著者
近藤 正憲 Masanori KONDO
出版者
国際交流基金日本語事業部
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.15, pp.175-192, 2005

戦前の中東欧の日本語教育についてはまだ知られていないことが多い。しかし、政治的、経済的な交流の深まりとともに中東欧地域はこれまでになく日本人に身近な存在になりつつあり、 現時点でこの地域の日本語教育の歴史について研究することは意味のあることであると考える。 本稿は20世紀初頭にハンガリーではじめて出版された日本語教科書を題材に、出版された当時の日本についての知識と、背景となった社会状況を明らかにすることを目的とする。ハンガリーではじめての、ハンガリー語で書かれた教科書は1905年に出版された。同書は日本に長期滞在した経験のあるハンガリー語母語話者が自らの経験と知識を総動員して書き上げた著作であると考えられる。今日の目から見ると教科書としては難点が多いとは言うものの、 母語で書かれた教科書の出版は日本語学習の大きな障害の一つを取り除いた点で高く評価されるべきである。また、同書の出版という事実そのものが当時のハンガリー人一般の日本に対する興味の高まりを物語っている。この日本への関心の高まりは日露戦争という政治的事件が契機となったものであるが、この背景には当時のハンガリー人自身が持っていた反露意識と、高揚するナショナリズムが存在していたと考えられる。この反露意識の裏返しとしての親日意識は自ずと限界があった。極東において帝国主義的性格を強める日本がロシアとの協調関係を築き、足元のバルカン半島でスラヴ系諸民族による反オーストリア=ハンガリーの運動が激化するにつれ、日本に関する興味関心は次第に退潮していった。中東欧に限らず、ある地域の日本語教育の歴史を振り返ることは、その国や地域や民族の対日認識の歴史そのものと向き合う作業であり、それを知ることは外国で日本語を教えるものにとっては特に大切なことであると考える。While Central and Eastern Europe is becoming an increasingly popular area for Japanese people and tourism alike, it is widely recognized that little is known about Japanese language education before World War II in this area. However, a publication at the beginning of the 20th century signalled a landmark in this field. This paper examines this landmark publication, which is the first Japanese textbook written in the Hungarian language. It aims to clarify the knowledge about Japanese in this book and the social and historical background that motivated its publication. The first Japanese language textbook in Hungary was published in 1905. This book was written by a Hungarian speaker who had stayed in Japan for a long period. The author fully utilized his experience and knowledge in his writing. From today's viewpoint, the textbook seems a little crude and involves many mistakes or misunderstandings. Nevertheless, the publication of this textbook in the readers' mother tongue should be highly regarded because it allowed greater understanding of Japanese study in Hungary. Besides its worth as a textbook, the publication itself indicates the rise of Hungarian people's interest toward Japan at that time. I believe that the Russo-Japanese War (1904–05) stimulated Hungarian nationalism and their anti-Russian attitude, and that this historical situation prompted the publication of the textbook. To look back upon the history of the Japanese language education is to look at the history of the local people's recognition of Japan and the Japanese people. As far as Japanese language education is carried out in non-Japanese society, it is especially important for Japanese teachers in foreign countries to get to know the history of the Japanese language education in the places where they teach.

2 0 0 0 IR 複合語短縮

著者
日比谷 潤子 Junko HIBIYA 慶應義塾大学国際センター助教授 Associate Professor International Center Keio University
出版者
国際交流基金日本語国際センタ-
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.8, pp.47-65, 1998

日本語教育の上級では、いわゆる生教材を使った授業がよく行なわれる.そこで頻繁に取り上げられる新聞などをみると、複合語短縮の事例が多数みられる.この複合語短縮というのは、語形成過程の一つで、単独に現れうる語を二つ並列して複合語をつくった後に、それを短縮するものである.短縮された語形の中には一過的なものも多く、辞書などにまとまって載ることはあまりない.本研究では、まずこの現象に関する先行研究、イミダス'95、大学生を対象とした調査、個人的な収集の四つの手法を組み合わせて、複合語短縮の事例を365語集めた.それをもとにして、この過程のメカニズムを検討したところ、「2モーラ+2モーラ→4モーラ」というパタンがもっとも生産的であることが、はっきりした.これで説明できない事例は365語の約20%にあたるが、この例外をタイプ別 に分類した.
著者
青山 友子 Tomoko AOYAMA クイーンズランド大学 アジア言語・研究学科 Department of Asian Languages and Studies The University of Queensland
出版者
国際交流基金日本語国際センタ-
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-15, 1997
被引用文献数
1

