著者
佐竹 真城
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.60, pp.221-254, 2020-03-31

小論で扱う『往生礼讃光明抄』は、神奈川県立金沢文庫管理の国宝称名寺聖教に属する一書で、撰者は法然門下の覚明房長西である。本書について、文永5(1268)年の書写奥書を有していることから、『往生礼讃』の註釈書として最初期に位置付けることができ、史料として貴重である。撰者の長西については、法然の室への入門は遅かったが、後に九品寺(くぼんじ)流と称する一派を形成していることから、法然門下のなかでも重要視される人物である。しかしながら、九品寺流は早くに途絶え、その著作も殆どが早くに散逸していたため、第三者の所伝のほかは詳細を知る術がなかった。ところが、昭和の調査で本書を含めた数点の長西著作が顕出されたのである。以降、学界としてその重要性・貴重性は大いに認識され、真の長西教義が明らかにされることが期待されていた。しかしながら、筆者以前に実際に翻刻された典籍は僅かであり、十分に研究が進展しているとは言い難い。また、これら未翻刻の典籍には、同時代に活躍した浄土宗第三祖良忠への影響を指摘することができる。如上の点から、長西研究のみならず、当時の法然門下の交流や思想交渉など、従来知られていなかった点を明らかにする上で、貴重な史料と成り得ると考える。よって小論は、長西研究ならびに中世浄土教研究の進展を期して翻刻を公開する。

5 0 0 0 OA 口絵

著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.60, 2020-03-31
著者
古俣 達郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.107-137, 2018-11-30

本稿では、明治末のアメリカ人留学生で日本学者であったチャールズ・ジョナサン・アーネル(Charles Jonathan Arnell 1880-1924)の生涯が描かれる。今日、アーネルの名を知るものは皆無に等しいが、彼は一九〇六(明治三十九)年に日本の私立大学(法政大学)に入学した初めての欧米出身者(スウェーデン系アメリカ人)である。その後、外交官として米国大使館で勤務する傍ら、一九一三年に東京帝国大学文科大学国文学科に転じ、芳賀矢一や藤村作のもとで国文学を修めている(専門は能楽・狂言などの日本演劇)。卒業後は大学院に通いながら、東京商科大学(現:一橋大学)の講師に就任し、博士号の取得を目指していたが、「排日移民法」の成立によって精神を病み、一九二四年十一月、アメリカの病院で急逝した。
著者
田村 美由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.75-100, 2023-03-31

本稿は、武田泰淳と武田百合子の口述筆記創作に着目し、書くことの協働性が具体的な文学実践のなかにどのように織り込まれているのかを考察するものである。 二人は「男性芸術家とその妻」であり、創作現場における「口述者と筆記者」でもあったが、作家夫婦にしばしば生じる支配と従属の関係とは一線を画するものとして、肯定的に評価されることが多い。しかしながら、二人の関係性を無前提に称揚してしまうことは適切ではないだろう。重要なのは、二人の関係性が望ましいものであることを論の前提とするのではなく、何がそうした関係を切り拓く鍵となっていたのか、その背景を解きほぐしていくことである。本稿では、泰淳の病後、百合子の筆記によって彼の執筆活動が成り立っていたことに目を向け、書くことのディスアビリティに対峙した両者の姿から見えてくる問題について、ケアや中動態の概念を補助線に検討をおこなう。 分析対象に取り上げる『目まいのする散歩』(1976年)は、病後の不如意の身体に対する泰淳の意識が強く反映されており、書く行為を他者に委ねるという状況を彼自身がどのように捉えていたのかを考える上で興味深いテクストである。テクストに示された自律した主体像への懐疑的なまなざしを、中途障害を抱える自らに対する内省として捉え、そうした依存的な自己のありようを凝視することが、他者との開かれた関係を構築する契機となっていることを明らかにする。 また、テクスト後半のロシア旅行に関する章で用いられる百合子(筆記者)の日記を借用するという方法に焦点を当て、それが「書かせる」(能動)/「書かされる」(受動)という単純な二元論に回収し得ない、書くことの協働性に結びついていることを論じる。ケアの思想に基づくこれらの分析を通して、一方的な搾取や支配の関係ではなく、互いの他者性や依存性を否定しない倫理的な関係を築くための視点を導出することが本稿の目的である。
著者
永塚 憲治 上田 眞生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.423-465, 2022-10-31

