著者
茶園 敏美
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2013, pp.128-162, 2014-03-31

本論は、占領期の日本をあらゆるひとたちが相互交渉し対処する場を、「コンタクト・ゾーン」としてみる。それはたんに、勝者米国が敗者日本を統治したというだけではなく、日本のおんなたちとGI(米兵)が対等に相互交渉をおこなっているということを明らかにする。とりわけ本論では、1人のGIと関わる、「オンリー」や「オンリー・ワン」と呼ばれていたおんなたちに注目する。具体的には、占領期に京都社会福祉研究所が調査した、26名のおんなたちの口述記録を考察する。彼女たちは、GIと性的な関係を持ったという理由で性病検診を強制的に受けさせられたおんなたちである。彼女たちは「高級街娼」とみなされ、「オンリー・ワン」と分類された。さらに本論では、さまざまなおんなたちがお互いに助け合う可能性についても論じる。とりわけ、占領期に実施された強制的性病検診を受けるために待つ空間であった、病院の待合室に注目する。病院の待合室はGHQや日本政府がおんなたちの間に「分断支配」[Enloe 2000 ; エンロー 2006]を持ち込もうとする空間であるからだ。本来、あらゆる立場を超えておんなたちが、一斉検挙という暴力に対して互いに手を結ぶことができるにもかかわらず、当局側の「分断支配」によって被害を受けているおんなたち同士が互いに反目しあう状況が生み出される。だがコンタクト・ゾーンという視点で彼女たちとGIたちとの関係に注目すると、エンローの「分断支配」も、彼女たちを調査した研究員たちのように一義的な力関係を前提とする分析にすぎないことがわかる。彼女たちは、これまでの既存の枠組みでは分析できないおんなたちである。「規範」のものさしで彼女たちを測ることをやめたとき、彼女たちのことをもっと理解することができるだろう。
著者
石田 智恵
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, no.2014, pp.56-82, 2015-03-31

本論文は、1970年代後半アルゼンチンの軍事政権下で反体制派弾圧の方法として生み出された「失踪者」の大量創出という文脈において、日本人移民とその子孫、およびかれらのコミュニティがどのような位置を占めていたか、また「失踪」にいたった日系人たちの政治参加において出自やネイションはいかなる意味を持っていたのかについて、軍政下の国民社会をコンタクト・ゾーンとして捉えることで考察する。軍部は「反乱分子」とみなした人々を次々と拉致・拘留・拷問しながら、被害者を「失踪者」と呼んで行為を否認することで、社会全体を恐怖によって沈黙させた。この体制はコンタクト・ゾーンそのものを消失させようとするものである。日系コミュニティは、アルゼンチン社会における「日本人」に対する肯定的イメージの保守を内部規範とし、個人の政治への参加をタブーとすることで、軍政に翼賛的なモデル・マイノリティを生み出す装置として機能していた。70年代の若者たち「二世」の多くは「日本人」の規範を抑圧と感じ、そこからの離脱に向かった。重複する国家とコミュニティの規範を破り、別様の社会を求めて政治に参加することは「失踪」の対象となった。「日系失踪者」たちの思想や行動についての周囲の人々の語りから、かれらが身を投じた政治とは、個人の社会性・政治性の否定の上に成り立つ国民の安全保障を拒否し、コミュニティを媒介したネイションへの同一化ではなく、個人の位置を自ら社会につくりだすことで社会を変えるための方法であったと理解できる。
著者
浮ヶ谷 幸代
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.10, no.2018, pp.186-209, 2018-06-30

