著者
荻野 繁春
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.93-107, 2001-10-06 (Released:2009-02-16)
参考文献数
27

ローマ時代の食文化を彩った擂鉢文化は,ローマ帝国の拡大と文化の深層を探る上でも重要な要素である。その擂鉢文化を構成する中心がモルタリアあるいは擂鉢と呼んでいるローマ陶器であるが,時代によってはこうした容器の意味するところに違いがあり,共和政期ではむしろモルタリア文化としてみる方が時代性をよく反映し,その上モルタリア文化の存在は,帝政期の擂鉢文化の存在をも明らかにする。まず共和政期のモルタリア文化を文献から明らかにした。つまりモルタリアが登場する最古のラテン語論文,大カトの『デ・アグリ・クルトゥラ(De Agri Cultura)』(紀元前2世紀初頭頃の作品か)に描き出されているモルタリアを抽出し,モルタリアがどのような場面でどのような使われ方をしているか明らかにした。それによると,一概に擂鉢のような「擂る」道具としてだけではなく,パンやケーキの生地を「練る」容器として使われている場面がいくつかある。この点で,擂鉢としてではなくモルタリアとして多様な用途を考えた方がよい時代でもあり容器であることがわかった。さらにエトルリアの壁画を資料としてあげながら,モルタリアがどのように使われていたかを指摘した。次に共和政期のモルタリアについて,イタリア半島のモルタリアと東地中海のモルタリアとを考古学的に比較検討した。そしてヘレニズム後期のモルタリア文化を明らかにした。大カト時代と同時代のイタリア半島におけるモルタリアとして,型式学的にエトルリアのロセト型を設定した。帝国時代の陶器研究においては,この種のモルタリアがwall-sided rim type(筆者の複合口縁部タイプ)と称されているものであるとした。そして紀元前4世紀後半から紀元前2世紀前半にかけての編年を明らかにするなかで,大カトの論文に登場するモルタリアの特徴とロセト型の形態的特徴が合致するとの結論に達した。ヘレニズム後期の東地中海地域におけるモルタリアとの比較では,イスラエルのテル・アナファ遺跡出土のモルタリアを分析して,ヘレニズム期から帝政期初期にかけてのモルタリアの変遷を明らかにし,特に高台の特徴にロセト型との類似を指摘した。
著者
藏冨士 寛
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.21-36, 2002

横穴式石室内に設けられた棚状施設である石棚は,環瀬戸内海を中心とする西日本に分布し,その分布には何らかのつながりが想定できる。本稿では,列島全体からみた石棚の持つ意義について考察を行なう前作業として,九州における石棚の系譜について整理を行い,併せて当地域における石棚の持つ特質について述べる。<BR>石棚と石室壁体,特に腰石との関係を分析すれば,九州の石棚は,1)石屋形からの系譜を持つもの 2)石屋形以外の系譜を持つもの,に二分できる。1)の石棚を持つ横穴式石室は,石材として凝灰岩など加工に適したものを用いており,石棚の架構には石工等の専門工人が関与した可能性がある。この両者の違いとは,築造に携わった工人の系譜の違いとも理解できよう。<BR>また九州の石棚には,1)主要な分布地の周辺には石屋形が存在すること 2)石棚の出現に対し,石屋形のそれは先行すること,といった現象が認められる。このことは,構造的な系譜がどうであれ,石棚の成立には,石屋形の存在が大きな影響を与えていることを示す。6世紀前葉,熊本県北部地域(菊池川流域)を起点として,1)石屋形 2)彩色壁画 3)複室構造,といった各要素が九州各地に拡散,定着するが,石棚の出現や展開もこの一連の現象の中に位置付けることが可能であり,その背景には,菊池川流域集団(火君?)の存在が想定できる。列島における石棚の分布とは,「火君」「紀氏」など,海上交通に長けた集団の交流による所産といえよう。<BR>このように,菊池川流域集団は考古学的な諸現象からみれば,大きな影響を九州各地に与えてはいるが,彼らの残した墳墓はさほど大きいものではない。彼らがこのような影響力を持ち得た要因は,陸路を通じた交流のあった八女地域集団の動向も含めて考察すべきであろう。
