著者
田中 元浩
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.47-73, 2005-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
61

本稿の目的は,畿内地域での古墳時代初頭土器群の成立と展開を把握し,そのうえで土器様式の構造や地域集団の抽出,地域集団間の関係の強弱を明らかにすることである。田中琢氏によって設定された庄内式土器は,当初考えられたような畿内地域通有の土器様式ではなく,その展開や分布に一定の偏在性が認められる。また資料の蓄積が一定程度に達した現在では,庄内式土器,布留式土器といった土器様式は単純な様相を示すものではなく,甕形土器・精製器種に複数の系統が存在することが指摘されつつある。以上の視点をもとに本稿では,畿内地域における古墳時代初頭前後に出現する庄内甕・布留甕・精製器種各群といった製作技術を共有する土器群の展開を,共通する時期の構成比率によって検討した。こうした分析の結果からは,新たに出現する庄内甕・精製器種B群といった土器群は中河内地域の中田遺跡群でその成立をみるとともに,その後の展開については中河内地域と,纒向遺跡を中心とする大和東南部,摂津・北山城・南山城地域に存在する拠点集落同士の交流をもとに,各地域へ展開していくことが明らかとなった。一方布留甕の成立については,各地域の庄内甕・精製器種B群の展開の中心となった集落において複数の分布の拠点が認められる。また細部の形状や技法等の検討からは,各集落での布留甕には型式的な差異が認められ,こうした違いは前段階の在地での庄内甕製作基盤の有無と山陰地域からの技術的影響の強弱が関係している。古墳時代初頭土器群の土器様式の構造については,庄内甕・布留甕・精製器種B群といった各土器群が胎土・展開時期・分布において各地域で複雑なあり方を示す。また,分布する庄内甕の特徴によって分布圏が形成され,さらに分布圏の内部で土器群の展開にみられる拠点集落とその周辺集落との間には,構成比率に中心―周辺関係が形成され多様な範囲や集落間関係が存在することが明らかとなった。
著者
宇野 隆夫
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.25-42, 1999

本稿では古墳時代中・後期また飛鳥時代を,弥生時代的な食器様式から律令制的な食器様式への転換過程を考える上で非常に重要な変革期と位置づけて,中国・朝鮮との関係を考慮しながら考察を加えた。方法は,個々の器種の型式に加えて,使用痕観察による使用法の復元を重視した。<BR>その結果,倭は5世紀に,中国華北に源流をもつ食器文化を朝鮮半島から本格的に導入したと考えた。華北的な食器文化とは,食膳具における杯の卓越・身分制的使用,煮炊きにおける竈・蒸器・鍋の使用,酒造をはじめとする貯蔵具の多様な使用である。これに韓独特の陶器高杯使用法が加わり,また倭の伝統的な土器高杯の使用の存続と須恵器蓋杯の創出があって複雑な様相を呈した。その結果,煮炊き・貯蔵においては華北的な方式の導入が順調に進んだが,食膳具では祭祀・儀礼的な意味を与える使用法が存続したと理解した。ただし5世紀の段階では,階層あるいは集団の違いによる渡来文化受容の水準差が存在した。<BR>これに対して6世紀には,日本列島中央部において,階層をこえて華北的な食器文化が定着した。同時に食膳・煮炊き具の両者にわたって東西日本の顕著な地域差が生じることとなった。この二者は共に次の時代を準備するものであるが,特に東日本において須恵器蓋杯と土器杯の写しの関係が生じてくることを,食膳具における華北的な身分制的使用法への転換のはしりとして重視した。<BR>7世紀には,従来の東西日本の食器の在り方を統合し,また仏教の本格的導入を基礎として,食膳具による身分表示を体系化する方式を追求した。それは7世紀初めの金属器を頂点とする写しの方式の採用,7世紀末の土器・須恵器の法量分化・互換性の成立によって実現したが,すでに達成されていた煮炊き具・貯蔵具の変革に,この食膳具の変革が加わって律令制的食器様式が確立した。なお日本列島中央部における律令制的食器様式には,宮都的食器様式をはじめとするいくつかの地域的な様式があり,律令社会を考察するための有益な情報を提供している。
著者
増田 一裕
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.3, no.3, pp.21-52, 1996-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
125

半島から導入された横穴式石室は,およそ300年の長きにわたり,凡列島的な規模でわが国の古墳時代後期における葬制として採用され消長していく。1体埋葬にとどまらず,同一の内部構造に追葬が可能となった,この革新的な構造は,6世紀ころより倭王権の公葬制として採用され,次第に大型化・巨石積み化へと発展し,さらに切石造りの整美な石室に変化して,やがて,葬制の主体は横口式石槨に交替していく。畿内における大型横穴式石室の消長は,従来より一系列で把握されてきたが,玄室形態に共通型式を求めた時,実は複数の型式が互いに影響を及ぼしつつ多元的に展開していることが判明する。これらの中で,主系列が存在する。それは,大王家と最高執政官層の象徴的産物で,主系列の導入と技術的変化の背景には物部大連氏が大きく関与し,内在的に巨石積み,少段積み化をはたしていく。しかし,7世紀代に入ると,物部連と姻戚関係を成立させた蘇我大臣がその主導権を掌握し,やがて最大の横穴式石室,見瀬丸山古墳と切石積みの岩屋山式石室を完成させる。このように,量的に限定された大型横穴式石室の消長をもとに,被葬者層の動向を追跡する。
著者
久世 建二 小島 俊彰 北野 博司 小林 正史
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.19-49, 1999-10-09 (Released:2009-02-16)