パロディには、1)原典、2)模倣(敬愛)、3)作り変え(批評性)が不可欠である。また、多くの場合、4)滑稽味を伴う。その語源「パラ」には、対立と親密性の両義が含まれている。本稿はこうしたパロディの特徴、とりわけその二重性と批評性、カーニヴァル的な再生予祝機能に注目し、それを利用した日本語教授法を考察する。 四技能習得の手段としてパロディを用いる場合、とくに読み・書きでは、能動的・開放的な作業を促すことができる。それとともに、文学離れの現状や日本に対する固定観念に対処するためにも、パロディ使用は有効である。その場合、従来文学テキストを扱うときにありがちだった大作家や名作、日本らしさ志向、小説偏重に捕われずに、翻訳や読解以外の方法を積極的に取り入れたい。 例として、筒井康隆による『サラダ記念日』のヤクザ版パロディ、「カラダ記念日」と、井上ひさしの『吉里吉里人』の一節を使う授業を取り上げる。前者では、短歌や文語文法についての予備知識もない学生に、比較的短時間で本歌とパロディを比べさせ、自作のパロディ短歌を作らせるところまで持っていく。後者では、『坊っちゃん』他名作の冒頭の吉里吉里語訳と日本語の原文、すなわちパロディの原典とを比べ読むことによって、学習者は、日本人なら誰でも知っている(はずの)名文に触れるとともに、パロディ特有のカーニヴァル的転倒を体験することができる。 限られた授業時間では、長大な文を扱うことはできない。しかし、その場限りの断片ではなく、過去や未来とつながるものをめざしたい。それには、パロディが大いに役立つと考える。The aim of this article is to explore various possibilities of using parody for Japanese-language teaching. Parody requires: 1) a prior text, 2) imitation, and 3) transformation. While 2) is often associated with respect for 1), 3) is closely connected with the subversive and carnivalesque nature of parody. Parody pre-serves its object at the same time as it revolts against it. This structural and attitudinal ambivalence can also be explained etymologically: "para" means both "counter/against" and "beside/near." Given this double-sidedness, parody can be used as an effective tool in second-language teaching, reducing fear and encouraging active participation of the learner. Use of parody in language classes can also contribute to alleviating the general tendency away from literature and the stereotype preconceptions regarding Japan. Yet this is by no means an attempt to revive the traditional reading/translation of literary texts in language class. Texts should be selected not on the basis of their canonicity or "Japaneseness," but for their regenerative and critical merit. Genres other than fiction should also be taken into consideration. Two examples of using parodic texts for a late intermediate (or early advanced) Japanese course are presented. First, Tsutsui Yasutaka's "Karada Kinenbi," which parodies Tawara Machi's Salad Anniversary. In a relatively short period of time, students with no prior knowledge acquire a basic understanding of tanka, literary/poetic style, and parody to the extent that they can appreciate Tsutsui's text and create their own parodies of Salad Anniversary. The second example involves a short excerpt from Inoue Hisashi's Kirikirijin. Celebrated texts by Soseki, Kawabata, and others are "translated" into the Kirikiri language. These "translations" accompanied by the protagonist's comments provide the students with an entertaining and dialogic introduction to the modern Japanese literary canon.
著者
茂木 俊伸 森 篤嗣 Toshinobu MOGI Atsushi MORI
出版者
国際交流基金日本語事業部
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.16, pp.139-153, 2006

本研究は、「階段に座っての食事」「全力を尽くしての結果」のように、テ節を内部に含む名詞句(「テノ名詞句」と呼ぶ)について、(1)主要部の被修飾名詞の特性、(2)名詞句内のテ節の意味・用法、(3)テノ名詞句の統一的な意味、 という三つの観点から分析を行なったものである。本研究では、まず、先行研究の記述の整理を行ない、問題となる点を明らかにした上で、形態的な基準に基づいて被修飾名詞を「述語性名詞」と「非述語性名詞」に分類し、それぞれの名詞とテ節との関係が異なることを指摘した(上記(1)(2))。先行研究で中心的に扱われてきた述語性名詞の場合、文(動詞句)に並行的な構造を持っており、テ節と名詞とは連用修飾に相当する意味的関係にある。この構造的特性から、テノ名詞句において、一部の用法のテ節のみが生起可能であることが説明される。一方、非述語性名詞の場合、文に並行的な構造を持っておらず、連用修飾との関係は薄い。むしろ、この非述語性名詞には、「外の関係」の連体修飾に相当する意味的関係を持った名詞の多くが該当するということが指摘できる。以上のように、本研究では、従来は明確な整理がされてこなかったテノ名詞句を二つに区分した上で、さらに、二つのタイプのテノ名詞句でそれぞれ観察される制限から、テノ名詞句全体に共通する意味的特徴を抽出した(上記(3))。この特徴は、「時間的展開の内包」であり、最終的には、テ節が持つ一般的な特徴に還元できるものである。This paper describes noun phrases that include a te-clause (called "te-no noun phrases") from the following three viewpoints: (1) characteristics of the modified noun, (2) meaning and usage of the te-clause, and (3) meaning of the te-no noun phrases. First, the head nouns in these noun phrases can be classified into "predicative nouns" and "non-predicative nouns," based on morphological criteria. Predicative noun snot only have a structure parallel to verb phrases but also have structural restrictions on the occurrence of the te-clause with in the noun phrase. On the other hand, non-predicative nouns do not show such a parallelism; they have a relation of modification between the te-clause and the head noun, similar to the non-case relational relative clause in Teramura's (1977) sense. This paper also finds that a schema of temporal development can be extracted from these noun phrases, which can be reduced to a general meaning of te-clauses.
著者
清 ルミ Rumi SEI
出版者
国際交流基金日本語事業部
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.16, pp.107-123, 2006

