著者
高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.105-121, 1998-07
著者
Cross Robert クロス ロバート
出版者
同志社大学言語文化学会
雑誌
言語文化 = Doshisha Studies in Language and Culture (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.11, no.4, pp.493-514, 2009-03-10

論文(article)The 2001 Bollywood film Lagaan is a parable of the fall of the British Raj that unfolds in the drama of a cricket match between colonizers and colonized. The protagonist, an Indian villager named Bhuvan, embodies the iconicity of the Indian cricket star Sachin Tendulkar and the nationalist and inter-communal ideology of Gandhi. Set at the end of the 19th century, the deeper discourse of the film constructs an ideal post-Independence 'India' in which Gandhi's ideas, far from dying with his assassination and the horrors of Partition, have been fully implemented in the imagined new order. The fantasy of this Gandhian idyll, however, is problematised by the film's treatment of the non-Hindu minority communities-the Muslims, the Sikhs and the outcaste Dalits-particularly when considered in the broader context of the rise of Hindutva fanaticism and communal violence in present-day India.アカデミー賞にノミネートされたボリウッド映画『ラガーン』(2001)は、19世紀末、植民者のイギリス人と被植民者のインド人との間で行われるクリケットの試合を軸に、ガンジーの理想とした異教徒間の調和を掲げる「インド」が、一人のインド人青年によって建設されていくドラマを描いている。しかし作中の、民族間で団結してイギリスに立ち向かった「インド」においても、非ヒンドゥー教徒のマイノリティに対する描写に問題が存在する。
著者
クロス ロバート
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.575-596, 2008-03

フランスの映画監督ジャン・ルノワールによって映画化されたルーマー・ゴッデンの小説『河(The River)』は、植民地社会に対する西洋帝国主義的態度が再確認できる、インドへの微妙なオリエンタリスト的イメージを有している。本稿では、ルノワールが西洋の観衆向けに用いた手法を分析すると共に、インドに対するイメージを固定化するオリエンタリスト的想定とはどのようなものか検証する。
著者
山本 睦
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.73-100, 2007-08

本稿の主人公は日本のために造られた、19世紀末から20世紀初頭にかけて当時世界最強或いは最速を誇った英国製大型艦船-具体的には軍艦-である。日英関係の産物である、これらの船たちをある社会通念に基づき象徴的機能を持つ「記号」として解釈すれば、或いは複数の記号性の束としての有機的な「テクスト」として解釈すれば、この時代の日英両国間の政治的通商的関係はどのように切り取ることが出来るだろうか。古代ヘルメス思想においても現代の記号論においても共通して、テクストは「開かれた世界」であり、「それを解釈する者は無限の相互関係を発見することが出来る」(エーコ、1993)のであるが、本稿の目的は最終的に「開かれた世界」としての船たちが日英両国にとって持っていた存在の意味を比較的自由に解釈することである。そのためにはある一定の歴史的事実の再検証が必要となり、第1節と第2節はそのために割かれることとなる。第3節はそれにのっとった記号論的考察である。
著者
高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.71-95, 2006-08

