著者
加藤 敦典
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.8, no.2015, pp.61-75, 2016-03-31

本論では、ベトナムにおける裁判外紛争処理制度(ADR、Alternative Dispute Resolution)である和解組(To Hoa Giai)による調停の基盤となる、公的言説としての モラリティについて考える。和解組の実践を支えているのは、国家、地方行政、一般 住民のあいだで共有される訴訟忌避規範、内済規範、あるいは、むらのなかでの騒擾を罪悪視する規範である。公的領域においては、国家や宗教的権威に代表される制度 的モラリティがストレートに統制力を発揮することは希である。それとともに、日常的な生活態度に埋め込まれたモラリティも、多くの場合、独力では公共的な表現のかたちをもつことができない。そのようなとき、日常的な生活態度に埋め込まれたモラ リティは、制度的モラリティを仮借することによって、公的領域での討議にも耐えう る体系的なモラリティであるかのような体裁で語られる場合がある。本論では、こういったモラリティの生成を制度的モラリティと公的言説としてのモラリティの相互交 渉がもたらす効果として考える。その際、本論では東アジア的脈絡においてこの問題にアプローチした先駆的なモデルとして「生ける法」(末弘嚴太郎)と「通俗道徳」(安丸良夫)のアイデアを援用しながら制度的モラリティと公的言説としてのモラリティ の相互交渉の局面についての分析枠組みを提示する。そのうえで、ベトナムの村落での紛争処理に際して実施される「集団」(tap the)に対する謝罪という慣行の分析を通 して、このモデルの有効性を検証していく。This essay examines the moral basis of the Reconciliation Service (To Hoa Giai ), the community mediation system in Vietnam. The system is supported by the norms of litigation avoidance and private settlement, as well as norms that regard creating disturbances in a village community as a public offence, which are widely shared throughout the state and local cadres and among ordinary people. In the "public" realm of reconciliation, institutional morality of the state or religious organizations seldom provides straightforward guidance, while it is also difficult for the embodied morality of everyday practice to govern such matters independently. Usually, people borrow from the vocabularies of institutional morality to express their morality of everyday life, implying that this system of norms can withstand scrutiny in public debates. Drawing on the ideas of "living law" (Izutaro Suehiro) and "popularized morality" (Yoshio Yasumaru) as pioneering works that approach these issues in the East Asian context, this essay describes these norms as morality in public discourse ̶ the effects of dialogues between institutional morality and embodied morality, . This essay also analyzes the custom of apologizing to the "collective" (tap the ) in the process of reconciliation in a Vietnamese village to demonstrate the above analytical framework.
著者
津村 文彦
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.167-191, 2015-03-31

呪術がいかにしてリアリティを獲得するかを考える際に、呪術の効果をめぐる議論は避けて通れない。特に治療に関する呪術は、苦痛や不調を抱える病者の身体に直接働きかけるため、その効果が議論の対象になりやすい。たとえば医療人類学での「疾患(disease)」と「病い(sickness)」という有名な区分は、生物医学は「疾患」を対象とし、呪術などの伝統医療は「病い」に対処するもので、呪術には生理学的な効果は認められないという前提のもとに成立している。しかし、呪術が心理面に作用し、生物医学は身体に作用するという「効果」の想定は適切なものであろうか。現在も継続している呪術的な伝統医療について、「信じるからこそ効く」と説明するだけでは呪術のリアリティを十分に考察したとはいえない。いかにしてそれが「効く」と捉えられるのかを考察する必要があるだろう。 本論文では、東北タイの二種の民間医療師を俎上に載せる。一つは、近代科学の象徴たる「注射」を駆使しながらも、〈非科学的〉な治療を提供してきた「注射医」で、もう一つは近代医学が対処を得意とする毒蛇咬傷などの症例を主たる対象とする「モーパオ」という呪文の吹きかけを行う呪医である。東北タイでは、1960 年代より1980 年代にかけて注射医が治療行為を行っていたが、近隣に病院や保健センターなどができて近代医療へのアクセスが高まったのち、注射医は姿を消した。一方、現在では近代医療を容易に利用することができるにもかかわらず、モーパオのような呪医はなおも活動を行っている。両者の治療行為は対照的に見えるが、治療において直接身体に感受することのできる感覚(痛みと吹きかけ)こそが、治療によってもたらされる「効果」として人びとに受け入れられている点で共通する。こうした治療行為のなかで、病者が受け取る感覚こそが呪術の効果であり、モーパオを存続させている力といえるだろう
著者
越智 郁乃
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.33-55, 2015-03-31

