著者
豆谷 和之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.10, pp.107-116, 2000

唐古・鍵遺跡は,奈良盆地のほぼ中央,奈良県磯城郡田原本町に所在する弥生時代の代表的な環濠集落である。多重に巡る環濠は東西,南北ともに長さ約600mにおよぶ。遺跡の占有面積が,約30万m2の日本最大級の弥生集落である。1999年1月27日には,国史跡に指定された。発掘調査は,1936年の第1次から今日の第78次におよぶ。特に第1次は,唐古池の池底より多数の木製農耕具が出土し,弥生時代が初期農耕文化であることを証明した学史的に名高い調査である。今回報告する第74次調査は,遺跡を東西に分断する国道24号線の西側,鍵集落内で1999年7月14日から同年12月25日まで,田原本町教育委員会が実施した。遺物包含層は認められず,同一検出面で弥生時代前期から庄内期,中世および近世の遺構を検出した。唐古・鍵遺跡内部としては遺構の分布密度が低い。柱穴は少なく,木器貯蔵穴や井戸といった大型の土坑が遺構の大半を占める。このなかで,特筆されるのが大型掘立柱建物である。南北棟で独立棟持柱をもち,梁行2間(7.0m),桁行5間以上(11.4m以上)の規模である。また,掘立柱建物の内部となる中央棟通りにも柱穴があることから,総柱型になると考えられる。残存する柱根の直径は約60cmであった。柱底面と柱穴底には間があり,木片層あるいは棒材が敷き詰められていた。木片には加工痕があり,木柱加工時のチップを利用したものと考えられる。この大型掘立柱建物の年代は,遺構の切り合い関係や出土土器から,弥生時代中期初頭に位置づけられる。その年代は,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物としても総柱型としても最も古いものである。弥生時代中期初頭の唐古・鍵遺跡は,大環濠を巡らす以前で,北・南・西の三居住区に分かれていたと想定されている。第74次調査地は,その西地区の中央付近にあたる。西地区は,遺跡内でも比較的古い前期弥生土器が遺構に伴って見つかっており,いち早く集住が進んだ地区と考えられている。おそらく,大環濠成立以前の唐古・鍵遺跡における中枢的役割をもっていたのだろう。その西地区中央部で,大環濠成立以前の大型掘立柱建物が検出されたことは意義深い。
著者
馬場 伸一郎
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.24, pp.51-73, 2007-10-10 (Released:2009-02-16)
参考文献数
184

弥生時代の石器生産・流通論はその開始からその後の変化に分析の視角が集中する一方で,生産・流通出現前段階にある物資の流通との関連性については必ずしも充分な研究がなされているとは言えない。本稿の分析地域とした中部高地(長野・山梨県域)の特に長野盆地南部では弥生中期後葉以後,特定遺跡において労働力を集約化した石器生産と流通と,日本海沿岸地域からの玉類の流通が明瞭である。一方,縄文時代から弥生時代中期後葉の間には黒曜石石材の流通が認められる。それ故,異種の物資流通を比較検討するのに中部高地は格好の地域である。しかし,弥生時代の黒曜石研究では,原産地の利用実態,石材中継集落の有無,原産地遺跡と消費地遺跡の石材流通上の関係等,多くの事柄が未解明であり,石材流通の実態を復元することがまず必要である。それを本稿の目的とした。分析の結果,(1)弥生中期後葉栗林期に原産地組成に明瞭な変化があり,諏訪星ケ台系の石材に加え,和田和田峠系の石材が一定量組成すること,(2)弥生中期後葉は原産地組成が変化する時期であると同時に,佐久盆地の例が示すように原産地組成が遺跡単位で多様化する時期であること,(3)弥生中期後葉の消費地遺跡では諏訪星ケ台系・和田和田系の双方の石材が搬入され,その大半は集落内の石器製作で消費されていること,(4)弥生中期後葉には,屋外石材集積例の欠落,石材の小形化,石材出土量の減少が認められること,(5)弥生中期後葉には原産地遺跡と消費地遺跡の間に石材中継集落が認められないことが判明した。このように変化の画期の多くは弥生中期後葉に集中し,当該期は原産地での石材採掘活動を含む「集団組織的石材獲得・流通システム」が欠落しているとした。弥生中期後葉の栗林期は水田稲作を基幹生業とする社会変動期であり,大規模集落の形成・遺跡数増加・特定遺跡で労働力を集約した手工業生産にそれは象徴される。そうした社会変動と黒曜石石材の流通の変化は無関係ではなく,管玉・勾玉・磨製石斧といった交換財が新たに登場したことで,互酬性的な集団関係維持のための交換財であった黒曜石石材はその役目を終えたと考えた。
著者
吉田 泰幸
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.22, pp.109-126, 2006

