著者
鵜澤 和宏 下川 昭夫
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.75-84, 2003-03

近年の人類学的調査から、古人類のカニバリズム(cannibalism、食人)の証拠が多く得られるようになり、その動機が飢餓によるものか、何らかの心理的要求が関係しているのか関心が持たれている.この問題の解決には古人類の心理的機制を理解する必要がある。そこで、先史人類学と精神分析学の共同作業に基づくヒトの心の進化を探る新たな研究手法を試みた。その結果、現生人類のカニバリズム行為者の心理には、自己の不安を防衛するために他者と自己との同一化をはかろうとする意図があること、この心理的意味が古人類においても当てはまるかどうか検討するためには、心理的防衛機制の基本的能力である見立ての能力を彼等が備えていたかどうかが焦点となることを指摘した。現在までに得られている考古学的証拠からは、十分な見立ての能力の傍証となる遺物、遺構は3万年前までのものであり、古代型サピエンスと同様、すでに約13万年前に発生していた現生人類にも、その初期には十分な見立て能力を示す証拠が伴わないことが問題となる。今後、この問題を明らかにしていくには、3万年前以前の現生人類が潜在的には持っていたであろう見立て能力を、物的証拠を残す形で開花させ得なかった理由を説明するために、生活環境全般にっいての詳しい調査が必要である。 : Increasing evidence of cannibalism in fossil hominids has raised the interest of its motivation : why did man eat man. In order to examine the issue, we attempted an interdisciplinary study between paleo-anthropology and psychoanalysis. As a result we could suggest the following : (1) in the psychology of modern cannibalism, there is an intension to assimilate with others by eating the body for their own psychological protection, (2) to examine whether the same mentality could also be applied to fossil hominids, it is necessary to investigate if they had an ability of making meta-phors which is the base of psychological self-defense system. Although the first modern Homo sapience that supposed to have the same intelligence as we do appeared in history some 130, 000 years ago, archaeological evidence of metaphors, such as ornaments, figurines, wall paintings and engravings, date only back to 30, 000 years ago. In order to further examine the problem of time discrepancy between emergence of Homo sapience and development of advanced cognitive capabilities, it is indispensable to accumulate more information about the subsistence and the environmental resources of that time period in detail.
著者
山本 達夫
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.97-120, 2003-03

経済活動からのユダヤ人の排除(「経済の脱ユダヤ化」)は、ナチ党による政権掌握以来、比較的無秩序に行なわれていたが、国家指導部がこれに積極的に関与しはじめた1937年後半以降、一定の政策として遂行されるようになった。政策としての「経済の脱ユダヤ化」は、ユダヤ経営の閉鎖・清算、またはドイツ人への所有権の譲渡(「アーリア化」)という形で行なわれた。経済・社会の広範囲に影響がおよぶこの政策の遂行には、第三帝国の多くの組織・機関が関わり、ユダヤ経営とユダヤ人の運命を決定していった。これらの組織・機関が、個々の事例の処理にあたって判断の拠り所にしたのが、国家指導部が出した諸法令であった。だが、これらの法令の全てが公にされたわけではない。『ライヒ官報』や『ライヒ内務省報』で公布されたものもあるが、しかし一般的な法令の「施行細則」としてこの政策の実際の処理過程を規定していたのは、「回覧通達」をはじめとする非公開の指令や内部文書であった。したがって「経済の脱ユダヤ化」政策の具体的な遂行過程を把握するためには、これらの文書の分析が不可欠である。ここに訳出するのは、そうした文書を含む「経済の脱ユダヤ化」関連法令のうち、とくに重要なものである。大きく4つの系統に分けられる「経済の脱ユダヤ化」関連法令のうち、前号では「財産申告令」(1938年4月26日)および「第三帝国政令」(1938年6月14日)に関連する諸法令を紹介した。今回は「排除令」(1938年11月12日)および「財産活用令」(1938年12月3日)関連の法令を中心に紹介する。
著者
山本 達夫
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.53-70, 2002-03

