著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.135-152, 2012

鹿児島県にある国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」で暮らす、70代男性のライフストーリー。 語り手のKKさんは、1934(昭和9)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、21歳のとき、敬愛園に収容される。「ここへは治療しに来たんだ」と、園内での患者作業を一貫して拒否。園内での結婚もしなかった。1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟では、早い時点で原告になって闘った。2010年7月の聞き取り時点で76歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、金沙織(キムサジク)、北田有希。2010年10月と2011年6月には、補充聞き取りをおこなった。 KKさんがハンセン病の症状に気付いたのは、14、5歳のとき、右手の小指が曲がるなどの、ごく軽い症状だった。ある時期から、保健所職員が療養所入所を勧めに、KKさんの自宅へ来るようになる。21歳のとき、同じ村のYTさんが、ハンセン病の症状が重くなり、敬愛園に入所することになった。KKさんも「家族に迷惑がかかる」と入所を決意。YTさんと一緒の収容バスに乗った。 KKさんは、敬愛園に入所してまもなく、すでに自然治癒し、無菌であることが判明。「無菌なら、なぜ収容したのか。家へ帰せ!」と医者に訴えたが、「予防法があるから」と退所を認められなかった。KKさんは入所後、ハンセン病治療を受けたことは一度もない。手の指に傷ができると、医局では「落としたほうが治りが早い」と切断された。さらに、若いインターンの医者の「実験台」にされて、神経が切られ、顔が歪んでしまった。 KKさんは、国賠裁判の原告に立った思いを「カネじゃない。人間がほしかった」と語る。熊本地裁勝訴後の控訴阻止の闘いの局面では、ひとり、ハンガーストライキをして頑張りぬいた。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-19, 2020

福岡が2003 年に「ハンセン病問題に関する検証会議」の検討会委員を委嘱されて以降,黒坂とともに,ハンセン病回復者,その家族からの聞き取りを精力的に実施してきた。国の誤った政策により苦難の人生を歩んだ人たちの語りを記録に残すことは,社会学者のなすべき仕事の一つと考えたからだ。一定の問題事象をめぐって聞き取りを積み重ねていけば,ある段階で,あらたに得られる新しい情報はなくなり,「知識の飽和」状態に達すると思われがちであるが,「ハンセン病問題」での当事者の聞き取りが500 人を超えて,なお,まったく新しいライフストーリーに出くわす。本稿で紹介する2 人の女性は,2016 年に始まった「ハンセン病家族集団訴訟」の原告となった人たちである。2018 年12 月,大阪市内の弁護士事務所でNA(女性,1934 年10 月生まれ,聞き取り時点で84 歳)から話を聞いた。彼女は,1940 年7 月9 日,熊本の「本妙寺部落」が官憲によって狩込みを受けたとき,そこに5 歳の女の子としていた人である。ハンセン病罹患者であった両親とともに,群馬県草津の栗生楽泉園に送られ,そこの附属保育所に収容された。2019 年4 月,関西のある駅近くのカラオケボックスでKS(女性,聞き取り時点で79 歳)から話を聞いた。彼女は,群馬県草津の「湯之沢部落」で1940 年3 月に生まれている。両親がハンセン病罹患者であった。1941 年5月18 日に「湯之沢部落解散式」が挙行された半年後,両親とともに瀬戸内海の長島愛生園に移り住み,KS は愛生園の附属保育所に入れられた。1 歳半のときであった。この二人は,ハンセン病罹患者ではないが,ハンセン病療養所附属保育所に収容されるという《もう一つの隔離》の体験者である。それだけではない。この二人の語りは,熊本の「本妙寺部落」にしても草津の「湯之沢部落」にしても,ハンセン病罹患者とその家族たちが助け合ってコミュニティを形成し,そこで自分たちの意志で子産み子育てをするという《リプロダクティブ・ライツ》を実践していた空間であったことを如実に示している。国の強制隔離政策は,単に患者を《隔離収容》しただけではなく,かれらから《リプロダクティブ・ライツ》を剥奪する企てとしてあったことが了解されよう。Since I (Fukuoka) was commissioned as a member of the working group of the Verification Committee Concerning the Hansen's Disease Problem in 2003, I and Kurosaka have been energetically conducting interviews with recovered Hansen's disease patients and their families. We thought that it was one of the sociologists' tasks to record the interviews with the people who had gone through hardships due to the wrong policies of the government. They may think that newer information would not come when the interviews are repeatedly practiced on same issue and it will reach the stage of "saturation of knowledge." However, we still encounter a completely new life story after having interviews with more than 500 people on the Hansen's disease problems.The two women introduced in this research note are those who became plaintiffs of the Compensation Lawsuit against the Government by the Family Members of Hansen's Disease Ex-patients that began in 2016.In December 2018, we interviewed NA (female, born in October 1934, 84 years old at the time of the interview) at a law firm in Osaka. She was a 5-year-old girl on July 9, 1940 when the government arrested the people in Honmyoji Hamlet in Kumamoto. Together with her parents who were suffering from Hansen's disease, she was sent to National Sanatorium Kuriu-Rakusenen in Kusatsu, Gunma Prefecture, where she was housed in an attached nursing home.In April 2019, we had an interview with KS (female, 79 years old at the time of the interview) at a karaoke box near a station in the Kansai region. She was born in March 1940 in Yunosawa Hamlet in Kusatsu, Gunma Prefecture. Her parents were Hansen's disease patients. Half a year later after the "Yunosawa Hamlet Dissolution Ceremony" was held on May 18, 1941, she and her parents moved to National Sanatorium Nagashima-Aiseien in the Seto Inland Sea, and KS was placed in the nursing home attached to Aiseien. She was only 1 and a half years old at that time.These two were not Hansen's disease patients, but they have experienced "another segregation policy" by being housed in nursing homes attached to Hansen's disease sanatoriums. That is not all. The story of these two women reveals that Honmyoji Hamlet in Kumamoto and Yunosawa Hamlet in Kusatsu were the communities where Hansen's disease patients helped each other and enjoyed reproductive rights to give a birth to their children and raise them with their free will. We can see that the segregation policy was not just an enforced isolation of Hansen's disease patients, but also an attempt to strip the Reproductive Rights from them.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
金 銀実
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.63-73, 2012