縄文土器の野焼き方法を復元するためには,黒斑などの焼成痕跡が最も重要な材料となる。縄文土器の黒斑は弥生土器に比べ明瞭なパターンを見い出しにくいので,野焼き実験により黒斑の形成過程を明らかにし,実験結果と縄文土器の黒斑を突き合わせる作業を積み重ねることが重要である。本稿では,一連の開放型野焼き実験に基づいて,形成過程の違いにより黒斑を「大きな炎を出す薪からのスス付着による薪接触黒斑(逆U字形と2個1対が典型)」「棒状の薪接触黒斑」「オキ接触黒斑」「残存黒斑」などに類型化した。東日本の縄文時代前・中期の5資料の黒斑を観察した結果,かなり多くの土器においてこれらの類型が適用できたため,黒斑の形成過程から野焼き方法をある程度推定できた。その結果,以下の点が明らかになった。1.大きな炎からのススを起源とする薪接触黒斑が本稿の分析資料の多くでみられたことから,覆い型ではなく開放型で野焼きされたことが再確認された。薪接触黒斑は土器の地面側の内面,地面側の外面,上向き側の外面などに付くことから,横倒しになった土器の下側や側面に多くの薪が置かれていたことが明らかになった。一方,覆い型野焼きでは内部が窯に近い状態になり,大きな炎から出たススによる黒斑は少ない。2.5資料の大半の土器において内面に薪・オキ接触痕がみられることから,内面に薪を入れたことが明らかである。弥生土器では内面に薪を入れないのに対し,縄文土器では内面に入れるのは,開放型の野焼き実験で示されたように,外面の薪だけでは内面まで十分に燃焼ガスが回りにくいためと考えられる。3.本稿では東日本の縄文前・中期の5資料の黒斑を観察したが,上述の共通性と共に,以下の違いもみられた。三内丸山遺跡Vb層の円筒下層b式土器(特に大型)は,薪の上に横倒しに設置し,側面・上面に薪と草燃料をかぶせている点で,野焼き途中で横倒しした可能性が高い他の4資料と異なる。このような方法をとる理由として,(1)土管のような形の円筒下層b式土器は,直立して設置すると口縁部まで十分な炎が当たりにくい,(2)土器の大量生産に伴う薪燃料の節約のため草燃料を併用した,などが考えられる。4.「器面の色調が橙色か白色か」についての資料間の違いは,内外面の黒斑の特徴や内外底面の黒斑の有無と相関を示すことから,焼成雰囲気と共に,加熱の強度の違いを反映する可能性がある。三内丸山遺跡Vb層では,5リットル未満の小型は大半が橙色なのに対し,大型は白色の方がやや多かったが,これは,薪・草燃料を土器に立てかける大型深鉢の野焼き方法の結果かもしれない。【引用文献 】阿部芳郎 1995「弥生前期土器の器体構造について」『津島岡大遺跡5』pp.89-1001995「土器焼きの火・煮炊きの火」『考古学研究』42(3):75-91青森県教育委員会 1979『板留(2)遺跡』1997『三内丸山遺跡VIII』後藤和民 1980『縄文土器を作る』中公新書。北上市教育委員会 1983『滝ノ沢遺跡』小林正史 1993「民族考古学からみた土器の用途推定」『新視点・日本の歴史1』 132-139頁。1993「カリンガ土器の制作技術」『北陸古代土器研究』3号74-103頁。1994「稲作農耕民とトウモロコシ農耕民の煮沸用土器―民族考古学による通文化比較」『北陸古代土器研究』4号 85-110頁。1995「縄文から弥生への煮沸用土器の大きさの変化」『北陸古代土器研究』5号 110-130頁。1998「野焼き方法の変化を生み出した要因―民族誌の野焼き方法の分析―」『民族考古学序説』民族考古学研究会編、pp.139-159、同成社久保田正寿 1989『土器の焼成I』クオリ久世建二・北野博司・金昌郁・藤井一範・姜興錫・南部次郎・小林正史 1994「縄文土器から弥生土器への野焼き技術の変化」『日本考古学協会第60回総会研究発表要旨』26-29頁。久世建二・北野博司・小島俊彰・小林正史 1996「縄文土器の野焼き方法」『日本考古学協会第62回総会研究発表要旨』94-97頁。宮川村教育委員会 1996『堂の前遺跡発掘調査報告書』小笠原雅行 1996「三内丸山遺跡出土土器の数量的研究」『シンポジウム考古学とコンピュータ―三内丸山をコンピュータする―』pp.29-44岡安雅彦 1994「黒斑にみる弥生土器焼成方法の可能性」『三河考古』7号 45-65頁。1996「縄文土器焼成方法復元への実験的試み」『古代学研究』133号 21-31頁。1999「野焼きから覆い焼きへ その技術と東日本への波及」『弥生の技術革新 野焼きから覆い焼きへ』pp.48-63 安城市歴史博物館
著者
池 ミン周
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.115-127, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)