近世にさまざまな形式で制作されてきた艶本、その総数は一説に拠れば、多く見積もった説では三千点を超えるとされ、少なく見積もった説では千二百点と言われており、いずれにせよおびただしい数の艶本が出版されていたことが分かっている。今回紹介する艶本は、稿者の一人の永塚が京都の古物商からネットオークションで入手したものである。 艶本に於て性典モノはしばしば見受けられ、その中で春薬(強壮剤や催淫剤等の性行為を助ける薬の総称)が登場するも、春薬の処方集というのは、他にあまり例を見ない形式の艶本である。この春薬というものは、元々中国で生まれたもので、今回の欠題艶本でも漢の武帝や陶真人(陶弘景)や唐の玄宗といった中国史上で著名な人物に由来するとされている。この艶本には、全部で二十三の春薬を載せるが、「艶薬奇方」ではその効能・用法を、「春意奇方」ではその構成する生薬と修治などの製造に関わる記述を載せており、実用に適った形式を取っている。 全二十三の春薬の内、例えば、「固精丸」は、明の嘉靖15年(1536)に刊行された房中書の『素女妙論』に載る「固精丸」と処方名が同じで、構成する生薬もほぼ同じものが載せられている。一般に『素女妙論』と言えばヒューリックの『秘戯図考』に所収の「丙寅仲冬」の「序」を載せるものだが、それではなく嘉靖15年に刊行された『素女妙論』は、戦国時代の医師である曲直瀬道三によって『黄素妙論』として和語に抄訳されている。この『黄素妙論』は、後の時代に艶本や養生書に取り込まれ、近世日本の房中書の流通の中核となっている。春薬の研究は、房中書と艶本という共にアンダーグラウンドの出版物であった為か、依然として不明な点も多い。そこで今回は解題・翻刻をして江湖に問うことにした。本稿は、この知られざる日中交流の歴史を明らかにする為の基礎作業であり、諸賢の指摘・叱正を請うものである。
著者
春藤 献一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.131-161, 2021-10-29

本論文は「動物の保護及び管理に関する法律」(1973年成立)の下で行われた動物保護管理行政における、飼い猫の登録制度や、野良猫用の捕獲器貸出制度、駆除目的に捕獲された猫の引取りといった施策を論じたものである。 同法により行政は、猫の虐待防止や適正な取扱い等の保護と、猫による被害から人を守る管理を行うようになった。飼い猫の登録制度や野良猫の捕獲は、猫の保護管理に関する実験的施策であった。 1976年11月、静岡県島田市は「ねこの保護管理要綱」を定め、施行した。要綱は前例のない、飼い猫の登録制度と野良猫の捕獲制度を定めた。要綱は県内で相次いだ猫による咬傷事故の防止と、飼い猫や野良猫に関する苦情への対応を目的としていた。市は市民に飼い猫の登録を指導する一方で、野良猫の捕獲を希望する市民には捕獲器を貸出し、捕獲された猫を引取った。この施策により市では猫に関する苦情が大きく減少した。 野良猫を捕獲し殺処分する施策が実施されたことからは、猫による危害防止と苦情への対応が、行政として重要度の高い課題として理解されていたことが示唆された。 この施策は1982年以降、政府発行物により全国の自治体へ類似事例と共に共有され、政府が飼い猫の登録や野良猫の捕獲を実質的に追認していたことも明らかとなった。また政府は1982年に、飼い猫の登録と野良猫の捕獲の是非を問う世論調査を実施し、過半数の賛成を得てもいた。この調査が実施されたこと自体からも、政府が猫の登録や捕獲を、実行性の高い施策として検討していたことが示唆された。 また一部の自治体では要綱等を定めず、行政サービスとして捕獲器の貸出しが行われていたことも明らかとなった。 これらの議論から「動物の保護及び管理に関する法律」の下では、捕獲と殺処分という「排除」の方法による施策が一部の自治体で行われ、猫の管理が行われていたことが明らかとなった。
著者
石野 浩司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.187-241, 2022-10-31