私は1985年に中国吉林省延辺朝鮮族自治州にある朝鮮族と漢族が共存して暮らしている発電所村で生まれた。特殊な生活環境の影響で、私は小学校に入る前から、自分の民族について知っていた。民族について知っていながらも、小学校の高学年になるまで韓国の存在を知らないまま暮らしてきた。そんなある日、叔父が韓国へ出稼ぎに行くようになり、それをきっかけに韓国に興味をもつようになる。それ以外にも、私のまわりでは、家族を含む多くの親戚たちが、延辺を離れて、中国の都市部へ、韓国へ、と移動をする人たちが多く、それを当たり前のように受け止めながら、暮らしてきた。 しかし、大きくなるにつれて、それは決して普通のことではない、朝鮮族に特有のことであるのに気付き、大学院で研究することにした。そのなかでも、特に朝鮮族の移動が目立つ韓国への移動をめぐって、修士論文を書こうと思い、埼玉大学から韓国の高麗大学に交換留学をした。しかし、当初、まわりの朝鮮族の友達に「韓国人の朝鮮族に対する差別はもうあまりないと思うし、それを研究テーマにして意味あるの?せっかく日本に留学しているんだから、日本でできる研究テーマを選んで研究した方がいいんじゃない」と反対されたこともあった。 韓国では、朝鮮族教会、城南教会などを訪れて、フィールドワークをおこなうと同時に、在韓国中国朝鮮族18人に聞き取り調査もおこなった。半年間のフィールドワークと聞き取りを通じて、「中国が影響力を持つようになってきたから、韓国人が朝鮮族を差別しなくなった」と一言では言いきれない、在韓国朝鮮族の人々がおかれた状況は十人十色、百人百様だということを知った。また、在韓国中国朝鮮族の各人がもっている資源、置かれた境遇、制度的なものなどによって、その人たちの韓国での生活体験への意味づけ、アイデンティティ構築(変容)が違ってくることもわかった。 今回の調査ノートは主に、私の身のまわりで起きたことと在韓国中国朝鮮族18人からの聞き取り事例だけに基づいて書いたもので、全体状況の把握に欠けているのは事実である。だから、今回の調査ノートは、今後より多くの韓国在住中国朝鮮族に聞き取り調査を実施し、彼ら/彼女らの存在のありようについて、多様性を描出しつつ、全体状況の把握に努める入口にしたいと考えている。
著者
趙 亜男
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.16, pp.135-148, 2019

本稿は千利休と豊臣秀吉が催した茶会を中心に、和物茶道具の使用状況を考察し、唐物から和物へと推移する経緯の一端を分析しながらその原因を解明するものである。第一部では、千利休の祖父千阿弥と唐物とのかかわりについて扱った。第二部では、利休茶会における禅僧墨跡の使用状況から利休の創意を看取し、さらに、その原因が茶道具の目利きである利休と弟子の織田有楽が偽物の墨跡を購入した経験があるとかかわりを持っている可能性が高いという考察を導出した。第三部では、秀吉茶会における和物茶道具の使用状況を考察し、秀吉の茶の湯に対する発想の独創性を示した。また、秀吉の時代におきた天正飢饉への飢饉対策と家臣の加藤清正の禁酒令の分析を通して、秀吉が主催した茶会では和物を使いはじめるや、庶民にも参加してもらうことから、秀吉の茶の湯文化を庶民にまで広く普及させたい狙いが読み取れ、その原因は天正時代に起きた飢饉と実行された禁酒令に繋がっているという結論をつけた。本论文旨在以千利休和丰臣秀吉举办的茶会为中心,通过对其和物茶具的使用情况的考察从而探究茶会中唐物到和物使用的转变和其中的原因。第一部分考察了千利休的祖父千阿弥与唐物的关系。第二部分先是通过对千利休的茶会中禅僧墨宝的使用情况的考察分析了利休在茶会上的创意体现,之后考察得出其墨宝的更替与利休本人及其弟子都曾购买过墨宝赝品的经历不无关系。 第三部分通过对秀吉茶会中和物的使用情况的调查,提示出秀吉在茶会上展现的创新意识。此外,通过秀吉颁布的饥荒对策和加藤清正推出的禁酒令的分析,从秀吉在茶会中开始使用和物以及允许百姓也可以参加茶会中,除了可以窥测出秀吉打算将茶汤文化在民间普及开来的意图,也考察得出其中的缘由与天正时期的饥荒和颁布的禁酒令息息相关。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.16, pp.57-78, 2019

宮古島は因縁のフィールドである。2004年秋に宮古南静園で「第24回ハンセン病問題に関する検証会議」が開催される運びとなり,検討会委員であった福岡も出席を予定していたが,台風襲来で突然の延期。南静園での検証会議は2週間後に開催されたが,ちょうど,授業は半期15コマ実施が必須という方向に大学が移行していく時期で,重ねての休講はできず,宮古訪問は断念せざるをえなかった。2005年3月に検証会議が解散してからも,私たちはハンセン病問題調査を続行。2007年度から科研費がもらえるようになったので,2008年2月,福岡安則,黒坂愛衣,ゼミ生の塚原千恵の3名で宮古島を訪ねた。調査旅行の日程は,2008年2月19日,羽田から那覇空港へ。乗り継いで宮古空港16:15着。退所者の知念正勝氏(当時76歳)が,翌日からは所用のため,この日の夜のうちに,南静園の面会人宿泊所にて3時間の聞き取りを実施。「明日からはサトウキビの刈り入れかなにかで忙しいのですか?」と尋ねたところ,知念氏は「6年前に心臓のバイパス〔手術〕したんで,一度くらいはカテーテル検査をしないと」と答えられた。私も2015年夏に不安定狭心症,2016年冬にも冠攣縮性狭心症を発症しているので,いまなら大いに反応していただろうと思うが,そのときは聞き流してしまった。翌20日は,入所者の前里財祐氏(当時85歳),野原忠雄氏(当時72歳)から聞き取り。21日には福祉課から長靴を借り,野原氏の案内で,戦争中に患者たちが避難した自然壕「ヌストゥヌガマ」を見学。当時はまだ私たちのような訪問客にも療養所での入所者用の食事を廉価で出してもらえていた。最初は"これは健康食だ"などと言っていたのだが,食べ続けると淡泊な味に厭きてくる。南静園入所者自治会長であり全国組織の全療協会長でもあった宮里光雄氏にその旨を言ったら,夕食を宮古の郷土料理の店でご馳走してくださった。いまは亡き宮里会長の心配りを忘れられない。滞在4日目の22日の午前には,再入所者であり自治会副会長でもある池村源盛氏(当時69歳)から聞き取り。帰りがけに美味しい宮古そばを食べて帰ろうとしたが,生憎この日は「旧暦1月16日」の祖先供養の日にあたっていて,島民は墓所に集まって飲み食いに明け暮れる日で,お店は軒並み休業。南静園にタクシーを呼ぶこと自体が難しかった。宮古空港15:10発のJTAで那覇空港へ。「沖縄ゆうな協会」のある那覇市古波蔵までバスで行き,「沖縄楓の友の会」の奥平恵福氏と再会。泊めてもらう。23日,那覇空港発のJALに乗り,19:00羽田着。それにしても,一昔前にやった聞き取りをほったらかしにしてきたことの釈明を一言。沖縄は,『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』,同『宮古南静園編』(2007年)という,立派な証言集がすでに編纂されていて,私たちの出る幕はないと思っていた。実際『宮古南静園編』には知念氏の語りも収録されている。屋上屋を架すのは愚行であり,沖縄での聞き取りは,ひたすら私たちの勉強のためにすぎないと思い定めていたのだ。しかし,2016年12月26日の「ハンセン病家族集団訴訟」の第2回期日での「原告意見陳述」で,その原告女性が"妻が堕胎の注射を打たれたが,それでも娘が生まれてきた"という9年前の語りの娘さんだと知り,ある意味驚愕し,知念氏の語りをまとめ直そうと思い立った次第である(以下,敬称略)。知念正勝は,1933年12月,宮古諸島の水納島生まれ。小学校3年のころ,尻に斑紋が出ているのを父親が見つける。16,7歳のころには症状も進み,足の裏傷もひどくなり,島の誰もが知るところとなる。宮古本島に行き,宮古南静園の園長を兼務する開業医に診てもらい,「治るから南静園に入りなさい」との言葉を信じて,1951年5月入所。1956年,園内で結婚。1958年,妻が妊娠し,堕胎の注射を打たれるが,流産に至らず。――隔離政策・優生政策が医療従事者をして,命の芽を絶つという残酷なことを当然のこととして行わしめる一方,生まれてきてしまえば,その子のためにおむつ等を用意するという人間的な心を保持した看護婦たちがいたという語りは,じつに印象的であった。堕胎の処置をした者とおむつを用意した者は"同一人物"ではないかもしれないが,ハンセン病療養所という施設のなかの"同一人格"(人格=役柄存在)であったことは確かだ。"同一人格"において,殺すも生かすもできてしまうことは,じつは"殺すこと"――ひとを隔離収容すること,いのちを堕胎すること――自体が"患者のため"と信じ込まされていたことの証であろう。知念夫妻は,園の決まりに従って,生まれた子どもを1年間は南静園で手許に置いて育てるが,その後は水納島の母親に子どもを託す。1960年代前半に,集団移住で知念一家が宮古本島に移住。――これは,知念氏にとって,隔離収容されているあいだに,ふるさとの水納島が人の住まない島に変じてしまい,帰るべき故郷を喪失したということを意味しよう。Heimatlos!娘が小学校2年のとき,園に籍を置いたまま,社会復帰。土木の仕事,電気料の集金,宮古スキンクリニックの職員など,さまざまな仕事に従事。1999年,腰を傷めて,再入所。国賠訴訟の宮古原告団事務局長として活動。2001年5月の熊本地裁の判決では"沖縄は「ハンセン氏病予防法」のもと在宅治療が認められていたから"として,賠償金が一律,最低の800万円に押さえられていたのに対して,"沖縄3原告"の一人として,同年6月26日,熊本地裁の法廷に立って,判決の不当性を訴え,沖縄も本土と同等の基準による賠償を勝ち取る。2002年4月,再度の社会復帰。ハンセン病問題の啓発活動に取り組む。2017年には「ハンセン病全国退所者原告団連絡会(全退連)」の4代目代表に就任。2018年には「沖縄ハンセン病回復者の会」の共同代表となる。