朝鮮半島の公州丹芝里横穴墓遺跡では,23基の横穴墓が群集して発見された。残存状態が非常に良好で構造が明確であり,副葬遺物と被葬者の人骨などが完全に残っている。これは朝鮮半島の横穴墓の構造的特徴と築造時期はもちろん,日本考古学界でこれまで模索されてきた日本列島の横穴墓の起源問題をはじめとする古代韓日関係研究に画期的な資料となる。横穴墓の築造時期は副葬された土器類の型式的特徴を通して大まかな年代幅を把握することができるが,蓋杯や三足器などの遺物型式をみると,横穴墓はおよそ百済熊津期前半(5世紀後半)にわたって造営されたものと把握される。一方,公州丹芝里横穴墓の構造的特徴は日本列島の初期横穴墓である福岡県行橋市竹並・大分県上ノ原などの北部九州一円に集中して分布している横穴墓と類似する。その時期は5世紀後半~6世紀前半頃とされており,今まで知られる日本列島の横穴墓の中では朝鮮半島系遺物が副葬される例が少なくない。このような事実はこれまでベールに包まれていた日本列島の横穴墓の起源問題を解明することができる極めて重要な資料となり,今回の丹芝里横穴墓群の存在とともに,横穴墓の百済地域起源の可能性を積極的に検討する契機となるものである。
著者
高瀬 克範
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.149-158, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
48

先史時代研究のなかで,通事的な多様性のみならず,共時的な多様性までをも優劣関係のもとに評価してしまう価値観は,たとえ顕在的ではないとしてもいまなお息づいている可能性が高い。こうした評価軸のなかでは,決して積極的な位置づけがあたえられることがない地域は必ず存在しており,そうした歴史を偏見や差別,一方的な価値観の押しつけを排しながら,いかにして取り扱ってゆくべきかはいまだ解決していない大きな課題といえる。ここでは,「非文明」の評価をめぐる問題を作法としてまとめ,「文明」研究とはことなる注意点についての覚書きとした。「非文明」をとりあつかう際の姿勢としてまず指摘されるのは,一国史の枠組みを対象化し,それとの距離のとりかたに慎重になることである。さらに,「文明」中心の歴史叙述のなかで常識化してきた,「文明」にとって都合がよい論理に疑問を呈してゆく批判的な態度も必要である。こうした姿勢がないかぎり,「文明」を中心とした価値観のなかに埋もれた「非文明」の正当な歴史的価値を引き出すことは非常に難しくなってしまう。つづいて,「非文明」を扱う際の手法として指摘されるのは,物質文化の定性的な側面のみならず定量的な側面にも十分な配慮を行うこと,さらに,モノの系統性に引きずられた解釈をおこなうのではなく,実用的機能・社会的機能をふくめて,それぞれの時期・地域で機能・用途論的な分析をともなっていることである。これらは「文明」についてもあてはまるが,「非文明」では両者への十分な配慮を怠ると誤った判断を誘発しやすいという点で重要な意味を持っている。
著者
小笠原 好彦
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.93-109, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
42

紀寺(小山廃寺)は大和の飛鳥に建てられた7世紀後半の古代寺院で,小字キテラにあることから紀氏が造営した寺院とされている。『続日本紀』には紀寺の奴婢を解放する記事があり,これによると天智朝に飛鳥に建てられていたことがわかる。この寺院に葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は紀寺式軒丸瓦とも呼ばれ,畿内では山背の古代寺院に顕著に葺かれ,さらに地方寺院にも多く採用されている。しかし,近年の研究ではこの瓦当文様が地方寺院まで分布すること,また紀寺に藤原宮から軒丸瓦の瓦当笵が移されていることなどから,紀氏の寺院ではなく,官寺の高市大寺とする考えがだされている。一方,紀寺は1973年(昭和48)以降,数回にわたって調査され,藤原京の条坊に伽藍中軸線をあわせて建立されていることが判明した。このことは藤原京の条坊施工が開始した天武5年(676)以前には遡れない可能性が高く,紀氏が建てた寺院とはみなしにくくなった。紀寺式の雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦のうち,最古式のものは山背の大宅廃寺に葺かれ,紀寺と大宅廃寺は少なからず関連をもつ寺院であったとみなされる。この大宅廃寺の軒平瓦の一つである偏行忍冬唐草文の瓦当笵は,後に藤原宮の瓦窯に移動しており,この寺院を藤原氏の寺院とみなす考えがだされている。また平城京に建てられた興福寺の同笵軒瓦が出土する飛鳥の久米寺も藤原宮に軒瓦を供給しており,二つの藤原氏の寺院が藤原宮の屋瓦生産に深く関与している。大宅廃寺と関連をもつ紀寺(小山廃寺)に藤原宮の瓦窯から瓦当笵が移されたのは,この寺院も藤原氏ときわめて関連が深いものであったと推測する。そして,この性格を考えるには,紀寺(小山廃寺)が岸俊男説の藤原京左京八条二坊,本薬師寺が右京八条三坊にほぼ対称の位置に建立された背景を検討する必要がある。また,創建瓦として葺かれた雷文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦は,持統天皇の乳部の氏寺に葺かれた瓦当文様を祖形にして創出されたものと思われる。
著者
及川 良彦 山本 孝司
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.1-26, 2001