泉涌寺「霊明殿」とは、歴代天皇の位牌(尊牌)を安置する施設である。天皇即位儀礼および宮中祭祀と関連して、宮内庁の月輪陵墓祭祀との関係性を維持している。 1. 泉涌寺が天皇家喪葬に関与し始めるのは、通説の仁治3年(1242)四条天皇喪葬からではない。『四条院御葬礼記』に見える御前僧は顕密僧であって、いまだ古代の天皇喪葬制の範疇に留まり、禅律僧らが「一向沙汰する」中世喪葬儀礼には移行していない。 2. 後光厳上皇の応安7年(1374)以降、泉涌寺創建伽藍を儀礼空間として完備された天皇喪葬儀礼(泉涌寺と安楽光院との共同運営)は、後円融・称光・後小松天皇と北朝四代の常例となる。この後光厳院流に対して、崇光院流の般舟三昧院が対抗する。 3. 応安例を画期として、泉涌寺「法堂」における龕前堂儀礼、「十六観堂院」中庭での火葬(山頭儀礼)と拾骨(『称光天皇御葬礼記』)、そして持明院統の離宮「伏見御所」域内に嘉元2年(1304)に建立された後深草上皇の葬堂「深草法華堂(安楽行院)」への納骨という、この三部構成が北朝皇室の喪葬伝統を形成する。 4. 応仁2年(1468)に泉涌寺伽藍「法堂」「十六観堂院」以下が全焼すると、明応9年(1500)の後土御門天皇「明応例」を画期として、仮設建物(仮法堂を含む)で代用された「龕前堂・山頭儀礼」が後柏原・後奈良・正親町・後陽成天皇まで式微五代の慣例を形成する。 5. 承応3年(1654)後光明天皇喪葬が、寛文8年(1668)仏殿再建以前であったこともあり仮設建物で執行された。この「承応例」(火葬儀「明応例」を土葬儀へと入句を改編したもの)が幕政下の規範とされたために、敢えて復興伽藍を使用しない仮設式「龕前堂・山頭儀礼」(これに実質的な埋葬「廟所」儀礼が加わる三部構成)が定着する。近代大喪儀「葬場殿」の雛型は、かかる泉涌寺の宋風儀礼であった。 6. 後陽成灰塚以下に模倣されるためには、四条天皇陵の九重石塔が同域内で規範性の高い建造物として認識されていたことが前提となる。般舟三昧院との争論を背景として四条陵石塔が移築再建、北朝皇室の荼毘所「十六観堂院」旧跡に月輪陵墓が形成される。 7. 十六観堂院旧跡に対して、江戸初期三代の天皇陵の慣例が回避的である。一方で後水尾院統の先祖二代と後宮は十六観堂院旧跡に「家族墓」の特異態を形成する。 8. 四条院御影堂の再興を発端とする泉涌寺復興は、寛文6年(1666)「御位牌堂(霊明殿)」創建に結実する。「承応例」以降の天皇家喪葬の典拠が『朱子家礼』である以上、位牌祭祀の空間「霊明殿」も礼制上は朱子「祠堂」と見做される。先祖祭祀を前四代に限定する朱子学礼制は、かくて明治41年『皇室祭祀令』「先帝以前の三代」に継受された。 9. 月輪陵成立過程における後水尾院統「家族墓」構図は、そのまま後水尾院統「家廟」としての創建霊明殿の位牌の配置に反映される。 10. 東山天皇陵を画期とする江戸中期100年間、月輪陵墓は天皇・嫡后だけに占有された埋葬空間「皇室の嫡流陵墓域」を成立させる。一方で嫡出皇子への特殊配慮が見られ、光格天皇以降を後月輪陵と区別する。 11. その「皇室の嫡流陵墓域」構図は、嫡出皇子への特殊配慮も含めて、そのまま弘化再建霊明殿の尊牌配置に反映されている。 12. 元来、後水尾院統「家廟」として成立した寛文創建「霊明殿」は、「嫡流陵墓域」月輪陵に対応して、祭祀する位牌は限定的であった。その限定を解除して「皇室の宗廟」を企図したのが明治9年「尊牌合併令」である。ここに後光厳院流「安楽光院+泉涌寺(北京律)」と崇光院流「安楽行院+般舟三昧院(天台兼学)」という中世後期以降二系統に分裂してしまった天皇家の先祖祭祀が一元化される。かかる位牌祭祀の泉涌寺一元化とは、明治11年(1878)制定「春秋二季皇霊祭」への階梯であった。 13. 明治15年(1882)焼失を好機として、明治16年(1883)の勅命により、明治17年(1884)に宮内省造営で近代霊明殿が成立する。古代の山陵祭祀とは異なる要素として、中世後期以降の宋礼継受により導入された祭祀主体「位牌(朱子学の神主)」形式が、皇霊祭祀の成立要件に組み込まれたことを意味する。かかる近代霊明殿を雛型として、明治22年(1889)に宮中三殿「皇霊殿」が完成した。 14. 近代成立の皇霊殿祭祀に包含される皇統意識とは、復古された山陵祭祀(律令制「近陵」)ではなく、むしろ中世・近世天皇家の「イエ」的な先祖祭祀(廟所としての「月輪陵墓」・家廟としての泉涌寺「霊明殿」)を内実として継承したものである。朝廷内の意思疎通と朝幕間の儀礼的交渉をへて治定された泉涌寺「月輪陵墓」の格式(規模と形式)には、近世皇統意識が可視化されている。
著者
山村 奨
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.111-130, 2021-03-31