「経済の脱ユダヤ化」とは、第三帝国における経済活動からのユダヤ人の排除をいう。経済活動からのユダヤ人の排除は1933年のナチ党による政権掌握以来、比較的無秩序に行なわれていたが、国家指導部がこれに積極的に関与しはじめた1937年後半以降、一定の政策として遂行されるようになった。政策としての「経済の脱ユダヤ化」は、ユダヤ経営の閉鎖・清算、またはドイツ人への所有権の譲渡(「アーリア化」)という形で行なわれた。経済・社会の広範囲に渡って影響が及ぶこの政策の遂行には、第三帝国の多くの組織・機関が関わり、ユダヤ経営とユダヤ人の運命を決定していったのである。これらの組織・機関が、個々の事例の処理にあたって判断の拠り所にしたのが、国家指導部が出した諸法令であった。だが、これらの法令の全てが公にされたわけではない。『ライヒ官報』や『ライヒ内務省報』で公布されたものもあるが、しかし一般的な法令の「施行細則」としてこの政策の実際の処理過程を規定していたのは、「回覧通達」をはじめとする非公開の指令や内部文書であった。したがって「経済の脱ユダヤ化」政策の具体的な遂行過程を把握するためには、これらの文書の分析が不可欠である。ここに史料として訳出するのは、そうした文書を含む「経済の脱ユダヤ化」関連法令のうち、とくに重要なものである。その多くは文書館史料であり、わが国では初めて紹介されるものである。
著者
後藤 淳
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.49-61, 2003-03

人間は、あたかも一人の個人が成長の段階で行なうように、自らの知を量的にも質的にも変化させてきた。その成果は特に技術知に関する領域において顕著であるが、決してそれに留まるものではなく、人間自身を眺めるという内的省察においてもその痕跡を窺うことができる。本稿の目的は、古代ギリシア思想史の中に、人間知への眼差しが変化した具体的言説を求めることであり、またその時期を確定することにある。従来の思想史では、現代的批判に耐えうるだけの自己をギリシア人が獲得したのは、ソクラテスにおいてであるとされてきた。なるほど彼の思想には、問答法により既得の知を検証するという明確な方法論と、アポリアに陥ることを了解したうえで、それでも人間全体に知を探求する途が可能性として了承されている。しかし、彼に先行するいわゆる前ソクラテス期の思想家たちの断片を検証すると、なるほど言表の形式は異なるにしても、ソクラテスと同様の自己発見の過程を見いだすことができると思われる。人間知の発展形式が、その最初に知の対象を自分の外側に求めることは自然なことである。この意味では、知はまず量的な変化を蒙ることになる。しかし、量的知の集積に留まることに満足せず、獲得した個別知の関連を問うことを通してそれらの背後にある共通の根拠へと遡行する時期が訪れる。本稿に取り挙げたクセノファネスとヘラクレイトスは、近い時期を生きながらも対象的な思想を展開した。われわれは、前者の中に量的知の保証にもかかわらず相対論的地点に留まる危惧を、それに対して、後者には知の質的深化を保証する思想を見ることができる。彼らの複数の断片を手掛かりにすることによって、本稿の目的である知の深化に関する過程を検証するとともに、ソクラテス的自己の発見を、すなわち思弁的自己への覚醒を、ヘラクレイトスの思想の中に見ることができることを論証する : It's said human beings has improved the content of his wisdom quantitatively and qualitatively, just like a man does in the process of his growth. The traces are especially evident in the field of science and technology. But those kinds of traces are to be confirmed even in the self-reflection toward our inner world. The purposes of this article are 1) to seek for the concrete sayings that testify the change of human wisdom, and 2) to settle its time in the history of Greek philosophy. The history of Greek philosophy tells us the Greeks didn't attain the concept of self which could hold back the mordern critical view until Socrates. In the thought of Socrates it's true that there is the clear methodology certificating the gotten wisdom by means of dialectic, and that there is possibility which searches the wisdom for all the human beings, but the same kind of speculation can be found in the thoughts of pre-Socratics. We are probably able to come across the process of struggle which aims at self-research in some extant fragments of theirs apart from the differences of vocabu-laries and contexts. It's natural our recognition should extend itself toward the outer world as the first step. In this point, our knowledge or wisdom comes to be suffered from the quantitative change. But as the second, the time surely comes when we go up the rivers of some knowledge toward their common origin. Xenophanes and Heraclitus individually developed the characteristic thoughts. We can see in the former the crisis of the relative point of view, in the latter the possibility of the deepening of the human wisdom. By checking their extant fragments, we can put forward the time when human beings become conscious of the concept of self from Socrates to Heraclitus.
著者
柳沢 貴司
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.63-73, 2003-03

