著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.334-298, 2017-03

わが国では1923(大正12)年に世界でも類をみない「中央卸売市場法」が制定された。この法律の制定を受けて、各都市では公設の中央卸売市場が開設される。しかし法律制定から市場開設まで時間を要する。その中で最も早く、1927(昭和2)年に開設されたのは京都市であった。 京都市中央卸売市場に関する先行研究はある。しかし京都市で先駆的に開設が可能となった理由や、公設市場が根付いた理由については明らかになっていない。先駆性の理由については、京都市では他都市と比較して、既存の卸売業者や問屋などの再編が円滑に進んだことがあげられる。これには初代場長となった大野勇をはじめとする京都市役所の貢献があった。公設が根付いた理由は、卸売市場に先行した公設小売市場の設置が大きな役割を果たしたことがあげられる。京都市では都市インフラの整備の一環として、小売市場と卸売市場が位置付けられ、流通機構として整備された。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.298-260, 2022-03-31

わが国では明治期以降、近代的な金融制度が整備されていった。その中で庶民金融は多様な展開を遂げた。しかし、庶民金融に対して公的機関が十分に機能していなかったので、多くの問題を抱えた。本稿は庶民金融のなかで大きな役割を果たした「無尽講」を取り上げ、その展開過程を考察した。無尽講は明治期以前から庶民の間で広範に広がっていた。とくに相互扶助を具現化したものとして知られている。無尽講は近代社会において商品経済の浸透や経済変動の影響を受けた。その過程で、会社形態に移行したものもあったが、現在は無尽講という名称はほぼ消えてしまった。多くの先行研究では無尽講や庶民金融にふれているものの、それらが経済に果たした役割にはあまり言及されていない。さらに相互扶助という精神が、経済に生かされたかどうかはあまり触れられていない。現在、マイクロファイナンスが注目されている。とくに、経済格差が広がるなかで、小口金融が貧困を緩和できるかどうかに注目が集まっている。一方、東アジアには多くの相互扶助組織が機能している。まさにこれらは無尽講にあたるものであり、本稿は、経済格差などの現在の経済問題の改善に何らかの寄与することをめざしている。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.308-268, 2021-03-31

常食と菓子の区別は明確なものではない。和菓子は日常生活における常食という側面ももっていたからである。常食と菓子とを区別しようとすれば、生産者と消費者の認識の違いに依拠しなければならない。したがって、和菓子の歴史を明らかにしようとする場合、菓子自体の展開よりも、菓子屋の変遷を明らかにしなければならない。和菓子に関する先行研究では、和菓子の成り立ちや京菓子の特徴が詳細に考察された。歴史的な史料に基づいて実証的な研究が行なわれてきた。しかしながら、菓子屋とその歴史的背景との関連を記述した研究成果は少ない。本稿では、和菓子の成立過程とともに、和菓子と菓子屋との関係を明らかにした。歴史的には、菓子は西欧や中国から日本に伝来した後に、和菓子として独特の発展を遂げた。明治期になって洋菓子が普及し、「和菓子」という言葉が生まれ、洋菓子と和菓子が区別された。しかし、実際は和洋折衷菓子も多く、菓子も多くの食物と同様、文化的な融合化が進んだ。
著者
鈴木 康久 山崎 達雄
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.89-152, 2021-03-31