本稿は、医療人類学におけるナラティヴ・アプローチの批判点を踏まえつつ、非言語的活動としてのパフォーマンス活動を通して、参与観察とインタビューとを併用させた調査方法により、聴き取る側の構え(態度)とその記述について人類学的研究の可能性に挑戦するものである。本稿で取り上げる事例は、精神医療を専門とする北海道浦河ひがし町診療所(以後、診療所)のナイトケアで繰り広げられる「音楽の時間」でのパフォーマンス活動である。浦河町では国際的に評価を得ている<浦河べてるの家>の当事者研究があるが、それは言語的表現が前提となる。ところが、診療所の当事者メンバー(以後、メンバー)には人前で話すのが苦手である、もしくは語る言葉を獲得できない人たちがいる。彼らにとって非言語的活動としてのパフォーマンスは、「生きていること」を実感できる活動となっている。診療所ではスタッフもメンバーもコーディネーターも「音楽活動はセラピーではない、プロを目指すわけではない」という理念を共有し、参加者は「音楽はコミュニケーションである」という命題のもと、みる、きく、たたく、わらう、おどる、という身体表現が創出する場として「音楽の時間」を享受している。パフォーマンス活動に参加するメンバーの「生」を描き出すために、「ミュージッキング」(クリストファー・スモール)と「生きていること」(ティム・インゴルド)という概念を参照枠とし、パフォーマンスそれ自体がメンバーの「生」の表現の一つであり、それが日々の暮らしを「生きていること」と連続していることを示す。さらに、語り手と聴き手との関係性を描き出しながら「聴き取ること」の相互行為性について考察し、語り手の「生」と聴き手の「生」が地続きであることの可能性について考察する。本稿でのアプローチは、ナラティヴ・アプローチの批判を回避すると同時に、近代社会の二元論的思考を瓦解する試みとなることを示す。
著者
風戸 真理
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.347-366, 2017-12-31

本論では、装い(ドレス)の中でもとくに装飾機能の強い身体装飾に焦点を当て、日本の女性の子どもがおこなう身体装飾の時間変化、その過程で直面する葛藤、そしてやがて大人になった女性の身体装飾と社会の関係を記述した。その上で、身体装飾に関する子ども・大人・社会の交渉と、審美性をめぐる規範・流行・便宜について考察した。なお身体装飾は、アクセサリーの着用、身体彩色(化粧)、身体変工(ピアス、タトゥーなど)の3つに分類した。結果としては、第一に、現代日本の子どもの身体装飾は学校という制度の中で、化粧を端緒として開始されていた。そこでは審美性や娯楽性とともに、校則への抵抗、教師との交渉、仲間との同調や差異化などの社会関係が重視されていた。第二に、身体装飾は学校・アルバイト・就職活動・親との関係において抑制されていた。とくに身体変工をめぐっては、外的な抑制、内的な抑制、身体的な困難が葛藤要因となっていた。第三に、大人の身体装飾と社会との関係については、流行歌の歌詞を分析した結果、最も日本社会に親和的なのは身体彩色であったが、ピアスやタトゥーに関しても豊かな表現が見られた。アクセサリーを外す行為は私的な親密さを帯びた身体の出現を示し、装身具には公私をスイッチングする道具としての機能が認められた。審美性の観点から、身体装飾をめぐる規範・流行・便宜の関係について検討すると次のことがいえるだろう。人びとは環境とのすり合わせにより社会適応的な装身の輪郭を探り、その範囲内で他者との差異化を図ったり、流行に同調したりすることをおしゃれとして楽しんでいた。また、身体変工には逸脱を含む多様な意味づけがなされていたが、身体の審美的価値を効率的に高めるために、身体変工の実利性、便宜性が評価される側面もみいだされた。
著者
立木 康介
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.290-303, 2019-08-31

精神分析がめざすのは、「ナラティヴ」を構築することではない。反対に、ひとつの物語が隙なく語られれば語られるほど、精神分析家はますますそれに用心する。そのような語りはfadenscheinig、すなわち「見え透いている」とフロイトは述べた。ジャック・ラカンが繰りかえし強調したように、治療のなかでわれわれに作業させるもの、いや、より単純に、(それじたいが)作業するもの、それはパロール(話すこと、話された言葉)にほかならない。ラカンによれば、治療においては「パロールがすべての力〔権力、pouvoirs〕を、すなわち治療の特別な力を握る」。なぜなら、無意識はパロールを通るからだ。といっても、その道筋は無数にあるわけではない。無意識が、いや無意識の「一端」がパロールのなかに顕れるとき、そこにはひび割れや歪みが生じ、その結果、パロールは形が崩れ、壊され、ひどく理解しづらくなって、言い間違いや意味の揺れ(équivoque)として感知されるだろう。 無意識の読解は、こうした微細なひずみに注意を留めることからはじまる。これらのひずみは、無意識がシニフィアンの連なりをくぐったことの痕跡なのだから。Faire un récit (making a narrative ou storytelling) ne fait pas partie de l'objectif d'une psychanalyse. Au contraire, mieux un récit se raconte, plus le psychanalyste s'en méfie : un tel récit paraît fadenscheinig, louche, disait Freud. Comme Jacques Lacan n'a cessé de souligner, ce qui fait travailler, ou mieux : ce qui travaille, tout simplement, dans la psychanalyse, c'est la parole. Lacan affirme que dans la cure, <<la parole a tous les pouvoirs, les pouvoirs spéciaux de la cure>>. C'est parce que l'inconscient passe par la parole. Mais pas de n'importe quelle façon. Quand l'inconscient, ou un <<bout>> de l'inconscient s'y manifeste, cela produit une fissure ou une torsion dans la parole, de sorte que celle-ci est déformée, brisée, donc devient difficilement saisissable, comme en lapsus, ou en équivoque. Lire l'inconscient commence par être sensible à ces menues traces de son passage dans le défilée du signifiant.
著者
西 真如
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.275-289, 2019-08-31