近代日本において「人格」という言葉にどのような意味が与えられたのかという点と、その影響について論じる。まず1912 年に出版された『英独仏和字彙』において、Personificationという言葉に「人格化」という訳語があてられたことに対して、この言葉にどのような意味が想定されていたのかを考察する。その際、特に『英独仏和字彙』の編者である井上哲次郎と中島力造の主張を参照する。「人格化」は一般的に、「擬人化」と同様の意味で用いられている。しかし、中島の考える人格は、人間に元来ある「人格になる萌芽」、種のようなものであり、育てていくべきものである。さらに中島は、人格を自ら変化させ、よりよい状態にしていくことを主張する。中島にとって人格は道徳的な意味を含んでおり、向上させていくものである。それは井上にとっても同様であり、この点から、井上と中島らがあてた「人格化」の訳語には、よりよい状態への変化の意味があると考えられる。 中島は人格の向上のために修養を求めたが、続いて、近代日本における修養の考え方について、陽明学との関連で考察した。明治期には時代的な影響から、陽明学による精神修養を国家主義に援用する向きもあり、本論文では吉本襄や東敬治を紹介した。それに対して亘理章三郎は、陽明学によって「人格修養上の教訓」を得ようとしている点が、特徴的である。亘理には、中島や井上が人格に道徳的な意味を持たせて、その向上を求めた人格観と共通の要素がある。 最後に、安岡正篤の陽明学観を取り上げた。安岡は『王陽明研究』の中で「人格」を重視する姿勢を見せる。それを井上哲次郎の影響とする研究もあるが、本論文では安岡が特に参考文献として書名を挙げている高瀬武次郎や亘理章三郎の影響について言及した。安岡は近代日本の学術をまっとうに吸収し、陽明学が内面の修養に援用できることを主張していた。
著者
フィットレル アーロン
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.60, pp.9-38, 2020-03-31