中国古代の玉器であるけつに似ていることからけつ状耳飾と呼ばれている装身具の主な装着方法には,異なる二説が存在する。ひとつは,従来どおりの,形態と民族誌を根拠にした,耳朶に穿孔した孔にはめ込み,切れ目を下にして垂下させる装着方法である。もうひとつは,切れ目の部分で耳朶を挟み込む方法である。後者に関しては,土肥孝氏が説く,縄文時代の装身は「死者の装身」から「生者の装身」へ移り変わるという体系的理解においても重要な役割を果たしている。<BR>本稿はこの二説のうち,どちらをとるべきか,という問題を検討した。その際の検討方法は,けつ状耳飾の土壙出土状態の検討と形態学的検討である。土壙出土状態の検討においては,人骨頭部,または想定される頭部に対する切れ目の方向に着目した。形態学的検討においては,土製けつ状耳飾を重要視した。その結果,従来想定されていたとおり,切れ目を下にして垂下させる装着方法が妥当であるとの結論に達した。<BR>その結果,土肥氏のモデルに替わる,装身の性格の変化についての考察が求められることとなった。石製けつ状耳飾の地理的分布は東アジア全般におよび,装着者の性別は男女ともみられることが一般的なようである。後続する土製けつ状耳飾は,東日本領域に地理的分布が狭まる。土製けつ状耳飾を媒介して,石製けつ状耳飾から変化したと考えられる土製栓状耳飾は,引き続き東日本領域に地理的分布が制約され,装着者の性別は,共伴人骨および人面装飾付深鉢形土器にみられる耳飾表現との一致から,女性と考えられる。これらのことから,けつ状耳飾は一貫して「生者の装身」具であり,その性格は男女とも用いるものから,人面装飾付深鉢形土器が顕著に示す,シャーマン的存在である女性の装身具として,土製けつ状耳飾を介して変化していくと想定した。
著者
下大迫 幹洋
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.13, pp.131-142, 2002-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
43

平野2号墳は,奈良盆地の西部,奈良県香芝市平野地区に所在する復元推定直径約26m,高さ約6.5mの円墳である。江戸時代以降,石室は埋没しており,現代まで石室の有無や形態等の詳細は不明であった。今回報告するのは,平成12年7月11日から平成13年3月30日にかけて香芝市二上山博物館が平野2号墳第2次調査として実施した横穴式石室内部の発掘調査の概要報告である。石室内は,中・近世頃に盗掘を受けており,顕著な副葬品等は検出されなかったが,石積技法や石室の形態,採集遺物等から7世紀中頃に築造された古墳と考えられる。平野2号墳の横穴式石室は,基本的に羨道・玄室ともに花崗岩の巨石を縦位に使ってほぼ垂直に立てて構築していることが特徴的であり,玄室の床面中央部に土で構築した土台を棺台基礎として設け,玄室の床面全面に二上山の産出する凝灰岩の切石を敷き詰めた横穴式石室としては前例のない墓室構造を持つ古墳であることが判明した。玄室の棺台基礎の上面には土師質の〓と棺の受台で構成した棺台を設置し,棺の受台の中に木棺等の有機質の棺を安置していたものと考えられ,棺の埋葬方法としても特異な埋葬形態を推定するに至った。二上山の産出する凝灰岩の切石で構築した石室や玄室内への棺台の設置は,7世紀中頃以降の横口式石槨を主体部とする飛鳥地域の終末期古墳に盛行する墓室構造の一つであり,平野2号墳の墓室構造は,その先駆形態として飛鳥時代の古墳を考えるうえで極めて重要な資料になるものと思われる。
著者
下大迫 幹洋
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.13, pp.131-142, 2002

平野2号墳は,奈良盆地の西部,奈良県香芝市平野地区に所在する復元推定直径約26m,高さ約6.5mの円墳である。<BR>江戸時代以降,石室は埋没しており,現代まで石室の有無や形態等の詳細は不明であった。<BR>今回報告するのは,平成12年7月11日から平成13年3月30日にかけて香芝市二上山博物館が平野2号墳第2次調査として実施した横穴式石室内部の発掘調査の概要報告である。<BR>石室内は,中・近世頃に盗掘を受けており,顕著な副葬品等は検出されなかったが,石積技法や石室の形態,採集遺物等から7世紀中頃に築造された古墳と考えられる。<BR>平野2号墳の横穴式石室は,基本的に羨道・玄室ともに花崗岩の巨石を縦位に使ってほぼ垂直に立てて構築していることが特徴的であり,玄室の床面中央部に土で構築した土台を棺台基礎として設け,玄室の床面全面に二上山の産出する凝灰岩の切石を敷き詰めた横穴式石室としては前例のない墓室構造を持つ古墳であることが判明した。<BR>玄室の棺台基礎の上面には土師質の〓と棺の受台で構成した棺台を設置し,棺の受台の中に木棺等の有機質の棺を安置していたものと考えられ,棺の埋葬方法としても特異な埋葬形態を推定するに至った。<BR>二上山の産出する凝灰岩の切石で構築した石室や玄室内への棺台の設置は,7世紀中頃以降の横口式石槨を主体部とする飛鳥地域の終末期古墳に盛行する墓室構造の一つであり,平野2号墳の墓室構造は,その先駆形態として飛鳥時代の古墳を考えるうえで極めて重要な資料になるものと思われる。
著者
西田 泰民
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.89-104, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
27