本稿は、在宅で終末期を過ごす単身高齢者の疼痛ケアにあたる訪問看護師が、患者の痛みの経験をどのように理解し、痛みの情動に介入するのかという問題について考察する。その過程は、医療のことばでは「痛みの評価」とか「痛みの管理」という用語であらわされるのが通例である。しかし実際には、患者がどのような痛みを抱えているかを客観的な指標によって把握することはできないし、オピオイド(麻薬性鎮痛薬)を用いた痛みへの介入は、患者の情動の変化と結びついた繊細な実践である。疼痛ケアは、痛みを訴える患者と、それを聞く医療者、そして患者の身体に介入する鎮痛薬とを巻き込んだ、一連のコミュニケーションの過程として把握される。この過程に接近するため、本稿ではまず、痛みとは何であって、それは何を意味するのかという問いについて考える。この問いは一方では、痛みは単に外的な刺激の感覚ではなく、複雑な情動の過程であるという医学上の「発見」と関わっており、もう一方では、痛みの意味は言語によって正確に表象されることはなく、痛みの経験を表現することは、常に不完全な翻訳の過程なのだという人類学的な(および関連領域の)考察と関わっている。そして本稿の後半では、訪問看護師が身体の痛みに「寄りそう」過程について、耐え難い疼痛を訴えながら在宅療養を選ぶ患者に対するケアの文脈や、オピオイドを用いた痛みへの介入といった側面に着目した記述をおこなう。
著者
澤野 美智子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.235-248, 2019-08-31

語りについて論じた先行研究は、本稿で検討する諸概念に見られるように、文化人類学や質的社会学、口述史などの質的調査において学問上の目的からインタビューがなされる場合が主に想定されてきた。ナラティヴ研究で扱われてきたような、語りの「正しさ」(accuracy)や集め方・捉え方が問題になってくるのは、必ずしも学問上の目的からなされるインタビューに限らない。より実践に近い場で対話や説明がなされるときも同様の事柄が問題になりうる。ただし、実践現場で語りが発せられ受けとめられる状況は、質的調査のインタビューとは異なりうるため、質的調査を通して議論されてきた語りの概念を適用するための通路が見当たりづらい。その要因の一つとして、それぞれの分野で語りの「正しさ」の前提が異なっていることが挙げられる。本稿ではナラティヴ研究の概念を、質的調査とは異なる実践場面に即して検討することを試みる。これは、異なる「正しさ」を想定している語りを、共通の土俵にのせて論じるための試みでもある。これにより、多様な実践現場において、それぞれ語りの「正しさ」がどのように前提され、互いにどのように異なっているのか、あるいは類似しているのかを明らかにすることができる。特に本稿では、語りの「正しさ」、アクティヴ・インタビュー、対話的構築主義という観点から、本特集に収録している司法面接、医療、精神分析の実践場面における語りについて検討する。
著者
高木 光太郎
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.304-311, 2019-08-31