本論で扱う叙事演劇的映画は、大友良英が言う「周辺聴取的」音の効果を最大限用いることで、ストーリーが展開するフレーム外に広がる状況全体を提示しようとする。ベンヤミンのバロック演劇と同様、「根本的にレーゼドラマ」として読解される叙事演劇において、「文字的性格」をもつアレゴリーとして捉えられる事物は、異化効果によって自明の文脈から引き剥がされ、驚きとともに発見されるべきものとなる。この異化効果に不可欠な「複合的視線」は、映画において俳優の視線とカメラの視線の二重性として現れるが、パゾリーニによれば、それは、カメラが物語を擬態しつつ、「細部についての、なかんずく、本筋とはあまり関係ないような部分についての異様なまでの固執」を示すことで、その存在を露呈し、それによって映画それ自体を乗り越え、「詩の映画」を出現させることとしてある。つまり、パゾリーニにとって映画は、「もうひとつ別の映画をつくりだすことへの誘い」、映画自体の内部における映画の差異化にほかならない。ゴダールは、このような映画を差異化する「シネマトグラフの力」を、何よりも聴覚的なものに求め、非在の映画と、それを聴取する耳を提示する映画との相関関係として提示する。そこで異化される「周辺聴取的」もの音を、われわれは、はじめて耳にするかのような驚きとともに発見することになるのである。Die sozusagen epischen Filme benutzen die „peripher-akustischen" Elemente des von Yoshihide Otomo behaupteten „nicht-kognitiven Hörens", um den Zuschauer die Zustände entdecken zu lassen. Auch das brecht'sche „komplexe Sehen", das im Kino seine Entsprechung in der Doppelheit vom Blick des Darstellers und der Kamera findet, ermöglicht dem Zuschauer, die Dinge aus ihrem selbstverständlichen Kontext herauszureißen und sie als ein „Geheimnis" entdecken zu lassen. Dabei gibt, nach Pasolini, die Kamera einerseits vom simulierten Standpunkt des Darstellers die Handlung wieder, aber gleichzeitig verrät sie „durch die exzentrische Obsession zu den Einzelheiten", ihre Existenz und lässt „das Kino der Poesie" entstehen. Kino wird so „ein Anlaß zu einem anderen Kino", das sich innerhalb des Kinos differenziert. Bei Godard findet sich eine solche Differenzierung des Kinos in Korrelation zwischen einem vor allem akustisch bestimmten Kino des Nicht-Seins und einem Kino, das bereit ist, seine Aufmerksamkeit auf die leisesten „peripher-akustischen" Töne zu richten. Mit Staunen entdeckt man diese Töne, durch die sich das Kino verfremdet.
著者
Cross Robert
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.11, no.4, pp.[493]-514, 2009-03

The American Academy Award nomination garnered by the Bollywood film Lagaan in 2001 focused worldwide attention on this parable of the fall of the British Raj that unfolds in the drama of a cricket match between colonizers and colonized. The protagonist, an Indian villager by the name of Bhuvan, embodies simultaneously the iconicity of the Indian cricket captain and star batsman Sachin Tendulkar and the nationalist and inter-communal ideology of Mohandas K. Gandhi. set in the closing years of the 19th century, the deeper discourse of the film constructs an ideal post-Independence "India" in which the ideals of Gandhi, far from dying with his assassination and the ethnic cleansing of Partition, have been fully implemented in the imagined new order. The fantasy of this 'post-dated' Gandhian idyll, however, is problematised by the film's treatment of the non-Hindu minority communities-the Muslims, the Sikhs and the outcaste Untouchables (Dalits)-particularly when considered in the broader context of the rise of Hindutva fanaticism and inter-religious violence in present-day india.
著者
諫早 勇一
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.101-119, 2007-08

亡命プラハのロシア文学は、従来スローニムや雑誌『ロシアの意志』が代表と考えられ、ソヴィエト文学志向や若い世代への期待がその特徴とされてきた。ところが、近年これまで公刊されていなかった文書が発表されるとともに、アルフレッド・ベームと彼が率いる文学サークル〈庵〉の役割が再評価されるようになった。本稿はそうした近年の研究を踏まえて、ベームと〈庵〉の活動をロシア亡命文学のコンテクストのなかで捉えなおそうとしたものである。19世紀ロシア文学、とくにドストエフスキイの専門家として知られるベームは、プラハ移住後若い詩人たちの指導者となり、彼らに詩的技巧や言語の大切さを説き、文学の能動的な意義を訴えつづけた。そして、1930年代になっても依然としてソヴィエト文学の優位を主張していたスローニムに対しては、亡命文学が着実な成果を上げていることを説き、心の内面を素朴に表出する「日記的」な詩をよしとするパリのアダモーヴィチに対しては、形式の重要性を訴える論争を積極的に挑んだ。こうした当時の文学状況を振り返るとき、亡命プラハのロシア文学を支えていたのはベームであり、彼の功績は今後さらに検証されなければならない。
著者
窪田 光男
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.89-108, 2011-08