本論は、「コミュニケーション能力」、「コミュニケーション」が日本語教育のキーワードとして浮上している現状を踏まえ、今後の日本語教育の教育方法、教材開発、教員養成のあり方を探ることを前提に、教科書と現実の言語使用の比較考察を行なうものである。具体的には、先行研究において禁止の機能としては使用されない可能性が明らかにされた「ないでください」(以下「な」と記す)を軸に、「な」が禁止表現として扱われる場面・状況と提出されている表現を教科書から抽出し、それと同じ現実場面を選択して、現実の自然発話データを採取する事例研究を行ない、教科書との比較考察を図った。 調査は、医師が患者の行為を制する場面、美術員が写真撮影をしようとしている客を制する場面の2場面実施した。両場面における自然発話データは、前者の場合は看護師に依頼し、後者の場合は調査協力者が実際にカメラを構えることにより発話を引き出して採取し、分析した。その結果、医師の場合は、患者の生命に危険が及ぶ可能性の低い事項を禁ずる場合には共感性の高い心積もり依頼表現、心積もり誘発表現、あたかも依頼表現の使用率が高く、外科において患者を制しなければ患者に致命的な不利益を与える場合には、肯定依頼表現、断定宣告表現、否定依頼表現の使用率の高いことが明らかになった。 一方、美術館員の場合は、100%が謝罪および呼びかけ表現を使用しており、約半数が規則に関する事実陳述以外の禁止理由に言及し、相手が納得しやすく相手の面子を傷つけないための配慮がみられた。また、62%が動詞を使用せず言い切らない形式で相手に行動変容を促していた。動詞を使用した場合も、写真を撮る立場に立っての不可能表現や、注意する立場からの恩恵表現つき不可能表現が使用され、相手への共感を示すことにより丁寧度の高い表現が使用されていた。医師、美術館員いずれのケースも、「な」の使用は1例もみられなかった。本事例研究の結果から、1.「な」が禁止の機能として学習項目化されている現行の教材は適切ではない、2. 禁止の場面においては相手の面子を傷つけない配慮表現が使用される、という二点について今後の教材開発に向けての教育的視点が見出せた。
著者
椙本 総子 Fusako SUGIMOTO 大阪外国語大学大学院言語社会研究科 Graduate School of Integrated Studies in Language and Society OsakaUniversity of Foreign Studies
出版者
国際交流基金日本語国際センタ-
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.10, pp.221-239, 2000

本稿の目的は、組織の中で上下関係のある会話者と対等な立場の会話者の会話を比較し、どのような会話の連鎖構造や言語形式で会話を行なうことが会話者の上下・対等関係を示すことに関わるのかを解明することである。本稿では、特に課題解決を導き出すことを目的とする会話を分析の対象にした。 分析から、課題解決の会話の連鎖構造には、指示タイプの命令型と指示仰ぎ型、提案タイプの強制型と自発型の四種があることが明らかになった。さらに、自発型には提案提供要求、提案提供、提案の判定要求、提案の協働作成の四つの方法が観察された。 命令型と強制型が多く、連鎖構造の中で誰がどの位置でどの発話を行なうかが固定したタイプの会話は、上下関係が明確に実践さている会話である。同様に、提案が自由に行える自発型が多くても提案発話を行なう会話者が固定されていたり、提案の決定に関する力をもつ会話者ともたない会話者がわかれている場合も上下関係が実践されている会話だといえる。それに対して、対等関係が実践されている会話はデータでは、自発型の提案の判定要求や協働作成の方法が頻繁に見られた。そこでは、一人の会話者による明示的な提案の提示が避けられ、皆で提案が作り上げられており、それによって会話者は対等な関係であることを示しているのである。これまで、人間関係に応じた会話の方法は、待遇に関わりのある文末表現や語彙の選択によって特徴づけられると論じられてきたが、どのような会話の流れで会話を行なうかも重要であることを本稿では明らかにした。
著者
杉村 泰 Yasushi SUGIMURA 北京第二外国語学院日本語学部外国人講師 Foreign Expert The Japanese Department Beijing Second Foreign Language Institute
出版者
国際交流基金日本語国際センタ-
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.7, pp.233-249, 1997