映画「ブレードランナー」の"tears in rain monologue"として知られる回想シーンでは、逃亡した人造人間が死の間際、自身の個的な経験を想起して、追っ手である人間に語り聴かせることで、人間との間に絶対的な「距離」を生み出し、追う者と追われる者という暴力的な関係から束の間であるが自由になる様子が印象的に描かれていた。想起がこのように聴き手との間に絶対的な「距離」を生み出すのは、他者が共有困難な時空間的持続として現在の環境を探索する行為であることによる。本特集に掲載された3論文(立木論文、仲ら論文、西論文)は共に、こうした絶対的な「距離」に隔てられた時空間的持続から発せられる声に対して、その外部にいる他者がどのような姿勢を取り得るのかという問題に重要な洞察を与えてくれるものであった。精神分析のセッションを扱った立木論文と、司法面接を扱った仲ら論文では、個的な体験の想起をいかに「聴く」のかが問題になっていた。いずれの場合も、聴き手は体験者の自由な語りに干渉しないことによって、体験者の個的な水準に由来する不自由さ(亀裂)を浮かび上がらせ、評価的、解釈的な介入は想起が終結するまで意図的に遅延させるという姿勢がみられた。一方、痛みの経験を扱った西論文では、個的な身体的経験として痛みを表現する患者と、医療者としてそれに対処する在宅看護師や医師が、それぞれの姿勢を「ある程度」維持したまま相互に接続することを可能にする媒介物を通して接続されていた。想起や痛みを語る声に対するこのような聴き手の姿勢は、コミュニケーションを社会的な水準ではなく、個的な水準での人々の出会いとして捉える可能性を示唆するものであり興味深い。
著者
大石 侑香
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.304-330, 2017-12-31

本稿は、西シベリア・タイガ地帯に居住するハンティという民族集団の防寒機能以外の毛皮の選択理由を明らかにするために、毛皮衣服の装いに関する物質文化と精神文化の両面を描くことを目的とする。毛皮は人間の衣服素材として防寒機能に優れており、それを理由に北方民族らが毛皮を着用していると考えられてきた。しかし、西シベリアでは工場製の防寒着にとってかわらずに未だ毛皮衣服が選ばれている。人間が生きている他の動物を殺しその皮を剥いで着用するということには何らかの精神性が働いているとみなし、とくに動物の毛皮への審美性や神聖性に着目し、以下の三つの課題に関して、現地調査データをもとに具体例をあげながら考察していく:1. 生業複合と世帯内分業の事例をあげ、自然環境を最大限利用した生業活動の上に現在の毛皮衣服文化が成り立っていることを確認する、2. 毛質・毛色の多様な家畜トナカイの毛皮利用の事例をあげ、トナカイ毛皮に対する審美および毛皮になったトナカイと人との関係を明らかにする、3. 動物観と毛皮衣服に対する価値観の差異と一致を明らかにする。結果として以下の三点が確認できた。ひとつ目に、生業活動と世帯内分業、地域的な毛皮の交換関係の中に毛皮衣服の作成活動が埋め込まれた形で行われていることが毛皮衣服着用の理由のひとつとなっていることを確認した。二つ目に、トナカイ毛皮衣服においては天然/人工の模様が際立つような強い白色と黒暗色のコントラストに審美性を見出していることが分かった。三つ目に、特定の動物の神聖性は毛皮になった後も連続していることを確認した。神聖であるが毛皮を利用したいという矛盾を緩和するように、特別神聖なクマやネコ、イヌの毛皮については、一部あるいは全部の利用を禁じて他の大部分の利用を許すという思考方法があった。This paper examines the reason why Northern Khanty, who live in the Taiga area of Western Siberia, actively choose to wear fur even when its not for the function of protection against the cold, based on the author's fieldwork data. There are many ethnographical studies about fur clothes of the Khanty, but they focus on the classification of ornaments of the clothes or the techniques of sawing and have not really discussed the mentality and sensibility in which people peal the pelt of animals and put the fur on their body. This paper also considers the differences in attitudes of how to dress and deal with the furs of several animals which were obtained in hunting and breeding, and what it means in their life-world. First, it situates fur-use within subsistence complex and gender division of work. Second, it shows the aesthetics of reindeer fur and relationships between individuals and their individual reindeer furs. Third, it considers the differences and consistencies among senses of value and behaviors toward particular sacred animals and their furs. As a result, the following three points have been ascertained as three reasons to choose fur, which are not for the function of protection. One is that the making and using of fur clothes are embedded in their subsistence complex, gender division of work, and local exchanges of furs. The second reason is that they find an aesthetics in the strong contrast of white color and dark color to accent the natural and artificial ornaments in reindeer fur clothes. The third reason is that animals continue to be sacred even after the animal has died and been used for its fur, and there is a method of thinking to ease the contradiction of wanting to use fur even though it is sacred in which particular sacred furs can be used when some parts of them are forbidden to be used.
著者
安 姍姍
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.134-158, 2015-03-31

