著者
伊藤 廣之
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.0019-0032, 2013 (Released:2022-06-11)

本論文では、淀川水系最大規模の池沼である巨椋池の漁撈との比較をとおして、淀川の河川漁撈の特徴を検討した。淀川の淡水域と汽水域の漁撈について、そこでの漁獲対象、漁具・漁法のあり方を詳述した。つぎに河川漁撈との対比のため、巨椋池のなかの大池を取り上げ、ヘリ・チュウドオリ・マンナカという三つの領域での漁撈について、そこでの漁撈のあり方を詳述した。つぎに、河床・池盆形態、水、水生植物に注目し、淀川と巨椋池の漁撈環境の違いを明らかにしたうえで、漁具・漁法、漁撈知識等に関して、環境の違いにもとづく淀川と巨椋池の漁撈の共通点や相違点を分析し、淀川の河川漁撈の特徴について検討した。その結果、河川における漁撈技術の規定要因として、①川の増水、②汽水の塩分濃度の変化、③魚介の降下・遡上など、河水をめぐる自然現象や、川を生息の場や通り道とする魚介の生態が関わっていることを明らかにした。
著者
伊藤 廣之
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.0021-0032, 2016 (Released:2022-05-21)

淀川を漁場とする二人の川漁師からの調査にもとづき、漁場である河川や漁獲対象である魚に対する川漁師の自然観を追求した。河川に対する自然観としては、魚のよくとれる漁場を「米櫃」と捉える自然観が存在し、しかもその自然観が淀川だけではなく、荒川のほか、海の漁撈においても認められることを指摘した。また漁場の占有と秘匿の慣行をめぐって漁場を媒介とする「人と人の関係性」にオモテとウラの二面的なあり方があることを指摘した。さらに魚に対する自然観としては、淀川の川漁師の「魚のことは魚に聞け」ということばを手がかりにして、自然と人を対立的にとらえるのではなく、並立的に捉えようとする自然観が淀川の川漁師のあいだに存在し、それが利根川・長良川・木曽川など広い範囲の川漁師にも共通して認められることを明らかにした。
著者
栄原 永遠男
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-18, 2020

考古学的な調査研究により、後期難波宮の中枢部には壮大な宮殿建築群が建てられており、京域には条坊制が敷かれていたことが明らかになった。これにより、後期難波宮・京には多くの人々が住み、繁栄していたというイメージが出来上がっている。しかしそれらはあまり根拠がなく、遷都や行幸時と平時とにわけて、再検討が必要である。大粮申請文書その他の分析によると、各官司はそれぞれ独自の建物や院を持つことはなく、合同庁舎・合同院の一角にコーナーを保持していた。合同庁舎・合同院は、一、二の官司が仕丁とそれを指揮監督する使部などの雑任を配置する形で保守されていた。後期難波京の京域については、貴族が邸宅を持っていたが常住することはなく、家令に管理させていた。また使部や家令が家を持ち家族が住んだ可能性はあるが、正方位の家がびっしり立ち並ぶ状態ではなかった。以上は平時の場合であるが、遷都や天皇が行幸してくると状況は一変した。多くの官人が来て官僚機構も機能し、貴族やその家族も居住した。
著者
杉本 厚典
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.33-64, 2018 (Released:2021-04-01)

大阪の金属及び器具・車両・船舶工業の分布を明治後期の「大阪市商工業者資産録」及び大正期の『工場通覧』・『大阪市商工名鑑』で探り、三つのモデルを描き出した。一つ目が鋳造・金属吹き分け業、鍛冶、古金商に見られる東西ベルト型。臨海部から船場、上町台地へ東西方向に分布する。二つ目は造船・造船関連産業の臨海型。木津川と安治川の合流地点、大阪鉄工所、藤永田造船所で形成される三角地帯に、造船を核として、汽罐、船具などの産業が密集し、複合的な工業・商業地帯を形成していた。三つ目は都市周辺型。錫・アルミニウム・琺瑯産業、自転車製造、人力車製造、洋傘製造、魔法瓶製造がこの類型に該当する。これらの産業は人口密集度の高い市街地の外側に工場地域が形成され、都市外縁部から都心へ移行するにつれて、工場のみの状況から、工場と卸・小売といった流通も兼ね備えた業態へと推移していた。そして東西ベルト型が近世以降金属工業の盛んな地域に成立したのに対して、臨海型と都市周辺型が近代に現れる産業分布の類型と考えた。
著者
佐藤 隆
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.7-24, 2019 (Released:2020-10-25)

本論では古代難波地域で行なわれた開発について、以下に挙げるふたつの主題を中心に検討して新たな考え方を示した。そのひとつめは難波津に関することである。5 世紀に始まる難波地域の開発において、上町台地やその周辺にはさまざまな施設や倉庫群、手工業の工房などがおかれ、都市的な様相をもち、難波遷都へつながっていく。難波津はこう した難波地域の繁栄を外交や流通の拠点として支えた。本論では初期の難波津の位置推定に関わる考古資料を再整理して、新たな評価を行なった。ふたつめは難波京に関することである。難波遷都の後、難波京の地割が成立する時期は天武朝( 7 世紀第4 四半期)とこれまで考えられてきた。それに対して、本論では7 世紀第3 四半期に遡る可能性を指摘するとともに、遷都前に見られた都市化の影響を受けながらさまざまなかたちの開発によって地割が形成され、それらが中世につながっていく流れを考察した。
著者
安岡 早穂
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.65-74, 2018 (Released:2021-04-01)