著者
西川 寿勝
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.87-99, 1999-10-09 (Released:2009-02-16)
参考文献数
44

弥生時代の墳墓や古墳から発見される舶載鏡は大陸のどこからもたらされたのか。私は中国出土鏡について,地域ごとに鏡式と組成(発見頻度)を分析した。その結果,わが国出土の鏡群は中国のどの地域から発見される鏡群とも合致しなかった。しかし,楽浪郡地域(北朝鮮平壌付近)発見の鏡にかぎり,鏡式と組成ともにほぼ合致した。鏡は楽浪郡など辺境の地でも製作されたのだろうか。後漢~魏の都だった洛陽を分布の中心にもつ四鳳鏡を例に,分布の中心地域で発見される四鳳鏡と分布の辺縁部で発見される四鳳鏡を比較した。すると,分布の中心で発見される鏡は典型的な紋様や構成要素をもっ典型種鏡であることに対し,分布の辺縁部には紋様や構成要素に欠落や変更のある亜種鏡が多数存在した。四鳳鏡に限らず他の鏡式にもそれぞれの亜種鏡が抽出できる。このことは中国各地に鏡工人が存在し,鏡をつくっていた可能性を示す。楽浪郡地域発見の鏡にも中国に典型種鏡をもつ亜種鏡が多く存在した。この地でも活発な鏡生産があったことを解き,楽浪鏡を設定した。楽浪鏡はわが国に多数舶載され,一部は紋様や銘文が同一の鏡もみられた。次に,正倉院の鏡を中心に唐式鏡を概観した。そして,金銀の平脱・象嵌や螺鈿などによる宝飾鏡,貼金・鍍金の宝飾鏡,精緻な紋様の大型鏡,踏み返しにより量産される中・小型鏡など,鏡は格付けできることを示した。最上位に格付けできる宝飾鏡は戦国・前漢時代の王墓をはじめ,各時期のものがある。鏡の格付けは鏡の普及段階から成立していたことがわかる。最上位の鏡が王の鏡として格付けできるなら,魏王から邪馬台国女王に下賜された鏡にも最上位の鏡が含まれていた可能性がある。しかし,卑弥呼の銅鏡と推定される三角縁神獣鏡は宝飾がなくつくりも粗い。私は卑弥呼に下賜された銅鏡はすべての鏡が等質に作られたとは考えず,卑弥呼の手元に残すべき最上位に格付けできる宝飾鏡がいくつか存在したと推定する。この宝飾鏡は都洛陽で製作されたものである。しかし,宝飾鏡を見本にして配布用の三角縁神獣鏡が量産されたとすれば,その製作地は洛陽に限る必要はない。一部の三角縁神獣鏡は紋様や技法に楽浪鏡と極めて深い関係がある。私は三角縁神獣鏡が楽浪郡で創出されたと推測する。そして,三角縁神獣鏡は卑弥呼からさらに下位のものに分配されたと考える。
著者
北條 芳隆
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.89-106, 2001

国立スコットランド博物館所蔵のマンローコレクション中にある環頭形石製品のうち1点は,材質や風化の状況,製作技法を検討した結果,真正品であることが確認された。その結果,日本国内に現存する破片資料の再点検が可能となり,これまで特殊な石釧とみなされてきた2例は,同じく環頭形石製品と考えるべきことも判明した。現状では本例を含めて3点の環頭形石製品が確認されることになる。いずれも古墳時代前期後半から末にかけての資料と認定されるのであるが,すべて緑色凝灰岩製であり,しかも武器の装飾品としての造形である。この事実は,古墳時代の石製品研究において重要な問題提起となり,従来の定説的見解には大幅な修正が必要であることを意味する。すなわち碧玉製や緑色凝灰岩製の石製品は実用性をもつ宝器とみなし,滑石製模造品は儀礼器具であるとして両者を截然と区別する根拠は,ほとんどなくなったとみるべきである。両者を統合的に把握しなおし,石製祭具として古墳時代祭祀の変遷過程のなかに位置づけるのが妥当である。