「人を殺してはいけない」ということの理由は何であろうか。この問いに答えるのは、それほど簡単ではない。何らかの理由を提示したとしても、その理由に対しては更にまた「なぜ」と問うことができるし、そうすれば、結局は、確実な根拠など存在しえないことが明らかになるのである。しかしそうは言っても、「人を殺してはいけない」という道徳規則を多くの人は常日頃守っている。実際には殺さないでいる。それはなぜか。少なくとも、二つの理由があると思われる。一つには、人間は他者の苦しみに無関心ではいられない、ということである。殺人者もまた自分が相手に与える苦しみを共有せざるをえないのであり、それは殺人者にとっても望ましくないことなのである。もう一つの理由は、殺人は自らのアイデンティティを破壊する恐れがある、ということである。道徳は人間のアイデンティティを構成する重要な要素であり、その道徳を破るということ、しかも「殺人」という「取り返しのつかない罪」を犯すことは、アイデンティティの「取り返しのつかない破壊」を招きうるのである。さて、このような「殺さない理由」は、はたして対人間にしか当てはまらないことなのだろうか。私は決してそうではないと考える。それはまた同時に、対動物に関しても妥当しうるものである。そうであるにもかかわらず、人間と動物の扱いに根本的な差異を設けるとするならば、それはまったく一貫性を欠いたことなのである。 : Why must we not kill humans? This question is not so easily answered. The normal answer is like this : if you were killed, you would be intolerable and so you must not kill other humans. But those who dare to ask, why must we not kill humans, question this answer itself. Namely their question is why must we not kill humans, even if I am not willing to be killed?. This question is the one about morality itself : why be moral. But this question turns out to be almost impossible to answer. However we mostly observe the rule must not kill humans. Most of us don't kill other humans. Why is this? There seems to be at least two reasons. One reason is that man cannot be indifferent to other's suffering. Murderer gives the victims much suffering. But the murderer also share the suffer he gives and it is of course undesirable to him. Another reason is that killing humans is breaking murderer's identity. Morality is indispensable constituent of identity. Therefore breaking moral rules, what is worse, committing a murder that is an unrecoverable sin results in unrecoverable destruction of identity. By the way, are these reasons of not killing humans only applicable to killing hu-mans? I don't think so. These reasons are applicable to killing animals too. In spite of this, drawing distinction between killing humans and killing animals is totally in-consistent.
著者
西村 太志 内田 裕之 原 夕紀
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.87-95, 2006-03

本論文は,心理学における研究手法の一つである調査的面接技法について、心理学の研究法の初学者を対象に演習を行った際の手法や工夫した点、結果のまとめ方などについて取り上げた。調査的面接技法は、質問紙調査や実験的手法では得ることのできない、非言語的な対象者の反応や、時間的流れの中での反応を測定することのできる手法であり、卒業研究などにおいても取られうる手法として、心理学分野のみならず幅広く用いられるものである。本論文は特に、(1)心理学の研究技法における面接法の位置づけ、(2)今年度心理学演習で実施した調査的面接法実習の内容、およびそのノウハウ、(3)演習において実際に学生が行った結果のまとめ、ならびに資料としてのプレゼンテーションの仕方、について、次年度以降学習する学生の手引きとなりうる形でまとめたものである。
著者
森川 展男
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.105-121, 2001-03