Miyakojima Island is a field which has a shady history in relation to our research. I (Fukuoka) had a chance to attend the 24th Conference of the Verification Committee Concerning the Hansen's Disease Problem at National Sanatorium Miyako Nanseien as a member of the working group for the varification committee in the autumn of 2004, but the conference was suddenly postponed for the typhoon. Although the conference was convened two weeks later, my hard teaching schedule at the university did not allow me to visit Miyakojima Island to join the conference.The Verification Committee was discharged in March 2005, but I continued the research on the Hansen's disease problems and received the research grant from Kakenhi (JSPS Grant-in-Aid for Scientific Research). In February 2008 Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka, and Chie Tsukahara (Fukuoka's seminer student at Saitama University at the time of the research) visited Miyakojima Island.We flied from Haneda airport to Naha airport and finally arrived at Miyako airport at 16:15 in February 19th, 2008. We immediately met Mr. Masakatsu Chinen (76 years old at the time of the interview), a former resident of Nanseien, at the visitors' lodge of the sanatorium and had three hours interview with him on that night, since Mr. Chinen had a business from the next day. I asked if he would be busy for suger cane harvest, but he replied that he had the appointment for the cardiac catheterization because he had heart bypass surgery 6 years ago. At that time I did not react that much to his health condition but I would be more sympathetic to him if I hear about it these days, since I had unstable angina in the summer of 2015 and vasospastic angina in the winter of 2016.On the next day we had interviews with sanatorium residents, Mr. Zaiyu Maesato (85 years old at the time of the interview) and Tadao Nohara (72 years old at the time of the interview). On February 21st, we borrowed pairs of long boots from the welfare service office of the sanatorium and had a chance to observe Nusutu-nu-Gama (the Cave of Thieves), a natural cave where the sanatorium residents evacuated during the Battle of Okinawa, under Mr. Nohara's guidance.When we visited the sanatorium in those days, the sanatorium provided visitors like us with resident's dairy meal at cheap price. The first impression of the meal tasted healthy and good, but began to cloy as we had it seveal times in succession. We talked about it to Mr. Mitsuo Miyazato, the president of the residents' council of Nanseien and also the chair of All-Japan Association of Hansen's Disease Sanatorium Residents (Zenryōkyō), and then he treated us with traditional Miyako foods for dinner. Mr. Miyazato passed away seveal years ago but we never forget his kindness.On February 22nd, the fourth day of our stay, we practiced the interview with Mr. Gensei Ikemura (69 years old at the time of the interview). He was the resident who reentered the sanatorium and served as the vice-president of the residents' council. We planned to enjoy delicious Miyako soba noodle after the interview but all local restaurants were closed because that day was the ancestors memorial day (January 16th of the lunat calendar) that local people in the island assembled at the clan's cemetery and spent all day to eat and drink. Even to call a taxi to Nanseien was difficult.We departed from Miyako airport via JTA at 15:10 for Naha airport and then moved to Kohagura in Naha City where Okinawa Yūna Society is located in. We rejoined Mr. Keifuku Okuhira of Kaede-no-Tomo-no-Kai, the society of former Hansen's disease sanatorium residents in Okinawa, and stayed a night at his place. On February 23rd we departed from Naha airport via JAL and arrived at Haneda airport at 19:00.If you give us to excuse for our delayed publishing of this old interview, we would like to say that we missed the timing to introduce this interview earlier, since quite excellent testimonies such as Testimonies of Hansen's Disease in Okinawa Prefecture: The Volume of Okinawa Airakuen and Testimonies of Hansen's Disease in Okinawa Prefecture: The Volume of Miyako Nanseien were already published in 2007. As a matter of fact, Testimonies of Hansen's Disease in Okinawa Prefecture: The Volume of Miyako Nanseien includes Mr. Chinen's testimony as well. We simply thought it would be unnecessary work to deal with the life story that was already published. Thus, we used the interviews that we practiced in Okinawa only for our own research. However, we became surprised that one of plaintiffs who made a statement at the second pleading of the lawsuit of class action of Hansen's disease patients' families at Kumamoto District Court in December 26th, 2016 was Mr. Chinen's daughter who survived from the abortion injection in the sanatorium. Then we decided to review and publish the interview with Mr. Chinen that we had done seveal years ago.Masakatsu was born in Minnajima Island, one of the Miyako archipelago, in December 1933. His father found some macules on Masakatsu's hip when he was in the 3rd grade of the elementary school. His symptom such as ulcer on his feet got worse when he became 16 and 17 years old and everybody in the island