<BR>ところで本資料は,20世紀の初頭においてマンロー自身が学界に公表したものであり,その著書『先史時代の日本』では,本例にかんする真贋問題の検討結果とともに丁寧に紹介されている。にもかかわらず,ごく最近までは石製品研究において本資料が省みられることはなかった。当時の日本側考古学者が,これを贋作とみなしたことが主因である。しかしいかなる背景のもとに,そのような処遇にたちいたり,以後研究対象から除外されるという情勢が生まれたのか。この問題を点検した結果,高橋健自と後藤守一の著作においてその概要をうかがうことができた。20世紀の前半段階において,碧玉や緑色凝灰岩製の石製品と滑石製模造品とを截然と区別し,それぞれが固有の器種構成を有するといった基本認識はすでに定立されており,本例はこの基本認識に抵触するがゆえに除外された可能性が高いのである。その後の研究動向もまた,これら古典的著作を踏襲する方向で進められてきた結果,本例が省みられる機会は遠のいたとみなければならない。その意味で今回の検討結果は,石製品研究におけるマンローの再評価として位置づけられる。
著者
岩本 崇
出版者
日本考古学協会 ; 1994-
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
no.43, pp.59-78, 2017-05
著者
花谷 浩
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.117-126, 1999-10-09 (Released:2009-02-16)
参考文献数
18

飛鳥寺南東の谷あいにある飛鳥池遺跡は,7世紀後半から8世紀初めにかけて操業された一大工業団地を中核とする遺跡。3年にわたる調査により,その構造が判明してきた。遺跡南半の工房地区は,人字形の谷の両側に金・銀・ガラスなどの類・銅・鉄・漆などの工房が業種ごとに配置され,いわばコンビナートを形成していた。工房地区中央から東南にかけては,銅・鉄・漆などの工房が操業した。西南部では,金・銀・玉類などの宝飾品が製作された。いずれの工房も,斜面にテラスを作って作業面とし,整地を繰り返しながら炉を築く。みつかった炉跡は,総計300基近くに達する。また,谷の東側では,入唐僧・道昭が創建した,飛鳥寺東南禅院の瓦窯も発見された。谷筋には汚水処理施設がある。陸橋と水溜によって工房からの廃棄物を谷に堆積させ,さらに,北半にある石組み池に導水し,そこで再度沈殿させて遺跡外に排水する。遺跡の北半にはほかに,石敷井戸や掘立柱建物などがある。工房から排出された廃棄物層(炭層)から,多種多様な遺物が膨大にみつかった。各業種の失敗品や道具類,鉱滓などがあり,生産工程が復原できる。様を使った注文生産も確認された。最近,富本銭とその銭笵などが出土し,日本最初の鋳銭が確認された。大量の木簡が出土したことも,飛鳥池遺跡の特色。南半の工房地区からは,その生産に天皇や皇子宮が関わることを示す木簡がみつかった。北半部から多量に出土した木簡は,飛鳥寺あるいは東南禅院に関連する木簡群,「天皇」や「次米」の文言あるいは地方行政組織の変遷を物語る木簡群,さらには工房に関連する木簡群など,豊富な内容をもつ。富本銭鋳造に端的に表現されるように,この遺跡は飛鳥浄御原宮や藤原宮と密接な関係をもつが,一方では飛鳥寺や東南禅院とも深い関わりがある。複数の業種が一カ所に集まって生産を行い,宮殿や皇子宮あるいは寺院へも製品を供給する飛鳥池遺跡の操業形態は,この時代でなくては実現しえなかっただろうし,またそのような遺跡はここしかないだろう。律令国家成立期を研究する上でこの遺跡の解明は大きな意義をもつ。
著者
藤井 幸司
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.129-141, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
8