本稿では、二重文脈歌の翻訳方法について検討し、翻訳の改善に向けて、翻訳方法を提案してみた。古典文学、特に和歌を外国語に翻訳する際、掛詞という、日本語の語彙と構造と深く関わる修辞法を目標言語にも伝えるのは極めて難しいことである。掛詞の一方である景物ともう一方である人事との間に、音声以外の共通点が見出しがたい場合、目標言語への翻訳または反映がさらに困難で、先行翻訳において様々な工夫がなされてきてはいるものの、問題が解決されているとは言い難い。そもそも、掛詞は種類も、一首の和歌の中での数も多く、縁語とともに出てくる例も多い。また、景物と人事の関係もさまざまであり、ときには音の繫がり以外の関連が見つけにくい例もあるが、景物と人事の性質が類似する例も多い。稿者は和歌のハンガリー語訳も行っているため、本稿ではハンガリー語訳を中心に、翻訳または反映が最も困難であると考えられる、多くの掛詞と縁語を使用した二重文脈歌の西洋の言語への翻訳方法について考察した。最初に、掛詞の本質について、同音異義の修辞法に関する主な先行研究を参考にして確認した。次に、外国語訳が複数ある『古今和歌集』と『新古今和歌集』、『百人一首』の二重文脈歌を中心に、英訳と独訳の先行例をとおして、二重文脈歌の現在までの翻訳方法を検討し、11 の翻訳方法を識別し、例をあげて分析し、その問題点を示した。最後に、掛詞の本質をより正確に伝達する翻訳方法を提案し、翻訳実践を行った。上記の検討と合わせて、二重文脈歌の特質を最も正確に伝える翻訳方法は、景物の文脈を表面に出し、人事の文脈を潜在化して、言葉の選択または擬人法によって暗示する、寓喩的な方法であると結論付けた。
著者
マスキオ パオラ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.81-106, 2018-11-30

『寓骨牌』(天明七[一七八七]年刊)は、その時期に江戸で大流行していた「めくりカルタ」(ポルトガル由来のトランプカードで行われるカードゲーム)を擬人化して登場させる山東京伝の黄表紙である。従来の研究では、珍しい題材の擬人者の一つとして挙げられてきたが、特に意義があるとはされてこなかった。しかし、当時の読者が持っていためくりカルタの知識を意識しながら本作を読むことで、その構成や娯楽性を理解することができる。 本稿ではまず、めくりカルタの基礎知識や遊び方を紹介し、『寓骨牌』でそれぞれの札がどのように擬人化されているかを分析した。『寓骨牌』の擬人化の手法はゲームにおける役割を反映しているといえる。例えば、クラブ・スペード・ダイヤ・ハートに当たるハウ(青札)・イス(赤札)・オウル・コップの四種一~十二の計四十八枚のうち、最大の点数が付く青札の六は、姫君の六大御前として擬人化されている。実際のゲームで点数の高い札が狙われるように、『寓骨牌』の物語で六大御前はさまざまな登場人物に思いを寄せられる。 次に、作品の趣向を考察した。「めくり」のルールを意識しながら物語を読んだ結果、登場人物の関係もゲームを反映していることがわかる。例えば、赤蔵がお七と桐三郎を追いかけている時に、鬼と幽霊が突然現れて難儀を救う場面は、ある遊戯者が赤札の七で青札の七を取ろうとしている様子に、ジョーカーのような役割を果たす鬼札や幽霊札が突然現れるゲームの様子に見立てられている。よって、『寓骨牌』は「カルタ見立て」の趣向を持っているといえる。 このような解釈によって、山東京伝の擬人物黄表紙における『寓骨牌』の位置付けを改めて考察することが必要になる。京伝が『御存商売物』(天明二年)で人気作者となってから素材を変えて同じパターンで天明期に執筆した擬人物黄表紙と比較して、『寓骨牌』では擬人化された札にお家騒動に見立てためくりの勝負を演じさせることで、「お家騒動の擬人物」の趣向をさらに複雑にし、凝りに凝った作品を生み出した。この後、寛政の改革以降の大衆化した京伝の黄表紙には、そのように細かく編まれた擬人物は見出されない。そのため、『寓骨牌』は京伝の擬人物黄表紙の到達点と見なせるのではないか。
著者
カウテルト ウィーベ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.7-35, 2019-10-10