became aware of his disease. He met a doctor at the Miyakojima Main Island. The doctor advised that his disease could be cured without requiring a long period of time at Nanseien. Masakatsu believed him and entered the sanatorium in May 1951.He got married to a female resident in the sanatorium in 1956. His wife bacame pregnant in 1958 but the staff in the sanatorium gave the abortion injection to his wife. Luckily, the abortion did not happened.It was an impressive story that the staffs in the sanatorium did cruel action to attempt the abortion to follow the Segregation Policy and Eugenic Policy and they also showed humane kindness to prepare diapers when the baby was born. Probably the staff who tried abortion would not be the same person who prepared diapers for the baby. However, it is certain that both actions represent the double phases of the character of the sanatorium. They were able to do both "kill" and "help." In fact the staff in the sanatorium would believe that "kill" (segregation and abortion) could be a way to help the residents.Masakatsu and his wife raised their baby by themselves only for one year. That was a rule of Nanseien. Afterward they asked Masakatsu's mother to take care of the baby at Minnajima Island. In early 1960s, Chinen family moved to Miyakojima Main Island by the collective move-out policy. While Masakatsu stayed in the sanatorium, his hometown Minnajima became an uninhabited island. This means he lost his hometown to return. Heimatlos!Masakatsu and his wife returned to society when their daughter was in the 2nd grade of elementary school, although they still kept their resident registration at the sanatorium. He had done several jobs such as construction worker, electricity bill collector, and the staff of Miyako Skin Clinic.In 1999 he got injured in his waste, returned to the sanatorium. And then, he served as the general secretary of the Miyakojima plaintiffs group for the national suit on beharf of Hansen's disease sufferers. In May 2001, Kumamoto Disrict Court judged that the government of Japan should compensate only 8 million yen to the plaintiffs from Okinawa area because the Hansen's Disease Prevention Law in Okinawa permitted the patients to take treatment at their home. However, in June 26th, 2001, Masakatsu protested against this judgement along with Mr. Masaharu Kinjo and Sachiko Kinjo, and won the case to receive the same amount of compensation that the government give to the plaintiffs from the mainland of Japan.Masakatsu returned again to society in April 2002 and has worked for Hansen's disease problems campaign movement. In 2017 he took to the 4th representative of All-Japan Association of the Former Hansen's Disease Sanatorium Resident Plaintiffs. In 2018, he became the co-representarive of the Society of the Hansen's Disease Recovered Sufferers in Okinawa.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.75-118, 2012

ある〈ハンセン病家族〉のライフストーリー。奥晴海(おく・はるみ)さんは、1946年、福岡県生まれ。彼女の母親と母方の祖母がハンセン病だった。 晴海さんの母親は、1943年に鹿児島県にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」へ入所。婚約者であった父親の手引きで園を脱走、そののち晴海さんが生まれている。1950年、母親が熊本県にある「菊池恵楓園」へ再収用され、このとき、ハンセン病ではなかった父親も一緒に入所させられている。4歳の晴海さんは、恵楓園入所者の子どもたちが預けられる未感染児童保育所「龍田寮」に入れられた。1954年春、龍田寮の新1年生になる子どもたちが、寮内の分校ではなく、市内の小学校への通学を希望したのにたいして、近隣住民から反対され阻止される事件が起きる(黒髪校事件)。このとき晴海さんは小学校2年生だった。 まもなく、晴海さんは、父母の故郷である奄美大島へと帰されるが、そこでの生活は苦しいものとなった。この病気にたいする差別は奄美大島でも厳しく、母親の妹は、身内にハンセン病者がいることを理由に離縁させられ、2人の子どもを抱えていた。その叔母のもとに、晴海さんは預けられたのである。貧しさの苦労、親族からの辛い仕打ち、「ガシュンチューヌ、クワンキャーヌ(患者の子どものくせに)」と蔑まれる扱いに、晴海さんは耐えなければならなかった。 晴海さんは、「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告勝訴(2001年5月)につらなる流れのなかで、母親の遺族としての提訴をしている。その準備の過程で、母親の入所歴を調べたり、龍田寮時代の保母と面会したり、母親の寮友たちと思い出話をしたり、自分以外の〈ハンセン病家族〉たちと出会ったりするなかで、幼少期の、奄美大島へ帰される以前のおぼろげとなった記憶を取り戻したという。本稿は、隔離政策によって奪われた肉親との関係や記憶を、晴海さんがふたたび取り戻していった物語である。 聞き取りは2010年7月、奄美市(旧名瀬市)内の「名瀬港湾センター宿泊所にておこなわれた。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、金沙織(キムサジク)。晴海さんは、聞き取り時点で63歳。また、2010年10月と2011年11月にも、奄美和光園内で補充聞き取りをおこなった。このときの語りは注に〈〉で記す。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.119-133, 2012