縄文土器の製作についての研究は,考古学的手法,理化学的手法,民族学的手法,実験考古学的手法などの長い研究史がある。しかし,主に製作技法や器形,施文技法や胎土からのアプローチがはかられてきたが,土器の母材となる粘土の採掘場所や採掘方法,土器作りの場所やそのムラ,粘土採掘場とムラの関係についての研究は,民族調査の一部を除き,あまり進展されずに今日に至っている。<BR>多摩ニュータウンNo.248遺跡は,縄文時代中期から後期にかけて連綿と粘土採掘が行われ,推定面積で5,500m<SUP>2</SUP>に及ぶ全国最大規模の粘土採掘場であることが明らかとなった。隣接する同時期の集落であるNo.245遺跡では,粘土塊,焼成粘土塊,未焼成土器の出土から集落内で土器作りを行っていたことが明らかとなった。しかも,両遺跡間で浅鉢形土器と打製石斧という異なる素材の遺物がそれぞれ接合した。これは,土器作りのムラの人々が粘土採掘場を行き来していることを考古学的に証明したものである。<BR>土器作りの根拠となる遺構・遺物の提示と粘土採掘坑の認定方法の提示から,両遺跡は今後の土器作り研究の一つのモデルケースとなることを示した。さらに,粘土採掘坑から採掘された粘土の量を試算し,これを土器に換算し,住居軒数や採掘期間等様々なケースを想定した。その結果,No.248遺跡の粘土は最低でも,No.248遺跡を中心とした5~10km程の範囲における,中期から後期にかけての1,000年間に及ぶ境川上流域の集落の土器量を十分賄うものであり,最低限この範囲が粘土の消費範囲と考えた。さらにNo.245遺跡は土器作りのムラであるだけでなく,粘土採掘を管理したムラであることを予察し,今後の土器生産や消費モデルの復元へのステップとした。以上は多摩ニュータウン遺跡群研究の一つの成果である。
著者
利部 修
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.109-121, 2001-10-06 (Released:2009-02-16)
参考文献数
35

東北・北海道を除く日本列島の長頸瓶には,7世紀から8世紀にかけてフラスコ形・有衝形・球胴形・釣り鐘形等様々な形態があり,それをA類からJ類まで分類し北日本(東北・北海道)の様相と比較した。これらは,大局的に8世紀後葉以降球胴形で高台をもつ形態に統一されていく。ところが,主として北日本の9世紀から10世紀にかけては,胴部と頸部に環状凸帯の付く環状凸帯付長頸瓶が広範囲に分布する。一方,城柵設置地域を含む秋田・岩手県から青森県・北海道西岸にかけての北域では,胴部調整にロクロを用いない東北北部型長頸瓶が濃厚に分布し,秋田・岩手県の城柵設置地域を含む郡制施行地域以南のロクロを用いる手法と対峙する。環状凸帯付長頸瓶を,前者のR1類・後者のR3類・両者併用のR2類に分けると,分布の大局は福島県域のR1類と,青森県・北海道西岸のR3類とが対峙し,城柵設置地域ではR1・R2・R3類が併存する。北日本の環状凸帯付長頸瓶は,9世紀前葉に会津大戸窯跡で発生し,城柵設置地域まで広がる。そして,城柵設置地域から北域にかけて東北北部型長頸瓶の特徴を備えながら更に分布域を拡大し,五所川原窯跡ではR3類が量産される。本来,蝦夷政策で採用された希少価値の高いR1類環状凸帯付長頸瓶が,形骸化して装飾性の痕跡を留めたR3類に変質したとみられる。
著者
小林 正史 柳瀬 昭彦
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.13, pp.19-47, 2002-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
38