京都市民の憩いの場である鴨川は、江戸期の寛文年間に整備された新堤によって空間的な基盤が整ったといえる。この新堤に関する研究は少なく、実態が明らかにされていない。そこで、2018 年に京都産業大学図書館が入手した宝永年間の作成と考えられる「川方勤書」と、表裏一体となる「賀茂川筋名細絵図」の記載に基づき、堤防の整備区間、形状、管理手法について明らかにすると共に、堤防の整備目的について考察した。その結果として明らかになったことは、寛文年間に鴨川の五条橋から上流の両岸に約4200 間の新堤が整備された。その後、洪水の度に西堤は修復を行っていたが、東提は延宝二年と四年の洪水で流失している。そこで、元禄十一年に改修が行われたが、東堤では下鴨領境から下鴨神社の間と、九条殿下屋敷から二条通の間は改修されずに遊水地となっていた。堤防の形状については、西堤の堤防高が2 間に対して、東堤は1 間と洪水が起きた際には東提側に溢れるようにされていたことが明らかとなった。新堤の整備目的は、この遊水地の存在と堤防高の違いなどから、洛中を洪水から守るためと考えられる。さらに、堤防の修復については、修復業務全体を川方が担い、大工方が仕様書を作成し、落札者を奉行所の与力が決める分業体制が整っていたことなど、堤防の整備内容や管理など様々なことが明らかとなり、江戸期における治水行政の一端を知ることができた意義は大きい。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.198-150, 2020-03-31

わが国では高度経済成長期において、食生活や食文化が大きく変化した。日本に限らず、諸外国においても経済成長期に食生活が変化することは、すでに多くの研究で明らかにされている。それは主に穀物中心の食生活から、肉類や蔬菜・果樹などが多くなる食生活に変わると説明されている。さらに、この過程では多種多様な食材が入ってくると説明される。しかし、この説明によって食生活自体の変化はわかるものの、食材を供給している農業との関連がなければ、変化の要因はわからない。つまり、食生活という需要面だけでなく、農業という供給面の変化を関連させて説明する必要がある。 そこで本稿は、高度経済成長期における食生活と農業との関連に注目し、わが国の食生活を含む食文化の特徴を明らかにした。戦後、わが国はアメリカ型食生活の強い影響を受けると同時に、食のインスタント化が進んだ。その一方で、食料不足を解消するために、農業の改良が進み、コメの増産が達成された。これらはほぼ同時並行に進んだ結果、万国博覧会をきっかけとする食のファッション化がもたらされると同時に、コメ余り現象が生じた。そして飽食時代に突入するとともに、再びアメリカの影響によって日本型食生活の見直しが進んだ。これらの動きは、わが国で明治期から続いていた食のフュージョン化が強化されたものといえる。現在、この食のフュージョン化は新たな問題を抱えている。
著者
宮川 康子
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.1-26, 2020-03-31

伊藤仁斎は東アジアの思想基盤であった朱子学を真っ向から批判し、その形而上学的思考の枠組みを解体することで日本思想史に大きな画期をもたらした。しかし従来の研究史においては、仁愛にもとづく人倫世界の道徳を説くヒューマニストとしての側面が強調され、仁斎思想を一つの完結したものとして、その成立過程や思想の特質を論ずる研究が多かった。 本稿は仁斎思想を近世思想史の画期として位置づけ、そこから生まれた啓蒙的合理主義が、一方では一八世紀大坂の懐徳堂へと受け継がれ、また一方では仁斎思想の批判によって徂徠の制度的社会論が成立していく経緯を、主に徂徠学との対比のなかで明らかにした。私はここから無鬼論的社会論と有鬼論的社会論の二つの流れが生まれ、それが近代にまで流れ込んでいると考えている。近代思想史研究が、徂徠学の中に近代的社会統合論を見出しながら、それが仁斎の人倫社会の思想のアンチテーゼとして成立したものであることを見逃してきたのは、端的にいえば近代日本の国民国家の形成が徂徠を源とする有鬼論の系譜につながるものであるからだろう。仁斎思想の歴史的意味を今見直すことはその意味で重要であると考える。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.236-200, 2020-03-31