大日山35号墳は和歌山県北部の紀ノ川下流域左岸に位置し,岩橋山塊上に展開する国特別史跡岩橋千塚古墳群内に所在する。古墳群内では,その規模・立地から盟主的古墳のうちの一基として従来から評価されてきた。古墳は,史跡指定地として保護される一方,関西大学作成の墳丘測量図・石室実測図と表採される埴輪片などの資料のみで充分な蓄積がなく,その実態は不明であった。和歌山県では,古墳群の保存と活用を目的として,平成15年度から特別史跡岩橋千塚古墳群保存修理事業を開始し,その事業の一環として大日山35号墳の発掘調査が実施された。その結果,内部主体や外表施設の構成,規模,形態などについて様々な成果を得ることができた。とりわけ,東西くびれ部に造出が付設されることが判明し,そのうち調査を実施した東造出では,円筒埴輪列により囲繞された範囲に,多数の埴輪や須恵器が樹立ないしは据付られていたことが判明した。平成16年度に行われた出土遺物整理により形象埴輪には家・蓋・大刀・人物・鳥・馬などが,須恵器には甕・高坏・器台などが存在することが判明した。このうち形象埴輪中には,滑空する姿態を表現した鳥形埴輪,鶴の可能性が高い嘴の長い鳥形埴輪,短冊形水平板を備える馬形埴輪の障泥,棟持柱をもつ家形埴輪寄棟部などが認められ,西日本ではその類例は著しく限られるだけでなく,滑空姿態の鳥形埴輪はこれまで出土例はない表現で,非常に珍しい埴輪と考えられる。墳丘は3段構成であることが調査により判明したが,それを墳丘3段築成とみなすのか,最下段を墳丘の付帯施設(「基壇」)とみなすのかは,結論をみていない。現段階では今後の調査に期待する点も多々あるが,今回は後者の意見について私論を展開した。岩橋千塚古墳群内の同時期の古墳や近年調査が進展している今城塚古墳との比較検討を通じて,私論の妥当性を主張し,そこから派生する問題についても一部言及した。大日山35号墳は,6世紀前半に築造された岩橋千塚古墳群内で最大の可能性がある前方後円墳であり,造出に樹立された埴輪群は西日本でも有数の質・量を兼ね備えるものである。今後,調査および出土遺物の整理が進展し,大日山35号墳の実態がより明らかになれば,より一層古墳における祭祀や地域史などの多数の研究に大きく寄与することが出来るであろう。
著者
吉澤 悟
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.69-92, 2001

火葬された遺骨を収める容器(骨蔵器)には,しばしば人為的な孔が開けられていることがある。本稿では,この穿孔の意味や背景を考えることから,奈良・平安時代(8~10世紀代)の人々が火葬墓を作る時にどのような思いを抱いてたのか理解しようとするものである。全国の穿孔のある骨蔵器86事例を集成し,その分布や時期別数量,使用器種,穿孔位置,大きさなどの傾向を検討した。さらに,これまでの研究で指摘されている穿孔の排水機能や信仰的用途について,一定の基準を設けて分別し,傾向をまとめた。結果,8世紀段階の穿孔は,比較的小さく排水機能に適したものが多く,9世紀前半を境にそれ以降は,孔が大きく多様な位置に穿孔したものが多くなり,信仰的な意味合いで穿孔されるようになる様子が捉えられた。つまり,穿孔は実用性から非実用性へと変化していたのであり,墓造りの意識自体それに伴って変化していたと推察された。<BR>この変化の背景を探るため,信仰的な遺物(鉄板,銭貨,呪砂など)と穿孔の共存関係を調べたところ,9世紀前半以降,墓における仏教的な儀礼の影響がみられ,それが非実用的な穿孔が増加させる原因であるとの推測を得ることができた。また,穿孔という行為が,一つの集団にどのように受け継がれて行くか,その流れを九州の池の上墳墓群を例にして調べてみた。結果,この墓地では,実用から非実用へと変化する全国的動向とは正反対に,最初の段階から非実用的な穿孔が行われ,後に実用化していた。また,穿孔をもたない一群とも有機的な関係が窺え,骨蔵器になにがしかの手を加える意識が伝承されていた様子を知り得た。これらから,骨壺への穿孔は,厳格な規範として行われたものではなく,加工行為自体を,集団が独自の伝承に基づいて行っていたと考えた。総じて,火葬墓の造営は,遺骨を保護する意識から遺骨を収める際の儀礼を重視する意識へと変化しており,それは,前時代(古墳時代)の遺体保護の観念が薄れ,後の時代(平安時代後期)の墓以外の場所で魂や霊の供養が行われるようになる,過渡的な段階を表象するものと推察した。