考古学の初歩として,土器の用途は器形から説明されることが多く,また器形の分類方法についての基準案も提案されてきた。果たして,器の名称によってイメージされる形態にどの程度のバリエーションがあるのかを知るために,こころみに少しずつ器形を変化させたカードを作成し,かめ・つぼ・さら・わんを判別させるアソケートを行ってみた。その結果考古学を学んだ者とそうでない者,また性別や年代別で差が見られた。数は多くないが,民族誌調査による器形と用途についての考察を参照すると,器形と器形の名称およびその用途は一致しないことが少なくない。また土器をどのように認識・分類するかは,日頃どの程度土器に接するか,さらに社会的ステータスによっても異なることが知られる。器形のみからの用途の類推やその妥当性は分析者の文化的・社会的背景に多く依存することはいうまでもない。したがって,器形の分類はシステマティックであることは,考古学分析の上で要求されるが,あくまでそれは考古学的分類であって,使用者の分類とは異なる。それを根拠に用途論に展開させるのは適当でないということであり,方法上の限界を認識していなければならない。
著者
小笠原 好彦
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.13, pp.49-66, 2002-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
32

古墳時代には,各地の首長が首長権を執行する居館を構築した。この居館に建てられた建物と深い関連をもって描かれたとみなされるものに奈良県佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡がある。この鏡には,高床住居,平地住居,竪穴住居,高床倉庫の4種の建物が描かれている。このうち高床建物には露台と衣蓋,樹木が描かれており,ほかの建物と同じく屋根上に2羽の鳥を表現する予定であったと想定され,中国の漢代の武氏祠などに描かれた昇仙図の楼閣建物の系譜を引く可能性が高く,首長がほかの3つの建物とともに,他界後に神仙界でかかわる建物として描かれたものと推測される。一方,首長居館に設けられた囲繞施設に関連するとみなされる形象埴輪に,囲形埴輪がある。この埴輪の用途には壁代,稲城など諸説がだされており,居館の塀と門を表現したものとみなす考えを提起してきたが,なお明らかでなかった。しかし,近年,兵庫県行者塚古墳,三重県宝塚1号墳,大阪府心合寺山古墳などから古墳に配置された状態で見つかっており,中に木槽樋型土製品,井筒型土製品と家形埴輪が置かれていたことが判明した。このうち木槽樋型土製品は奈良県南郷大東遺跡,纏向遺跡,滋賀県服部遺跡などから検出されている木槽樋遺構を模したものとみなされるので,浄水施設を覆った上屋である家形埴輪を囲んだものと推測して間違いないであろう。そして,宝塚1号墳から井筒型土製品を囲んだものも出土していることからみて,これらは漢代の昇仙図に「其の江海を飲む」と書かれているものがあるように,首長が神仙界を訪れた際,飲料水の浄水を欠かすことがないように古墳に置かれたものと推測される。一方,三重県石山古墳では,東方外区から倉の家形埴輪群とともに4個以上の囲形埴輪が出土しており,これらは昇仙図に「太倉を食する」「大倉を食する」と記されたことと関連をもつ可能性が高く,神仙界で首長が食糧が尽きることのないように置いた倉庫群を警固したものかと思われる。このように,古墳には首長居館と深い関連をもち,しかも黄泉国世界との関連で,副葬品や墳丘に配置されたものが少なくないように推測される。
著者
河上 邦彦 泉 武 宮原 晋一 卜部 行弘 岡林 孝作 名倉 聡
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.95-104, 1999

黒塚古墳は奈良盆地の東南部,奈良県天理市柳本町に所在する全長約130mの前方部を西に向けた前方後円墳である。周辺一帯には多数の前期古墳が集中して分布し,大和古墳群と呼ばれる。1997年8月~1998年5月,1998年7月~1999年2月にかけて,奈良県立橿原考古学研究所・天理市教育委員会を主体とする大和古墳群調査委員会によって学術発掘調査が実施された。埋葬施設は後円部中央に南北に設けられた内法長約8.3mにおよぶ大規模な竪穴式石室である。石室石材は川原石と大阪府柏原市に産出する芝山玄武岩・春日山安山岩板石を使用する。石組の排水溝を備えているほか,石室の構築にあたっては前方部に向かってのびる切り通し状の作業道(墓道)を設けていたことが判明した。石室内におさめられていた木棺は,クワ属の巨木を使用した長さ6.2m,最大直径1mを超える割竹形木棺である。中世に大規模な盗掘を受けているが,それ以前に石室が大きく崩壊していたことが幸いし,盗掘は基本的に石室床面付近にはおよんでいない。結果として,副葬品の大半は後世の撹乱を免れ,奇跡的に埋葬当時の状況をとどめていた。副葬品は三角縁神獣鏡33面,画文帯神獣鏡1面のほか,大量の鉄製武器・武具・農工具類など豊富である。三角縁神獣鏡33面はすべて舶載鏡で,鏡式の上では三神三獣鏡を含まず,現在までに知られる最古の組み合わせである。7種15面の同笵鏡を含み,京都府山城町椿井大塚山古墳出土鏡との間に10種の同笵鏡を分有する。棺内副葬品は画文帯神獣鏡1面と若干の刀剣類のみで,それら以外はすべて木棺と石室壁体との隙間に置かれていた。また,三角縁神獣鏡はいずれも木棺側に鏡面を向け,西棺側に17面,東棺側に15面,棺北小口に1面を,棺の北半部をコの字形に取り囲むように配列していた。前期古墳の豊富な副葬品の内容と,副葬時の配列方法が具体的に判明する貴重な資料である。同時に,作業道(墓道)・排水溝の存在や石室壁体の構築状況,副葬品の配列状況などから,古墳祭祀の具体的復元に向けての良好な資料が得られた。築造時期は古墳時代前期前半と考えられる。
著者
前川 要
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.51-72, 2005