弥生時代の米の調理方法を明らかにすることを目的に,上東遺跡P-ト資料の炭化物を分析した。上東資料が選ばれたのは,甕の大半に炭化穀粒が付き,米の調理に使われたことが明らかなためである。炊飯方法を復元する前段階として,おおまかな使用回数と土器の置き方を検討した。暫定的使用回数は,吹きこぼれの頻度と胴上半部のススの有無を基準にして推定した。この暫定的使用回数は「累積的受熱量」を反映するといえるが,累積受熱量が最も少ない甕は「1回のみ使用」と認定できた。次に,甕の設置方法を明らかにするために胴下部~底面のコゲとスス酸化の位置を検討した結果,環状コゲは直置き状態での側面からの炎による加熱を,「環状コゲ+円形コゲ」と「円形コゲのみ」は直置き状態での「側面からの炎の加熱と底面からのオキ火の加熱の組み合わせ」を示すことが明らかにされた。このように,上東資料は全て炉に直置きされていた。米の調理方法を推定するために,稲作農耕民の各種の伝統的米調理方法について,期待される炭化物パターンのモデルを提示した。この民族誌モデルでは,吹きこぼれ程度,コゲの種類と頻度,喫水線の高さ,加熱過程などの属性が米の調理方法を推定する際に重要だった。上東資料の加熱過程については,1回のみ米調理に使われた甕の検討から,吹きこぼれをシグナルに強火加熱から弱火加熱に移行することが明らかにされた。さらに,(1)吹きこぼれや喫水線下のコゲ付きが高い頻度でみられる,(2)喫水線が比較的高めである,などの特徴も,民族誌モデルにおける「炊き干し法」や「炊きあげる湯取り法」の特徴と一致した。中在家南資料の分析でも,東北地方の弥生時代前半の日常調理において炊きあげる炊飯が普及していたことが示されていることから,(2)の炊飯方法は弥生時代にかなり普及していたと考えられる。一方,「弥生時代の米の調理は粥・雑炊状が中心だった」という仮説も一般に受け入れられている。この仮説は,具体的根拠が示されていないが,「弥生時代の米は単位あたり収量が低かったため,農民の多くは米をあまり食べられず,増量できる粥・雑炊にした」と想定していると思われる。これに対し,本稿の分析の結果,(1)弥生時代には炊きあげる炊飯方法が普及していた,(2)弥生時代になると炊飯専用の甕が作り分けられていたなどの点から,弥生時代の米食程度は現在の主流仮説よりは高かったと考えられる。
著者
村上 昇
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.24, pp.1-20, 2007-10-10 (Released:2009-02-16)
参考文献数
152

九州は旧石器時代終末から縄文時代初頭にかけての変化を考える上で,また,草創期土器編年研究の上で重要な地域である。しかし,研究者ごとに土器資料の新旧を判断する基準が異なるため,近年,九州を含む日本列島西部の草創期土器編年における研究者間の共通認識は崩れつつある。これに対し,本稿では,南九州における雨宮編年を踏襲し,施文手法の違いを時期差と捉えると同時に,遺跡内の地点差や「遺跡の引き算」からより短い編年上の時期幅を抽出することで,編年の時間軸を明確化し,改めて南九州を含めた日本列島西部の草創期土器編年を示すことを目的とする。南九州の隆起線文土器は【隆起線に押圧が加わる土器→隆起線上に矢羽根状に連続する摘み痕を残す土器】と変化し,その後,口縁部に密に爪形文を配する土器が出現し,南九州の草創期土器は岩本式まで続く。以上の南九州における土器編年との併行関係と前後関係を検討し,日本列島西部の草創期土器編年を組み立てた。日本列島西部の草創期土器編年は概ね5期に区分でき,全体としては,時期が下るにつれて,地域色が顕在化する傾向が認められる。特に本稿V期には,九州と本州との間の繋がりが土器からは伺いにくくなる。以上の編年作業によって得られた先行研究と異なる知見としては,主に以下の2点が指摘できる。第1には,本州東部方面の「厚手爪形文土器」の影響を受けて,九州で爪形文土器が発生し,南九州を含めて爪形文土器単純期(本稿IV期)が認められる点が挙げられる。また,第2には,九州における最初期段階の隆起線文土器の底部形態は平底が主流であると考えられる点が挙げられる。本稿における土器編年作業は,縄文時代草創期における日本列島東西の併行関係を考える上での足掛かりとなる。また,土器編年が示す細かなタイムスケールは,旧石器時代終末から縄文時代初頭にかけての日本列島史を理解する上で有効であり,多方面の応用と活用が可能である。
著者
西野 修
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.24, pp.135-144, 2007-10-10 (Released:2009-02-16)

2005年度から開始した第4次5ヵ年計画に基づく史跡徳丹城跡の発掘調査は,2006年度,2年目の調査として第65次調査を外郭西門跡内部地区で実施した。当地域は,遺跡が立地する段丘の西縁部に当たり,西方に後背湿地が形成されている。調査は,この湿地環境下における遺構の実態把握を目的に行った。成果としては,周溝で囲まれた2つの工房施設とそれに付属する複数の建物群からなる工房施設群の存在を明らかにできた。このような遺構構成から成立する工房施設群の確認は徳丹城跡では初めてのことで,これにより西部の湿地環境下が「工房施設域」として利用されていた見通しが出てきたことは,新たな見解である。この2つの工房施設群に挟まれた空間で井戸跡が発見された。小規模な井戸だったが,枠板を持つ本格的なもので,9世紀第3四半期頃には完全に埋没している状況にあった。底からは刳物の「水桶」が出土し,取り上げてみると外面に黒色の漆が塗布された「木製冑」であることが判った。木製冑の年代観は、井戸が開口し機能していた9世紀前半代と同時期と認識していたが,放射性炭素年代測定(C14)は塗布された漆の暦年代を〔640-690cal.AD〕と測定した。木製冑の形状・型式・寸法が,古墳時代末期の「鉄製竪矧板鋲留衝角付冑」に共通することを考慮すれば,Cl4の年代値は極めて調和的といえる。また,井戸跡の16枚遺存する枠板の中に,「琴」の天板から転用された材が混じっていた。城柵における律令祭祀を示す資料として注目されるが,想像力を働かせれば,蝦夷への饗給で音曲が奏でられていたのかもしれない。
著者
田村 隆 国武 貞克 大屋 道則
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.22, pp.147-165, 2006-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
33