著者
花谷 浩 宮原 晋一 相原 嘉之 玉田 芳英 村上 隆
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.23, pp.105-114, 2007-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
5

奈良県明日香村にあるキトラ古墳は,高松塚と並ぶ大陸的な壁画古墳であり,慎重な調査と保護が進められてきた。壁画は剥離が進んでおり,石室内で現状保存することは不可能で,取り外しで保存処置を行うこととなった。その前段階の作業を兼ねて2004年に石室内の発掘を行い,石室構造の細部が判明し,最先端の技術を用いた豪華な副葬品が出土する等,多くの成果を上げた。墳丘は版築による二段築成の円墳で,石室の南側には墳丘を開削した墓道が付く。墓道床面に,閉塞石を搬入する時に使用した丸太を敷設したコロのレール痕跡(道板痕跡)を確認した。石室は,二上山産の溶結凝灰岩製の分厚い切石材を組み合わせて構築する。石材には朱の割付線が残っており,精巧な加工方法が推測できる。石室の内面は,閉塞石以外を組み立てたのち,目地を埋め,さらに全面に漆喰を塗り,壁画を描く。石室内の調査は,空調施設等を完備した仮設覆屋内で,壁画の保護に万全の措置をした上で発掘をした。石室内には,盗掘時に破壊された漆塗り木棺の漆片堆積層が一面に広がる。遺物は原位置に残らないと判断され,堆積層をブロックに切り分け,方位と位置を記録し,コンテナにそのまま入れて石室外に搬出した。出土遺物には,金銅製鐶座金具や銅製六花形釘隠といった木棺の金具,琥珀玉等の玉類,銀装大刀,鉄製刀装具,人骨および歯牙などがある。木棺の飾金具は高松塚古墳のものとは意匠に違いがある。また,象嵌のある刀装具は類例がなく,その象嵌技術も注目される。歯牙は咬耗の度合いが著しく,骨と歯は熟年ないしそれ以上の年齢の男性1体分と鑑定された。壁画は,歪みがきわめて少ない合成画像であるフォトマップ作成を行った。これは実測図に代わりえる高精度なものである。また,壁画取り外し作業の過程で十二支午像の壁画を確認した。墓道と石室の基本的なありかたは,他の終末期古墳とほほ同じである。コロのレール痕跡は高松塚古墳や石のカラト古墳にもあり,石室の石積みはマルコ山古墳に似るが相違点もある。底石の石室床面部分は周囲より一段高く削り出しており,石のカラト古墳と類似することがわかった。
著者
中園 聡
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.87-101, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
36

縄文文化から弥生文化への社会・文化の変化については,在来の「縄文人」による内的な変化と考えるのか,それとも「渡来人」の関与を積極的に評価するのか,という「主体性論議」がしばしば取り上げられている。しかしながら,変化の局面においていかにあったのかという状況の把握がまずは的確に行われるべきで,そこから高次の解釈へ向かう理論的・方法論的枠組みを確立することが目下の急務である。そこで,まず集団と物質文化の関係が問題になるが,重視すべきは,従来の考古学的痕跡自体を擬人化するような,行為者が不在あるいは希薄な議論から抜け出ることである。本論は,九州西北部における弥生時代成立期の壺形土器を対象として,製作者と製品の間の関係についていかにあったかという問に対する,より満足のいく答を得る方向性を見いだそうとするものである。属性分析・多変量解析による型式分類と編年をしたうえで,地域的変異の抽出を行なう。