ハンセン病療養所のなかで50年以上を過ごしてきた、ある男性のライフストーリー。 結城輝夫さんは、1930(昭和5)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、鹿児島にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入所。2008年8月の聞き取り時点で78歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、下西名央。 輝夫さんは18歳ごろから、ハンセン病により気管支内に結節ができ、発声がしにくくなった。20歳の秋には、結節が大きく膨らみ、つねに呼吸困難の状態で眠れず、死を意識するほどまで悪化。療養所から医師が自宅へ来て入所をすすめたが、輝夫さんの母親は、「らい患者」との噂が近隣に広まるのを怖れて、いったんこれを拒否。その後、母親が医師へ連絡をとり、輝夫さんは敬愛園に入所した。入所の翌日に気管を切開し、カニューレを装着。声を失うかわりに、息が楽に吸えるようになった。療養所では「不自由舎」へ入寮。医師不足であり、手足の指に傷をつくると、医師の資格をもたない職員によって切断された。1988(昭和63)年、鹿児島大学の医師に勧められ、カニューレをはずす手術を受ける。1990(平成2)年には声を出して喋れるまで回復した。故郷の家族は、輝夫さんの入所を隠すのに苦労を重ねた。ある兄とは43年間、音信不通だった。 結城輝夫さんの事例は、2つの意味で特徴的である。ひとつは、輝夫さんが、療養所入所者の中でも気管切開によるカニューレ装着を体験し、30数年にわたって声を失った人であることだ。職員からの侮蔑や、他の入所者からのぞんざいな扱いがあり、「20年近くは誰も相手にしてくれなかった」という。輝夫さんとコミュニケーションをとろうとする数少ない人の存在がありがたかった、と語る。 ふたつには、化学療法が登場しハンセン病が治せる時代であるにもかかわらず、輝夫さんの病状が、ここまで悪化しなければならなかった事実である。隔離政策下では、ハンセン病治療は、基本的に療養所でしか認められず、一般の病院ではおこなわれなかった。他方、ハンセン病にたいする差別は存在し、輝夫さんの母親は、差別をおそれ、輝夫さんの療養所への入所をぎりぎりまで拒んだのである。「母親が、医者の勧めに早く従っていれば、病状は軽くて済んだ」と輝夫さんは言う。しかし、隔離政策がハンセン病医療を療養所に限定したこと、また、日本の社会の厳しい差別が、その背景にはある。 輝夫さんには、優れた医師たちとの出会いによって命を救われ、声も取り戻したという体験が、決定的なものとしてある。国によって助けられたという強い思いがあり、このため、輝夫さんは、1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告にはならなかった。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.127-146, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80 歳代男性のライフストーリー。 杉野芳武(すぎの・よしたけ)さんは,1931 年3 月,熊本県生まれ。1942 年9月27 日,菊池恵楓園に入所。この11 歳で母に連れられて恵楓園にやって来たとき,彼は子どもながらに入所を拒否して"脱走"している。ところが,再度母親に連れられて「門をくぐった」彼は「もう外に出るのが怖くなった」と語る。彼が生家の敷居を再び跨いだのは,母危篤の連絡を受けた1979 年のことであった。37 年間も彼の生家への帰省を阻む目に見えない力が,「癩/らい予防法」下のハンセン病療養所には作動していたということであろう。 2001 年のハンセン病違憲国賠訴訟の熊本地裁での原告勝訴のあと,2003 年になって,熊本県内の黒川温泉で恵楓園入所者への宿泊拒否事件が発生。その町は杉野さんの生まれ故郷であった。自治会役員としてこの問題に対処した当事者の視点から,事件の顛末を詳しく語っていただけた。――恵楓園にやって来たホテルの総支配人の"謝罪文"の受取りを入所者自治会が拒否する場面が全国放送で流され,その後,入所者たちに対する誹謗中傷の手紙や電話が殺到した。杉野さんの語りによれば,ホテルに総支配人を訪ねたときは,宿泊拒否は「本社の社長の判断だ」と言い張っていたのが,恵楓園に来たときは「お断りしたのはすべて自分の判断」で押し通したのだという。心からの反省,謝罪を微塵も感じ取れなかったがゆえの,入所者たちの反応だったのだ。 聞き取りは,2011 年3 月15 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,足立香織。聞き取り時点で,杉野芳武さんは,80 歳。2010年,杉野かほるの筆名でおつれあいの杉野桂子さんと『エッセー集 連理の枝』を上梓。囲碁はアマ6 段の腕前で,赤旗主催の棋戦では熊本県代表となって全国大会に出場したこともある。短歌を詠み,随筆も書き,アマチュア無線も楽しむという多才のひとである。 2012 年12 月8 日,原稿確認。2014 年7 月に恵楓園を再訪したとき,白板の7 月の予定表には,入所者自治会の志村康会長,稲葉正彦副会長とならんで,恵楓園を訪ねてくる小中学生相手の説明役として杉野芳武さんの名前も書かれていた。ハンセン病に対する偏見差別をなんとしてでもなくしたいという強靱な意志が,かれらの活動を支えているのであろう。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 This is the life story of a man in his 80s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Yoshitake Sugino was born in March 1931 in Kumamoto prefecture and sent to Kikuchi-Keifūen on 27th September 1942. He was 11 years old and refused to enter the facility when his mother brought him to Kikuchi-Keifūen. He ran away but came to the facility with his mother again to 'enter the gate.' He said that he was scared to go out. He revisited home after hearing the news that his mother was in a critical condition in 1979. It was the first time for him to return home since entering the facility. There was invisible power to disturb him to visit home for 37 years. It must be the Segregation Policy which affected Hansen's disease patients' lives in the leprosy facilities. Even after the unconstitutionality lawsuit against the Segregation Policy was decided in favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court in 2001, there was an incident at a hotel in Kurokawa hot springs in which people from Kikuchi-Keifūen were refused entry, in 2003. The town was Mr. Sugino's home. We were able to hear the details because he was involved in the arbitration for this event as an executive member of the resident association of Kikuchi-Keifūen. The general manager of the hotel visited Kikuchi-Keifūen to submit the 'apology statement' but the resident association refused to accept it. This scene was aired by the national broadcasting network. Subsequently, masses of letters and phone calls criticizing the people in Kikuchi-Keifūen rushed in. According to Mr. Sugino, the general manager had claimed that rejecting the Kikuchi-Keifūen people was the hotel president's decision when Mr. Sugino and his colleague visited the general manager at the hotel. However, the manager changed her word when she came to the facility, saying that the manager herself decided to reject the people. All members in Kikuchi-Keifūen could not see even a tiny piece of sincerity from the 'apology.' This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 15th March 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Kaori Adachi. Mr. Yoshitake Sugino was 80 years old at the time of the interview. Mr. Sugino published the essay book Renri no Eda with his wife Keiko Sugino. He is a skillful 'Go' player with a rank of amateur six-dan, and joined the national Go tournament hosted by Akahata as the representative of Kumamoto prefecture. He is also a man of other talents who enjoys composing thirty-one syllabled verses, writing essays, and operating a ham radio. The interview script was approved by him on 8th December 2012. When we revisited Kikuchi-Keifūen in July 2014, the schedule board in the resident association office displayed that Mr. Sugino worked as the speaker of the explanation of Hansen's disease for young students as Mr. Masahiko Inaba, the vice president of the resident association. The strong determination to abolish the discrimination on Hansen's disease motivates their activities.