中国では、出産後の一定期間「坐月子(ズオユエズ)」という産後の養生期間が伝統的に設けられ、食べ物や行動のタブーが定められている。本論文では、中国山西省の都市部の褥婦15 人に聞き取り調査を行い、女性達が「坐月子」の期間に経験する葛藤に焦点を当てた。その結果、次の7 点が明らかとなった。(1) 都市部では「坐月子」を過ごす場所は自宅や姑の家のこともあれば、家以外の施設(私立病院、産後養生ケアセンター)の場合もある。現在では、世話をするのは姑をはじめとする夫方の女性親族から、職業としての家政婦等のプロに移る傾向がある。(2) 女性はさまざまな行動上の制約を課せられる「坐月子」に不満を持っているが、養生を中心とする中医(中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学)の理論を完全に否定することができない。(3)「 坐月子」等の産後に段階的に行われる儀礼は、褥婦の身体の回復のためだけでなく、地位・役割の転換や家族関係の再調整をもたらす通過儀礼の特徴を備えている。(4)「 坐月子」においては、姑が褥婦の世話をするものとされていたが、女性達は実際には、実母や月嫂の援助を期待していた。(5) 都市部の女性は、伝統に束縛される受け身の立場から、近代・科学の力を使い、身体管理を積極的、能動的に行う主体へと変化しつつある。(6) 女性達は姑の世話を受ける伝統的な「坐月子」を好まないにもかかわらず、姑との関係を確立するために、家族、特に姑の意見に従っていた。(7) 医療化された出産は女性達に伝統的な過ごし方ではなく、より近代的な過ごし方を選ばせるようになっている。 以上のことから、中国の都市部の女性達は、近代医学の力を借りて主体性を確立すると同時に、伝統的な「坐月子」を通じて家族関係を強化したいと考えていると言えよう。
著者
椿原 敦子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.83-108, 2015-03-31

2009 年の第10 期イラン大統領選挙に端を発するイラン各地での抗議行動の様子は市民によって撮影され、インターネット上で配信された。ソーシャルメディアによる情報発信という社会運動の新しいあり方に国際的な注目が集まったイランでの抗議行動は、「緑の運動」と呼ばれる。この運動はイラン国内のみならず、国外在住のイラン人をも巻き込んでいった。例えば、ロサンゼルスの人々は次の形で関与を続けた。第一に、サイバースペースでの情報の中継や加工、第二に、衛星TV 放送によるイランの視聴者への働きかけ、そして第三にローカルな場での抗議集会の継続である。 これまでディアスポラ集団の社会運動を扱った研究は、故国の人々に及ぼす影響に主な焦点を当ててきた。これに対して本論で着目するのは、ディアスポラ集団のトランスナショナルな運動が特定の場において新しい文脈を与えられ、ローカル化される過程である。これによって、故国の社会運動を取り巻くグローバルなアクターという中心-周縁という構図を脱した両者の相互作用を捉えることを試みる。技術に媒介された言説空間で流通する「緑の運動」の情報は、複製・加工され、日常生活へと持ち込まれることでロサンゼルスのイラン人たちを「共感 = 代理の政治」へと動員した。デモの参加者たちの多くは、予め持っていた主張や要求の達成のために運動に関わるのではなく、むしろデモの場での連帯と対立の実践を通じて民主化などの抽象的概念を解釈し、運動への関与を続けたことが明らかになった。
著者
左地 亮子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.34-71, 2017-12-31