小型壺において,より朝鮮半島と類似した玄界灘沿岸(エリアI)とそれをとりまく地域(エリアII)が認識された。また,縄文時代晩期以来の「形態パターン」と「形態生成構造」を抽出し,それに着目することによって,大型壺の生成にあたって伝統的な形態生成構造が変容しつつも存続していたことが指摘できる。さらに,ハビトゥス,モーターハビットなど,土器を製作し情報を伝達・受容した個人の認知構造と行為に関する概念的整備を行った。九州の小型壺は朝鮮半島のものと比べて頸部の研磨方向に差異がある。これは晩期以来の精製器種の研磨方向に一致しており,既存のモーターハビットによって行われたものとみられる。そこで,九州での壺の製作者の大半は,伝統的な縄文土器製作技術に連なる技術を習得していた者達であったということがいえる。先行する土器の変化も検討したが,晩期前半から玄界灘沿岸を中心にして徐々に変化が始まっており,それらは必ずしも渡来人の関与を考える必要はない性格のものであった。壺形土器の分析から,弥生文化への変化の主な担い手が「縄文人」とされる人々であったということが示された。弥生文化の形成は,朝鮮半島の文化に対する強い志向性の形成も含めて,「縄文人」が過去の経験の統合体である自らの認知構造に根ざした対応の結果であるととらえることができる。
著者
豆谷 和之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.10, pp.107-116, 2000-10-04 (Released:2009-02-16)
参考文献数
2

唐古・鍵遺跡は,奈良盆地のほぼ中央,奈良県磯城郡田原本町に所在する弥生時代の代表的な環濠集落である。多重に巡る環濠は東西,南北ともに長さ約600mにおよぶ。遺跡の占有面積が,約30万m2の日本最大級の弥生集落である。1999年1月27日には,国史跡に指定された。発掘調査は,1936年の第1次から今日の第78次におよぶ。特に第1次は,唐古池の池底より多数の木製農耕具が出土し,弥生時代が初期農耕文化であることを証明した学史的に名高い調査である。今回報告する第74次調査は,遺跡を東西に分断する国道24号線の西側,鍵集落内で1999年7月14日から同年12月25日まで,田原本町教育委員会が実施した。遺物包含層は認められず,同一検出面で弥生時代前期から庄内期,中世および近世の遺構を検出した。唐古・鍵遺跡内部としては遺構の分布密度が低い。柱穴は少なく,木器貯蔵穴や井戸といった大型の土坑が遺構の大半を占める。このなかで,特筆されるのが大型掘立柱建物である。南北棟で独立棟持柱をもち,梁行2間(7.0m),桁行5間以上(11.4m以上)の規模である。また,掘立柱建物の内部となる中央棟通りにも柱穴があることから,総柱型になると考えられる。残存する柱根の直径は約60cmであった。柱底面と柱穴底には間があり,木片層あるいは棒材が敷き詰められていた。木片には加工痕があり,木柱加工時のチップを利用したものと考えられる。この大型掘立柱建物の年代は,遺構の切り合い関係や出土土器から,弥生時代中期初頭に位置づけられる。その年代は,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物としても総柱型としても最も古いものである。弥生時代中期初頭の唐古・鍵遺跡は,大環濠を巡らす以前で,北・南・西の三居住区に分かれていたと想定されている。第74次調査地は,その西地区の中央付近にあたる。西地区は,遺跡内でも比較的古い前期弥生土器が遺構に伴って見つかっており,いち早く集住が進んだ地区と考えられている。おそらく,大環濠成立以前の唐古・鍵遺跡における中枢的役割をもっていたのだろう。その西地区中央部で,大環濠成立以前の大型掘立柱建物が検出されたことは意義深い。
著者
網 伸也
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.75-92, 2005