著者
金 沙織 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.153-172, 2012

ある在日コリアン2世ハルモニのライフストーリーの続編。 語り手の中村幸子(さちこ)さん(仮名)は、1935年大阪生まれ(初回の聞き取り時点で74歳)。9人きょうだいの5番目。戦時下で空襲がひどくなり、それなりに安定した暮らしをしていた大阪から、一家で姫路へ疎開。疎開後は、父親は失業対策事業で働き、家計を支えたのはむしろ、朝鮮半島文化のシャーマンである巫堂(ムーダン)となった母親だった。 幸子さんは、学齢期になると、日本の公立学校である国民学校へ通った。日本人の同級生たちから侮蔑語を投げつけられ、よく喧嘩をした。10歳のときに終戦、「民族解放」を迎える。日本の小学校をやめ、3歳上の兄とともに、同胞たちの始めた民族学校に通った。幸子さんの家は貧しかった。中学3年上のとき、両親に「女は勉強せんでもええ」と言われ学校をやめさせられ、かわりに、近所で洋裁を習った。姉3人はみな19歳で結婚して、家を出た。長男である兄は、日本の高校を出て、日本の大学に進学。幸子さんは、「女は役に立たない」と言う親の言葉に、反発を感じていた。母親は巫堂の仕事で忙しく、幸子さんは、兄が結婚するまでのあいだ、兄の身のまわりの世話をしなければならなかった。それでも、親の目を盗んで映画館やダンスホールへ行くなど、青春時代を楽しむこともあった。なお、幸子さんの3番目の姉は、婚家の家族とともに「北朝鮮への帰国」をしている。 幸子さんは、21歳のとき、親が決めた同胞男性と見合い結婚。夫は、古鉄屋や土建屋などの仕事を始めるが、いずれも長続きしなかった。けっきょく、幸子さんが娘と弁当屋を始めることで、暮らしが安定した。2005年に、帰化により日本国籍を取得。 このライフストーリーでは、戦時中から戦後にかけて、日本社会の在日朝鮮人差別、そして在日朝鮮人社会の「男尊女卑」に抗ってきた生きざまが、豊かに語られている。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.231-260, 2013

小牧義美(こまき・よしみ)さんは,1930(昭和5)年,兵庫県生まれ。1948(昭和23)年3月,宮崎県から星塚敬愛園に収容。1951(昭和26)年,大阪へ働きに出ることを夢見つつ,長島愛生園に移る。病状が悪化し,社会復帰を断念して,1959(昭和34)年,敬愛園に戻る。その後,1962(昭和37)年から1968(昭和43)年まで,熊本の待労院での6年間の生活も経験。1987(昭和62)年から1990(平成2)年には,多磨全生園内の全患協本部に中央執行委員として詰めた。そして,2003(平成15)年にはじめて中国の回復者村を訪問,2005(平成17)年から2007(平成19)年の2年間は,中国に住み着いてハンセン病回復者の支援に打ち込んだ。2008(平成20)年8月の聞き取り時点で77歳。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。2010(平成22)年5月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 小牧義美さんの語りで,あらためて「癩/らい予防法」体制のおぞましさを再認識させられたのが,自分以外のきょうだい,兄1人と妹2人も,おそらくはハンセン病患者ではなかったにもかかわらず,ハンセン病療養所に「入所」しているという事実である。兄は,病気の自分と間違えられて,仕事を失い,行きどころがなくなって,良心的な医師の配慮で「一時救護」の名目で,敬愛園への入所を認められている。上の妹は,義美さんに続いて母親も病気のために入所して,父親は疾うに亡くなっており,社会のなかに居場所もなく,「足がふらついてる」ことでもって,おそらくは「ハンセン病患者」として入所が認められたのだろう。そして,入所者と園内で結婚。下の妹は,敬愛園付属のいわゆる「未感染児童保育所」に預けられたが,中学をおえても行き場所がなく,「おふくろの陰に隠れて敬愛園で暮らしておった」が,やはり,入所者と結婚,という人生経路をたどっている。――義美さんは,きょうだいがハンセン病でもないのに「ハンセン病療養所」の世話になったことに,一言,「恥ずかしい話だけど」という言葉を発しているが,わたしたちには,「癩/らい予防法」体制こそが,義美さんのきょうだいから,社会での生活のチャンスを奪ったのだと思われる。 もうひとつ,小牧義美さんの語りで感動的なのは,当初は,桂林の川下りを楽しむために中国に行っただけと言いながら,いったん,中国の「回復者村」の人びとと出会い,後遺症のケアがなにもされないまま放置されている現実を目にして以降,日本政府からの「補償金」を注ぎ込んで,中国のハンセン病回復者とその子どもたちのための献身的な支援活動に没頭した小牧さんの生きざまであろう。
著者
蔡 梅花
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.183-199, 2014

本稿では,形容詞的用法にもアスペクト的用法にもなれる動詞を対象に,「変化の結果継続」の意味に注目し,これらの動詞が共通して持っている特徴を探ることを目的とする。対象にした動詞を「非典型的な形容詞的動詞」と名付け,〈主体動作・客体変化動詞〉〈主体変化動詞〉〈主体動作動詞〉に分類した。それから,〈主体動作・客体変化動詞〉の考察を通して立てられた「形容詞的用法になりうる動詞は,主体もしくは客体に結果を残す動詞でなければならない」という仮説が,〈主体変化動詞〉と〈主体動作動詞〉にも当てはまるのかを検証した。結果,次のようなことが明らかになった。1. 〈主体動作・客体変化動詞〉と〈主体変化動詞〉は形容詞的用法になりやすい。これは,主体の変化であれ客体の変化であれ,変化を含意する動詞は,「変化の結果継続」という〈2次的状態〉を表すことができることから,形容詞的用法になりやすいと考えられる。2. 〈主体動作動詞〉は形容詞的用法になりにくいが,「押す」のような結果が主体に認識されやすい形で残る動詞は形容詞的用法になりうる。3. 「非典型的な形容詞的動詞」の形容詞的用法は「タ」形と「テイル」形両形式が使われる。同じ事態を2つの異なる形式で表すことは,主体が客観的事態のどの部分を焦点化して捉えているかという認識が関わってくると考えられる。Several Japanese verbs have both adjectival and aspectual uses. The purpose of the present paper is to identify some properties shared by these verbs, focusing on their remaining results of change. I named these verbs atypical adjectival verbs, and classified them into three types: (I) verbs of subject's action and change in object, (II) verbs of change in subject, and (III) verbs of subject's action. I observed I-verbs, and made a hypothesis on them that each II-verb having an adjectival use must be the one leaving some effect of the action it denotes on its subject or its object. Then I verified my hypothesis by applying it to I- and II-verbs. The result I achieved is the following:1. I- and II-verbs are allowed to be used as adjectives. This is due to the fact that each verb implying “change” is able to express a secondary “state” as the remaining result of change, whether it is effected on its subject or object.2. III-verbs are not readily allowed to be used as adjectives. It should, however, be noticed that verbs such as “osu” (push), the result of whose action remains as recognizable to its subject are allowed as adjectives.3. The adjectival uses of the atypical adjectival verbs are allowed both in ta- and teiru-forms. These two different forms are supposed to depend on which part between subject and object is to be brought in focus.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.105-135, 2016