近年,都市史研究の分野では,前近代における日本都市の固有な類型として,古代都城(宮都)と近世城下町が抽出され,これらを現代都市と対峙させ「伝統都市」と位置づけることによって,新たな都市史の再検討がはじまりつつある。本稿では,こうした方法を念頭に置きながらも,都城にも城下町にも包摂されない日本固有の都市類型として,中世の「宗教都市」を具体的な発掘調査事例に基づいて分析しようというものである。そして近江における「湖東型」中世寺院集落=「宗教都市」を,戦国期城下町・織豊系城下町などとならんで近世城下町へと融合・展開する中世都市の一類型として位置づける必要性を主張するものである。<BR>特に,「都市考古学」という立場に立ち集落の都市性を見ていくという観点から,V.G・チャイルドの10個の都市の定義の要素のうち,3つの要素(人口の集中,役人・工匠など非食料生産者の存在,記念物・公共施設の存在=直線道路)に着目して中世近江の寺院集落の分析をした。その結果,山の山腹から直線道路を計画的に配置し,両側に削平段を連続して形成する一群の特徴ある集落を抽出することができた。これを,「湖東型」中世寺院集落と呼称し,「宗教都市」と捉えた。滋賀県敏満寺遺跡の発掘調査成果を中心に,山岳信仰および寺院とその周辺の集落から展開する様相を4っの段階で捉えた。また,その段階の方向性は直線道路の設定という例外はあるものの,筆者が以前提示した三方向性モデルのうちII-a類に属すると位置づけた。<BR>そして,特に4つの段階のうちIII期を「湖東型」中世寺院集落の典型の時期と捉え,その形成と展開および他地域への伝播を検討してその歴史的意義を検討した。その結果,この都市計画の技術や思想が,北陸の寺内町や近江の中世城郭やさらには安土城に採用された可能性を指摘した。その成立時期については,佐々木六角氏の観音寺城や京極氏の上平寺城の事例を見ると,武家権力が山上の聖なる地を勢力下において「山上御殿」が成立してくる時期とほぼ一致すると考えた。<BR>日本都市史においては,中世都市のひとつの類型として,「宗教都市」を挙げることができるが,特に「湖東型」中世寺院集落は,個性ある「宗教都市」の一つとして重要な位置を占める。それは,戦国期城郭へ影響を与えたのみならず近世城下町へ連続する安土城の城郭配置や寺内町吉崎の都市プランに強い影響を与えたことが想定できるからである。
著者
河上 邦彦 泉 武 宮原 晋一 卜部 行弘 岡林 孝作 名倉 聡
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.95-104, 1999-05-14 (Released:2009-02-16)

黒塚古墳は奈良盆地の東南部,奈良県天理市柳本町に所在する全長約130mの前方部を西に向けた前方後円墳である。周辺一帯には多数の前期古墳が集中して分布し,大和古墳群と呼ばれる。1997年8月~1998年5月,1998年7月~1999年2月にかけて,奈良県立橿原考古学研究所・天理市教育委員会を主体とする大和古墳群調査委員会によって学術発掘調査が実施された。埋葬施設は後円部中央に南北に設けられた内法長約8.3mにおよぶ大規模な竪穴式石室である。石室石材は川原石と大阪府柏原市に産出する芝山玄武岩・春日山安山岩板石を使用する。石組の排水溝を備えているほか,石室の構築にあたっては前方部に向かってのびる切り通し状の作業道(墓道)を設けていたことが判明した。石室内におさめられていた木棺は,クワ属の巨木を使用した長さ6.2m,最大直径1mを超える割竹形木棺である。中世に大規模な盗掘を受けているが,それ以前に石室が大きく崩壊していたことが幸いし,盗掘は基本的に石室床面付近にはおよんでいない。結果として,副葬品の大半は後世の撹乱を免れ,奇跡的に埋葬当時の状況をとどめていた。副葬品は三角縁神獣鏡33面,画文帯神獣鏡1面のほか,大量の鉄製武器・武具・農工具類など豊富である。三角縁神獣鏡33面はすべて舶載鏡で,鏡式の上では三神三獣鏡を含まず,現在までに知られる最古の組み合わせである。7種15面の同笵鏡を含み,京都府山城町椿井大塚山古墳出土鏡との間に10種の同笵鏡を分有する。棺内副葬品は画文帯神獣鏡1面と若干の刀剣類のみで,それら以外はすべて木棺と石室壁体との隙間に置かれていた。また,三角縁神獣鏡はいずれも木棺側に鏡面を向け,西棺側に17面,東棺側に15面,棺北小口に1面を,棺の北半部をコの字形に取り囲むように配列していた。前期古墳の豊富な副葬品の内容と,副葬時の配列方法が具体的に判明する貴重な資料である。同時に,作業道(墓道)・排水溝の存在や石室壁体の構築状況,副葬品の配列状況などから,古墳祭祀の具体的復元に向けての良好な資料が得られた。築造時期は古墳時代前期前半と考えられる。
著者
間宮 正光
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.131-148, 2004