研究ノート(Note)本稿の目的は、LaveとWenger(1991)が提唱する「状況的学習論」を従来の学習観と比較しながら整理することである。状況的学習論の大きな特徴は、学習を所与の知識の吸収と定義することにより、個人の認知過程を観察、分析の第一義とするのではなく、共同体への参加の過程で生じる参加形態の変化やアイデンティティの発達を研究の中心に据え、参加の過程で発生する知識や技能の吸収は付随的なものと考える点である。この学習の概念を第二言語や外国語の学習と関連づけながら検証、考察するとともに、言語の教育、研究に対して状況学習論に基づく新たな視点を提案する。The goal of this paper is to develop new perspectives on education and research through reviewing the concept of situated learning proposed by Lave and Wenger (1991). Specifically, the paper explores the concept in relation to learning a second or foreign language. The new perspective towards learning will influence practices and research in educational settings. This paper examines how teachers' and learners' roles are viewed, how to motivate learners, and how learning materials can be selected and organized under the concept of situated learning in contrast to the traditional view of learning. Based on this examination, the paper discusses possible directions for research under the framework of situated learning.
著者
松木 啓子
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.597-618, 2008-03

本稿は、Brown and Levison(1987)によるモデルに基づき、アカデミック・コミュニケーションにおけるポライトネスの現象に注目する。この問題を考察するに当たって、1980年代のアメリカ文化人類学で有名となった「ミードーフリーマン論争」を取り上げる。デレック・フリーマンが20世紀のアメリカ文化人類学の象徴的存在であった故マーガレット・ミードを批判したことが発端となった同論争をポライトネスの問題から論じ、知識構築を目標とするアカデミック・ディスコースの社会的側面に注意喚起する。
著者
能口 盾彦
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.12, no.1, pp.[65]-84, 2009-08

論文(Article)『ウェールズ・オペラ』とその改訂版『グラブ街オペラ』はフィールディングの初期劇作品で、ロンドン演劇界で十八世紀末まで幕間に演奏された『ロースト・ビーフ讃歌』は、改訂版の第三幕第三場の歌曲である。いずれもウェールズが舞台で、地主一家と召使達が織り成す諷刺を主眼とする喜歌劇と言えよう。市井の下級牧師とは異なる、アプシンケン家付きの牧師に論者が着目したのも、ハノウヴァー王朝ジョージ二世夫妻と時の宰相ウォルポールとの緊密な関係が示唆された為である。特に『グラブ街オペラ』が公演禁止の憂き目を見たのは、 同劇で英国国教会と王室と政界の微妙な関係が、巧妙かつ洒脱にこき下ろされたことで、当局の逆鱗に触れた為であろう。
著者
鈴木 潔
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.2, pp.279-296, 2007-12

E・T・A・ホフマンの『アウトマーテ』という小説は、17、18世紀にヨーロッパで多く作られたからくり人形を題材にした作品である。物語の発端に「喋るトルコ人」という人形がでてきて、この人形に伺いを立てるとお告げをする謎をめぐってストーリーが展開する。人形が人間の運命を透視する謎を二人の若者が追及してゆくが、その過程で当時の様々な自動人形、自動楽器が取り上げられる。二人の推理は人形制作者の何らかの手立てで、未知の世界を覗く霊視者が人形を通じて謎の交信を送っているのではないか、というように進み、物語は、当時これもまた世間の注目を浴びていた動物磁気(催眠術)による魂と魂との不思議な触れ合い、精神の交感というテーマに進んでいく。

1 0 0 0 IR 小説の言葉

著者
古井 由吉
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.4, pp.555-574, 2008-03

ロゴスという観点から、日本近代口語文小説の発生と展開を一作家として考える。