日本から東インド会社を通じて輸入された高価な陶芸・染織品・漆工芸品などの珍品は、17世紀後半に北西ヨーロッパ貴族たちの手に渡り、とりわけ日本の着物は大人気を博した。また、漆工芸においては豪華に装飾された蒔絵簞笥が驚くほどの高値で販売された。これらの珍品にみられる日本美はウィリアム・テンプル(一六二八~一六九九)によって「シャラワジ」(sharawadgi)として紹介され、「シャラワジ」はイギリス風景式庭園の発展のきっかけになる言葉になった。本論では、この日本美の伝播経路と、江戸期の「洒落」と「味」の美学、現在の「しゃれ味」とのかかわりに迫ってみた。鍵なる人物は、オランダ人の文人ホイヘンス(一五九六~一六八七)と商人ホーヘンフック(?~一六七五)であった。これまで300有余年、謎の言葉であった「シャラワジ」を、当時のエッセイ、貴族の手紙や日本工芸品から解明し、江戸時代の工芸家の「しゃら味」の美学であると結論付けようとするものである。
著者
小林 善帆
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.51-89, 2022-03-31

本稿は、明治初中期、いけ花、茶の湯が遊芸として捉えられながらも、礼儀作法とともに女子教育として高等女学校に、条件付きで取り入れることを許容された過程を考察するものである。手順としてまず教育法令の変遷を遊芸との関係から確認し、次に跡見学校、私塾に関する教育・学校史資料の再考、続いて欧米人による記録類や、欧米で開催された万国博覧会における紹介内容をもとにして、検討を加えた。 教育法令の変遷と遊芸との関係を見ると、1872年「学制」頒布においていけ花、茶の湯は遊芸と捉えられ、教育にとって有害なものであり不要とされた。このことから茶の湯研究が、1875年跡見学校で学科目として取り入れた、としていることは考え難い。いっぽう、1878年のパリ万国博覧会、1893年のシカゴ万国博覧会において、いけ花や茶の湯が女子教育として位置づけられた。それは1879年のクララ・ホイットニーの日記や1878年のイザベラ・バードの紀行からも窺えることであった。 また改正教育令が公布された1880年、「女大学」に初めていけ花、茶の湯が、余力があれば学ぶべき「遊芸」として取り上げられた。さらに1882年、官立初の女子中等教育機関の学科目「礼節」のなかに取り入れられたことは、いけ花、茶の湯が富国強兵という国策の女性役割の一端を担うことになったといえ、ここで女子の教育として認められたと考える。 そのいっぽうで1899年、高等女学校令の公布においていけ花、茶の湯は学科目及びその細目にも入れられなかった。しかし同年、福沢諭吉は『新女大学』で、いけ花や茶の湯は遊芸であっても、学問とともに女性が取り入れるものと説いた。 そして1903年、高等女学校においていけ花、茶の湯は必要な場合に限り、正科時間外に教授するのは差し支えない、との通牒が出された。遊芸を学校教育で課外といえども教えてよいかの是非が問われ、「必要な場合に限り」「正科時間外」という条件付きで是となったのであった。
著者
田村 美由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.173-188, 2021-03-31

本稿は、口述筆記創作における〈男性作家―女性筆記者〉というジェンダー構成に着目し、近代作家を取り巻くケア労働の問題の一端を明らかにするものである。公的領域における自律した主体概念と密接に絡みつく形で周縁化されるケア労働の問題は、作家の有名性の陰でシャドウワークとして扱われてきた女性筆記者の不可視化の構造とも通底している。 本稿では、まず作家という職業において公的領域と私的領域との境界確定がいかにおこなわれているのかを確認し、特に女性筆記者の営為が評価の対象から取りこぼされ、搾取される構造をケアの論理と重ねて整理した。そのうえで、実際に谷崎潤一郎の筆記者を務めた伊吹和子(1929 ~ 2015 年)の回想記の記述を導きに、口述者と筆記者との交渉の実態や口述筆記の現場に生じる摩擦や軋轢のありようを具体的事例として検討した。特に、伊吹が筆記者としての自身のスタンスを示すなかで繰り返す「〈書く機械〉になる」という自己認識に焦点を当て、自らの立場を非人格化した無機質なライティング・マシーンに重ね合わせる一見受動的な自称が、女性が労働する身体として主体化する際の戦略的な構えであると同時に、 筆記者の役割を矮小化する評価構造への抵抗にも繋がることを指摘した。 また、〈書く機械〉として伊吹が口述筆記の現場に参画することが、谷崎が〈小説家になる〉 という生成変化と表裏一体に立ち上がるものであることを考察した。これは、支配や抑圧といった紋切り型の言葉で表象されざるをえなかった口述者と筆記者との固定化した主従関係に風穴を開け、ケアの実践に根ざした関係性のなかにその営みを位置づけるうえで有効な視角となる。伊吹の言葉から谷崎との相互依存性を読み取ることで、口述筆記創作の現場を口述者と筆記者双方におけるアイデンティティの形成と承認の空間として捉えることが可能になると結論づけた。
著者
スムットニー 祐美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.35-67, 2021-03-31

