銅装馬具と畿内型石室を抽出した。その後,物資や情報の受け手である地域首長層や群集墳被葬者層の墳墓から出土した金銅装馬具と埋葬施設の変化を整理して,支配者層でみられた状況と相互比較した。比較の結果,支配者層で標準的に採用されているものと同時期に,同意匠・同構造の金銅装馬具と埋葬施設を保有できた古墳の被葬者は,中央の物資や情報を円滑な流通のもと入手できる立場にいた人物と評価した。そして,このような古墳が,地理的・階層的にどのような勾配をもって分布しているのか検討を行なった。そして,このような古墳が密に分布する地域は,畿内政権と強く紐帯していた地域として評価した。
著者
斎藤 義弘
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.147-155, 2001-10-06 (Released:2009-02-16)
参考文献数
3

宮畑遺跡は,古くより縄文土器の散布地として知られていた遺跡であるが,1997年度に実施した福島工業団地造成に伴う発掘調査で,柱痕の直径が約90cmを測る縄文時代晩期の掘立柱建物跡や数多くの縄文時代中期の焼失住居跡が発見された。1998~2000年度に福島市教育委員会が実施した確認調査で,縄文時代晩期の掘立柱建物跡と埋甕で構成される集落に加え,縄文時代後期及び中期の集落跡がほぼ同じ区域に存在することが明らかになり,各時期の捨て場も集落の西端に形成されていることが確認された。縄文時代晩期の集落は,大洞BC式から大洞C2式を中心とし,掘立柱建物跡が環状に巡り,その外側に埋甕群が伴う。掘立柱建物跡は建て替えが行われ,掘形は1m以上を越える深いものが多い。竪穴住居跡は掘立柱建物跡に比べて少なく,墓坑の位置は確認されていない。縄文時代後期の集落は,後期前葉から後期後葉まで確認されているが,後期後葉の集落様相は現時点では明確でない。縄文時代後期前葉には敷石住居跡を伴う集落が形成され,竪穴住居跡及び土坑群が遺跡の南半で確認されているが,配石墓は確認されていない。縄文時代後期中葉には,後期前葉より広い範囲に集落が展開しており,墓坑の可能性がある土坑が竪穴住居跡に近接して確認されている。縄文時代中期の集落構成は明確につかめていないが,大木9式~10式の竪穴住居跡が確認されている。竪穴住居跡に占める焼失住居跡の比率が高く,焼失は廃屋儀礼等の当時の風習に起因する可能性が高い。焼土と炭化材の検出状況から,屋根構造は土屋根であったと考えられるが,焼土がブロックで厚く堆積するなど,これまでの調査で報告されている焼失住居跡とは異なる燃焼状況があったと考えられる。宮畑遺跡は,縄文時代晩期の集落形態や縄文時代後期前葉における敷石住居跡の受容,それに縄文時代中期の竪穴住居の構造と風習など,縄文時代の社会構造を考える上で貴重な情報をもたらす遺跡であるといえる。