能登半島には鎌倉で確認される「やぐら」と類似した中世石窟が分布する。本稿の目的は,それらの集成を行いつつ「やぐら」と比較検討し,その発生を促した歴史的要因の考察にある。<BR>能登半島では,横穴墓の再利用や可能性のあるものを含めると、5ヶ所において石窟が確認される。造営の時期は,14世紀第2四半期から15世紀代で,"都市鎌倉"が隆盛する時期の遺構はなく,我が国における石窟造営の末期になり造られている。<BR>構造においては「やぐら」との相違は認められず,両者が極めて類似する遺構と判断されたが,内部施設及び埋葬施設を分析すると,同規模の「やぐら」に比べて石窟内施設の充実や外側入口上部の妻入り屋根形に代表される装飾性が明らかとなった。<BR>造営者については,石窟の分布が密教系寺院及び禅宗系寺院(臨済禅)の勢力地に位置する傾向があり,「やぐら」と石窟は基本的に同一の遺構であることからも律宗系あるいは臨済禅の人々の関与が想定できる。全体に造営数は少なく葬送観念を共有する集団の存在を暗示しており,特に臨済宗が教線をはる富山県氷見市周辺にまとまりをみせることは示唆的である。<BR>能登半島における石窟造営の歴史的要因を見通すと,この地域における石窟が主として鎌倉幕府崩壊後にみられることから,真言宗勢力が弱まり,禅宗(曹洞宗),更には浄土真宗の影響が浸透していく状況で,律宗や臨済禅などの南宋文化を引き継いだ人々の教線の強化,あるいは新たな展開を模索した結果であり,津・浦を媒体とする広域的な交通路を背景に,鎌倉地域で隆盛した「やぐら」の葬制を基調として成立したと考えた。そして,「やぐら」が寺院と密接な関係にあり総合的な宗教空間を構成するのに対して,能登半島では装飾性と機能を充実させることで石窟毎に一っの宗教的空間の創出を意図したところに,この地域における中世石窟の様相がうかがわれる。
著者
友廣 哲也
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.16, pp.71-91, 2003-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
128

群馬県域の遺跡からは弥生時代終末から古墳時代前期にかけて多数の外来土器が出土する。このため群馬県域における古墳時代の成立は外からのインパクト・圧力によるところが大きいとされている。1952年群馬県太田市石田川改修工事で偶然発見された土師器の中に,当時は出自が分からなかったS字状口縁台付甕が含まれていた。発見当初より群馬県内の土師器は,どこかから分からないが人が土器を持って移動してきたと考えられてきた。その後S字状口縁台付甕が東海に出自を持つことが分かってからは,東海地方の人々が集団で移動してきたとされるようになった。これが現在県内では大多数の支持を受けている入植民説である。そして最初の入植の候補地には,東海様式にいち早く変換したことを理由に,高崎市井野川流域が比定されている。入植民説に従えば東海の人々はなぜ群馬県域を目指したのか,どのくらいの人が来たのか,入植民と在地の人々との軋轢は無かったのか,さらに当時の群馬に住んでいた人々の社会・文化は壊滅・崩壊したのか等々の問題を解決しなければならない。しかし,一方外来土器の出土することを人の移動に連動させないする解釈もある。交易や交流によって様々な地方の土器が行き来した結果と考える解釈である。外来土器が出土する現象は,弥生時代終末期から古墳時代前期に限った特徴では無く,たとえば沖縄の貝が九州や北海道でも確認される事例や,古墳時代後期の土器が他地域で確認される例もあり,時代を限らず交易や交流の存在を指摘されるものも少なくない。したがって筆者は外来土器の出土が即ち人の移動に連動するという理解では無く,交流があったとの視点で理解したいと考えている。群馬県内では弥生時代中期の遺跡から多くの外来土器が出土する。そのような遺跡は低湿地に占地し,水田耕作を開始したと考えられる遺跡である。その中には弥生時代中期から古墳時代へと途切れることなく継続する遺跡も少なくない。そうなれば入植民説では説明できない。そこで筆者は外来土器が出土することは,外来の文化との接触・交流があったとの視点に立ち,再度弥生時代終末から古墳時代前期にかけての遺跡を検討したいと考えている。井野川流域には東海からの入植地とされ東海の土器様式を持つとされる多くの遺跡がある。その中で弥生時代中期に始まり古墳時代へと継続した新保遺跡(大量の土器・木器・骨角器を出土している)を取り上げ交流の視点から検討をしたい。
著者
中村 五郎
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.53-70, 2002