国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に暮らす70 歳代男性のライフストーリー。岩川洋一郎さんは,1937年2月,鹿児島県は屋久島の生まれ。1948年5月23日,11歳のとき,父親に連れられて,鹿児島県鹿屋市にある星塚敬愛園に入所。第1 回聞き取りは2007年12月26日,星塚敬愛園自治会会長室にて実施。聞き取り時点で70歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。第2回聞き取りは2008 年8月17日,同じく敬愛園自治会会長室にて。聞き手の顔ぶれも同じ。現在,星塚敬愛園の入所者自治会の会長をつとめる岩川さんは"予防法があり,こういう施設=ハンセン病療養所があったればこそ,いま自分たちが生き長らえられている"という基本認識の持ち主と思われる。11歳で星塚敬愛園に入所したとき,彼は「さびしさ」を感じなかったという。父親の,屋久島の役場から鹿児島県庁への転勤に伴い,鹿児島市内の小学校に転校してきた彼には,友達がいなかった。しかし,ここ,敬愛園の少年舎には,同年代の同病者がいっぱいいて,一緒に野球なども楽しめて,おかげで孤独を感じずに成長できた。さらに,岩川さんはいまでは"誤診"と疑っているが,数年遅れでやはりハンセン病と診断されて敬愛園に入所してきた父親は,特効薬プロミンの治療を受けて「軽快退所」し,故郷の屋久島で,周囲のみなが彼のことをハンセン病療養所退所者と知りながらも,町会議員を3期12年つとめた。岩川さんには,身近なところに,ハンセン病に罹ったからといって卑屈になるにはおよばないと考えられるだけの,うってつけのロールモデルがあったのだ。「らい予防法」の規制力が多少とも形骸化していったなかでも,多くの療友がまだ"目に見えない鎖"で療養所に縛りつけられていた時期に,彼は車の免許を取得するために「軽快退所」をし,そのあと故郷の屋久島でトラックの運転手として働き,といったかたちで,豪放磊落に青年期を生き抜いている。ただ,彼の場合,根をつめて働きすぎると,ハンセン病の再発とはならないまでも,身体がこたえる状態になり,そのたびに,みずから敬愛園に戻っている。彼は,自分で「わたしはあらゆる仕事をした」と語るように,あるときには,療養所の療友たちとともに,静岡県の山奥の井川ダムの工事現場に出稼ぎに行き,労賃をまったくもらえないという体験をしたり,鹿屋市内の理解あるガソリンスタンド経営者のもとで20年間,敬愛園からの通いの勤めもしたりという,多くの社会経験を有する。そのようにしながらも,合間あいまに,屋久島の海でのトビウオ漁に参加したり,父親亡きあと,屋久島で3 年ばかり蜜柑づくりに精をだしたこともある。そして,年老いた母を見舞ったり,ハンセン病への偏見のゆえに離婚させられ「心の病い」を患うことになった妹のために,たびたび故郷・屋久島を訪れている。――その彼が,高齢化したいまとなっては自分も「社会復帰は無理」「敬愛園が終の棲家」と語る。彼にとって,ハンセン病療養所は,海が時化で荒れるときの避難港のような位置づけをもって所在してきたのだと考えられる。ただし同時に,岩川さんは「政府のハンセン病政策は,悪かったことは悪かったんだ」と語る。前述のように,鹿児島県庁に異動した父親が,人生これからというときに療養所に収容され,退職をよぎなくされた。妹が離婚させられ「心の病い」をえて,精神病院への入退院を繰り返す生涯をよぎなくされた。自分自身,園内で結婚した妻とのあいだに子どもができたが「堕胎」をよぎなくされた,等々。「隔離政策」ゆえの被害を,自身も身内の者たちもモロに受けている現実があるのだ。超高齢化とあいつぐ死去によりハンセン病療養所の入所者数が目に見えて減少していくなかで,「入所者自治会」の存続も危うくなりつつある現在,ひょっとすると星塚敬愛園最後の自治会長として,敬愛園の《これから》を案じ,苦闘しているのが,岩川さんの現在の姿なのかもしれない。This is the life story of a man in his 70s who is living in Hoshizuka-Keiaien, a national Hansen's disease facility.Mr. Yoichiro Iwakawa was born in Yaku Island, Kagoshima Prefecture in 1937. He was brought to Hoshizuka-Keiaien at Kanoya City in Kagoshima Prefecture by his father on May 23, 1948.The first interview was practiced on December 26, 2007 at the head's office of the Hoshizuka-Keiaien residents' association. Mr. Iwakawa was 70 years old when the interview was practiced. Interviewers are Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka, and Nao Shimonishi. The follow-up interview was added on August 17, 2008 at the same place with same interviewers as the first one.Currently Mr. Iwakawa is serving as the head of the residents' association of Hoshizuka-Keiaien. It seems he believes that Hansen's disease facilities were helpful for the survival of Hansen's disease patients. Mr. Iwakawa says that he did not feel any loneliness when he was sent to the facility at the age of eleven. He had to transfer the school when his father moved his work place from Yakushima Town Hall to Kagoshima Prefecture Office. He did not have any friends in the new school but met many young patients of his age in the facility to enjoy playing baseball. Thanks to this circumstance, he was able to grow up without loneliness. A few years later his father also entered Hoshizuka-Keiaien (Mr. Iwakawa considers that his father would have received a misdiagnosis) but was released later with the good condition after the Promin treatment. Although everyone in Yakushima knew about the father's Hansen's disease history, it did not disturb his father's 12 years carrier and leadership as a town councilor. His father was a role model of Mr. Iwakawa. His father taught him that he did not need to feel inferior complex for Hansen's disease.Although the effectiveness of the Segregation Policy was weakened, many Hansen's disease ex-patients had to stay in the facility due to the so-called, 'invisible bondage.' However, Mr. Iwakawa left the facility to get his driver's license. He enjoyed his youthful life at his hometown Yakushima as a truck driver. The only concern was the possibility of the recurrence of Hansen's disease for working hard. He had voluntarily returned to Hoshizuka-Keiaien whenever his health condition became worse even if he did not have recurrence symptoms of Hansen's disease. He said, "I have diverse