日本における瓦積基壇の成立は,大津宮周辺の古代寺院で初期の瓦積基壇建物が検出されていることから,百済滅亡と大津宮遷都が大きな画期になったと考えられる。実際に瓦積基壇建物が検出されている古代寺院の分布をみると,近江から南山背にかけて多く分布しており,大津宮との強い関連を想起させる。しかし,百済での瓦積基壇の展開を再検討し,日本の事例との比較を行なうと多くの相違点が指摘でき,百済滅亡後の渡来系氏族による新しい技術伝播として瓦積基壇の成立を単純に把握することができない。何よりも,ヤマト政権の中心地である飛鳥はもとより大和地域で初期の瓦積基壇建物がいまだ発見されていないのは等閑視できない事実である。<BR>この歴史的背景として,初期寺院造営において百済から全面的に造営技術を学んだが,百済で一般的であった瓦積基壇については積極的に採用しなかった姿勢を窺うことができる。そこには新しい文化技術を導入しつつも,掘立柱建物および石敷空間を重視する伝統的な宮殿構造に規制され,格式が高く既存の技術体系の中で受け入れやすい石積基壇は採用しても,外来的要素の強い瓦積基壇は認めない取捨選択が働いた結果が見て取れる。そして,日本で瓦積基壇が成立する素地として半世紀にわたる寺院造営技術の発達があり,大津宮遷都という飛鳥の伝統的呪縛から開放された新しい宮都で初めて寺院の基壇外装として瓦積基壇が定着し,近江と大和を結ぶ地域で大津宮周辺寺院とともに従来の大和諸寺院の影響を受けた瓦積基壇が展開したものと考えられる。<BR>さらに,瓦積基壇の初源は近江地域だけでなく,渡来系氏族が古くから居住した河内石川流域の新堂廃寺とともに,孝徳朝の難波遷都に伴う四天王寺の伽藍整備にも想定できる。難波長柄豊碕宮と想定される前期難波宮は後の朝堂院の原形となる広大な構造をもっており,律令国家成立期の画期的な宮として認識されている。四天王寺では百済との強い関連のもとに扶蘇山廃寺や定林寺と共通した伽藍で整備しており,大津宮と同じく開明的な都の整備の中で瓦積基壇の成立の端緒をみることができるのである。
著者
戸田 哲也 舘 弘子
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.133-144, 2001

羽根尾貝塚と泥炭層遺跡は,神奈川県小田原市羽根尾において発見された縄文時代前期中葉の遺跡であり,1998年から1999年にかけて筆者等により発掘調査が行われた。<BR>遺跡はJR東海道線二宮駅西方約2.5kmに位置し,現相模湾より内陸に約1km入った地区にあたる。貝塚及び泥炭質包含層は地表下2~4mという深さに遺存しており,低位の幅狭い丘陵突端部の両側斜面と近接する同一地形の斜面計3カ所から発見されている。これらの斜面部には小規模な貝塚の形成のみならず,往時の汀線ラインに寄り着いたと考えられる多くの樹木類と木製櫂が点在している状況を加え,縄文前期海進により湾入した海水面汀線に沿った地点であったと考えられる。この汀線ラインには多くの人工遺物,自然遺物が廃棄されており,遺跡が埋没する中で低湿地化が進み,厚い堆積土の下に貝塚をも包み込むように泥炭層が形成されたのである。<BR>標高22~24mを測る斜面部には当初前期関山II式から黒浜式の古段階にかけて貝塚が形成された。この全く撹乱を受けていない貝層中には,土器・石器類そして多くの獣・魚骨と骨角器が良好な保存状態で遺存しており,当時の相模湾において船を用いたイルカ・カツオ・メカジキ・サメ・イシナギなどの外洋性漁労が活発に行われたことが知られる。さらに貝塚の端部には屈葬と考えられる埋葬人骨1体も遺されていた。<BR>貝層形成時及び直後の黒浜期に至ると貝塚こそ形成されなくなるが,貝層下端から斜面下方に残された泥炭質包含層中からは大量な廃棄された遺物類が出土した。<BR>多くの遺物が検出されたが,中でもシカ・イノシシの獣骨類とイルカ・カツオの魚骨類は足の踏み場もないほどのおびただしい量が出土しており,水辺の動物解体場を考えさせる状況であった。<BR>このように羽根尾貝塚と泥炭層遺跡からは縄文前期の相模湾岸で行われた陸上での動・植物採集活動と海浜での漁労という両面からの生活実態を知ることができる。また,その他の廃棄された漆器類,木製品類の豊かな木工技術を示す遺物を含めた文化遺物とともにまさに縄文前期のタイムカプセルといえる貴重な調査資料を得ることができた。