本論文は、16 世紀末に来日したイエズス会東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが作成した茶の湯関連規則が、千利休によって形成されたわび茶の影響を受けていた可能性について、ローマイエズス会文書館所蔵の史料を用いて検証するものである。 ヴァリニャーノは日本視察を通して意図の異なる2 つの茶の湯関連規則を作成し、修道院内に茶の湯による接客態勢を整えた。その規則とは、1579 年から1582 年までの第1 次視察中、豊後(大分)において作成された『日本の習俗と気質に関する注意と助言』(Advertimentos e avisos acerca dos costumes e catangues de Jappão 以下、『日本イエズス会士礼法指針』と称す)と、第2次日本視察を終え、1592 年に滞在先のマカオにおいて作成した「日本管区規則」である。本稿では主に、後者に収録されている「茶の湯者規則」(Regras para o Chanoyuxa)と「客のもてなし方規則」(Regras do que tem comta de agasalhar os hospedes)を扱い、そこに示されている茶の湯規則と利休の茶の湯の心得との共通点を明らかにする。 本稿では『日本イエズス会士礼法指針』から、ヴァリニャーノの指示によって修道院で行われた茶の湯の準備態勢について検証したのち、「茶の湯者規則」「客のもてなし方規則」との相違点を浮き彫りにする。さらに、後者に示されている精神性と、『南方録』の「覚書」にみる利休の茶の湯の心得との共通性を検証する。以上の研究で導き出された結果から、「茶の湯者規則」と「客のもてなし方規則」には、わび茶の影響が及んでいたことが明らかとなった。
著者
浜野 真由美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.7-43, 2020-11-30

奈良県立美術館に所蔵される「架鷹図屛風」は、曽我直庵(生没年不詳、桃山時代)の架鷹図に和歌賛が認められた紙本著色押絵貼六曲一双屛風である。本作は、大正7 年(1918)刊行の『国華』339 号で『国華』主幹の瀧精一(1873~1945)氏により「島津公爵家所蔵の直庵の鷹図」として紹介されており、数ある鷹図の中でも直庵の精緻な画技が際立つ作である。しかし、本作は、これまで直庵の画蹟として取り上げられることはあっても、宮廷貴族による寄合書として考究されることはなかった。当該期を代表する能書である近衛信尹(1565~1614)の関与が推定されながら、和歌賛の筆者も定まらず、制作の時期やその背景も不明のままとなっていたのである。本作の成立事情に着目することは、近世初期の宮廷における文芸活動、とりわけ近衛信尹の書作を解明するきっかけにもなるだろう。したがって、本稿では宮廷貴族の寄合書という新たな視点から、本作の成立事情を明らかにすることを目標とした。まず、和歌賛の書風と花押から筆者6 名を確定し、慶長13 年(1608)から同19 年の間に制作された作であることを導き出した。さらに、本作の鷹繋ぎの作法が近衛家の家人であった下毛野氏の鷹術に基づくこと、近衛家に伝来する近衛信尹筆「鷹画賛」が本作に類似する構成であること、そして近衛家と島津家との緊密な関係などを勘案した結果、本作は島津家が発注し、近衛信尹が斡旋した作であるとの結論に至った。 また、上述した制作時期は、徳川幕府によって公家への統制が強化された時期に相当する。放鷹禁止に始まる公家統制政策は、幕府と朝廷との間に軋轢を生み、後陽成天皇(1571~1617)を譲位へと至らしめる。そうした最中、放鷹を主題とする屛風が、放鷹権を否定された公家によってプロデュースされ、島津家へと渡っていたという事実は、宮廷文芸の在り方が時代の動向とも無関係ではなかったことを想像させる。
著者
西田 彰一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.139-167, 2018-11-30