work experiences." He joined in construction work of Ikawa Dam in Shizuoka Prefecture with his colleagues but, sadly, did not earn any salary. He also commuted from Hoshizuka-Keiaien to a gas station run by the owner who understood Hansen's disease well. Mr. Iwakawa occasionally returned to his hometown. He joined in fishing of flying fish on the sea of Yakushima. He also worked as a farmer to grow oranges for 3 years after his father died. He took care of his old mother and also helped his younger sister who divorced for the discrimination for the family members of Hansen's disease. Despite of these experiences, Mr. Iwakawa who became old now says, 'returning to society is difficult for me' and 'my final home is Hoshizuka-Keiaien.' It seems that the facility was a sort of haven for him when he encountered rough waves of society.However, he also says that there were some problems with the Segregation Policy. His father was forced to resign from his work position when he entered the facility, and his sister suffered from mental illness after the divorce for the family history of Hansen's disease. He got married to a woman whom he met in the facility but they were forced to have an abortion when his wife was pregnant. He was the one of the victims of the cruelness of the Segregation Policy.Currently the number of the residents in the Hansen's disease facility is obviously decreasing due to the members' death for age. It means that the fate of the residents' association is not that bright. Mr. Iwakawa, as the head of the association, is struggling to find another future of Hoshizuka-Keiaien.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.121-152, 2011

中村秀子さん(仮名)と村田直子さん(仮名)は、大阪府で生まれ育った姉妹である。秀子さんは1934(昭和9)年生まれ。直子さんは1937(昭和12)年生まれ。聞き取りは、2006(平成18)年3月、秀子さんの自宅でおこなわれた。聞き取り時点で、秀子さんが72歳、直子さんが68歳。聞き手は、福岡安則と黒坂愛衣。この姉妹の語りは、父と兄という男の働き手がハンセン病療養所に「強制収容」されたあとの、悲惨な暮らしぶりをあますところなく証言している。食べるに事欠いた話。遊び相手は誰もいなくなった話。そして、姉は小学校4年で学校へ行くのを止めて、近くの被差別部落の零歳な工場に働きに行った。誰も相手にしてくれない状況のなかでも、近所の素麺屋のおばさんひとりが、素麺の切れ端をこっそりと取っておいてくれたおかげで、生きながらえたという。また、部落のひとたちも、温かかったという。絶望のなかでの一縷の救い、というべきか。戦後まもなく父は邑久光明園で死亡し、ほどなく母も体を壊して死ぬ。姉妹は、「絶対に、こっから動くもんか」と、開き直って生地で生活しつづける。しかし、それは、もとは人の住むところではない「納屋」での暮らしであった。妹は、ひとの勧めで結婚するが、父や兄のことが「バレはしないか」と怯えて暮らす毎日だったと語る。姉妹ふたちの語りは、<意地>と<怯え>という主題を繰り返しくりかえし述べるものとなっている。――ロンド形式の音楽のように、繰り返し同じ主題に立ち返っていく。それだけ、<意地>と<怯え>の想いは、積もり積もったものとなっていて、この聞き取りで噴き出してきたのではないかと思われる。それゆえ、強引な編集によって、時系列にそって筋の通った物語に編み直してしまうことは避け、つねに過去に立ち戻りつつ語られていくという、ふたりの語りの原型をできるだけ保つように留意したことをお断りしておきたい。そしてまた、邑久光明園から多摩全生園に移った兄へのいたわりの話がつづく。それは、兄のどんな我が儘をも受容してきた妹たちの気持ちのあらわれとして語られている。最後は、やっとハンセン病遺族・家族の会である「れんげ草の会」の人たちと出会えたことの喜びが語られる。同時に、家族の立場で国の「隔離政策」に苦しめられてきたことへのお詫びとして、わたしたちの老後を「ハンセン病療養所」で面倒みてくれても当然ではないか、という要望も吐露される。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣 下西 名央
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.153-169, 2011

匿名希望Aさん(女性)は、1915(大正4)年、奄美大島生まれ。国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」が開園したのが1935(昭和10)年秋であるが、彼女は早くも1937(昭和12)年に入所している。1年後、同じ病気の男性と星塚敬愛園から逃走。1943(昭和18)年、外の社会で産んだ子どもを連れて再入所。親許から引き離されて「未感染児童保育所」に入れられた子どもは、1年後に死亡。2009(平成21)年10月の聞き取り時点で94歳。Aさんの語りから、いくつも大事なことがわかる。第1に、星塚敬愛園が開園される以前、奄美大島には「らい病」の治療にあたる医師が1人いて、そのひと自身が「らい病者」であり、大風子の実を取り寄せて、入院患者さんたち自身に製薬させていた、ということ。第2に、やはり、星塚敬愛園が開園される以前から、天理教が、宗教による精神修養という面で、「らい病者」を含むさまざまな病者の救済活動に従事していた、ということ。第3に、「無癩県運動」が展開されていたはずの昭和10年代であっても、星塚敬愛園からの「逃走」は存外、容易だったようであること。第4に、1943(昭和18)年に子連れで再入所したとき、ただちに、子どもはいわゆる「未感染児童保育所」に有無をいわせず入所させられた。語りから推測されるかぎりでは、保育所での粗末な食事ゆえの栄養失調が子どもの死の遠因になったと思われる。療養所側に、「逃走」してまでふたりのあいだにできた子どもの命を、もっと大事にする態勢が用意できなかったのかと、悔やまれる。いや、もっと言えば、ハンセン病者にたいする「隔離政策」がなければこうはならなかったはず、という思いを抑えることはできない。
著者
松浦 智子
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.95-109, 2011

明代に出現した二つの楊家将小説『北宋志伝』と『楊家府演義』には、楊業の第五子である楊五郎が契丹軍の囲みを抜け出し、五台山で出家する情節が見える。一方、宋代に編纂された複数の史書には楊業の息子が僧侶となる記述が見えない。では、史書には見えない「楊家将」の一員が「僧侶」となる故事は、どのような過程を経て出現したのだろうか。最初に「楊家将」と「僧侶」が結びついた例が見えるのは、南宋の話本「五郎為僧」であるが、注目されるのは、その後の元雑劇などに見える楊五郎が、五台山と深い関係を持っていることである。五台山は、仏教の霊場であるとともに、北辺に位置するという地理的条件から、古来、軍事的要衝でもあった。そのため、南北宋交替期の靖康の変の際には、五台山の僧兵たちが、抗金勢力となって金軍と戦った例が宋代の史書に複数みえる。こうした北敵の金と戦った山西五台山の僧兵の姿は、もともと西北系の軍人のために創設された南宋の瓦舎において芸能化されてゆき、それによって、同じく北敵の契丹と戦った山西の英雄「楊家将」の芸能と融合していったと推測される。その結果、五台山に出家し、対契丹戦で活躍する楊五郎の故事が出現したと考えられるのである。