(1)法薬尼が高野山奥之院に造営した経塚(以下,高野山奥之院経塚という)の特色は,第一に女性が造営した経塚からきわめて高い水準の埋納品を発見し,第二に空海の加護で将来,弥勒菩薩の出現に会って仏の恩恵にあずかることへの強力な願望,第三に涅槃思想の存在である。筆者は法薬尼を堀河天皇の中宮篤子内親王と考え,造営の目的は天皇の追善で,中宮が崩御する直前に埋経した。<BR>まれに見る弥勒信仰の高揚は,天皇を追慕する人々が弥勒菩薩の出現の暁に天皇と再会したいという特異で熱烈な目的があったと推測する。中宮は熱心な仏教徒で民衆の仏教思想も受容していた。<BR>(2)経塚の造営者は通常その身元が判らないことが多く,また,造営者達の信仰が把握できない場合も少なくない。その一方で,経塚全体からみるとごく少数例だが藤原道長・同師通・白河院(上皇)のように膨大な情報量を持つ人物の経塚造営もある。高野山奥之院経塚の法薬尼を堀河中宮(以下,中宮という)としたことで一例追加された。経塚造営という習俗の始まりは道長の金峯山での埋経にあり,これら4人は当時の最上流の人々で,道長のみは数十年間遡るが,他の3人の間には近親関係がある。政治権力が集中した道長と白河院とに現世肯定的な思想があるが,とくに,中宮の場合には対照的に現世否定的な思想が明らかで民衆の間の信仰が最上流に波及したもので興味深い。<BR>(3)比叡山で活躍した最澄は人はすべて成仏できると主張し,道長の曾祖父・祖父は天皇家との婚姻関係を軸に政治権力を強化し,同時に比叡山を財政的に援助して聖職者への影響力を強めた。そして,彼ら摂関家の政治権力は道長の時期に絶頂に達し,道長は比叡山の信仰を基に経塚を造営した。摂関政治に反発した天皇家側は,後三条天皇の時期に権力を奪いかえし,次代の白河院は道長と同様に金峰山に埋経し,その後は熊野詣に熱心で,孫の鳥羽院も熊野詣で納経していた。<BR>(4)経塚造営を含めた浄土信仰や涅槃思想などは,主に聖が布教して成長する民衆の間に広まった。<BR>京都周辺の聖の行動範囲は洛北などの聖地を本拠に,叡山・南都などの本寺と京都の信者の間を往復した。広域的な聖の行動範囲では京都と荘園,あるい同一領主の荘園間の交流を利用した例もある。これらの思想・信仰は,社会階層でも地域的にも広まりを見せてやがて鎌倉仏教を成立させた。
著者
小林 謙一
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.10, pp.1-24, 2000-10-04 (Released:2009-02-16)
参考文献数
59

縄紋土器,特に関東地方縄紋時代中期の土器は,その多彩な文様装飾によって知られている。その中でも,端正な五領ケ台II式,立体的で様々な装飾を華美に重ねる勝坂3式土器,画一化し次第に装飾要素を失っていく加曽利E式土器など,様々な顔を持っている。それらの特徴を捉え型式内容を解明する努力は,土器文化の時空間的整理や系統性を理解する上でも,またそれらの物質文化を生み出した縄紋人の精神性,土器製作の技術,装飾に対する認知を探る上でも,興味深い題材を与えてくれるものであり,現に多くの研究が重ねられてきた。本稿では,土器装飾の施文過程を,文様のレイアウトを中心に,模式図的に整理する。特に,割付の施文過程の規則性と実際の施文実行結果の正確さ,または予定された区画数や割付位置との違いとして現れる「ゆらぎ」を,区画数,割付角度,口縁・胴部の一致の度合いなどをみることで検討する。その結果,時期ごとに主流となる区画数,割付タイプが存在し,各土器文化における基準が存在することが確認される。同時に,各時期に基準から若干はずれるような割付の狂った土器も製作されている。五領ケ台式土器~勝坂2式土器は,口縁・胴部文様がともに4単位で構成され,比較的正確な割付がなされる割付タイプaが多い。勝坂3式から加曽利E1式土器は,変則的な割付タイプbなどがめだち,区画も2~6区画と多様で,3単位や5単位といった複雑な構成でも比較的正確に割付されるものがある。加曽利E3・4式土器の胴部文様は,ほぼ等間隔に成り行きに施文される割付タイプdが大半を占めるようになり,胴部文様は7~10以上の柱状区画が連ねられる構成となる。割付ポイントの角度や区画の長さを測定した結果から,五領ケ台式,勝坂式土器ではトンボ状器具や縄などを用いて等角度に割付を行おうとしている傾向が認められる。勝坂3式の縦位区画土器や抽象文を配する土器では,結果としてはダイナミックな文様構成をとっているが,施文前に等角度に割付のマークを付けているものが認められる。加曽利E3・4式土器の胴部文様は,指にょる人体スケールなどを用いつつ,等間隔に施文していく施文過程が復元される。土器割付の検討によって,縄紋土器の施文過程や土器生産システムの復元へとつながるであろう。
著者
板倉 有大
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.21, pp.1-19, 2006-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
80