本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。 水上の活動は、国民一人一人に国家にふさわしい「自覚」を促すものであった。この水上の提唱によって作り出された記念碑が、国民精神の具現化であり、同時に筧の思想の可視化である「誓の御柱」なのである。この記念碑の建設運動は、滋賀県に建てられたことを皮切りに、水上が病死した後も彼の友人であった二荒芳徳や渡邊八郎、そして筧克彥らが結成した大日本彌榮會に継承され、他の地域でもつくられるようになった。こうした大日本彌榮会の活動は、特に秋田の伊東晃璋の事例に明らかなように、宗教的情熱に基づいて地域を良くしたいという社会教育に取り組む地域の教育者を巻き込む形で発展していったのである。 この「誓の御柱」建設運動の真価は、明治天皇が王政復古の際に神々に誓った五箇条の御誓文を、国民が繰り返し唱えるべき標語として読み替え、それを象徴する国民の記念碑を建てようと運動を展開したことであろう。筧や水上たちは、国民皆が標語としての御誓文の精神に則り、建設に参加することで、一人一人に国家の構成者としての「自覚」を持たせ、秩序に基づいた形で自らの精神を高めることを求めたのである。そしてこの大義名分があったからこそ、「誓の御柱」建設運動は地域の人々の精神的教化の素材として伊東たち地域で社会教育を主導する人々にも受け入れられ、日本各地に建設されるに至ったのである。
著者
木下 昭
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.301-319, 2022-10-31

アジア太平洋戦争中、多くの地域で、後発の帝国であった日本が、欧米諸国にとってかわって統治権を得ることになった。この支配の交代によって生じた変化を被支配者がどのように受け止めたか、そのなかで新旧帝国間にいかなる関係が見いだせるか、これらを論じることは日本帝国に対する考察を深める上で極めて重要である。 この帝国支配の移行に伴って、日本が占領下で力を注いだのが日本語を中心とする教育である。なかでもフィリピンに注目すべきなのは、日本の侵攻により全土で普通教育が複数の帝国によって施された、アジアでは希有な地域となったことである。普通教育に用いる大規模な人的物的資源や言語能力などの被支配者への広範囲に及ぶ影響を鑑みるとき、この教育を要に帝国、そして帝国間関係を論じる意義は高い。そこで本稿では、日本占領下の普通教育に関するフィリピン人たちの記憶を回想録や聞き取り調査結果を使って分析し、日本による教育がフィリピン人たちにどのように意味づけられたのか、そのなかで先行したアメリカ支配がどのような影響を与えているのかを考察した。 日本占領が甚大な被害をもたらしたフィリピンで、日本の教育に対して人々が残した言葉には、恐怖や暴力の経験が生み出す「均質化の語り」だけではなく、積極的な評価もあった。この要因として注目したのは、民間人と軍人の二種類の日本人教員の存在である。民間人教員は派遣の要件が英語力であり、これが彼らの勤務に肯定的な認識をフィリピン人にもたらしたと考えられる。というのも、アメリカ統治下の教育により、英語がフィリピンで文明化と社会的地位を表象するようになっており、民間人教員はその能力ゆえに文明の基準に沿うことになったからである。 このことは、フィリピンのアメリカ化を打破するために導入した日本の普通教育が、アメリカの普通教育によって進んだ文明化を基盤としていたことを反映している。フィリピン人たちの日本統治下の記憶は、この新旧二帝国の普通教育政策のかみ合わせから生み出されたと考えられる。