ジプシーは、歴史や過去に関心をもたない、ないしはそれらを忘却すると、しばしば指摘されてきた。それは、これまで彼らの多くが共同体の起源や歴史的な迫害といった過去の出来事を、公的な語りや記念追悼行為を通して共同想起してこなかったためである。しかし本稿では、こうした指摘が、人の記憶を「想起か忘却か」という問いのもとで論じてきた限定的な議論の枠組みに由来すると考え、そこで看過される記憶の領域として、明示的で集合的な想起と表象の実践に回収されるのでも、単純に忘却へと向かうのでもないジプシーの記憶行為を考察する。事例とするのは、2015年5月に南仏カマルグ地方の町で開催されたジプシー巡礼祭、及びその期間中に同町と近村で開催された、第二次世界大戦期ジプシー強制収容をめぐる追悼イベントでの出来事である。ここでは、ジプシー巡礼祭というジプシーと非ジプシーの融合を物語る祝祭の場に隔離の記憶が挿入されたが、その過去のコメモレーションに対する一般のジプシーの反応は無関心ともいえるものであった。本稿では、こうした共同想起を欠くジプシーの過去への態度を、他者の代表=代理の物語りの回避を目指す記憶行為として捉え直したうえで、過ぎ去らない過去を「持続する現在」の中で感受しながら生きる人々の時間の経験を明らかにする。During the week preceding May 24, 2015, thousands of European Gypsies gathered in the small Camargue town of Saintes-Maries-de-la-Mer for the annual pilgrimage in honour of Saint Sara, known as the Patron of Gypsies. In that same week, the commemoration ceremony for the victims of French internment camps in WWII was held in the village of Saliers, a 20-minute drive from the pilgrimage town. It was an attempt to join two apparently different memories, the history of symbiosis between Gypsies and non-Gypsies, and the history of the segregation of Gypsies from non-Gypsy society. However, this commemoration practice did not attract any attention from a large number of Gypsies joining in the pilgrimage festivities. Because of such attitudes towards remembering, Gypsies have been referred to as a people who are not interested in the past or forget it. In this article, we examine the practice and attitudes of Gypsies towards the past from the viewpoint of ecological psychology discussing the distinction between perceiving and remembering. The aim is to point out limitations of the view, based on the alternative premise that if people don't remember the past, then they forget it. By describing experiences of French Gypsy pilgrims who see the festive town as a space of segregation, division, and exclusion, we show why Gypsies don't need to remember the past and how they live it, as it is a time that has not yet passed and is in their persistent present.
著者
川本 直美
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.142-172, 2017-12-31

本稿の目的は、現代メキシコ西部村落におけるカトリック教会と村落共同体の関係について、カトリック聖像をめぐる人々の実践を事例に、今日的な共同体の姿を描き出すことで、その多面性を明らかにすることである。中米における共同体研究や祭礼研究で対象とされてきたものに、多くの先住民共同体でその基礎をなすといわれる行政的及び宗教的な社会組織がある。研究者は、従来それを「カルゴ・システム」と呼んで研究対象としてきた。そこでは主に「閉じられた」共同体を前提とし、カルゴ・システムがいかに共同体のなかで機能しているか、もしくはカルゴ・システムを通じて共同体と外部世界がどのような関係にあるかといった点から論じられてきた。そしてそこでの教会と共同体の関係については、それぞれを一つの存在として捉え、検討する傾向にあった。本稿で論じる事例では、人々は祭礼組織の役職を担う権利を、時には地縁的にも血縁的にもつながりのない村外の人にも開放することで、カルゴ・システムを通じて村外まで広がるネットワークを構築している。さらにこの村落共同体では、ある1体の聖像の安置場所と管理方法をめぐって一部住民がカトリック司祭と問題を抱え、教会とは対立する。その一方でそれ以外の聖像の祭礼などでは教会と協力関係にあるといった、教会に対する両義的な態度もみせる。村にある複数の聖像とその祭礼組織を中心として、人々は祭礼の都度立ち上がる共同性によってグループを組み替え、あらたに構築し、それぞれが教会との関係を多面的に結んでいる。同様に、本来同一の存在であるはずの聖人をあらわす聖像が、人々の状況や関係によってその聖像ごとに異なる接し方をされるということも明らかになった。この不安定な共同体のあり方こそが、逆説的に教会と住民が聖像をめぐって問題を抱えたとしても、安定的に共同体レベルの祭礼を維持することを可能にしているといえる。The aim of this study is to investigate the relationship between people and the Catholic Church in a current rural village of Mexico, focusing on local politics over the care and custody of the child Jesus image. It has been shown that Central America has a civil-religious system that forms the basis of indigenous communities; Researchers have explored this by calling it a "cargo system." In preexisting research about cargo systems, these communities have been assumed to be closed, and discussion has been based on the points of how the cargo system functions within the community, or rather what kind of relationship the community has with the outside world through the cargo system. Regarding the relationship between the community and the church through this system, the two have been described one-sidedly, as exclusive identities which relationship is either conflictive or coexisting. This paper points out villagers construct a network of worshippers of the child Jesus image that extends outside of the village by allowing outsiders to also take charge of festivals. Although villagers continue the worship of the child Jesus image without the parish priest, they cooperate with him in other saint's festivals at the same time. It is namely their ambiguous attitude toward the institution. This paper indicates that the people newly organize their group based on the community that comes together on each individual occasion of the festival centered on their faith of each saint. In doing so, it also demonstrates the multifaceted relationship between the people and the Church. Likewise, this papar clarifies the pluralism of the child Jesus image which presumably represent the same being for everyone involved. Although villagers have a problem with the Church over an image, the instability of these religious groups makes it possible for them to maintain the community's religious festivals stably.
著者
瀬戸 徐 映里奈
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.198-223, 2017-12-31