著者
坂本 嘉弘
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.21, pp.125-138, 2006

中世大友城下町跡は戦国時代「府内」と呼ばれた瀬戸内海の西端部の別府湾に注ぐ大分川の左岸の自然堤防上に立地する中世都市である。近年この「府内」が大分駅周辺総合整備事業に伴い大規模な発掘調査が実施されている。その結果,これまで古絵図からの復元や,文献史料で知られていた「府内」について,さらに都市構造や変遷・性格などが明らかになりつつあることを報告した。<BR>発掘調査にあたっては,考古学的な時間軸を明確にするために,「府内」から出土する土師質土器の編年作業を行った。その結果,14世紀初頭から16世紀末まで約300年間にわたる大まかな編年案を提示することが出来,「府内」各所での遺構の時期の並行関係をとらえることが可能になった。<BR>また,古絵図には「府内」を南北に貫く街路が四本描かれているが,これを東から,第1南北街路・第2南北街路と順に名づけ発掘調査した。大分川沿いにある第1南北街路は上市町・下市町・工座町の名称が示すように,発掘調査でも街路に沿って短冊形の地割が確認され,商工業者が居住する地域であることが裏付けられた。第2南北街路は,大友館や萬寿寺沿いに「府内」を貫く最主要街路である。この街路の大友館東側や萬寿寺西側については,町屋の状況を示す古文書も残されている。発掘調査では,その町屋の実像だけでなく,成立までの経過も明らかにすることが出来た。第4南北街路は,「府内」の西端の街路であるが,古絵図には街路西側にダイウス堂と記載された場所があり,キリシタン施設が想定されていた。発掘調査の結果,小児墓やキリシタン墓を含む13基の墓が検出され,宣教師たちが報告した墓地の南端にあたる可能性が強いと想定している。<BR>「府内」からは,多量の貿易陶磁器が出土する。特に,第1南北街路と第2南北街路を結ぶ横小路町で検出された遺構からは,中国・朝鮮のみでなく,タイ・ミャンマー・ベトナムなど東南アジアの陶磁器が集中的に出土し,中国南部と直接関わる人物の存在が指摘されている。<BR>また,キリシタンの活動に関連する遺物としてメダイがある。ヴェロニカのメダイ以外は,「府内」の第2南北街路と名ヶ小路との交差点部で検出された礎石建物付近で,分銅と共に製作された可能性が強いと考えられる。<BR>このように,16世紀後半の「府内」は海外との結びつきの強い特異な中世都市として存在する。残された史料も,古絵図,古文書,宣教師たちの報告など多彩であるが,これに考古資料が加わり,「府内」の実像がより立体的に明らかにされようとしている。
著者
名久井 文明
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.22, pp.71-93, 2006-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
105

縄紋時代以降の遺跡から発見されるトチの「種皮付き子葉」や「剥き身子葉」、および種皮の細、大破片は、当時のトチ利用の実態を理解するための手掛かりが民俗例の中に求められることを示している。民俗例のトチの「あく抜き」方式と,そのために前処理されるトチの態様との間に認められる対応関係に基づくと,遺跡から発掘されるトチ種皮の細片は,トチ利用者が「発酵系」「水晒し系」「はな(澱粉)取り系」の「あく抜き」方式で「あく」を抜いていたことを窺わせる。各方式に用いられる容器の物理的特性に着目すると,「煮る」ことを必要としない各「あく抜き」方式は旧石器時代に開発されていたと推察される。