九州縄文時代前期以降の森林・木材利用システムの変容過程を把握するために,各遺跡出土磨製石斧セットの変異の様相とその通時的な変化を整理した。対象地域は島嶼部を除いた九州島内とし,対象時期は前期・中期・中期後葉~後期前葉・後期中葉・後期後葉~晩期中葉とした。磨製石斧の器種分類に用いた属性は,サイズ・刃部断面形態・成形・基部形態・刃端部使用痕などである。結果は以下の通りである。(1)九州縄文時代前期以降の遺跡出土磨製石斧セットには,沿岸部と内陸部といった遺跡間変異が認められ,その通時的変化が把握できる。そのパターンは,その遺跡で製作された木質遺物,遺跡周辺の植生,生業活動などに関連する可能性が高く,生業・居住様式に内包される森林・木材利用の適応過程を反映すると考えられる。(2)前期までは,沿岸部遺跡出土の磨製石斧セットが多様であるのに対し,中期後葉には,沿岸部だけでなく内陸部出土の磨製石斧セットの変異も大きくなる。これは前期の沿岸部中心の生業・居住活動から中期以降徐々に内陸部での生業・居住活動の比率が高まる現象を反映している。(3)また,このような変化は,伐採用石斧が前・中期までの扁平大型石斧から,中期後葉~後期前葉に東日本系の乳棒状石斧へと変化する現象や後期中葉に九州南部で方柱状ノミ形石斧が普及する現象などと並行して起こっている。九州縄文時代中期以降の内陸部への居住拡大は,人口増加や中期冷涼湿潤化に伴う沿岸環境の変化などに起因するとともに,積極的な内陸部の資源利用を促したと考えられる。また,そのような生業・居住システムの変容に際して,伐採斧と加工斧の双方に技術レベルでの変化が認められ,九州外からの技術的影響も示唆された。
著者
宮内 信雄 吉田 邦夫 菅沼 亘 宮尾 亨
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.23, pp.89-104, 2007-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
28

胎土に黒色物質を持つ縄文時代中期の土偶を,新潟県十日町市幅上遺跡で発見した。このような黒色物質が土偶胎土に含まれる例は見たことがなく,軟X線とX線CT画像による含有状態の観察,蛍光X線分析,安定同位体分析による材質分析,さらに放射性炭素年代測定を実施し,その由来について分析を行った。分析の結果,(1)黒色物質は胎土全体に均質に含まれていると推測でき,素地土の中に練りこまれていたと考えられる。(2)黒色物質は炭化物である。炭素・窒素安定同位体比では,C3植物の樹木,種実などに相当する値を示しており,C3植物あるいは,C3植物を食料とする草食動物の肉に由来する炭化残存物であると考えられる。(3)黒色物質の放射性炭素年代は,土偶の型式学的分類に基づく編年によって与えられた年代と調和した値を示し,それゆえ,自然堆積粘土に元来含まれていたとは考えにくいことがわかった。素地製作時の黒色物質の状態については,X線CTによる断面画像に黒色物質の大きさほどの空洞が観察されないこと,加熱時の収縮率が高い生の物質を焼成にした際に推測される,素地土と黒色物質との間の隙間がほとんどなく,よく密着していることから,炭化物を混入したものと考えられる。最も大きい含有物であるこの炭化物が製作途中で気付かれないことは考えにくく,しかも,含有物が土偶の胎土全体に均質に混じっている状況は,製作者の何らかの意図があったことを想定させる。祭祀・儀礼の道具とされる土偶は,カタチのみならず素材の選定や調整にまで目配りすることで様式化される観念技術(小林1997)の所産であることを,異物が含まれる土偶や,民俗・民族例を参照することで傍証するとともに,本土偶の胎土に含まれている炭化物についても,このような工程の中にあった可能性を考えた。
著者
太田 宏明
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.15, pp.35-56, 2003-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
109

畿内型石室は,地域的にも階層的にもきわめて広範囲にわたって採用された埋葬施設である。したがって,石室構築技術の伝達という側面から古墳時代後期の集団関係を考察するために重要な資料である。本稿は,畿内型石室の編年を行い,階層間・集団間において石室構築技術が伝播した過程について考察したものである。論を進めるために以下の4つの章を用意した。1章では,研究史の整理を行い問題め提起を行った。2章では,1章で行った問題提起に従い,すべての地域や階層が共有し,共通した変遷をしている部位に注目して分類・編年を行い,畿内型石室の変遷を一系列で理解できることを示した。この中で,1節では,畿内中枢部の大型石室を1から9群に分類し,各群が畿内型石室の変遷過程を示していることを証明した。同じく2節では,各群が畿内各地の群集墳にも認められることを示し,畿内型石室が極めて斉一的な変遷をしていることを述べた。3章では,畿内型石室が広い階層と地域にわたって斉一的に変遷する理由について考察した。考察の結果,畿内型石室は畿内中枢部で共有化された石室構築技術が畿内各地域の群集墳被葬者層に一元的に伝達されることによって斉一的な変遷が起きていることを述べた。最後に,畿内型石室構築技術の一元的な伝達を可能にしたのは,政権中枢をになう氏族と畿内地域の群集墳被葬者層との強固な階層間の紐帯であり,この紐帯が古墳時代後期の畿内地域における階層構造の特徴であると考えた。
著者
岡村 渉
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.13, pp.113-122, 2002-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
10