本稿は、在日ベトナム人の耕作放棄地を利用した自給菜園に着目する。兵庫県姫路市では、ベトナム難民の受け入れ施設が設置されたことを契機に、1970年代末からベトナム人の集住化がはじまった。同市において、都市化のなかで取り残された農地を利用したベトナム人の菜園が少数ながら散見されるようになった。高齢化や担い手不足のなかで耕作放棄地が増加しているが、かつての村落を単位とした農地管理が細々と継続されている。本稿の目的は、このような農地をめぐる地域社会の状況をふまえつつ、ベトナム人の生活における菜園の必要性と耕作放棄地の利用に至るまでの所有者との交渉過程を明らかにすることである。さらに、菜園の利用実態を通して、ベトナム人同士、他の地域住民との間に創出される多元的な社会空間を描き出したい。ベトナム人が菜園を必要とした主な理由は、一般市場での購入が難しい南国野菜や香草を調達することであった。タネや苗をホームセンターで購入できるようになるとプランターや公営住宅の公共地を利用して栽培する人びとが現れる。しかし、小さな土地では栽培できる品目も量も限られていた。また公共地での栽培は、周辺住民からの理解を得られず、中止を求められることもあった。こうしたなか、就労現場、教育現場、自治会を通して農地所有者と出会い、農地利用の承諾を得る人びとが現れる。自給菜園の設置は、ベトナム人にとって食材生産の場だけではなく、憩いの場としても活用されており、特に就職先のないベトナム人高齢者や一時滞在者の「しごとづくり」の場にもなっていた。さらに、農地所有者以外にも、他の地域住民と収穫物のやりとりなどを通した新たな社会関係を創出していることも明らかになった。ベトナム人の農地を利用した菜園は、都市近郊の耕作放棄地が増加する田畑の風景に南国野菜による新たな彩りを加え、その設置に必要な農地の共同管理や収穫野菜のやりとりなどを通して、新たな社会空間を創造していたのである。This study describes how Vietnamese residents have created new social spaces through vegetable gardening on abandoned farmland in Himeji City, Hyogo Prefecture, Japan. Many Vietnamese have resettled in Himeji City consequent to a facility's establishment for accommodating Indochinese refugees after the Vietnam War. In the late 2000s, some Vietnamese residents created vegetable gardens using farmlands abandoned in the wake of the city's urbanization. Nowadays, because of a shortage of farmers due to aging and lack of successors, Japan has many abandoned farmlands. The farmlands that Vietnamese residents utilize are also abandoned ones that owners could not manage. This study clarifies the necessity of vegetable gardens in the Vietnamese residents' lives and the process of negotiations with farmland owners for borrowing the land. The study also depicts pluralistic relationships and social spaces formed among Vietnamese and other residents through gardening. Vegetable gardens are utilized not only for food production, but also for recreation and a means of livelihood for the Vietnamese, particularly elderly and temporary residents, who have no other way of earning a living. Furthermore, residents also forge new relationships by exchanging harvests with other residents. Vietnamese and other residents have developed understanding of one another by comparing their food habits. Besides, some grow funeral flowers in their gardens, that is, gardens serve as a connection with their religious faith. Additionally, their kitchen gardens also function as places for intergenerational dialogues and succession of food knowledge in Vietnamese households. Vietnamese residents' gardens in former farmlands have created a unique landscape in Japanese suburban areas and fostered new relationships between the Vietnamese and other residents.