栃木県北部の矢板市等に所在する高原山は黒曜石産地として知られており,高原山産黒曜石は関東地方の旧石器時代の石器石材として多用されていることが分かってきている。関東平野部の遺跡出土のデータからは,高原山に旧石器時代の原産地遺跡の存在が予測されるものの,これまで旧石器時代の原産地遺跡については全く知られておらず,黒曜石原石の産出状況もまた明確でなかった。このため筆者らは,高原山中において黒曜石原石の産状と旧石器時代の原産地遺跡の探索を行ったところ,高原山山頂付近の主稜線上において,良質な黒曜石の分布を確認し,原石分布と重なるようにして立地する旧石器時代の大規模な遺跡群を発見した。遺跡の状態を確認したところ,主稜線直下の斜面上に遺物包含層が風雨で侵食されて露出している箇所が6箇所確認された。これらの地点からは明確に後期旧石器時代の石器が採取されている。細石刃核は関東平野部のものと同様に小口面から剥離されたものが多い。復元すると10cmを超える大型の石槍の未製品は,関東平野部で検出されているものよりも一回り大型のサイズのものも採取されており製作遺跡としての性格を表わしている。長さ5cm程度の小型の石槍も平野部のものと比べると加工も粗く幅や厚みなどのサイズも大きい。角錐状石器は平野部のものと比べると約2倍程度のサイズであり,切出し形のナイフ形石器はほぼ同程度のサイズである。他に掻器は平野部のものと比べると刃部再生が進んでいない。この他に台形石器や端部整形刃器も採取されている。したがってこの遺跡は後期旧石器時代の初頭から終末に至る全時期の黒曜石採取地点であった可能性が考えられる。高原山の基盤は黒曜石の産出層よりもはるかに古い新第三紀の地層から構成されるが,この基盤層の一部の火砕性堆積層中からは良質な火砕泥岩1)が産出し,これが関東地方各地の旧石器に多用されていることは,筆者らの調査で既に明らかにされている。関東地方東部とくに下野地域から房総半島に至る古鬼怒川沿いの地域の旧石器時代各時期の石器石材を検討すると,石刃製のナイフ形石器や石槍には,これら高原山に産出する火砕泥岩が主体的に利用されていることから,高原山は恒常的な回帰地点であったと推定されている。したがって高原山における黒曜石原産地遺跡は,単に黒曜石の採取地点という評価に止まらず,このような関東地方東部の領域形成の観点から評価されなくてはならない。今後行われる高原山黒曜石原産地遺跡群の発掘調査は,関東平野部の各消費遺跡から復元された居住行動モデルを検証し得るデータが得られるよう,厳密な調査戦略に基づいて実施される必要がある。
著者
山本 暉久 小泉 玲子
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.135-147, 2005-10-20 (Released:2009-02-16)

中屋敷遺跡は,神奈川県足柄上郡大井町に所在し,1934(昭和9)年,道路工事中に土偶形容器(国指定重要文化財)が出土したことで知られている。土偶形容器内には幼児の骨粉・歯が収納されていたことから,再葬にかかわる遺物であるとされている。年代については,土偶形容器や出土土器から縄文時代終末から弥生時代中ごろとされてきた。しかし,遺跡の詳細は不明なまま今日に至っている。昭和女子大学は,この遺跡の重要性に着目し,南西関東における縄文時代から弥生時代への変化の様相を明らかにすることを目的として,1999(平成11)年から2004(平成16)年まで計6次にわたる調査を実施した。その結果,複数の土坑を検出し,そこから弥生時代前期に相当する良好な一括遺物を確認した。さらに6次調査では,炭化米と炭化アワ・キビなどの雑穀,トチノキの種実を土器などの遺物と共に同一土層で検出した。また,考古学的調査と併せて各種の自然科学分析も実施した。樹種同定された炭化米・トチノキをAMS法で放射性炭素年代測定したところ,紀元前5世紀~4世紀の結果を得た。炭化材および土器付着物の年代測定の結果もほぼ同様であった。検出された土坑の解釈については,土坑の形態や分布状況,遺物の出土状況,覆土等の観察から,土坑外で生じた様々な不用物を廃棄するために利用された穴であると考えている。ただし,いくつかの土坑には,もともと貯蔵穴として利用されていた可能性もある。また,土坑間には同時性があり,当初より複数あったと想定している。関東における稲作の導入についてはまだ不明な点が多い。その現状において,米そのものが土器などの遺物と共に遺構から出土し,年代測定された確実な例として,本遺跡の資料は現在のところ関東以北で最古級といえる。また,米と共に雑穀やトチノキが確認されたことは,稲作開始期の生業活動を考える上で貴重な成果と考えている。
著者
黄 慰文
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.1-10, 1999