瀬戸内海沿岸地域では、漁撈活動の証拠として多彩な土錘が出土するが、これらがそれぞれどのような環境でどのように使用されたかについては未だ議論の余地がある。本稿では、古代以前に見られる土錘の各型式のうち、瀬戸内海沿岸地域を中心として分布する棒状土錘・有溝土錘の一部を抽出し、遺跡ごとの重量・大きさについて比較した。同一型式でありながらそれぞれ遺跡ごとに微妙な差異をもっている点は、使用される環境の影響を受けていると考えられる。また、管状土錘と共存する場合は各型式で重量分布が異なっており、複数の網を使い分けていることがわかる。 今後遺跡ごとの組成を比較することで、漁撈活動の規模や変遷などの様相について類推可能となる点を指摘する。
著者
佐藤 隆
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-18, 2018 (Released:2021-04-01)

延暦3年(784)に長岡京への遷都が行なわれた後、難波地域は大川沿岸と四天王寺周辺の2地区に大きく活動拠点が分かれて、中世に向けたまちの形成が始まる。そうした動きに対して、遷都によって失われた要素としては、細工谷遺跡における遺構・遺物の急激な減少から明らかとなった「百済尼寺」の廃絶をその代表例に挙げることができる。本論では同遺跡や田辺廃寺といった「百済郡」の範囲内と推定される遺跡の土器や瓦について、百済王氏のもうひとつの本拠地である河内国交野地域の百済寺跡の瓦と比較検討を行ない、新たな事実を指摘した。交野地域において百済寺の経営基盤となった禁野本町遺跡は、8世紀前半から東西、南北に道路を配した街区の形成が見られ、難波地域とともに百済王氏の拠点として整備されたことを、土器の年代観を再検討することであらためて明確にした。長岡京遷都前後に見られる百済王氏のふたつの本拠地における動向は、遷都という歴史的大事業がどのような背景で行なわれたかを知る重要な手がかりとなる。
著者
栄原 永遠男
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.25-40, 2019 (Released:2020-10-25)

日本古代に「複都制」という「都」もしくは「京」を複数置くという制度があったとすることは、1967年に提起されて以来、ほとんど疑われることなく、自明の前提とされてきたが、その理解をめぐって議論は混乱してきた。「宮」は複数併存するもので、「京」は「宮」に外延部がついたものであるから、これも併存する。しかし「京」が併存すると、天皇の所在地を明示するために、天皇の居る「京」を「都」と称し、強調して「皇都」とも呼んだ。この観点で「京」「都」の変遷を検討すると、天武天皇の晩年を除いて「都」が併存することはないし、それを示す史料も存在しないことが明らかとなる。「複都制」は、天武朝に一時期実現が目指されただけで、それも観念的なものにとどまり、その後引き継がれることはなかった。
著者
松尾 信裕
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.37-52, 2020 (Released:2020-09-18)

飛鳥時代に創建された四天王寺の周辺には古代から近世まで遺構が発掘調査で見つかっている。四天王寺周囲には中世には門前町が形成され、15世紀末には「天王寺は七千間在所」とまで言われた都市的な様相を見せていたとされている。その姿を四天王寺境内の周囲で行われた発掘調査の成果から検討した。境内の東部や北部では区画の大溝が見つかるが、それらは時期が新しくなるにつれ、境内に近づいてきた。また、地形的な制約から、町として広がることはなかったと推定した。境内の西部では建物の柱穴が多く見つかり、多くの掘立柱建物が建ち並ぶ町場と推定できた。その出現は平安時代に遡り、室町時代には完成した街区となっていたと想定した。
著者
栄原 永遠男
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-18, 2020 (Released:2020-09-18)

考古学的な調査研究により、後期難波宮の中枢部には壮大な宮殿建築群が建てられており、京域には条坊制が敷かれていたことが明らかになった。これにより、後期難波宮・京には多くの人々が住み、繁栄していたというイメージが出来上がっている。しかしそれらはあまり根拠がなく、遷都や行幸時と平時とにわけて、再検討が必要である。大粮申請文書その他の分析によると、各官司はそれぞれ独自の建物や院を持つことはなく、合同庁舎・合同院の一角にコーナーを保持していた。合同庁舎・合同院は、一、二の官司が仕丁とそれを指揮監督する使部などの雑任を配置する形で保守されていた。後期難波京の京域については、貴族が邸宅を持っていたが常住することはなく、家令に管理させていた。また使部や家令が家を持ち家族が住んだ可能性はあるが、正方位の家がびっしり立ち並ぶ状態ではなかった。以上は平時の場合であるが、遷都や天皇が行幸してくると状況は一変した。多くの官人が来て官僚機構も機能し、貴族やその家族も居住した。