近年の犯罪傾向を見ると、行為者の精神の障害又は未確立に起因する事件の数が急増している。このような状況下、従来の刑法上の責任能力概念及びそれを判定するための精神鑑定のあるべき姿についても変革が求められる。刑法は第39条において心神喪失・心神耗弱という形で責任能力について規定すると共に、第41条において14歳未満の少年の責任無能力を規定する。また少年法は、20歳未満の少年について原則として刑事処罰の対象としない旨規定する。しかし、近時、凶悪犯罪の多発を受け、責任能力や処罰対象を広く認めようとする傾向が出てきている。これは、行為に対する非難可能性に刑罰の根拠を求める責任概念の趣旨に反するもので、被疑者・被告人の人権と社会秩序維持の調和の観点からも好ましくない。しかし、従来の責任概念のあり方にも問題無しとはしない。これをより精緻化し、国民の理解を得られるものとするために、その判断の根拠を可及的に客観的にする必要がある。そのためには、精神鑑定の基準を客観化するとともに、第三者機関を設立することによって恣意的な鑑定がなされることを排除する仕組の確立が必要である。最後に、責任能力概念及び精神鑑定は、社会の安定及び個々人の人権を守るための手段に過ぎないとの理解から、真に安定した社会の実現に向けた抜本的解決を模索する。家庭、教育現場、地域共同体が緊密に協力し、犯罪予防の実効性の高い社会を小さな単位から構築し、それを情報技術などを利用して社会全体のシステムに昇華させていくことが真に秩序ある社会の構築のための最善の方法であると考える。
著者
大城 剛 安陪 大治郎
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.49-51, 2007-03

健康な男子学生8名を対象に、血流制限を施した筋力トレーニングによる最大脚伸展力の変化、および血中乳酸濃度の動態を観察した。対象期間は連続10日間とし、初日と最終日に最大筋力の測定を行った。負荷強度は初日に測定された最大脚伸展力の30%で10回3セットとした。また、3日目と9日目のトレーニング前後に血中乳酸濃度を測定した。その結果、血流制限脚と非血流制限脚の最大脚伸展力の増加率に約2倍の差が生じた。3日目の血流制限脚において、筋力トレーニング前後の血中乳酸濃度に統計的な有意差がみられなかった。トレーニングを開始した頃の血流制限脚では、加圧器具を装着した段階で代謝産物の蓄積が始まり、実際に筋線維に作用したメカニカルストレスよりも、高い生化学的ストレスが作用していたと考えられる。これらの結果から、血流制限脚と非血流制限脚でみられた筋力増強効果の差異は、筋に対する生化学的な刺激の違いに加え、それに随伴する神経生理学的なメカニズムに由来するものと考えられた。
著者
藤原 裕弥 小林 一生 古満 伊里
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.39-48, 2007-03

本研究は、課題に対する反応時間によって虚偽検出が可能であるか検討した。また、反応時間を指標とした虚偽検出に画像刺激と文字刺激のどちらが有効かについても同時に検討した。16名に模擬窃盗を行わせ有罪群とし、模擬窃盗を行わなかった16名を無罪群とした。模擬窃盗は、実験室に進入し、棚の中の財布からお金を盗むという内容であった。虚偽検出課題としてdot-probe探査課題を用いた。この課題では、刺激対を呈示し、その後それらの刺激対のどちらか一方に呈示されるドットの位置をボタン押しによって回答させた。刺激対は、画像刺激の組み合わせか、文字刺激の組み合わせを用いた。裁決項目に対する反応時間が速ければ、裁決項目に対して注意を向けたことを示す。実験の結果、財布画像を刺激として用いたとき、有罪群において無罪群よりも有意に裁決項目に対して速く反応することがわかったが、他の刺激項目では差は認められなかった。また、画像刺激対を用いた場合に、有罪群の裁決項目に対する反応時間が速くなる可能性が示された。このことから、反応時間を指標とした虚偽検出は、刺激の種類によって有効性に差がある可能性が示された。