2013(平成25)年12 月に「和食:日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録された。当初、「会席料理を中心とした伝統をもつ特色ある独特の日本料理」を登録申請するはずであったが、その代わりに「和食」が申請された。和食は会席料理を含む広い概念とされるが、抽象的な概念であるので、具体性に乏しく、曖昧なものである。しかし、多くの研究では、和食と京料理、あるいは和食と日本食の区別が曖昧なまま論じられていることが多い。 そこで本稿は、まず京料理の展開の背景となった京都市域の農業の特徴を明らかにし、食文化との関連性を考えた。京都の独特な食文化の形成は、都市農業の特性が発揮された結果である。現在に至る京料理に影響を与えたのは、会席料理である。無形文化遺産「和食」は会席料理を含み、自然の尊重や年中行事などの日本文化との関連性や、栄養バランスなどの日本型食生活を意識した食文化であるとされている。 しかし、この和食の特徴は歴史的にも地域的にも、全国一律にみられるものではない。日本各地の郷土料理が全国的に普及しているわけではない。このことは、無形文化遺産の登録要件である「国民の間に広く定着している」に抵触する。つまり、和食は具体性をもたせようとすれば、特定できない曖昧な料理になってしまう。あえて和食のイメージを京料理に求めるとすれば、生産地と消費地が同一の都市で生まれた日本型食文化となる。具体的には、長きにわたって育まれてきた「見立て」ないし「もどき」料理、あるいは年中行事の「因み」料理になるであろう。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.24, pp.117-163, 2019-03-25

柳田国男(1875-1962)の民俗学は、著書『海南小記』(1925年刊)をきっかけのひとつとして、最晩年の著書『海上の道』(1961年刊)で終わる。この二つの著書は、いずれも沖縄文化を対象にしていた。さらにこれらの著書の刊行は、第二次世界大戦をはさんでいるので、二つの比較によって柳田の沖縄観や民俗学の変容を明らかにできると考えられる。柳田と沖縄に関する先行研究は数多くあるが、二つの著書の比較、沖縄に関する情報蒐集や研究交流などに言及した研究はほとんどない。 本稿は、柳田が沖縄に関心をもった経緯、沖縄をはじめとする南島研究の展開、研究者の交流、戦後の「日本」と沖縄を意識した柳田の論考、について考察した。『海南小記』の問題意識の多くが『海上の道』に受け継がれたが、その中心を占めるのは「日本民族起源説」をめぐるものであった。しかし、伊波普猷(1876-1947)をはじめとして多くの研究者が唱える南進説に対して、柳田は北進説を貫いた。この問題は現在でも決着をみていない。 『海上の道』では、実証を旨とする柳田には珍しく、多くの仮説を述べている。例証や事実だけを述べる『海南小記』とまったく異なっていたといえる。柳田は「海上の道」研究を民俗学の成果とは位置づけなかった。柳田は、あえてそれまでの民俗学の手法をとらずに、断定的な仮説を述べることによって、他の多くの隣接科学を巻き込んだ南島研究の発展を願ったようである。1 はじめに2 沖縄文化への関心3 南島と研究交流4 沖縄民俗と日本5 結びにかえて
著者
河原田 康史
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.254-214, 2017-03

宮崎友禅斎は、洛東の知恩院門前辺りに居住し、天和~享保(1681~1736)頃に活躍した。友禅斎は「絵扇」で一躍有名になり、その絵模様を「小袖」にも描いた。友禅斎の名前にちなみ、現在では「友禅染」という名称が、広義では「キモノの染物全般」を、狭義では「挿し彩色」を指して用いられることが多い。友禅斎については、生没年や生没地、妻子の存在、加賀友禅との関係などにおいて不明な事柄が多い。 本稿では、北法相宗音羽山清水寺が所蔵する宮崎友禅斎筆「白衣観音図」扁額について論じる。扁額右下には、「奉納者である歌舞伎役者名」と「制作者である友禅斎」の署名がある。「奉納者である歌舞伎役者名」を判読できると、友禅斎が京都で扁額を制作した年号が大方理解できる。 本稿の構成として、最初に研究報告会で発表した内容を基に、「白衣観音図」扁額に関する先行研究について整理する。次に先行研究における私見を述べると共に、扁額右下にある署名を判読するために、扁額の拡大写真を用いて「奉納者である歌舞伎役者名」について考察する。最後に研究報告時に筆者が仮説として立てた「奉納者である歌舞伎役者名」の真偽を検証するため、その後の研究によって新たに明らかになった事柄について考察する。