登呂遺跡は,静岡平野のほぼ中央,静岡県静岡市登呂に所在する弥生時代を代表する稲作農耕遺跡である。太平洋戦争のさなかに発見され,敗戦直後,考古学者だけではなく,建築・地理・自然科学等の研究者も含んだ学際的な発掘調査が4年間にわたって実施された。この組織的な発掘調査は,現代の日本考古学の出発点となり,日本考古学協会の設立の契機となった。この調査の結果,「弥生時代後期の12軒の住居跡と2棟の倉庫跡から構成される集落跡とその南に広がる同時期の灌漑用水路と護岸杭を伴う畦畔で区画された水田跡を検出し」,弥生時代の農村の具体的な景観が導き出された重要な遺跡として,1952年に特別史跡に指定された。史跡指定に並行して史跡公園「登呂公園」として整備された。しかし,1947年の発掘調査から50年以上が経過し,発掘調査で検出した各遺構や登呂遺跡で導き出された弥生時代の農村景観について多くの疑問や再確認の必要性が出てきた。その解決には再発掘調査が必要であった。このため,静岡市教育委員会は1999年から2003年までの5年計画で発掘調査を実施し,調査成果に基づき再整備をしていく予定である。現在は,1947年から1950年に発掘調査された住居跡5軒を中心に再発掘調査を実施し,現在の視点で住居跡やその周囲の遺構を調査し,集落構造を把握し直している。ここまでの調査の結果,遺跡の保存状態は,洪水の砂を除去すれば埋没前の状況が検出できるという良好なものであった。居住域と生産域(水田域)は水路(区画溝1)と付随する土手により明確に区画されていた。居住域内では,層序関係と遺構間の重複関係により大きく下層遺構(前半)と上層遺構(後半)とに二分でき,それらが更に2段階(合計4段階)以上に変遷していくことも確認された。その後,洪水による砂で埋没し,遺跡は終焉を迎えるが,洪水後に再び掘立柱建物跡や溝状遺構が造られ,別の洪水による砂で再び埋没するという複雑な変遷が明らかとなった。住居跡については,新たに3軒以上検出し,構造では,周堤の外側に周溝を検出し,杭列の範囲を住居の範囲とした過去の知見とは異なった住居の範囲を確認した。水田跡では,手畦によって区画された小区画水田を検出した。出土遺物には,弥生土器・石器(石斧・石錘等)・木製品(容器・建築部材等)・金属器(銅釧・小銅環)の他,炭化米・種子類・貝殻等の自然遺物がある。土器には,遺構の変遷に対応する資料が得られ始めている。また,非常に工芸的な槽作りの琴等も出土し,今までの登呂遺跡のイメージは,大きく変化しつつある。【EDN】
著者
森田 克行
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.15, pp.139-148, 2003-05-20 (Released:2009-02-16)

今城塚古墳は,淀川流域に所在する古墳時代後期の大形前方後円墳として知られ,二重の周濠をもち,総長350mを測る古墳の規模から三島古墳群の盟主墳として注目されてきた。また『記紀』や『延喜式』などの史料にある継体天皇の「(三島)藍野陵」に比定されるなど,早くからその重要性が指摘され,昭和33年には史跡に指定されている。しかしながら古墳の実態については,近年まで本格的な調査もおこなわれず,簡便な測量図とわずかに採集された埴輪類のほかには有用な資料も少なくて,永らく「まぼろしの藍野陵」であった。高槻市教育委員会では,史跡整備事業の一環として,平成8年から詳細測量調査並びに規模確認調査を継続的に実施したところ,墳丘,造出,内濠,内堤,外濠について,その形状や規模など様々なデータが得られた。また,あらたに内堤で百数十体にものぼる形象埴輪で構成される大規模な埴輪祭祀区が検出されるなど,多大な調査成果がもたらされた。その一方で,伏見地震や戦国時代の城砦構築による古墳の改変の様子が明らかになるなど,「荒陵」と揶揄された今城塚古墳のベールが漸く剥がされてきた,と言ってよい。継体陵論とのかかわりでは,新池遺跡での調査成果とも相まって,古墳の時期比定の作業がすすみ,太田茶臼山古墳(現継体陵)が5世紀中頃,今城塚古墳が6世紀前半の築造であることがほぼ確定し,今城塚古墳を「藍野陵」とみる可能性はますます高まってきた。今後の調査並びに出土埴輪の整理が進捗し,今城塚古墳の実態が明らかになれば,大王陵の研究に大きく寄与するのみならず,古墳時代の解明にむけても,貴重な定点が得られることにもなろう。