本文は中国の前期・中期旧石器考古学の最新の成果について報告し,それらに若干の考察を加えるものである。それは次の3つにまとめられる。<BR>(1)前期旧石器考古学の近年の最大の成果は,古地磁気法などによって180万年前(オルドバイ正磁極亜期),あるいはそれを溯る遺跡が発見されたことである。それが安徽省人字洞(200~240万年前),重慶市龍骨坡,河北省小長梁である。180万年前という年代は,東アフリカで人類が原人に進化した頃にあたり,人字洞の推定年代に至ってはホモ・ハビリスの段階に併行する。この年代における初期人類の存在は,世界の考古学界と人類学界の主流の学説に矛盾するが,それが事実とすれば,原人がユーラシアへ拡散した年代が溯る,あるいはその主人公がホモ・ハビリスなどかもしれないという新たな仮説を提唱することになろう。<BR>(2)モビウス氏が50年前に前期旧石器時代の旧大陸を「ハンドアックス文化圏」と「チョッパー―チョッピング・ツール文化圏」とに分けたモビウス・ラインは存在しない。アジアが属するとされた後者の文化圏は,気候変動が乏しく人類への圧力が弱かったので,文化的に停滞していたと見なされてきた。第四紀学と考古学の研究の進展によって,アジアの気候変動も他の地域と同様に激しかったこと,そしてアジアにもハンドアックスやクリーバーがあることが判明している。<BR>(3)中国では本格的に石刃技法と細石刃技術が始まるまでの3~26万年前頃を中期旧石器時代と考えた方がよい。その開始時期は中期更新世後葉にあたる。その文化的特徴として,丁村遺跡などでは後期アシュール文化の石器の組み合わせの,盤県大洞遺跡ではルバロワ技法の,水洞溝遺跡ではルバロワ技法と初期オーリニャック文化の石刃技法の影響が認められる。このように中期旧石器時代にもユーラシア東西間の人類の移住と文化交流があったのである。
著者
千葉 基次
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.1-24, 1999

1895(明治28)年の"鳥居龍蔵第1回南満州地域踏査"は,支石墓研究の幕開けである。鳥居氏は,析木城の「姑嫂石」という「石室」をヨーロッパでいう"ドルメン"とみなした。現在の卓子形(式),北方式支石墓である。さらに,後年に鳥居氏は朝鮮半島にも踏査をひろげ,現在南方式とも分類される碁盤形の支石墓を認めた。鳥居氏は,卓子形と碁盤形二種の存在と分布の違いを指摘し,そして碁盤形を古式と考えた。一系一統論による支石墓研究は,ここに始まる。以後これは,1960年代末から有光教一,甲元眞之,石光濬氏等の一つの母体から複数の形が生まれると考える一系多統論による研究が提示されるまでの枠組みである。しかし,一系一統論による支石墓研究は,終焉していない。<BR>筆者は,遼東地域の積石墓,土器あるいは青銅器の資料をとおして得た知見をふまえ,朝鮮・韓半島地域では同型の磨製石剣が複数の形態の支石墓に副葬されることから,伝統的研究法に疑問を説いた。それは,卓子形は始めから卓子形であり,南方式・碁盤形は元をたどれば遼東半島地域の積石墓にまで遡れるとの指摘であり,"〓石墓"と名付けた。<BR>本文は,卓子形(式)・北方式支石墓を"支石墓"とする。支石墓は,左右の支石に対し,後支石の位置が分類の要であると考え,後支石を左右支石の小口外側に置く小関屯型と,小口内側に置く興隆型とに分けた。両者は,各々に付加要素を持つ支石墓があり,原型・古式の支石墓の推定,そして複数の形態が並行して作られている可能性の変遷と年代について述べてある。支石墓は,構造を共通にして遼寧省,吉林省,朝鮮・韓半島地域の複数の文化の中で作られたと考えられ,地域分離での論議は適切ではないと考える。共通の文化・社会が存在すると考えるのではなく,共通の原型を持ちながら幾つかの地域文化に作られ,固有化の変遷が示されていると考察した。
著者
時津 裕子
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.105-124, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
25

本研究の目的は,(1)われわれ考古学者に特有の認知のスタイルを,その技能的側面に着目しながら,実験的手法を用いた認知科学的アプローチで解明すること,および(2),(1)の実践が考古学界に果たす貢献について示すことである。(1)については,熟練した考古学者が遺物に対して発揮するすぐれた情報処理(分類・同定,記憶等)能力を"鑑識眼"と呼び,3つの実験を通してその特性を明らかにした。実験1では描画法を用いて考古学的知識構造の性質を分析し,低視覚的属性・非言語的属性がとくに重要な要素であることを解明した。実験2では,被験者が遺物を観察する際の眼球運動をアイカメラを用いて測定し,熟練した考古学者に特有の注視パターンを抽出した。また観察後に行わせた描画再生法による記憶テストの結果と比較することで,観察法と考古学的記憶の内容・精度に密接な関係があることを示した。実験3では実験室を離れ,実験1・2で行った実験をより日常的文脈で確認する目的で,発掘現場で調査活動中の考古学者の認知を対象とした。土層断面を観察し遺構検出を行おうとする被験者の観察行動および注視パターンを,アイカメラによって測定した。また観察後に行わせた描画から,それぞれの被験者の遺構認識の内容を調査し,観察行動と認識内容に相関があることを確かめた。(1)の実証的研究を通して,経験を積むことで体得された固有の認知のスタイルが,考古学的判断(情報処理)の質にどう影響するかが示された。このように研究主体の認知特性について正しい認識ををもつことで,より洗練された方法論の開発や効果的教育法を生む可能性が高まる。その一方でさらに重要な意義として,われわれの意識改革を促進する効果があることを指摘し,それが旧石器捏造事件以降混迷を深める状況の中で,考古学全体の発展にとっていかに有益であるかに言及した。
著者
小笠原 好彦
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.13, pp.49-66, 2002