在日米軍施設が集中する沖縄県では、1961 年から2007 年までの間に軍用地利用から返還された土地が12 万ヘクタールにも上る。過密化する今日の沖縄本島中南部では、狭小な土地の有効活用のため返還跡地の開発が進められてきた。大規模商業地として開発が行われた地域では雇用が増大したが、商業偏重の開発とその後の経済や社会の持続可能性については疑義が呈されている。このように評価が分かれる跡地開発に対して、本稿ではかつての軍用地とその周辺地域を「接触領域」と捉え、今日までの特異な社会空間での地域の住民の経験、すなわち琉球王府、日本、米軍統治から日本復帰へというように次々と変わる支配者層および支配文化といかに相対し、いかに交渉してきたのかという長い道のりに注目する。具体的には、軍用跡地開発を経て誕生した那覇市新都心を事例に、そこでの住民の経験として沖縄戦前後、米軍による土地接収後の米軍住宅化やそれに伴う周辺地域での開発が、返還後の大規模再開発にいかなる影響を及ぼしているかということを明らかにし、単なる開発の評価だけではなく、その地に住まう人々にとっての軍用跡地開発の意義について考察する。
著者
津村 文彦
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.167-191, 2015-03-31

呪術がいかにしてリアリティを獲得するかを考える際に、呪術の効果をめぐる議論は避けて通れない。特に治療に関する呪術は、苦痛や不調を抱える病者の身体に直接働きかけるため、その効果が議論の対象になりやすい。たとえば医療人類学での「疾患(disease)」と「病い(sickness)」という有名な区分は、生物医学は「疾患」を対象とし、呪術などの伝統医療は「病い」に対処するもので、呪術には生理学的な効果は認められないという前提のもとに成立している。しかし、呪術が心理面に作用し、生物医学は身体に作用するという「効果」の想定は適切なものであろうか。現在も継続している呪術的な伝統医療について、「信じるからこそ効く」と説明するだけでは呪術のリアリティを十分に考察したとはいえない。いかにしてそれが「効く」と捉えられるのかを考察する必要があるだろう。 本論文では、東北タイの二種の民間医療師を俎上に載せる。一つは、近代科学の象徴たる「注射」を駆使しながらも、〈非科学的〉な治療を提供してきた「注射医」で、もう一つは近代医学が対処を得意とする毒蛇咬傷などの症例を主たる対象とする「モーパオ」という呪文の吹きかけを行う呪医である。東北タイでは、1960 年代より1980 年代にかけて注射医が治療行為を行っていたが、近隣に病院や保健センターなどができて近代医療へのアクセスが高まったのち、注射医は姿を消した。一方、現在では近代医療を容易に利用することができるにもかかわらず、モーパオのような呪医はなおも活動を行っている。両者の治療行為は対照的に見えるが、治療において直接身体に感受することのできる感覚(痛みと吹きかけ)こそが、治療によってもたらされる「効果」として人びとに受け入れられている点で共通する。こうした治療行為のなかで、病者が受け取る感覚こそが呪術の効果であり、モーパオを存続させている力といえるだろう
著者
飯田 淳子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.192-210, 2015-03-31

本稿では、北タイの農村、病院、学校における語りと実践を検討することを通じ、呪術の効果の多様な指標の影響関係において、感覚的経験がどのような役割を果たすのかを考察する。感覚的経験は、病因とされる「毒」の可視化などを通じ、呪術の効果に説得力を与える。一方、不可視なものは不確定であるだけに、何らかの出来事を通じて恐怖感を顕在化させることもある。科学的知識の体現者であるはずの医療従事者や教師たちは、科学的にその意義を説明できる限りにおいて呪術を容認する言説を紡ぎ出す。しかしそれとは裏腹に、彼らは科学で説明できないにもかかわらず、何らかの事象に対し呪術を疑い、それに対処しようとすることがある。例えば医師はレントゲン写真に写ったものを呪術によるものではないかと疑い、教師は精霊憑依を目撃した、あるいは誰もいないはずの理科室で足音を聞いたと感じて除霊や慰霊を行う。感覚的経験は、このように言葉と反する行為の基盤にもなっている。各種のメディアも感覚に訴えて村人の知識や治療法の選択に影響を与えており、呪術の効果もそうした社会的文脈の中に位置づけられている。病院医療や学校教育、マスメディアなどの近代的とされる現象を経由することにより、呪術の感覚的経験はむしろ増幅され、その効果は強化された形で人々に認識されている側面があることが明らかになった。