本稿は「モダリティ」の観点から日本語副詞「キット」と「カナラズ」の意味分析を試みたものである。従来、「キット」と「カナラズ」は「陳述副詞」あるいは「話し手の主観的態度を表わす副詞」として位 置付けられ、その「蓋然性」の違いや「推量的機能」「習慣的機能」について諭じられてきたが、その違いはいまだ明確にはされていない。これに対して、本稿では少し角度を変えて考察し、2語とも蓋然性に関わるが、その呼応する成分のモダリティ階層が異なることを主張する。すなわち、「キット」は話し手の判断と関わり、「カナラズ」は命題内容と関わると考えるのである。そして、この呼応する成分のモダリティ的な階層の違いが、二次的に2語のさまざまな意味的な差となって現われていることを明らかにする。また、こういった現象が「キット」と「カナラズ」との間においてだけではなく、「タブン」と「タイテイ」との間にも並行してみられるものであることを指摘する。
著者
朱 春日
出版者
独立行政法人国際交流基金
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.19, pp.89-106, 2009

日本語の語彙的複合動詞の組み合わせは、他動性調和の原則、主語一致の原則などにより制約されているが、語彙的複合動詞の中には、このような諸制約から外れた不規則な組み合わせの複合動詞が存在する(例:打ち上がる、舞い上げる)。これらの不規則な複合動詞は、自・他対応する複合動詞から派生されたと指摘されてはいるものの、具体的にどのような場合に派生されやすいのかについては考察されていない。本稿では、主に「上げる」「上がる」を後項とする語彙的複合動詞を取り上げ、「他動詞+非対格自動詞」と「非対格自動詞+他動詞」型の不規則な複合動詞が派生されやすい場合と派生されにくい場合について探った。その結果、「他動詞+非対格自動詞」型の不規則な複合動詞が派生されやすいのは、」後項動詞が実質的な意味を持つか持たないかに関わらず、前項動詞が実質的な意味を持たない場合と」前項が抽象的な意味を、後項が実質的な意味を持つ場合で、派生されにくいのは、(1)後項動詞が実質的な意味を持つか持たないかに関わらず、前項動詞が物理的な意味を表す場合と(2)前項が抽象的な意味を、後項が実質的な意味を持たない場合であることが分かった。「非対格自動詞+他動詞」型の複合動詞の派生においては、「他動詞+非対格自動詞」型の複合動詞に比べ、その数が限られており、「自動詞+自動詞」型の複合動詞と自・他対応しているのも少ないことが明らかとなった。
著者
劉 怡伶
出版者
独立行政法人国際交流基金
雑誌
世界の日本語教育 (ISSN:09172920)
巻号頁・発行日
no.19, pp.17-31, 2009

本稿は、複合助詞「にしたがって」と「につれて」の意味・用法を明らかにすることを目的とするものである。先行研究においてこの2語の区別は必ずしも明らかにされてはいないが、本稿では、2語を考察した結果、「にしたがって」と「につれて」は次のように記述することができることが明らかになった。 (1) 2 語は同様に〈漸進的な事態間の連動〉を表す用法がある。但し、この場合の「にしたがって」は、二つの事態の連動関係を必然的なものとしているという話し手の認識・認知を含意している。一方、「につれて」はこのような含意がない。 (2)「にしたがって」は「につれて」と異なり、〈規範的な連動〉を表す用法がある。 (3)「につれて」は「にしたがって」と異なり、〈受動的な連動〉を表す用法がある。 この結果に基づき、「にしたがって」の基本的意味は〈必然的な連動〉を表すもの、「につれて」の基本的意味は〈個別的な連動〉を表すものであることを明らかにした。また、このように記述することにより、2 語の類似点と相違点、先行研究で説明されていない問題により一般性のある説明が与えられることを示した。