古墳時代には,各地の首長が首長権を執行する居館を構築した。この居館に建てられた建物と深い関連をもって描かれたとみなされるものに奈良県佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡がある。この鏡には,高床住居,平地住居,竪穴住居,高床倉庫の4種の建物が描かれている。このうち高床建物には露台と衣蓋,樹木が描かれており,ほかの建物と同じく屋根上に2羽の鳥を表現する予定であったと想定され,中国の漢代の武氏祠などに描かれた昇仙図の楼閣建物の系譜を引く可能性が高く,首長がほかの3つの建物とともに,他界後に神仙界でかかわる建物として描かれたものと推測される。<BR>一方,首長居館に設けられた囲繞施設に関連するとみなされる形象埴輪に,囲形埴輪がある。この埴輪の用途には壁代,稲城など諸説がだされており,居館の塀と門を表現したものとみなす考えを提起してきたが,なお明らかでなかった。しかし,近年,兵庫県行者塚古墳,三重県宝塚1号墳,大阪府心合寺山古墳などから古墳に配置された状態で見つかっており,中に木槽樋型土製品,井筒型土製品と家形埴輪が置かれていたことが判明した。このうち木槽樋型土製品は奈良県南郷大東遺跡,纏向遺跡,滋賀県服部遺跡などから検出されている木槽樋遺構を模したものとみなされるので,浄水施設を覆った上屋である家形埴輪を囲んだものと推測して間違いないであろう。そして,宝塚1号墳から井筒型土製品を囲んだものも出土していることからみて,これらは漢代の昇仙図に「其の江海を飲む」と書かれているものがあるように,首長が神仙界を訪れた際,飲料水の浄水を欠かすことがないように古墳に置かれたものと推測される。<BR>一方,三重県石山古墳では,東方外区から倉の家形埴輪群とともに4個以上の囲形埴輪が出土しており,これらは昇仙図に「太倉を食する」「大倉を食する」と記されたことと関連をもつ可能性が高く,神仙界で首長が食糧が尽きることのないように置いた倉庫群を警固したものかと思われる。このように,古墳には首長居館と深い関連をもち,しかも黄泉国世界との関連で,副葬品や墳丘に配置されたものが少なくないように推測される。
著者
若林 邦彦
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.35-54, 2001

弥生時代中~後期の大規模集落については,拠点集落・城砦集落・都市など様々な名称が与えられてきた。特に,大阪府池上曽根遺跡の調査成果を初端とした弥生都市論は注目を集めている。本稿では,大規模集落の実態を分析し,複雑化した集落遺跡に関する新たな位置づけを試みた。<BR>分析対象地域としては,大阪平野中部を取り上げ,このうち弥生時代中期に連続的に集落遺跡が形成される,河内湖南岸遺跡群,平野川・長瀬川流域遺跡群・河内湖東岸遺跡群の3領域について,各時期の居住域・墓域の平面分布の変化を検討した。その結果,大規模集落・拠点集落と言われてきた領域では,径100~200m程度の平面規模の居住域に方形周溝墓群が付随した構造が複数近接存在し,小規模集落といわれていた部分はそのセットの粗分布域と認識できた。<BR>この居住域は竪穴住居・建物が20~50棟程度の規模と推測され,単位集団・世帯共同体論で想定された集団の数倍以上となる。本稿では,これを「基礎集団」と仮称した。基礎集団は,小児棺を含む複数埋葬という家族墓的属性をもつ方形周溝墓群形成の母体と推定されることから,血縁関係を結合原理としていたと考えられる。また,この集団は水田域形成の基盤ともみられる。本稿では,基礎集団を,集落占地・耕作・利害調整上の重要な機能を果たす人間集団と位置づけた。<BR>基礎集団概念にもとづけば大規模集落はその複合体と考えられ,近畿地方平野部において環濠と呼ばれている大溝群も集落全体を囲むものとは考えられない。また,大規模集落内では,近接する基礎集団間関係が複雑化し,それが方形周溝墓群内外にみられる不均等傾向をもたらしたと考えられる。さらに,池上曽根遺跡における既往の分析によれば,近接する各基礎集団間には一定程度の機能分化傾向も読み取れ,大規模集落内外に基礎集団相互の経済的依存関係が醸成されていたことが注目される。また,同様の特徴は西日本における他地域の大規模集落にも認められる。<BR>以上の特徴を前提とすれば,大規模集落に対し,経済的外部依存率の低い自給的農村としての城砦集落と定義するのは難しい。また,基礎集団が血縁集団的性格をもつことは,都市と定義づけるにはそぐわない居住原理の内在を大規模集落に想定せざるを得ない。このことから,本稿では弥生時代の大規模集落を農村でも都市でもない「複合型集落」という概念でとらえ,社会複雑化のプロセスを考察することを提案する。